教室で弁当を食べ終えると僕は決まって屋上に向かう。屋上へと繋がる階段にはロープが張られているけど、そんなのおかまいなしにロープを跨ぐ。屋上まで来ると大の字に寝転び空を見上げる。制服に着く汚れなんて気にしない。それよりも四月の青空と控えめな日光と、地べたのひんやりした気持ちよさを楽しむ。ここには誰もいない。だから僕がここを独り占めできるのだ。独り占めは空間だけじゃない。屋上のすぐ下は音楽室になっていて、そこからピアノの音色が聞こえる。僕にはピアノの知識がまるでない。それどころか過去に好きになったアーティストすらいない。それなのにこのピアノだけはずっと聞いていたいと思える。
 このピアノを弾いているのは隣のクラスの高柳花音。花音は、ピアノのコンクールに何度も優勝している実力者だ。母親は早くに失くしているけど、父親が世界的な指揮者でお金持ち。さらにアイドル級のルックスから、テレビや雑誌に取り上げられる学校のスターだ。いくら音楽に関心がないと言っても知らないわけがない。
 
 花音のピアノが心地よい。これはなんという曲だろう。わからないけど青空に負けないくらい爽やかなメロディだ。あまりに気持ちよくて、このまま天に召されてしまうんじゃないかと心配になる。でもこんな幸せな気持ちのまま召されるのなら悪くない気がする。僕は目をつむった。
 
 しばらくすると僕の近くで足音が聞こえた。ここは立ち入り禁止だから誰かが入ってくることはない。目を開けると、そこには華奢な男子の後ろ姿があった。その男子は寝転がっている僕を気にする様子もなく、転落防止のフェンスに向って進んでいく。あっ、あれはたしか花音の弟の……名前は思い出せない。だけど花音の弟であることはたしかだ。
 それにしてもこんなところで何をしているんだ。癒しの空間に邪魔者が入って不快な気持ちと、花音の弟を不審に思う気持ちが湧いてきた。
「なにやってんだよ」
 僕は背中に声をかけた。しかし花音の弟は僕の声にまったく反応しない。それどころかフェンスに足をかけ始めた。
僕は「おい、なにやってんだよ」と同じ言葉を口にした。しかし僕の声がまったく聞こえていないかのようにフェンスをのぼり、そして飛び下りた。
「おいっ」
 僕は飛び起きてフェンスに近づいた。しかし幸いフェンスの奥にもわずかにスペースがあった。だけどあと一歩進めば転落してしまうほどのスペースしかない。
「危ないぞ。早くこっちこいよ」
 僕はフェンスごしに彼に注意した。しかし、彼は反応を示さない。なんなんだこいつは。まさか飛び降りでもするつもりか。ぞっとした僕はフェンスを上り、彼の元まで下りた。下を見たら足元が震えてしまう。だから気を付けながら彼の元に近寄り、「さあ、戻ろうぜ」と言いながら彼の肩を掴んだ。
「うるさい。邪魔するな」
 彼は僕を睨みつけ、その手を振り払った。その反動で彼の体がよろけた。
 僕は咄嗟に彼の体を支えた。間一髪だった。そう思ったが、彼の態勢が崩れ、二人そろって空を舞った。

