眠い目をこすりながら今日も家を出る。エントランスの前ではあの子が手を振っている。
「おはよう、あーちゃん」
「おはよう、パパ」
やっぱりな、と思った。僕があーちゃんの正体に気づいたことは、あーちゃんも分かっているのだろう。
「パパが髪の毛を結んでくれてるときにね、いつもおしゃべりするの。ちょっと前に、昔のパパのことを教えてくれたんだよ。パパはね、昔おはようって言えない寂しい時期があったんだって。だから、おはようって大好きな人に言えることはすごく幸せなことなんだって」
確かに、子供の僕は両親の「おはよう」に支えられていたが、社会人になってからは一人寂しく通勤していた。そして、自分でも気づかないうちに随分と疲弊していたと自覚する。でも、ここ数か月の僕はあーちゃんの「おはよう」に一日を支えられていた。
「だからね、夢の中で昔のパパに会えますようにってお祈りしたの。そしたら本当に会えたから神様にありがとうだね!」
この子は、葵はなんてまっすぐに育ったのだろうか。きっと、愛されて育った朝美がその愛を一心に葵に注ぎ込んだのだろう。僕が今、葵をこんなにも愛しいと感じるのはきっと僕の両親が僕を愛してくれていたからだろう。
「ねえねえ、今日で最後だからパパにだけ内緒話してあげる。お耳貸して」
僕はあーちゃんに合わせて小さくかがんだ。
「ママはね、昔お寝坊さんだったんだって。でもね、パパとあたしにおはようって言いたいから今は早起きさんなんだよ」
ママが、朝美が朝起きるのが苦手なことは知っている。それを得意げに話すあーちゃんがとても愛しかった。今日で最後、もう会えなくなってしまうのだろうか。僕が気づいてしまったからだろうか。とても寂しい。
「パパ泣かないで。パパはもう寂しくないから」
人差し指を口にあてて秘密の話をするようにあーちゃんは言った。
「いってらっしゃい、パパ」
そういうと、あーちゃんは曲がり角に向かって走って行ってしまった。慌てて追いかけたけれど、どこにもあーちゃんはいなかった。
この数か月のことは全部夢だったのだろうか。夢のような時間だった。でも、僕達は現実を生きて行かないといけないので今日も出社をする。
今回の全社総会で僕にとっての重要事項は二つだった。一つ目、人事異動の結果、朝美が僕と同じ企画部になったこと。毎朝、朝美に「おはよう」と言えるようになった。二つ目、社則変更の結果、残業だけでなく早朝出勤が規制されたこと。働き方改革の一環らしい。
あーちゃんが言っていた、「寂しくなくなるよ」とはこのことだったのか。僕は朝美に毎朝会えるようになって、僕が結婚して子供ができる頃には部長みたいに仕事が忙しすぎて子供に会えないなんてことはなくなるようだ。
翌日、朝起きて気づく。あーちゃんはもう会いに来ないと。寂しいけれど、僕は世界中の父親の中で一番幸せなんじゃないだろうか。娘が時を超えて、「おはよう」を言うためだけに会いに来てくれた。まだこの世界のどこにも存在していない娘がとても愛しい。我が子からの「おはよう」はこんなにも嬉しいものなのだと、まだ子供も生まれていないのに知っているのは僕だけだろう。
ネクタイを締めて家を出る前にスマホを取り出して母に電話を掛けた。いつも早起きの両親はもう起きているはずだ。三コールで、母が電話に出た。
「もしもし、母さん」
「和樹! どうしたの、こんな時間に! ちょっと、お父さん! 和樹から電話よ!」
「和樹、今まで何していたんだ! 全然連絡もよこさないで! 母さんがどれだけ心配していたと思ってるんだ! どうしたんだ? 何か困っていることでもあるのか?」
「いや、そんなんじゃないよ、ただ……」
僕は忙しいことを言い訳にしてこんな簡単なことすら今までしてこなかった。親からの愛を子供に繋ぐのが道理ならば、子供からの喜びは親に繋ぐのもまた道理だろう。今までの感謝と、連絡無精だった反省を込めて。
