朱珠(しゅしゅ)の母は、鎖につながれながら朱珠を産んだ。
 母は巫女という名目の奴隷だった。生まれたときから父親ほど年上の長の妾となることが決まっていて、まだ十五歳のときから十年間、毎年のように子を産んでいた。
 けれど島の祭りの夜、神隠しのように姿を消して、一年後に戻って来たときには身重の体だった。
 祭りの日は、閉ざされた島に一族以外の人々が招かれる。ご馳走と酒がふるまわれ、客人は閨に誘われる。そのときに子を宿すのはむしろ外の血を受け入れることとして歓迎されていたが、母を執愛していた長は許さなかった。
 しかし鎖につながれ、座敷牢で朱珠を産んだ母は、その心労で出産後まもなく命を落としてしまった。長は裏切られた怒りも忘れて悲しみに打ちひしがれ、せめて生まれた子は心安く過ごさせてやるようにと言伝て、半年後に母を追うようにして息を引き取った。
 幼い頃の朱珠は、長の息子たちに可愛がられて育った。けれど次第に、それは可愛がるという域を出るようになった。先代の長がまだ朱珠の母が子どもだった頃にしていたように、目の前で服を脱いで、裸の体を押し付けて眠るように教えた。
 ある日彼らの一人が朱珠に性の遊びを教えようとしているところを、長の地位を継いだ一番上の姉がみつけた。彼女は朱珠を離れに隔離して、朱珠の教育のためという理由で、朱珠は一生独身の巫女にすると決めて、男性と口をきくのも禁じた。
 外界から隔絶された環境がそうさせたのか、それとも顔も知らない異邦人の血が守ってくれたのか。朱珠は危ういほどに素直に、美しく成長した。
 そして朱珠が十六歳のとき、再び祭りはやって来る。





 厳しい養育係に一族は朱珠を忌み嫌っていると教え込まれたために、殊更身を小さくして孤独に震える夜だった。その日も華やかな衣装など与えられず、泥の池を泳いで浮島に咲く花を取ってくるまで、姉の食べ残しももらえないことになっていた。
 それに対する不満や悲しみは、教えられていなかった。朱珠に刷り込まれていたのは、島の外への恐怖だった。一族に、そして姉に捨てられて島の外に出されないために、朱珠はどんな命令も聞くようになっていた。
 空腹のまま、凍るような冬の泥の池をもがいて、花をくわえて泳ぎ戻った。姉にやっとのことで手に入れた花を差し出すと、姉は花をはらいのけて、その臭い体を綺麗にするまで家に入るなと言い捨てた。
 結局食事は与えられず、朱珠は泥水で体を洗うという矛盾した水浴びをしていた。どうしても泥の匂いが取れず、途方に暮れていた。
「泥を落としたいの?」
 声をかけられて、朱珠はびくりと体を跳ねさせた。
 月灯りの中、岸辺に男の人が立っていた。陽の色を帯びた不思議な色の髪、かすかに笑みをたたえた口元。長身に仕立てのいい藍色の羽織をまとい、つやめく空気をまとっていた。
 深い紺色の瞳にみつめられて、朱珠は息を呑んだ。こんな綺麗な男の人は見たことがない。きっと精霊なのだ。精霊と口を利いたら、異界に連れていかれてしまう。
 朱珠は裸であることに気づいて、慌てて体を隠しながらそこを離れようとした。魅入られる誘惑から距離を取ろうと、反射的に体が動いた。
 けれど水の中を後ずさった朱珠の手を、ひやりとした手がつかむ。
 その冷たさは、人のものではなかった。
「こんな綺麗な手だものね」
 泥がついている朱珠の手を引き寄せて、指先に口づけられた。そんな仕草がなまめかしくて、朱珠は思わず真っ赤になっていた。
 朱珠は首を横に振ったが、彼は軽々と朱珠を抱き上げた。
「洗ってあげる。……この世で押し付けられた汚れなど、全部」
 青年が羽織の袖をひらりと揺らしたとたん、朱珠の視界が反転した。
 はじめに視界に映ったのは、曼荼羅のような天井絵だった。極彩色の蔓が四方に伸びて花を咲かせ、また元の幹に絡まる、そういう奇妙な絵だった。
 ひととき前まで夜の外気に包まれていたはずなのに、朱珠はさんさんと陽光の差し込む部屋の中にいた。
 窓の外は見渡す限り、白色のハスが咲き乱れている。そしてハスが咲いているということは、その下には水がある。
 ハスは濁った水の中で花を咲かせるという。しかし表面がハスで覆われていて、ここからは泥水はまるで見えない。極楽浄土のような明るさだけがある。
 むせ返るような花の匂いが、高い窓から舞い降りるように入ってくる。胸をひっかくのは、開いている窓は立ち上がっても届かない高さだということ。分厚い嵌め殺しの窓からハス畑は見下ろせるが、外への出口はない。
 朱珠は悲鳴を上げて、拒絶するように目を閉じた。
「朱珠」
 けれど名前を呼んだ声は、一族が朱珠にかけるものとは違う、頬を両手で包むような響きを持っていた。
 そっとどこかに下される。背を撫でて、朱珠が自分で目を開くまで待っている気配がした。
 やがて朱珠は、冷たいその手の優しさに少しだけ緊張を解く。恐る恐る目を開くと、穏やかにほほえんでいる目と目が合う。
「怖がらなくていい。私は朱珠の本当の家族なんだよ」
 拭われた感触などなかったのに、朱珠の体についていた泥は綺麗に落ちていた。代わりに青年と同じ、春の宵闇のような香りに包まれている。
「私は青慈(せいじ)。朱珠のお父さんから、朱珠と対の名前をもらった」
「せいじ……さん」
 朱珠がそろそろと名を口にすると、彼は花のように笑う。
「「さん」は要らない。たくさん私の名を呼んで。朱珠の声で呼ばれるときを、ずっと待ってた」
「私……悪い子」
 そんな優しい言葉を聞いたことがなくて、朱珠は反射的に教え込まれた言葉を繰り返す。
 青慈はそんな朱珠に目を細めて叱る。
「人の子に悪い言葉を浴びせられたね。それももう要らない」
 青慈は首を横に振ってささやく。
「朱珠のお母さんは人の子の悪い言葉に引き戻されてしまった。でも、朱珠には選んでほしい。私を対のものと」
「対のもの……?」
「夫ということだよ」
 朱珠がはっとして息を呑むと、青慈はうなずく。
「そ、そんなこと、私が、無理……です」
 とっさに断りの言葉を口にした朱珠の唇に、青慈は指を当てる。
「決めるのはここで暮らしてからでいいんだよ。今は一緒に過ごそう?」
「青、慈さんと……?」
 朱珠が母親に甘えるように口にすると、青慈は朱珠の手を取る。
「そうだよ。夫婦として」
 青慈は花咲くようにほほえんだ。朱珠の心は驚いたように高鳴って、彼を見つめ返した。
 彼と手をつないでいると、まるで生まれる前に分かたれた体を取り戻したように朱珠は満たされた。
 朱珠は嬉しさと、かすかな寂しさで、涙を散らす。
「いい?」
 青慈に問われて、朱珠は泣きながらうなずいた。
 窓の外のハスの花が役目を終えたように色を失い、代わりに別の花が咲き始めていた。