部屋に戻りもう一度現状の確認をしてみる。

どういうわけか、僕の頭の中には2つの記憶が存在しているようだ。

ただ、23歳の頃の記憶は事故時のものだけが鮮明で、それよりも過去の事が全く思い出せない。ならば今生きているこの時間だけをリアルと捉えればいいのだろう。

きっと、その記憶は今の僕にとって何の意味も持たないものだから、今はそっと隠しておくことが懸命だろうと思う。

とにもかくにも、目先の事を疎かにするわけにはいかない。今日は転校初日。これからの学生生活を左右する大事な日。

そんなプレッシャーを自らに放つと、着なれない制服に袖を通す。

姿見には見慣れない自分がいて、その顔には多少の緊張が浮かんでいるようにも見える。

1度深く息を吐いて、浮わつく心臓に酸素を送り込む。

そうして少しマシになった心音と、力の抜けた頬に手を引かれるようにして玄関へと急ぐ。

リビングの入口を素通りして玄関へと向かった僕を追いかけるようにして、洗い物をしていたのであろう母がエプロンで手を拭いながら、パタパタと規則的なスリッパの音を鳴らして駆け寄ってくる。

「忘れ物は大丈夫?道はちゃんとわかる?最初に職員室に行くのよ。職員玄関から入って直ぐにあるからね。それから…………」

「分かってるよ。大丈夫。何とかなるから」

心配性な母を尻目にそう呑気に言い放ち、春の訪れを感じさせる生暖かい外気へと体を放り出す。

「じゃあ、行ってきます」

まだ何やら言いたげな表情の母を玄関の扉で遮ると、青い空を見上げる。

何やら異変を感じた朝と、初登校の緊張感の中でも、その空を綺麗だと思えるほどの余裕はまだあるらしい。

「よし。じゃあ行くか」

口から零れ出た言葉が僕の背中を押した。新しい今日の始まりだ。

スマートフォンという便利の代名詞とも呼べる代物。

その中でも重要性の高いマップという機能。

それを駆使すれば他愛ない初登校になるだろうと思っていた。

現実、こうして校門前に立って思う。

他愛もなさすぎる。

というのも、自宅からここまで1度左折したくらいで、その後はただ道なりという旅路だった。

これならその左折の一点だけ押さえれば、ほぼほぼ脳死でもたどり着けそうだ。

なんとも呆気ない。変に構えなくても良かった。余計に気疲れをしてしまった僕は、とりあえず覚えやすい事には越したことないと、ポジティブ思考に切り替えて職員用の昇降口へと向かうことにした。

3階建てのコンクリート造りの校舎は、中庭を囲むようにして建造しており、吹き抜けの渡り廊下の先には、体育館であろう別館が鎮座している。

この校舎を飛び越えた先にはグラウンドがあるらしい。

校門から真っ直ぐに続く道の先には生徒用の昇降口が見える。

その隣が目的地である職員用の昇降口だ。

下見すら必要としないシンプルな造り。そのため迷いなく職員室までたどり着く事ができた。

「失礼します」

ノックを2回鳴らすと、聞こえているか聞こえていないか分からない声をかける。

そうして流れるように引戸を引くと、コーヒーの香りが一気に流れ出した。

僕はその匂いに心を落ち着かせながら、背筋を伸ばして入室すると、誰に向けたでもないお辞儀をする。

「はじめまして。今日からこの学校に通うことになりました、保月刹那です」

これまた誰に向けたでもない簡易な挨拶をする。

「あ、きたきた!」

その声にいち早く反応したのは、二十代後半であろう女性の教師だった。

小柄でとてとてと歩いてくるその姿は、さながら小動物のようだ。

「はじめまして!え~と、保月君だったよね!私はあなたの担任になります。香坂(こうさか)淳美(あつみ)です。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします。香坂先生」

その僕の言葉のどれに反応したのか、香坂先生は花火のように表情を明るくする。

「うん!香坂先生ですよ!絶対に忘れないでくださいね!香坂先生です!!」

そう食いぎみに詰め寄られ思わず一歩引いてしまう。

「ほらほら香坂先生。保月君がびっくりしちゃってますよ。ハッハッ」

そこへ偉人のような顎髭を蓄えた、穏やかな表情のご年配が現れる。

「はじめまして。私は校長の立浪(たつなみ)です。以後よろしくね」

その人が校長だと分かると自然と身が引き締まる。