   ※ 

 目を覚ました時、天井の模様や蛍光灯が自宅のものと違うとすぐに気づいた。ここはどこだ。たしか花音の弟を助けようとして一緒に転落したはず。つまりここは病院か。ということは助かったんだ。
「あっ、目が覚めた」
 どこかで聞いたような声が聞こえたから、僕は声のする方を見た。そこで目を疑った。
 信じられなかった。僕の横にいるのが高柳花音だったからだ。
「えっなんで?」
 僕は飛び起きるように上体を起こした。すると背中に痛みが走った。思わず「いたっ」と声が出る。
「ダメだよ。安静にしなきゃ」
 花音はベットに寝かせるように僕の体を優しく押した。あの花音が僕の体に触れた。信じられない。
「もうびっくりしたよ。屋上から落ちるなんて」
 花音は涙ぐんだ。
「いや、あの。なんで君がここにいるの?」
 一番の疑問だった。しかし言葉にしてからわかった。そうか弟を助けてくれた僕を心配して見舞いに来てくれたんだ。なるほどそれなら納得できる。
「なんでって弟がこんなことになっているのにレッスンなんていけるわけないでしょ」
 花音は僕の想像とまったく違うセリフを吐きだした。顔を見ると真っ赤な顔で怒りを露わにしている。花音もこんな風に感情的になるんだな。いつもクールな表情をしているから意外だった。いや、そんなことより……
「おっ、弟? 僕が?」
 僕はもう一度状態を起こした。
「もしかして頭ぶつけたショックで記憶をなくした?」
 今さっきまで怒っていた花音が、今度は怯えたような顔で僕を見る。
 ここで僕は一度冷静になろうとした。屋上で花音の弟と一緒に転落し、今は病院のベッドの上。そして花音が僕のことを弟だと認識している。つまりこれって。
「僕のスマホある?」
 僕はこの間に耐えられなくなりスマホを求めた。
「ああ、はい」
 花音はバッグの中からスマホを取り出し、僕に手渡した。しかし受けとったスマホはどう見ても僕のじゃない。おかしいと思いながらも僕はいつもみたいにスマホを指紋認証で開こうとした。自分のじゃないのだから開くわけがない。それなのにあっさりとホーム画面に移行した。
 ということはやっぱり。僕は震える指で操作し、カメラを起動した。すると画面には不安そうな花音が映った。不安そうな顔も可愛い。つい見とれそうになったけど、僕は自撮りモードに切り替えた。すると、画面には口をポカンと開けた花音の弟が映っていた。

 ※

 花音や警察から聞いた話によると、僕と花音の弟の「空」は、屋上でじゃれあったのちに不慮の転落をしたということになっているらしい。僕の、いや正確には「空」の身体は打ち身程度の軽傷で済んだ。しかし僕には「空」としての記憶が全くない。なので医師からは記憶喪失と診断されてしまった。それについてはもどかしい気持ちになったが、それも仕方がない。しかし、脳の検査をしても異常がなかったこともあって検査翌日に退院することになった。
 しかし、肝心の僕の方の身体は打ち所が悪かったらしく、今も意識が戻っていない。
 
 僕は病院から自宅に戻る前に、空のお見舞いに行った。病室のベッドには無残な自分の姿があった。頭には包帯が巻かれ、チューブに繋がれている自分の姿を見て、僕は少なからずショックをうけた。それ以上にショックだったのは母親のことだ。目を覚さない息子の横で憔悴しきった母の顔を見るのは辛かった。
 母は、僕を見ても責めることなく「意識が戻って良かったですね」と微笑んだ。その悲しい微笑みを見て胸が痛んだ。
 姿は違うけど僕があなたの息子の修也だよ。そう打ち明けようとした。だけどそんなの信じてもらえるわけがない。諦めた僕は何も声をかけることなく病室を後にした。

        ※
「ここが空の部屋だよ」
 高柳花音と空が住むマンションに足を踏み入れると、花音が僕を自室に案内してくれた。
「私ピアノを弾いているから、もし、なにかあったらすぐに呼んでよ」
 花音は優しくそう言うと、静かにドアを閉めた。一人になった部屋で、空の部屋を見渡す。今まで外からはこのマンションを見たことはあったが、中に入るのは当然初めてだ。さすが花音の自宅だけあって高級なマンションだ。空の部屋にも大きなグランドピアノが堂々と置かれている。ということは空もピアニストなのか。
 花音は僕のことを記憶喪失だと思っているから、些細なことも親切に教えてくれる。この家に母親はおらず、父親は世界的な指揮者で今はヨーロッパにツアーで回っている。だからこの家には今、花音と空と家政婦の三人で暮らしているとのことだった。帰宅した時に家政婦の山田さんと顔を合わせたが、いかにも優しそうなおばあさんで安心した。花音曰く山田さんの作る料理は絶品らしい。
 そんなことよりも、僕はこれからどうすればいいのだろう。このまま空の体で一生を過ごすのだろうか。戻る方法があるのかどうかも分からないけど、戻ったとしても空には意識がない。もしもこのまま意識が戻らないで死んでしまったら母が一人になってしまう。家で寂しそうに一人佇む母の顔が浮かんで胸が痛くなった。何もする気にならずカーペットの上で蹲っていると、隣の部屋からかすかにピアノの音が聞こえてきた。これは、いつも屋上で聞いている曲とは違う。でも、どこかで聞いたことがある。おそらくベートーベンとかモーツアルトとか有名な音楽家の曲なのだろう。なんとなく重厚感があるように思う。蹲ったまま聞いていると眠気が襲ってきた。僕は目を閉じた。

