あの電車は魂を運んでいる。それは舞依から聞いたことだった。
今にも雪崩れそうな雪山のそばを、フェンスもなしに線路が通っている。ひどく錆びたその上を、ボロボロの電車が走り抜けた。それを眺めていたときに話しかけられたのが、俺と舞依の出会いだった。
舞依はいつの間にか隣にいて、俺が通う予定の高校の制服を身にまとっていた。短いスカートから伸びる脚は、見ているだけで寒い。ツヤのある黒髪が印象的だ。
「魂を運ぶって、どこに?」
「あの世」
へえ、と適当に相槌を打つと、舞依は驚いたように俺を見る。
「信じるの?」
「うん」
「なんで?」
「……この村の電車は、昔に廃線になってる。さっきの車両、運転士がいなかった。あんなに錆びたレール、電車が走れるはずがない。つまり、あの電車は普通じゃない」
「……でもさ、魂とかあの世とか、そんなの非現実的じゃない?」
「あんたが言ったんだろ」
「へへ……電車の話、信じてもらったの初めてだからびっくりしちゃって」
いちいち疑って反論するのはバカバカしい。父親の仕事の都合で都会からこのド田舎に引っ越すことになったときも、なにも言わなかった。仕事なんだから仕方がない。何事もそうやって受け入れてしまった方が楽なんだ。
「あの電車ね、見えないんだよ、みんなには」
「幽霊みたいなもんか」
「そーゆうの、信じるんだ。意外だなぁ」
「意外も何も、いま会ったばかりだろ」
「確かに。ね、また会える?」
「なんで」
「会いたいから!」
――変な奴。それが舞依に対する第一印象。
会えるかもしれないし会えないかもしれない。そう伝えると舞依は、ここにまた来てほしいと提案してきた。ここは人気のない山の近く。俺は新天地の散策で通りかかっただけで、もうこんなところに用はない。そもそも舞依だってここで何をしていたのだろう。ただ、そこまで言うのなら。
「気が向いたら、また来る」
暇潰しになら来てもいい。そう言うと舞依はうれしそうに笑うから、本当に変な奴だと思った。
◆
それから、俺が気まぐれにあの場所へ向かうと、舞依とは会えたり会えなかったりした。電車も同じく、来たり来なかったり。そして来るときは必ず、誰かが乗っている。魂というのは、その人と同じ姿をしているらしい。
舞依はそれを見るたびに、瞼のふちをきらめかせて、切ない表情を浮かべる。死ぬ人を見るのがつらいなら、こんなところに来なければいいと言ったことがある。
「昔、私のおばあちゃん、一人で住んでてね。ずっと誰にも会えずに、ひとりぼっちで死んじゃったの。おばあちゃん、さびしかったと思う。……だから、そうやって見送られない人が少しでも減るように。私は、あの電車をなるべく見ていてあげたいんだ」
それでも、つらいならやめればいい、そう思う俺は冷酷なのかもしれない。人が死ぬのは当然のことだ。でも、舞依が優しいということはわかる。舞依が誰かにそうしてあげたいと願うのを、俺は止めない。
「……お人好し」
ただせめて、舞依が背負っているものが少しでも軽くなればいい。そんなおせっかいの焼き方すらわからなくて、口から出たのはつまらない言葉だった。舞依は、困ったように小さく笑うだけだった。
◆
俺たちが互いの名前を教えたのは、会って五度目のときだった。
「明智の智に、紀元前の紀で、智紀」
「難しっ!」
「……知るの下に日で智、いとへんに己で紀」
「わかりやすい! 私はねー、てんてこ舞いの舞に、依存の依で、舞依」
「微妙な例えだな……」
他愛のない会話。でも舞依はよく笑う。俺がいることで少しでも笑顔が増えるなら、俺たちが会う意味はきっとある。
しばらくして、暗黙のルールができた。ここに来るのは、放課後の夕方4時、決まった時間。曖昧な待ち合わせは、約束へと変わっていった。
ある日は、一緒に散歩した。線路の近くには古びた倉庫があって、そこに住み着いている猫を見せられた。ミケちゃんと呼んでかわいがっているらしい。どう見てもトラ猫なのに、と言うと、ミケって感じの顔だからいいの、とよくわからない理論で叱られた。
鍵もかかっていないその倉庫は公共のもので、中を覗くと掃除道具やイベント用の備品が収納されている。その中に、花火用の打上筒があるのが見えた。
「花火大会でもあるの?」
「うん、今年は何日だったっけ……とにかく、冬の間にやるの。すっごく綺麗だよ!」
「へえ、俺、花火見たことない」
「ほんと!? 人生で一度も!?」
「え、うん。俺んち、忙しかったし……」
