「じゃあね、優人!」
「うん、また明日。」

 僕はまたあの場所に向かう。愛用する分厚い丸眼鏡に、天然パーマで巻かれた髪を揺らす。レポートと一緒に入っている本は、厚さ5センチほど。

 今日は雨予報なので、皆カツカツと傘を突いて歩く。自分の右手にも紺色の傘。ところが、高架橋の下を抜け、眩しい……と思い、立ち止まり空を見上げた。先程まで大空を覆っていた雲はなく、晴れ晴れとした蒼が広がっていた。雨は降らなそうだ。ならば、あそこがいい、と目的地を変え、歩みを進めた。

 大学から歩いて少し、小川が流れる公園の奥、一本の桜の大樹の下のベンチが見える。ここは本を読むのに良い場所なのだ。公園の広場からも離れていて、小川のせせらぎが聞こえる。心地いい聞き心地に、程よく風が通るこの場所がお気に入りなのだ。

 だが、今日に限って日照り、そして風がなかった。最近はどうも暑い。連日のように、「地球温暖化」や「夏日」などと騒がれている。急に雨が降っては止む、そんなのもしばしば。まさに「異常気象」だ。今日も額に汗が滲む。

 僕は大学では文学部に、後々は国語の教師にでもなれたら、なんて思っている。理由は簡単、特になりたいものがないのだ。高校の成績は上位、そのまま大学に推薦で受かり、今ではのんびりと大学生生活を送っている。そもそも理系教科は全くできないのはわかっていたので、初めから推薦で受ける気満々だった。願ったり叶ったりだ。

 本のページを一枚一枚めくる。本を読むのは好きだ。生まれてもう20年、体が人より弱く、入退院を繰り返していた僕に友達は多くなかったし、外で遊ぶこともできなかった。そんな自分に本は味方だった。僕は本の虫だ。恋愛小説にノンフィクションに、何でも読んだ。一番好みなのはミステリーだった。

 よって、1センチ弱のレンズのメガネを小学4年生からかけている。この金縁の丸眼鏡も、高校二年生から愛用しているものだ。残念ながらこれに対応するコンタクトはない。


 急に強い風が吹いた。ページが6枚ほど先に進んでしまった。桜の花びらが舞い散り、春が来たように見える。咄嗟に目を閉じたが、吹き止んでゆっくりと瞼を上げた。

 目を疑った。同時に丸くした。ベンチに座る僕、その目の前に少女が倒れ込んでいたからだ。白いシフォンのワンピースに、絹糸のような薄桜色の髪を垂らした。美しい少女だった。今まで出会ったことのない、平凡に生きていれば会うこともないような、まるで花の精霊のような子……

 彼女に見とれていたが、はっと我に返ると、そっと手を伸べた。

「大丈夫ですか??」

 ゆっくりと体を起こす桜の精霊。彼女の瞳は僕を捉えた。瞬きするのも億劫なほど……瞳は澄んでいた。桜色、どちらかといえば夜に咲く枝垂れ桜の色だ。肌は荒れ知らずの透明感、職人が作った陶器のごとく美しかった。今にも消えてしまいそうだ。

「ありがとう……ございます……」

 小笛か……小鳥の囀りでもいい。そんな、甲高くも優しく柔らかい声だった。澄んだ風、風鈴とも言い表せよう。

「お怪我ありませんか?」
「はい……大丈夫です……」

 よろよろと立ち上がったので、ベンチに座らせた。不安気な顔を浮かべた。少し離れて、出来るだけ優しく話しかけてみる。
「名乗りましょうか。僕は橋本優人です。その近くの大学の3年になります。」
「私は……綾野(あやの)……桜子(さくらこ)と申します……」
 名は体を表すとはこうゆうことか、と理解した。「桜子」という名がこの世で一番似合う、そう直感的に思った。
「急にすみませんが、貴女は何者ですか?人間ですか?」
 ずっと気になっていた。あの、目を閉じた一瞬で僕の前にいた。周りには誰もいなかったはず。今日は雨予報だったから、公園は閑散としていた。
 桜子は少しずつ話し始めた。
「……っ!わ、私は、人間ではなく……フェアリー……妖精なのです。」
 しばらく彼女の身の上話を聞いた。