                       ※
 翌日も、その翌日も僕の体が元に戻ることはなかった。記憶を失った状態で学校に通うのはさすがに難しい。そう花音が判断し、しばらくの間は家で療養することになった。
 花音からは「ピアノでも弾いてみたら?」と促された。だから試しに椅子に座って指を動かしてみた。しかしはピアノなんて触ったことがないから、猫ふんじゃったすら弾くことができない。これに花音は落胆のため息を吐いた。
 花音は僕にとても親切にしてくれる。学校でのクールな表情から考えられないほど優しい姉だった。これには花音のファンだった僕からすると純粋に嬉しかった。
 家にいてもやることがなく暇だから、僕は「高柳空」を少しでも勉強しようと部屋を物色した。しかし、この部屋には驚くほどに物がなく、空に関する情報はいっさいない。今度はスマホで「高柳空」とネット検索してみた。すると、ピアノコンクールの結果発表に名前が記載されていた。それも一つや二つではない、相当な数のコンクールを入賞していることがわかった。
 花音ばかりが凄いのかと思っていたけど、さすが弟だけあって空も凄いじゃないか。そう思ったが、結果を見るといつもかならず花音の名前が一緒に掲載されていた。いつでも花音が一位。そして空は三位や四位。年齢の差は一つあるものの花音の方が優秀な成績を収めているのは明白だった。
 結局のところ、高柳空は屋上で何をやっていたのだろう。警察はじゃれあっていたと結論付けたけど、そんなのは事実ではない。あんなに危険な場所に足を運んだということは自殺と考えるのが普通だ。しかしそれも確証はない。姉である花音との関係も良好そうだし、ピアノも順調そうだし、家も金持ちだ。自殺する理由があるとは思えない。
 この家は快適だ。山田さんが家事をすべてこなしてくれるし、花音が言っていたように料理も最高だ。クラシック音楽の一家だけあって西洋スタイルなのだろう。食事もほとんどが洋食だ。味以上に花音と同じ食卓で、同じ料理を食べられることが感慨深い。食事だけじゃない。僕と花音は同じ屋根の下で暮らしているんだ。貧乏で何の特技もない自分には、遠い存在だった花音が、今は誰よりも近くにいる。しかし、冷静に考えると、今の僕は花音の弟だ。弟はあくまで弟で、それ以上の存在にはなれない。これ以上は何も望めないんだ。今気づいた。今まで気持ちを封印してきたけど、僕は花音に恋をしている。花音は高嶺の花だからあきらめていたけど本心はそうだったんだ。その気持ちに気づいた僕の胸はどうしようもなく苦しくなった。

 胸が苦しいまま、僕は空のスマホをむやみに操作した。気を紛らわせるためにネットニュースを見る。でもどのニュースも今の自分の置かれている状況に比べたらたいしたことはない。どのニュースにもそそられなくてスマホを置いた。SNSもやっていないようだし、スマホの中には空の人間性を知るためのヒントはなにもなさそうだ。 
 やることもなく、ぼーっとしていると赤茶色の洋風のタンスがあることに気づいた。この部屋にはピアノと机と本棚しかないと思っていた。そのすべてはほとんど物色したけど、タンスだけは目に入っていなかった。僕は机から立ち上がり。タンスの一番の上の棚を開いた。そこには一冊のノートが入っていた。ノートと言っても皮のカバーに包まれている高級そうなノートだ。僕はさっそくノートを開いた。一ページ目を見て僕は息をのんだ。
「もうだめだ」
 ページ一杯に乱暴な字でそう書かれていた。日付もないし、なにがだめかも書かれていない。でも明らかに絶望の匂いがノートから漂っていた。
 その次のページもその次のパージも「ダメだ」「限界だ」など苦しい胸の内が殴り書きされていた。
 一体、空になにがあったんだろう。ただ、これで空の転落の理由がはっきりした。

