良かった見つかった。そんな一瞬の油断がここでは命取りだった。

あがる息を整えるように思わず吸い込んだ僕の喉に強い刺激がはしる。

また水を飲んでしまった。あの時のように。苦しい。体内が海水で満たされて溢れでるような。頭も朦朧としてくる。

ダメだ。救わなきゃ。そう言い聞かせても、そもそも水中に対応していな人間の体では自由に身動きが取れないうえに、体力も限界に近い状態。このまま2人で海に沈むのか?そんな最悪を浮かべてしまう。

そんな朦朧の中気づいた。そんな僕らに伸びる1つの手。その手の主に目を向ける。小さな男の子だ。

暗闇の中だというのに、その子だけ発光して異彩を放っている。

そしてその少年には見覚えがある。どこであったっけ?ああ。そうだ。ついさっきも会ったじゃないか。

夢の中で話したじゃないか。

ーーー 浅井晴也。間違いなくその人だ。

それは救いか?それとも僕を誘う悪魔か?なんだっていい。今、すがれるのは君だけだ。

僕は伸ばされた手に手を差しだす。

願わくば七海だけでも救ってくれと。

僕の伸ばした手は浅井晴也に触れることなく、それどこからどんどん体は底へと沈んでいく。

それでもまだ届けばと必死に腕を伸ばす。その意思を汲み取ったのか、浅井晴也は再び助走をつけるようにして僕に手を伸ばしてくれる。

そしてようやく僕の手と浅井晴也の手が繋がった。繋がったというより、浅井晴也の腕が僕の手首を掴む形だが。

それでもいい。どんな形でも助かった。僕はそう安堵した。

掴まれた腕は力強く引っ張られ、沈ませようと力を加える海の魔力に逆らうようにして水面へ向かって一直線に浮上していく。

そしてようやく水面から顔を出し外気に触れる事ができた。

口から咳と共に溢れ出す海水。喉はジンジンと熱く痛む。

「刹那!おい大丈夫か!」

僕の体を支えたその声の主に僕は顔を向ける。

「な、ナル………」

僕の腕を掴む手は相変わらず力強く。そしてその手はナルのものだと気づく。

どうやら僕は幻覚を見ていたようだ。救いにきてくれていたのは浅井晴也ではなくナルだった。

ナルを浅井晴也の影と重ねていた。そう。あの時も。僕と同じように海へ飛び込んだ浅井晴也。そんな勇敢な姿とナルを重ねていた。

「刹那くん!七海!!」

そんな僕の背後から聞こえた息の上がった椿の声。

「え?」

僕は徐々に覚醒していく意識の中、僕たちに泳ぎ寄る椿の姿と、同じように必死な形相でその後ろを泳ぐ美琴と香坂先生を認識する。

「みんな………」

「刹那くん。良かった無事で。な、七海は!?」

椿は僕が抱える七海の顔に手を当てる。

「ゴボッ。ゴハッ」

それに答えるかこのように、体内に取り込まれた海水を吐きだしながら咳き込む七海。

「七海!!」

「つ、椿ねぇ?」

ゆっくり細目を開けて、まだボケているだろう眼でしっかりと椿を捉える七海。

夏といえ冷たい海水の中でもしっかりと七海の体温を確認する事ができる。生きている事を確認する事ができる。

「とりあえず岸に上がろうぜ」

束の間の安堵を締めるようにナルは僕の腕を取りながら岸へ向かって泳ぎだす。

椿も僕の抱える七海に手を添えて共に泳ぎだした。

美琴と香坂先生はそんな僕らを見守りながら背後からついてくる。

水面から見渡す海岸線は、切れ目なく続いており、僕はその幻想的な景色の住人になったような気分だった。

そんな余裕ができるほど安堵していたんだと思う。

あの時とは違い、誰も欠けることなく、こうやって一緒にいられる瞬間に。

岸にたどり着くと僕らは仰向けに倒れこむ。

七海も完全とは言えないまでも、ちゃんと意識を取り戻しているようで安堵する。

「みんな。ごめんなさい」

開口一番。夜空を見上げてそう口にしたのは七海だった。

「全く。どうしてあんな危険な所にいたの?」

七海の無事を認識したところで、椿の口調は少し鋭利になる。

「ごめんなさい。その、最初はただの散歩のつもりだったんだけど、あの崖を見るとどうしても引き寄せられるというか。いや、違うね。運命に決めてもらおうと思ったのかもしれない」

「運命に?」

思わず姉妹の会話にそう口を挟むざるおえなかった。

「私はこのまま生きている事を許してくれるのかって。生きるを実感していていいのかって。それを聞いてみたかったんです。でも、また足を踏み外して、あぁ。そうか。やっぱり許されないんだって思いました」

きっと比べるものではないとしても、この中で一番深く傷を負ったのは七海だろう。

あの事故の全ての引き金を引いてしまったとも言えてしまうから。

再び海水に身を投じてきっと、過去の傷を一身に受けて苦しかっただろう。辛かっただろう。

それでも隣に寝転ぶ七海の横顔に笑顔が浮かぶ。

「でも。また、助けて貰いました。刹那先輩に。これって結局はこうなる運命だったってことですよね?それが嬉しいんです。幸せなんです。不謹慎だって事は百も承知です。それでも。本当に幸せなんです」