 この世には地球の他に「(よう)」という並行世界があるらしい。魔法が当たり前にある、多くの種族が生活する世界。人間がそこに行くには願いを持って橋を渡る必要がある。その橋を総称して「願世橋(がんせきょう)」という。妖の者は魔法で、人間は願世橋は使って、干渉していた時期もあるようだ。そんな妖から逃げてきたと、彼女は言った。

 彼女、桜子は妖の頂点フェアリー族の本家、いわば妖の頂点の頂点の娘という。正真正銘のお嬢様であるようだ。そんな彼女は12人兄妹の末で、上から3番目の次男椿(つばき)から強い当たりを受けていたらしい。
「その兄から距離を取るべく、ここに来たと……」
「はい……」
 元々日本に興味もあったようで留学という建前の元、来たらしい。何も彼女の祖父が「綾乃(あやの)家」の人間らしい。綾乃家は、御三家の一つだ。御三家は日本の三大名家の総称。政界に一番多い名字の家と言っても過言ではないだろう。
 何があったか知らないが、要は桜子は日本人のクオーターだということだ。

「行く宛はありますか?寝泊まりする場所とか。」
「私達フェアリーは……基本飲まず……食わずでも……生きていけますかr」
 言った途端、盛大なお腹の音。それは桜子のものだった。
「食べなくてよくても、お腹は空くんですね。」
「す、すみません……」
 白い頬を赤く色づかせた。そんな彼女を少しでも可愛いと思ってしまった。
「もう昼ですからね。良ければうちに来ませんか?」
「え、あ、……」
「安心してください。うちには女もいますから。」
 賑やかな女共が、な。
「なら……」
 小さくコクっと頷いた。


 公園から家まで歩いて10分かからない。家はなかなか立地のいいところに建てられている。そしてまあまあ大きい。父親は幾つもの小会社を持つ親会社の社長だった。今は5つ上の姉が継いでいる。
「ただいま。」
「「おかえり!!お兄ちゃん!!」」
 そして6つ下の双子の妹達。
「おかえり、お兄。」
「ただいま。」
 10歳下の妹。
「にっに!」
「ただいま。今日も元気だなぁ。」
 17歳下の弟。 

 父方の家系は、何を言わずとも女系だ。上から優紀(ゆうき)姉さん、僕、優奈(ゆうな)優愛(ゆうあ)優羽(ゆうは)、そして優馬(ゆうま)。5人で仲良く暮らしている。
 まぁなんでこんなに歳が離れているかというと、上2人と下4人は母親が違う。僕らの母親は自分が2歳のときに病死した。後に、後添え(のちぞえ)を迎えたということ。それがまた若い女性で、下4人が生まれたということだ。
 その両親でさえ3年前に不慮の事故で亡くなった。まだ幼い子供達と莫大な財産を残して……

「後ろの女の人って……!」
「彼女だよ!お兄ちゃんに彼女だよ!!」
「違う。父さんの友達の娘さんだ。今日からここに住むことになった。」
「「へぇぇ!!」」
 なんとかはぐらかしに成功。あとは姉さんだけだ。
「私……住むなんて……そんな……ご迷惑じゃ……お金だって……」
「女の子1人匿うお金くらい、大丈夫だよ。多分……」
 やっぱり姉さんにはちゃんと話をつけないといけなそうだ。

「あ!お兄ちゃん、お昼食べちゃった?」
「いや、まだだよ。」
「今日はパンケーキだよ。」
「ありがとう、優奈、優愛。彼女の分も用意できる?」
「できるよ!!」
 優奈は読書家で年何百冊も本を読む。暇さえあれば場所の変え変えずっと読んでいる。何も「図書室の主」と呼ばれているほど、図書委員や司書よりも図書室に詳しいらしい。
 優愛はクラスのリーダー的存在らしい。生徒会長を務めていて、先生にも特別信用されているようだった。ただ抜けているというか、親しみ易いというか、彼女は勉強が苦手だ。その点で完璧でない、かえって良いリーダーのようだ。