「父さんと母さんに、おはようって言いたかっただけなんだ」
「おはよう、あーちゃん」
「おはよう、パパ」
やっぱりな、と思った。僕があーちゃんの正体に気づいたことは、あーちゃんも分かっているのだろう。
「パパが髪の毛を結んでくれてるときにね、いつもおしゃべりするの。ちょっと前に、昔のパパのことを教えてくれたんだよ。パパはね、昔おはようって言えない寂しい時期があったんだって。だから、おはようって大好きな人に言えることはすごく幸せなことなんだって」
確かに、子供の僕は両親の「おはよう」に支えられていたが、社会人になってからは一人寂しく通勤していた。そして、自分でも気づかないうちに随分と疲弊していたと自覚する。でも、ここ数か月の僕はあーちゃんの「おはよう」に一日を支えられていた。
「だからね、夢の中で昔のパパに会えますようにってお祈りしたの。そしたら本当に会えたから神様にありがとうだね!」
この子は、葵はなんてまっすぐに育ったのだろうか。きっと、愛されて育った朝美がその愛を一心に葵に注ぎ込んだのだろう。僕が今、葵をこんなにも愛しいと感じるのはきっと僕の両親が僕を愛してくれていたからだろう。
「ねえねえ、今日で最後だからパパにだけ内緒話してあげる。お耳貸して」
僕はあーちゃんに合わせて小さくかがんだ。
「ママはね、昔お寝坊さんだったんだって。でもね、パパとあたしにおはようって言いたいから今は早起きさんなんだよ」
ママが、朝美が朝起きるのが苦手なことは知っている。それを得意げに話すあーちゃんがとても愛しかった。今日で最後、もう会えなくなってしまうのだろうか。僕が気づいてしまったからだろうか。とても寂しい。
「パパ泣かないで。パパはもう寂しくないから」
人差し指を口にあてて秘密の話をするようにあーちゃんは言った。
「いってらっしゃい、パパ」
そういうと、あーちゃんは曲がり角に向かって走って行ってしまった。慌てて追いかけたけれど、どこにもあーちゃんはいなかった。
この数か月のことは全部夢だったのだろうか。夢のような時間だった。でも、僕達は現実を生きて行かないといけないので今日も出社をする。
今回の全社総会で僕にとっての重要事項は二つだった。一つ目、人事異動の結果、朝美が僕と同じ企画部になったこと。毎朝、朝美に「おはよう」と言えるようになった。二つ目、社則変更の結果、残業だけでなく早朝出勤が規制されたこと。働き方改革の一環らしい。
あーちゃんが言っていた、「寂しくなくなるよ」とはこのことだったのか。僕は朝美に毎朝会えるようになって、僕が結婚して子供ができる頃には部長みたいに仕事が忙しすぎて子供に会えないなんてことはなくなるようだ。
翌日、朝起きて気づく。あーちゃんはもう会いに来ないと。寂しいけれど、僕は世界中の父親の中で一番幸せなんじゃないだろうか。娘が時を超えて、「おはよう」を言うためだけに会いに来てくれた。まだこの世界のどこにも存在していない娘がとても愛しい。我が子からの「おはよう」はこんなにも嬉しいものなのだと、まだ子供も生まれていないのに知っているのは僕だけだろう。
ネクタイを締めて家を出る前にスマホを取り出して母に電話を掛けた。いつも早起きの両親はもう起きているはずだ。三コールで、母が電話に出た。
「もしもし、母さん」
「和樹! どうしたの、こんな時間に! ちょっと、お父さん! 和樹から電話よ!」
「和樹、今まで何していたんだ! 全然連絡もよこさないで! 母さんがどれだけ心配していたと思ってるんだ! どうしたんだ? 何か困っていることでもあるのか?」
「いや、そんなんじゃないよ、ただ……」
僕は忙しいことを言い訳にしてこんな簡単なことすら今までしてこなかった。親からの愛を子供に繋ぐのが道理ならば、子供からの喜びは親に繋ぐのもまた道理だろう。今までの感謝と、連絡無精だった反省を込めて。
「父さんと母さんに、おはようって言いたかっただけなんだ」