一緒に見る人がいなかった。親は仕事で忙しく、引っ越しと転校を重ねた人生に友達なんてほとんどいない。昔は花火に憧れて、仕組みを動画で学んだりもした。
「じゃ、一緒に行く?」
「え、俺と?」
「智紀以外に誰がいるのよ」
「いや、だっておまえ、友達とか、他にいるだろ」
舞依と行くのが嫌なわけじゃない。咄嗟に出た照れ隠しのようなものだった。それに、明るくて愛嬌のある舞依は、きっと友達だって多いはず。見かけたことはないけれど。
「嫌ならいーよ?」
「そういうわけじゃ……」
頬を膨らます舞依に弁解しようとしたとき、例のトラ猫が倉庫を離れるのが見えた。舞依もそれに気づいて、いたずらっ子のような顔をする。
「ね、着いてってみようよ」
◆
トラ猫は、気ままに散歩しているようだった。塀にのぼったり、文字通り道草を食ってみたり。通ったことのない道のりを行くと、やがて見覚えのある場所にたどり着く。
「なんだ、ここに出るんだ」
線路の側。俺と舞依がいつも会うところ。そこで突然、トラ猫が走り出す。ネズミか虫か、小さな影を追ったようだ。
そのとき、聞こえてきた。電車が近づく音だ。トラ猫はそれをものともせず、獲物と共に線路の中へ飛び込もうとする。
「ミケちゃん!」
無理だ、間に合わない。そう思ったとき、立ちすくむ俺を追い抜いた舞依は、トラ猫に両手を伸ばす。舞依のからだが電車の前に飛び出す寸前――考える間もなく、俺の手足が動いた。
俺は舞依の手を引き無理やり抱き止めた。そのはずみに俺の眼鏡が吹き飛ぶ。舞依の両手は虚空を掴み、トラ猫は電車の前に飛び込んでいく。
「だめ――!」
舞依の叫びもむなしく電車はトラ猫に当たり――そのまますり抜けていった。トラ猫はこちらに振り返り、何事もなかったかのように鳴いた。そのまま山の方に向かって駆けていく。
「……智紀、今の、見た?」
そう言って舞依は俺を見て、それから、驚いたように大きな声を出した。
「眼鏡は!?」
俺は線路の方を指さした。そこには俺の眼鏡だった残骸が転がっている。電車にひかれた無残な姿だ。
「ごっ、ごめん! 私を助けたから……」
「いいよ、べつに。俺が勝手にやっただけだよ」
「眼鏡なくても見えるの?」
「あー、そこまで目悪くないから。家にスペアあるし」
「そっか……本当に、ごめん。今度弁償する!」
謝り続ける舞依を適当にあしらいながら、俺はトラ猫について考えていた。電車が来ても、その音にさえ反応していなかった。おそらくあのトラ猫は、電車が見えていなかったのだろう。誰にでも見えるわけじゃない、それは人間以外も同じなのか。つくづく不思議な電車だ。
――ふと、思った。あの電車の行き先について、舞依はどうやって知ったのだろう。尋ねると舞依は、いつものようにさびしげに電車の行く先を見つめた。
この村に通っていないはずの電車を見かけた舞依は、不思議に思い、何度も見に来ていたらしい。そんなある日、知った顔の人が乗っていたそうだ。遠い親戚で、顔だけは覚えているくらいの人。そうしたら次の日、その人の訃報が届いた。その後も似たようなことが二度あった。小学生時代の校長先生、曾祖父。それで確信したらしい。あの電車はあの世行きだ、と。
それを聞いて、また新しい疑問が湧いた。
「どこから来てるんだろうな、あの電車」
舞依はぽかんと口を開けて、たしかに、と言った。
線路をたどれば、駅があるはずだ。普通なら。まあ、普通じゃないのはわかっているが。廃線になる前の駅が残されているかもしれない。
「じゃ、確かめに行こう!」
舞依の一言で俺たちは、線路をたどってみることを決めた。しかし、もう日が暮れる。まばらな街灯だけでは頼りない道のりになるだろう。予定は、休日である明日へ繰り越すことにした。
いつもと違う、日が暮れる前の待ち合わせ。舞依は私服で来るのだろうか、そうだとしたら初めて見る、なんて、変な期待が胸の内に渦巻いた。いつもと同じなのに、いつもと違う。不思議とそわそわして落ち着かない気分だ。そんな感情の名前は知らない。
当日、柄にもなく遅刻しそうになって、早足で向かう。しかし――俺が舞依と会うのは叶わなかった。
◆
気がつくと、俺が見たのは病院の白い天井だった。なんだか身体中が痛いし、点滴かなにかの管が繋がっている。路面の凍結でスリップした自動車が直撃したらしい。いつも冷静な父親が俺の顔を見た瞬間に泣き出したからこっちが焦る。聞けば、俺は生死をさまよっていたらしい。それが突然目を覚まし、それからはみるみるうちに回復した。高齢の医者に、奇跡のようだと褒められた。