「優羽、今日は何したんだ?」
「関数勉強した。そのあと優馬と遊んで、天体と室町時代の勉強した。」
「偉いな。昼食は?」
「少しだけ。」
「食べれたならいい。」
 優羽はクラスでのいじめのせいで小5から学校に行っていない。部屋に籠もっていることが多いが、知的できっと誰よりも頭がいい。パソコンを買い与えたので、それで勉強しているようだ。快方に向かっているが、拒食症を患っている。

「優馬は何したの?」
「ゆはっねぇねとあしょんだぁ!!」
「どうだった?」
「たのしかったぁ!!」
 また舌足らずな感じがこの頃の可愛さだ。17という年の差も相まって尚可愛さが倍増する。
大学から帰るたびに覚束無い(おぼつかない)足取りで駆けてくる彼を見ると、1日の疲れも瞬く間に消えていく。

「桜子さん、お昼にしましょう。」
「……」
 風に揺れる小さな小花のように頷いた。
 ダイニングに案内され、目の前のパンケーキに嬉しそうにする桜子。どうやら初めての食べ物に目を輝かせていた。
「これが……パンケーキ?」
「そうですよ。アレルギーはありませんか?」
「はい……頂いて良いのですか?」
「どうぞ。」
 綺麗に一口の大きさに切り、少し斜めを向いて()んだ。紅茶を飲む際も、ソーサーに手を添えて口にする。どこぞのお嬢様であるのは本当なのだろう。育ちの良さが垣間見えた瞬間だった。
「美味しい……すごく美味しいです……!」
 ただ、柔らかい彼女は一輪の小花ではなかった。まさに桜だ。見た者を圧倒し、魅了させる、そんな力がある……気がする。ずっと見ていたい……
「お兄ちゃん!冷めちゃうから早く食べてよ!!」
「っ!!ごめんごめん。」
 なんだ、この感じ。目を離せない、いや離したくない感情なんて知らない。心做しか心拍数が上がってる気がする。不整脈か?
 この気持ちが分からないまま、ただ時間は過ぎていった。


「ただいま、弟妹(ていまい)たち!!」
 夕食少し前、朱く照る太陽が沈む頃、優紀姉さんが帰ってきた。
「「おかえりなさい!!」」
 放任主義だった父と継母(はは)。2人だけで食事に行ってしまうこともざらだった。そんな中で優紀は「親」だった。まだ学生だった彼女は、課外は極力受けずに早くに帰ってきて家事を済ませ、僕らの相手をしてくれた。友達とも遊ばず、弟妹(きょうだい)が寝た夜遅くに勉強をしていた。

 私立のいい大学に入って、経済を学んでいる最中、両親が事故で死んだ。大学卒業する年だった。会社の役人らの意向で彼女は若くして社長になったのだ。彼女の意見も気持ちの整理も待たずに。
 僕は知っている。彼女は完璧ではないこと。葬式中、人前では凛とした態度を取っていた。ただ、皆が寝たあと、部屋で声を殺して泣いていたこと。仕事に専念するがために彼氏とも別れてしまったこと。まぁ、彼氏さんのほうは諦めてないようで、僕と定期的に連絡を取っている。彼女も未だに彼氏からの指輪をはめている。左手の薬指に……
 ここまでの話だと、両親が毒親のように聞こえるが、けしてそんなことはない。

「ん?この可憐なお嬢さんは??」
「パパのお友達の娘さんだって!」
「ここに居候するみたい。聞いてない?」
「……いや、聞いてるよ。優人くん、後で良いかな?」
 彼女は頭の回転が速い。合わせてもらって助かる。

