今日から僕の小さな拠点となる場所は、夕方になれば西日に当てられ、視界を奪われてしまいそうだった。

鞄を机の上に置いて着席する直前に、社交辞令に習い、雨宮と呼ばれた生徒に小さな声で挨拶をする。

「よろしくお願いします」

ただそのひと言だけ。それだけで充分だった。

雨宮と呼ばれたその女子生徒は僕の挨拶に返すように、うつむき気味の姿勢のまま小さく会釈をする。

おそらく人見知りなのだろう彼女にとって、突如現れた異性なんて不安の種にしかならないだろう。

それでも小さく「雨宮椿です」と自己紹介をしてくれた勇気だけで充分だった。

朝のホームルームは活発な香坂先生の進行もありスムーズに終わりを迎えた。

香坂先生はステージを下りる役者のように、ひらひらと手を振りながら去っていく。

それを合図に僕の周りには人だかりが…………何てことにはならなかった。

その代わりに僕の前に立っていたのが、校風を表したかのように、茶髪でウニのようにツンツンに立てた髪型の男子生徒だった。

「うぃ!刹那!今日からよろしくな!お前の友達第一号!になる予定の鳴神(なるかみ)広明(ひろあき)だ!ナルって呼ばれてるから、そう呼んでくれたまえ!」

何とも馴れ馴れしい………いや、コミュ力の高い人だろう。それが鳴神広明に抱いた最初の印象だった。

「え?ああ。うん。よろしく」

我ながらダサいくらいに歯切れの悪い返答をしてしまう。

「ナル。いきなりそれは友達どころか、敬遠されなかねないわよ。ごめんなさいね、保月くん」

そんな僕ら、いや僕を見かねてだろう間に割り込んできたのは、とてもスレンダーで整った顔つきに、黒いロングヘアが映える綺麗な女子生徒だった。

「私は秋津(あきつ)美琴(みこと)です。ナルとは腐れ縁みたいなもので、お隣のツバちゃんとは幼なじみなの」

秋津美琴は隣で本とにらめっこしている雨宮椿を視線で指す。

名前を呼ばれたのにも関わらず本から顔を逸らさない雨宮椿が、視界の隅で僕たちを捉えるように黒目を動かしている事は、ショートカットの隙間から確認できた。

「まぁ、わからない事があれば何でも聞いてくれよな!!ところで家はどこら辺?」

「どこら辺って言われても、うまく説明できないんだけど、えっと~あそこの商店街をね」

「部活はどうすんだ?」

「え?部活?まだ家の説明を」

「そういえば、昔ここに住んでたっていってたよな?」

「え?え?う、うん」

こちらの返答を全く受け取らない一方通行の言葉たちが矢継ぎ早に飛んでくる。

「ナル。ちょっと落ち着きなさい。あなた相当めんどくさい奴だと思われてわよ」

そして再び戸惑う僕に見かねて秋津美琴が助け舟を出してくれる。

「いやいや、だってよ~」

「ナル?」

それでも小さな子供のように渋る鳴神広明に、ドスの効いた声で名前を呼び、不気味に微笑む秋津美琴。

流石にそれに反抗する術の無い鳴神広明は、これまた小さな子供のみたいに拗ねて口を尖らせる。

カーンコーンとそのタイミングを見計らったかのようになるチャイムによって、台風は過ぎ去り、静けさが顔を覗かせる。

2人は「また後で」と言い残し自分の席へと帰っていく。

そして手持ち無沙汰となった視線の先をなんとなく隣の雨宮椿に向けてみる。

すると向こうもこちらを見ていたようで、体をビクつかせてそっぽを向いてしまう。

まぁ、嫌われてはいないようなので安心といったところだろう。転校初日で嫌われる方が難しい話なのだが。

そしてチャイムから1分遅れで教師が姿を現す。

初めての授業が始まろうとしていた。

ーーーー授業開始から十数分経った頃。早くも飽きを感じてしまった僕は、余白の空いた脳の片隅でさっきまでの事を思い出していた。

いきなり僕に話しかけてきたクラスメイト。

鳴神広明、秋津美琴、そして隣の席の雨宮椿。

広明に美琴に椿…………七海。

え?僕は自分のものであるはずの思考に疑問符を浮かべる。

七海という名前。それが無意識に浮かんできた。なぜだ?

そもそもずっと感じていたことがあった。

それは広明、美琴の名前を聞いた時から。

いや、もう少し前だ。

雨宮椿。そう。椿がか細い声で自分の名前を教えてくれた時。

その時から感じているこの感情。

あぁそうだ。僕は知っているんだ。その3人の名前を。

知っていたんだ。そして浮かぶもう一つの名前も。雨宮七海というその名前も。

なぜだ?なぜ僕は彼女らを知っているのだろうか?

顔を見ても思い出せない現状を省みるに、直近、思い出せる範囲での知人ではなさそうだ。

そうなれば可能性はひとつだけ。いや、初めからそれしか残っていなかった。

僕は昔に彼女らと出会っているのだ。そう。おそらくあの日。断片的なあの日のあの海での記憶。

その中に確かにいた気がする。椿と呼ばれた少女と、七海と呼ばれた少女。

そして岸辺に佇む大人たちに紛れた2人の少年少女の記憶。

もしかして彼女たちは気づいているのだろうか?僕の存在に?