そう言った七海の瞳から滴ったのが海水ではなく、涙だということは少し震えた声色でわかった。

それが心からの嬉し涙なのか。浅井晴也に向けた弔いなのか。それは僕には知るよしもない。

「まぁ。そんな事いっちまえばさ。俺だってなんだか充実してるんだわ。この瞬間。無力じゃなかったって。今度はちゃんと助けられたって」

七海とは逆隣に寝そべったナルが、両の拳を星空に掲げる。

「これも運命か………。そうかもしれないわね。こうして役者が揃って、こうしてまたこの場に集まって。同じようにみんなが海水まみれ。本当に滑稽ね。私たち。滑稽って思えるならそれでいい。それでいいわよね」

ナルの隣の美琴もふふふと笑みをこぼした。

「もう。みんな好き放題言ってくれるよね!先生は気が気じゃないったらありゃしなかったんだから!先生は頭脳で通ってるの。運動神経なんて産まれた時に捨ててきたの!」

「それでも迷わず海に飛び込んだんですね?いい先生じゃないですか?」

「え!?えへへ。そ、そう?いい先生?えへへ」

香坂先生は美琴に乗せられて照れ笑いを浮かべている。

「なんかさ。生きてるっていいななんて思っちゃったよ。晴也くんの事を思い出して、その度辛くなって、死んじゃった方が楽じゃないかなって思った事もあるけど。結局、これが正解なんだね。生きて良かったって思ってる。こんな風な時間が続けばいいな、なんて思ってる。多分私は………」

椿はそこで一旦言葉を切ると、寝坊した朝のようにガバッと体を起き上がらせる。

「後ろめたかったのかな?晴也くんのいない世界で幸せを感じる事が。みんなと笑い合う事が。でもどうしたって過去は変わらないんだよね?なら。そんな過去はもう作らないためにも。今を。これからを精一杯生きなきゃね!」

そう言って僕らを見下ろす椿の笑顔に、スッと心の鉛が消えていくのを感じた。

「あ、てか宣言。もう達成しちゃったね!私!」

こうして椿の過去と向き合うという宣言は見事に達成されたのであった。

「ああーー!!もうやめだやめだ!!せっかく海に来てたんだ!こんな陰鬱としていたら青い春も灰色になっちまう!!」

ビーチフラッグの如く俊敏に立ち上がったナルは、星空に両手を目一杯に伸ばし背伸びをする。

「うっしゃらぁぁぁぁ!!」

そうして聞き取れない雄叫びをあげると、一目散に月明かりの反射する海目掛けて走り出していく。

「うぇ!?ちょ、ナル!」

僕は慌てて体を起こし制止しようと努めるも、時すでに遅し、ナルは体全体を海へ沈めるようにしてダイブする。

「ぷふぁ!!気持ちいいーーー!!」

そうして水しぶきを豪快にあげながら、海面に顔を起き上がらせると、静かな空にそう叫ぶ。

「ったく。本当にバカね。でも、今はそのバカに乗ってみたい気分だわ」

するといつの間にか立ち上がっていた美琴は、そう言い残すとナルと同じ方向へ走り出した。

「え?美琴ちゃんまで!?」

今度はその光景を目を疑うように凝視する椿が驚きの声をあげる。

「う~ん!もう!こうしちゃ居られないじゃないですか!私だって青春するだぁぁぁぁ!!」

更には七海も続いてしまう始末。

2人に合流した七海は黄色い声をあげ、まるで子供みたいにはしゃいでいる。

いや、七海だけではない。まるで過去を取り戻すかのように3人は水をかけあい無邪気に笑い合っている。

「全く。教師としては見過ごせないなぁ。こんなイベントに参加しないなんてさ!」

まさかと思い香坂先生の方へ顔を向けるか、既に海へと走り出した後だったため、そこには無限の砂浜が広がっているばかりだ。

「あはは。みんな行っちゃったね」

取り残された椿は気まずそうに乾いた笑い声をあげる。

「でも。そうだよね。本当なら、ああやって、時間も人目も気にせずにはしゃぎ回っていたんだろうね」

そうして過去から今を馳せながらそう溢す椿。

僕はその寂しそうな横顔にいてもたってもいれずに立ち上がる。

そして椿に手を差し出すとこの言葉を送った。

「まだだよ。まだ間に合うよ!あの夏に置いてきた物も、ここまで忘れていた気持ちも、全部まだ取り戻せるよ!」

僕は笑っていた。無意識に、きっと僕至上一番の笑顔で。

「うん!」

そして椿も僕につられるように口角をあげると、僕の手に自分の手を重ねた。

それからは殆ど覚えていない。気がついたら僕は走り出していて、砂に足をとられようとも、椿の柔らかな掌を包みながら、みんなの待つその場所へ。