 夕方になると花音が帰宅した。
「具合はどう?」
 いつものように花音は気遣ってくれる。この明るい表情を見るとさっきみつけたおぞましいノートのことは隠した方が良いと思った。でも、知りたい欲求が上回った。
「実はこんなものを見つけて」
 僕はバッグも下ろさない花音に空のノートを手渡した。花音は受け取ったノートに視線を移す。すると花音の顔から一気に血の気が奪われた。そしてすぐに閉じ、僕に返した。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
 僕はおそるおそる切り出した。
「なに?」
 気を取り直すように花音は笑顔を作った。
「転落する前の僕ってどんな様子だった?」
 僕が尋ねると、花音は体を支えるようにピアノにもたれた。
「半年前くらい前かな、突然ピアノを辞めるって言ってた」
 花音は僕を見ずに言った。
「やめる……」
 コンクールで入賞するほどの実力なのになぜ……
「少し昔の話をするけど、ピアノを始めたばかりの頃は私よりも空の方がずっと上手だったんだよ。当時の私はあまり評価されなくて。でもそれが悔しくて精一杯練習したの。すべてを犠牲にして。そうしたらどんどん私の方がコンクールでも良い成績を取れるようになって。それでここ最近は私ばかり雑誌やテレビで取り上げられるようになった。だからかな。空はピアノをやめたいって……別の道を探すって」
 そういうことか。コンクールの結果が振るわなくなって、優秀な姉に嫉妬した。そのことに空は苦しめられてきたのか。
「でも、だからといってそのことで自らの命を落とすような人間ではないと思う。空が私を置いてどこかに行ってしまうなんてあり得ないよ。ねえ、そうでしょ?」
 花音は僕の腕を掴んだ。しかし、「そっか覚えてないんだよね」と悲しそうに手を離した。

 花音が部屋から出て行ったあと、僕はもう一度ノートをめくった。どのページにも苦しい胸の内が書かれている。中には「許せない」という言葉まである。許せないとは花音のことだろうか。だとしたら逆恨みな気もする。それにこんなに優しい姉にたいしてそんな感情を抱くとは思えない。それにさっきの「私を置いてどこかに行くわけない」という花音の言葉から、姉弟の絆は強そうだ。もうなにがなんだかわからない。僕は頭を抱えた。

 ノートを発見してから五日後のことだった。ついに空が目を覚ました。空といっても体は僕なのだが、それでも大きな出来事だった。これで母も一安心だろう。しかし、問題はある。空も僕同様に修也としての記憶がない。母を見てもまったく知らない人だし、自宅に帰ってもまったく知らない場所なのだ。おそらく僕同様に記憶喪失と診断されるだろう。
 僕は一度、僕の体を持った空とじっくり話す必要があると思った。
 そう思っていた矢先、スマホが振動していた。画面にはよく知っている番号が表示されている。この番号は……間違いない。
「はい」
 僕が出ると、しばらくの間沈黙があった。
「もしもし、修也さんですか?」
 空は僕の名前を口に出した。
「はい。そうです。修也です」
 僕も久しぶりに本名を口にする。
「一度会って話したいんですけど、どうですか?」
 空は丁寧な口調で切り出した。
「うん。僕もそう思ってた。このままの体だと何かと不自由だし」
 お互いが歩み寄って、これからの人生をうまく生きるために何か話し合った方が良いと思った。それに転落の真相も聞きたかった。
「では、明日の昼休みに同じ場所でどうですか?」
 同じ場所? 同じ場所とは屋上のことだろう。
「わかった。たしかにあそこなら話を誰にも聞かれることはないな」
「じゃあ、そういうことで」
 空は僕の反応を待たずに電話を切った。
 ということは、明日は久しぶりに制服を着て学校に行くのか。しかも空として学校に行くのは初めてだ。緊張してきた。そうだ、このことを花音に知らせないと。僕は部屋を出て花音の部屋をノックした。しかし反応はない。ドアノブを回すとカギがかかっている。いつもそうだけど花音の部屋は厳重に鍵がかかっている。それもそのはず高級なピアノが置いてあるし、練習中は誰にも入ってほしくないのだろう。しかし花音はどこにいるのだろうか。そう思っていると、濡れ髪の花音が歩いてやってきた。
「ああ、空どうしたの?」
 バスタオルで髪を拭きながら花音はにこやかに尋ねてきた。
「あのさ、明日学校に行こうと思うんだ」
「えっ、もう? 大丈夫かなあ」
 花音は心配そうだ。
「学校に行けば何か思い出せそうだと思ってさ。だから昼休みくらいから顔を出して無理そうだったら帰るよ」
 僕は不安げに言った。実際空のまま学校に行くのは不安だ。
「そうなんだ。無理しないで頑張ってね」
 花音は僕を抱きしめた。花音の身体から良い匂いがした。


