朝起きて最初に言葉を交わすのが自分にとって大切な人であるならば、それはとても贅沢で幸せなことだ。子供の頃は両親に「おはよう」と言って、美味しい朝食を食べてから学校に行った。毎朝四時半には起きて畑仕事をしていた両親が作った新鮮な野菜が並ぶ食卓。そんな当たり前の日常が幸せだったと気づいたのは社会人になってからだ。
 社会人二年目の朝は早い。五時前に無機質なアラームに起こされて、スマホをいじる隙間さえない満員電車に無言で揺られながら出勤する。最初に「おはようございます」という相手は、運が良ければ特に親しくもない同僚、運が悪ければパワハラ常習犯の上司だ。
 第一志望の広告代理店の企画部。ずっと憧れだったこの場所は、綺麗なばかりではない。オフィスには今日も上司の怒鳴り声が響いている。数分後は我が身だ。叱られないように今日プレゼンを行う予定の企画書を何度もチェックする。
 忙しいという字も忘れるという字も「心を亡くす」とはよく言ったもので、気づけば母からのLINEを放置していた。「元気でやっている?」のような生存確認には既読をつければ充分だと勝手に自己解決している。「今年はいつ帰ってくるの?」のような質問にだけ、何度か返信を督促されたところで「お盆も年末年始もまとまった休みはとれないよ」と返信している。
 忙しいけれども僕はまだマシな方だ。この先もっと忙しくなる。世間には重役出勤なんて言葉があるが、役員会議は業務開始前の早朝に行われる。七歳のお子さんがいる部長は、ここ数年はお子さんが起きる前に家を出て、家族が寝静まってから帰る毎日だと言っていた。
 二時を過ぎてようやく作業が一段落着いたので、一階のコンビニに遅めの昼食を買いに行く。
「和樹君」
 おにぎりの棚の前で、名前を呼ばれて振り返る。忙しい生活の唯一の癒し、恋人の横山朝美がミルクティーと飴を持って立っていた。
「和樹君、頑張ってるんだって? うちの部長も課長もみんな和樹君の事褒めてたよ」
 朝美はチャームポイントの八重歯を見せて笑った。面と向かって褒められるのは照れくさいが、とても嬉しい。テンションが上がった僕は、朝美がよくしているようにお釣りを募金した。
「私も、お父さんとお母さんに和樹君のこと自慢しちゃった。和樹君、すごいんだよって」
 可愛らしい声でそう言われれば、夕方からのプレゼンだって何だってうまく行く気がする。
 朝美はよく両親の話をするし、僕のことも話してくれているようだ。朝美はきっと愛されて育ったのだろう。
「今日も応援してるね」
 エレベーターを降りる直前、朝美は僕の手を包み込んで、買ったばかりの飴を握らせた。彼女の優しさに、何度も惚れ直している。

 朝美とは同期入社だが、総務部は別の階なので、普段はなかなか会えない。残業地獄の毎日を無理矢理かいくぐって食事に何度か誘った。少し前にようやく告白してOKの返事をもらったばかりだ。もっとも、彼女も僕も多忙をきわめているので甘い生活からは程遠い。
 朝美なんて名前だけれど彼女は朝に滅法弱い。彼女から二、三言程度の短いLINEが来るのは大概お昼休みか夜だ。朝美曰く、総務部は残業こそ多いけれど出社時刻は九時ちょうどらしい。僕の部署だけが異常なのかもしれない。
 何が楽しくて昇り始める太陽と競走しながら駅に向かっているのだろう。いや、仕事自体はやりがいがあるのだけれど。ずっと夢だった仕事だけれど。ただ、彼女の名前にも入っている「朝」を少しずつ嫌いになり始めている自分が悲しい。

「おはよう」
 五月の月曜日の朝、僕がマンションのエントランスを出ると、小学生の女の子に挨拶された。鈴のような声だった。薄紫のランドセルに、二つに結った長い三つ編み。可愛らしいワンピースを身にまとった少女は小さな大和撫子という言葉が似合った。なぜか、とても目を引かれた。
 朝の挨拶運動というやつだろうか。防犯と地域交流の二つの目的で昔、近所の人に挨拶をしましょうと先生に言われていたことを思い出す。
「おはよう」
 朝に声を出すのは久しぶりで、掠れた声になってしまった。女の子は一瞬だけ不満足そうな顔をしたけれども、「まあいっか」と呟いた。