その日の夜、朝美と僕はSNSで話題のイタリアンレストランで食事をした。地上四十一階、夜景の綺麗な窓辺の席はなかなか予約が取れない。晴れていてよかったと心から思った。
「和樹君、なんだか痩せたんじゃない?」
「ええ、そうかな? そんなことないと思うけど」
「絶対痩せたって。ちゃんと朝ご飯食べてる?」
 僕達はまだ意外とお互いのことを知らない。朝美こそ朝起きるのが苦手なのにちゃんと朝ご飯を食べているのだろうか。僕が朝美について知っていることは、犬を飼っていることと映画が好きなことくらいだ。でも、犬の名前も好きな映画のジャンルも知らない。中途半端にしかお互いを知らない。距離が近づいたからこそ、「お互いのことを知らない」ということに気づいた。だから、もっと知りたいと思う。
「そういえば、日曜日におふくろが野菜送るって言ってたかも。はいはい、ちゃんと食べますよ」
 僕は適当にはぐらかした。僕の生活なんかよりも、朝美の話が聞きたかった。
「朝美、見たい映画あるって言ってなかったっけ? 来週あたり見に行かない?」
 僕の質問に彼女があげたのはタイムトラベル物の新作映画だった。
「SF好きなの?」
「うん、大好き! お父さんが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のDVD持っててね、小さい頃に一緒に見たの。それが一番好きな映画。タイムトラベルってロマンじゃない?」
 朝美はSF映画の魅力を語り出した。僕はそこまでSFに興味があったわけではないが、彼女があまりにも楽しそうに語るので、とても興味がわいた。
 ちなみに、新作映画は数多くのSF映画を見て来て目が肥えた朝美からしても、予告編だけで随分と期待できるらしい。
「ちょっと未来とちょっと過去、行くならどっち? 大きく歴史を変えるようなことをするのは時空警察に捕まっちゃうから反則ね」
 映画の話は盛り上がった末に少し脱線した。朝美は時々、キラキラした目でありえないifの話をする。少女のような無邪気さは、SF好きから来ているものだと聞いて腑に落ちた。
「ちょっとってどのくらい?」
「うーん、十年から二十年くらいかなぁ。アニメみたいなロボットが出てくる未来ってほどじゃない未来と、昭和ってほどじゃないくらいの過去」
「僕は過去かな。ちょっとの未来は生きていたら見られるけど、過ぎ去った時間は戻らないし、僕が生まれる前の世界を見られるなら見てみたい」
「私は未来かなぁ。漫画の来月号をちょっとだけ先読みできたらいいなって思ったことない? 小学生の頃は、将来の自分の職業とか未来の旦那さんがどんな人とか見に行けたらいいのにって思ってた」
 空想を語る彼女の目の輝きは宝石みたいに綺麗だ。こういうところを好きになった。

 週が明けて、月曜日。雨の日も少女は可愛らしい女児向けアニメのキャラクターものの傘を揺らしながらやってきた。僕が子供の頃よりも目が大きくて、衣装がカラフルな印象を受ける。仕事柄流行には敏感なつもりでいたが、知らないアニメだった。僕はまだまだ勉強不足だ。
「おはよう」
「おはよう。雨すごいね」
「風邪ひかないように気を付けないとだめだよ」
 ませた少女は親か学校の先生の受け売りと思われるセリフを言う。昨日の朝美となんだか重なった。言われてみれば、少女は朝美に似ている気がする。
「君もね」
「君じゃなくて、あーちゃん」
 彼女は少し強い口調で、呼び方を訂正した。頬を膨らませて拗ねている。彼女の名前は今日初めて聞いたので怒られるのはちょっとだけ理不尽な気がする。
「ちゃんと朝ごはん食べなきゃだめだよ。またね」
 その声が妙に朝美と重なった。
「分かったよ。ちゃんと食べるよ。またね、あーちゃん」
 名前を呼ぶと、彼女は満足したように笑った。口にして初めて気づく。あーちゃん、朝美の「あ」だ。偶然だとは思う。「あーちゃん」が小さなころの朝美で、未来にやってきただなんて、そんな非科学的なことがあるわけがない。でも、昨日タイムトラベルの話なんてしたから、そんな発想にいたってしまうのは仕方がないことだ。
 
 翌朝、僕はちゃんと朝食を食べた。ちょうど日曜日には野菜と自家製のジャムが送られてきていた。なぜか、都会ではいくらでも買えるのにキャラメルまで同封してあった。しかも、パッケージにはでかでかと最近大流行の子ども向けアニメのキャラクターが描かれている。いつまで子ども扱いするのだろう。
 ミニトマトは洗うだけでいいし、母の作ったイチゴジャムをトーストに塗れば立派な朝食の完成だ。仕送りのお礼を言うのを忘れていることに気づいたが、時間もないので夜でもいいか。
「おはよう」
「おはよう、あーちゃん」
 あーちゃんはしっかりしている。知らない人にフルネームを教えたりしない。けれども気さくだ。まるで朝美のように。
「ねえ、見て。お花が咲いてるよ。優しい色だね」
 隣の一軒家の庭には背の高い花が咲いている。それを指さしてあーちゃんは言った。僕はなんとなくスマホでその花の写真を撮った。花の写真を撮るのはたぶん人生で初めてのことだった。
 平日の朝、ほんの少しだけあーちゃんと交わす会話。気づけば僕はその時間が楽しみになっていた。

 数日後、僕は親から送られてきたキャラメルを食べながら駅に向かった。両親へのお礼は結局タイミングを見失ってしていない。
「おはよう。ねえ、それ一個ちょうだい」
「おはよう。知らない人から物をもらっちゃだめってパパとママに言われなかった?」
 朝美に似ているあーちゃんには父性のようなものを感じてしまう。
「知らない人じゃないからいいの」
 そういえばキャラメルが好きだと前に言っていたなあと思いながら一つ分けてあげた。
「パッケージかわいいね。これ何てアニメ?」
 ちょうどあーちゃんくらいの年の子に一番人気があるアニメだと思っていたので、その質問には少し驚いた。
「まさか……な」