 空との約束どおり、僕は転落以来はじめて登校した。バッグの中に教科書はいれなかった。入れたのは例のノートだけだ。このノートについて問いただす必要があると僕は感じていた。
 お昼すぎに登校すると校門には誰もいない。これには助かった。下駄箱で空の上履きを探すのには苦労したけどなんとか見つけて廊下を歩くと、僕の方をチラチラ見ている生徒がいた。空のクラスメイトだろうか。あんな事故を起こしてしまったのだから有名人になってしまったのかもしれない。
 教室には向かわず、僕は階段をのぼり、屋上へを繋がる階段のロープを跨いだ。この階段を上るのもそれほどの前のことじゃないのに懐かしく感じる。そう思っていると、僕の耳にピアノの音色が飛び込んできた。この音色は間違いなく花音だ。いつも家で聞いているから音だけでわかる。でもこの曲は家では弾いていない。たしか、転落した日に弾いていたのもこの曲だった。
 屋上の扉を開けると、フェンスの近くに僕の姿があった。僕と言っても中身は空だ。いちいちややこしい。
 僕はゆっくり近づき、「よう」と声を掛ける。すると空は振り向き、会釈した。
「青空とこの曲は相性いいよな」
 僕は空を見上げながら言った。
「相性イイなって、音楽に興味あるんですか?」
 空がニヤニヤした。
「ない。ないけど花音のピアノには興味がある」
 そう答えると空の表情が強張った。
「あっ、そういえば母さんは元気?」
 僕は母のことが気がかりだった。
「ああ、元気ですよ。目を覚ました時は泣きながら抱きつかれました。優しい良いお母さんですね」
「そっか。そうなんだよ。いい母親なんだよ。料理も美味いだろ?」
「それは山田さんの方がいいです」
 空が答えたので僕は「ちぇ」と舌打ちをした。
「あのさあ、本題なんだけどさあ」
 僕は話を切り出そうとした。空の顔がさらに厳しくなる。
「いつか体が戻ることもあるかもしれないけど、ダメな可能性もあるだろ? だからもっとお互い話し合ってうまく生活できるように協力した方が良いと思うんだ」
 このままずっと自宅に籠っているわけにもいかない。なにか動き出さないとならないんだ。
 僕の言葉に空は反応せずにうつ向いた。僕は続けた。
「気になったことがあるんだけど。空は自殺しようとしたのか?」
 一番気になっていたことだ。しかし空は答えない。だから僕はバッグからノートを取り出した。
「このノートに空の苦しみがたくさん書かれていたよ。思うような成績が取れずに苦しんだんだろ? それなのに姉はどんどん有名になってさあ、嫉妬するのもわかるよ」
 僕は空の顔を見て言った。すると空は「何もわかってないな」と呟き、僕を睨んだ。
「お前の考えたことは全部間違っている。たしかに俺は自分の納得できる成績はとれなかった。そのことで苦しんだのはたしかだ。でも、姉ちゃんに嫉妬なんかしていない。そもそも幼いころから姉ちゃんのほうが才能があったんだ。昔はたまたま俺の方が成績が良いこともあったけど。姉ちゃんの方が才能は桁違いだったんだ。それは父さんも言っていた」
 空は早口で言った。
「だったら何に苦しんでいるんだよ」
「それは…… 姉ちゃんはこれから日本を出てドイツに留学する。もう小さな日本でおさまるようなピアニストじゃないからね。俺はな、俺の願いはいつまでも姉ちゃんのそばでピアノを弾くことだったんだ。姉ちゃんと競っていつでも隣にいることだった。でも、ここまで実力差が開いてしまうと、もう姉ちゃんの隣でピアノを弾くことはできない。俺は日本を出るほどの奏者じゃない」