 下の子達が深い眠りについた頃、
「優人くん、それと……桜子ちゃんだったかな?」
「……はい。」
 体の前で手を組み目を伏せる、体がこわばるような、仕草を見せた。。
「大丈夫ですよ、桜子さん。」
「今すぐ出でけなんて言わないから。それにしても可愛らしいお嬢さんだね。はじめまして、優紀と申します。」
「綾野……桜子……です。」
 それからしばらく、紅茶を飲みながら彼女の事情を話した。
「なるほどね……うん、家にいな。生活費つっても食費くらいだし。」
「で……でも……優紀様……私……そんな……何もせず居候なんて……できません……」
「様なんてやめてよ。優紀でいいからさ。何もせず……じゃあ、優馬の面倒と優羽の家庭教師してくれない?優羽と家事もしてくれると助かる。住む代わりに、っていうことでどう?」
 そっと肩をなでおろした。たしかにただ住むだけだと、どうも罪悪感というか迷惑になっている気がして落ち着かない。
「ほ……本当に……良いのですか?」
「もちろん。逆に居てくれたほうが助かるよ。」
「あ……ありがとう……ございます……!」
 姉さんが話の分かる人で良かった。

「そうだ、優人くん。」
「ん?」
 もう寝ようとしたとき、姉さんに呼ばれた。
「彼女、日本語が苦手そうだね。何か簡単な本でも持ってないかな?」
 要は読書で言語を養いたいようだ。
「あるよ。後で桜子に渡しとく。」
「よろしくね。おやすみ。」
「おやすみなさい。」


 次の日、いつもの如く6時に起きて、リビングに降りる。毎朝、散歩を兼ねて公園で読書するようにしているのだ。
「おはよう……ございます……優人さん……」
「っ!おはようございます、桜子さん。早起きですね。」
「起きて……しまったので……」
 緊張か、はたまた不安か。目の下の隈を見る限り上手く寝れていないようだ。逃げてきたとはいえ、他人の家で過ごすのは抵抗があるだろう。緊張したままでも疲れる。
「桜子さん、一緒に散歩でもどうですか?」

 朝の澄んだ空気、夜が明けたばかりのこの時間帯が好きだ。一番季節を感じる時間だとも思う。少し肌寒いそよ風に、柔らかい陽だまり。昼間より断然過ごしやすい。
「あ、あの……どこに……?」
「昨日いた公園ですよ。毎日散歩がてら30分くらい読書するんです。」
 桜子さんは読書はお好きですか?と聞いてみる。彼女を知ることも大事だろう。彼女は小さな芽が吹くような声だった。
「好きです……よく流星兄様としていました。」
「お兄様とですか。仲がいいんですね。」
「流星兄様は……私のすぐ上の兄で……よく一緒に……いましたから……」

 他にも好きな食べ物。
「私は……フィオーレドルチェが好きです。」
「初めて聞きました。どんなものですか?」
「花の蜜に砂糖を混ぜて……ゼラチンで固めたものです……」
「美味しそうですね!」

 趣味。
「本が好きです……そのために……この言葉も覚えました……」
「独学ですか?!すごいですね。」

 特技も。
「細かい作業は……得意です……刺繍とか……」
「器用なのは羨ましい……僕には向いてなさそうです。」
「……」

 途中で公園に着いても二人で話していた。
「優人さんは……何が好きですか……?」
「僕ですか?何……うーん。とりあえず、読書は特段好きです。あとは執筆ですかね。」
「執筆……物語を書くのですか……?」
「そんなところです。」
 元はと言えば、小説家にでもなろうと思っていた。ただそれは両親の死を機に自由を奪われた優紀を裏切る気がしたのだ。不安定な職だとも思っていたので潔く諦めた。
「どんな話を……?」
「基本的にミステリーを書きますね。読むのも好きですから。まぁ、もうしばらく書いていませんが。」
 桜子は興味を見せた。ここ一番の期待の眼差しだ。
「ど、どうしました?」
「私……その……ミステリーが一番好きです……それで……この言葉も……覚えて……」
「日本語の本を読むために?」
 小さく頷く桜子。桜の花びらがひらりと散る。
「いつも話してるのは?」
「」