 空は苦悶の表情を浮かべた。
「隣で弾かなくても姉と弟じゃないか。いつでも一緒だろう?」
 僕は励ますように言った。
「ああ、そうだ。だから俺はピアノをやめるんだ。ピアノをやめて姉ちゃんをマネジメントする側になる。マネージャーになって姉を支えるんだ。そう決めたんだ」
 そうか、花音が言っていた別の道とはそう言うことだったのか。
「それなのにお前と体が入れ替わってしまって、それも果たせそうにない」
 悲しそうに呟くと空はフェンスをよじ登った。そしてフェンスの向こう側に降り立った。
「よせよ。また落ちるぞ」
 僕もフェンスをのぼり、空のところまで下りた。
「なあ、この曲いいだろう?」
 空が目をつむって言った。
「ああ、爽やかでいい曲だよな」
 花音のピアノを聞きながら僕も目をつむった。
「これ、姉ちゃんのオリジナル曲でさ、タイトルは『空』。俺のために作ってくれた曲なんだ。空に近い場所で聞くと最高なんだよ」
 そうだったのか。たしかに花音の空に対する優しさがよく表現されている。それに、たしかにここで聞くとなおさら雄大な曲に感じる。
「そういえば、自殺かどうか答えていなかったよな」
 空が言ったので僕は目を開けた。そして頷いた。
「あれはなマネージャーとしての初仕事だったんだよ」
「初仕事?」
「ああ、花音に危害を加える人間を排除するのはマネージャーの仕事だよ」
「どういうことだ?」
「調べさせてもらったよ。お前は姉ちゃんのストーカーだっただろ」
「なっ、何を言っているんだ……」
「とぼけるなよ」
「違う。そんなことしていない」
「うそつけ。お前の部屋から姉ちゃんの体操服や上履きが見つかったし、スマホには姉ちゃんの写真が大量に保存されていた」
「うっ」
 心拍数があがる。何も答えられない。
「今だって同じ家の中でどうせ変なことをしているんだろ」
「しっ、してない。花音の部屋はいつも鍵がかかっている」
 僕が答えると空はフッと笑った。
「鍵がかかっていることを知っているってことは侵入しようとした証拠だろう」
「……」
「俺はな、自殺しようとしたんじゃない。お前を転落させて殺そうとしたんだよ。しくじって俺まで落ちてしまったけどな。せっかく証言者も用意したのに」
 空は俯き舌打ちをした。しかしすぐに顔を上げ、
「幸い俺の家は裕福でな、金の力でお前のことを色々と調べさせてもらったよ。お前は中途半端な正義感と優しさはあるようだから、飛び降りようとしている人間がいたらほっておかない。しかもそれが花音の弟。助けないわけがないんだ」
 そう言うと、空はポケットからナイフを取り出した。
「今からお前を殺す。弟を失って姉ちゃんは悲しむだろう。だが、お前みたいな奴がそばにいる方が危険だ」
 空は俺にナイフを向けた。
「やめろ。そんなことしたらお前は犯罪者だぞ」
「この体は修也、お前のものだ。お前の母親はかわいそうだな。息子が犯罪者になってしまうんだから」
 僕の脳裏に母の顔が浮かんだ。
「やめろ、頼むやめてくれ」
 僕は泣き叫びながら懇願した。
「じゃあな」
 ナイフが僕の腹に刺さった。空はその勢いのまま僕の体を押し、手を離した。
 僕の体は空を舞った。爽やかなピアノの音色と共に。