それでも結局、事故から一ヶ月ほど経ってからの退院だった。長く感じたが、怪我の程度から考えると充分早い退院らしい。
特に後遺症もなく、また日常が訪れた。ただ、何度あの場所を訪れても、舞依には会うことはできなかった。
ある日思い立ったのは、学校で舞依を探せばいいということだった。同級生じゃないのは確かだ。一年生に声をかけてみるが、舞依という子は知らないと言われた。そうなると次は三年生。多少緊張しながらも、優しそうな人を選んで聞いてみる。すると、思いがけない返事をもらえた。
「舞依ちゃんならいるよ。同じクラス」
「それじゃあ、伝えてもらえませんか? 俺――智紀が呼んでるって」
「あぁ……それは、ごめんね。連絡先知らないの」
「今日、学校来てないんですか?」
「うーん、今日っていうか……ほとんど来てないかな。もうずっと」
不登校。登校拒否。そんなところだろうか。その先輩が言うには、三年生になった頃から顔を見た覚えはないらしい。俺は舞依のことを何も知らなかった。
あんなに明るくていつも元気で、友達だって多そうなのに。学校に来ていないなんて思いもよらなかった。でもすぐに、その考えは覆る。舞依は繊細だ。知らない人が死んだことで、泣きそうになるくらいに。見送られないのはかわいそうだと、自分が傷ついてまで人のためを思うくらいに。だからきっと、舞依なりの理由があるんだ。
――会いに行こう。俺に何ができるかわからないけど、俺が、舞依に会いたかった。
◆
懲りずにまた足を運んだ線路の近くで、トラ猫が佇んでいた。俺を見つけると小さく鳴いて、尻尾を立てながらすり寄ってくる。
「おまえさ、知らない? 舞依がどこにいるか」
そう言うと、トラ猫は突然走り出す。少し行ったところで振り返り、俺を呼ぶように鳴いた。着いてこいとでも言っているのだろうか。自分でもバカバカしいと思いながら、トラ猫の後を追う。だがやはり猫は猫、道案内は途中で終わり、新たな獲物を見つけたようで塀の向こうへ消えていった。
「なんだよ……」
悪態をつきながら、なんとなく、そのまま真っ直ぐ歩みを進める。線路に沿って歩いていることに気づくのに時間はかからなかった。そうだ、あの日は二人でこうして歩く予定だったんだ。線路をたどれば駅に着くかもしれない。舞依はあの日一人で駅を見つけて、今もそこで待ってるのかもしれない。
――そんな都合のいい予感は、当たった。
◆
「ずいぶん遅かったね。待ちくたびれちゃった」
ボロボロの駅だ。大昔の無人駅、それが風化した跡、そんな風に見える。あの電車が来るにはぴったりだ。そこに舞依はいた。
「おまえ、いつもここに来てたの?」
「そだよ」
なんでいつもの場所に来てくれなかったんだ、そう言いかけてやめた。先に待ち合わせの約束を破ったのは俺だ。
「やりたいことができちゃって」
俺の心を読んだかのように言って、舞依は改札の方へと向かう。静かな場所だ。響くのは足音ふたりぶんだけ。舞依はおもむろに、古びた切符の券売機を指さした。取出口にあるのは一枚の切符。手に取って見ると、今日の日付と見知らぬ名前が印字されている。
「それ、切符の使用期限……とでもいうのかな? とにかくその日になると、持ち主はこの電車に乗るみたい」
つまりこの名前の主が、今日中に死ぬということだ。
「なんでおまえ、そんなのわざわざ見に来て……」
「切符ね、前日になると勝手に発行されるんだ」
俺が事故にあった日。舞依との待ち合わせに行けなかった日。あのとき舞依は、一人でここまでたどり着いたらしい。そこで、券売機の存在を知った。それからは駅まで、魂の見送りをしに来ている、そう語った。
「もし切符の名前が知り合いだったら、見送り以上のことができるでしょ? ほら、小さい村だし、知らない人でも探せば会えるかも。少しでも、心残りがないようにしたいじゃん」
見送りも、人助けも、舞依がやりたいと言うのなら俺に止める権利はないだろう。それでも俺はすぐに死にゆく人たちのために、これからも生きていく舞依がいちいち心を痛める必要はないと思ってしまう。そんな気持ちがあふれて止まない。
「……やめちゃえよ」
「そんなこと言わないで」
「だって、そんな顔するくらいなら――」
言いかけたとき、どこからともなく、老人が現れた。背中の曲がった爺さんが、俺たちの間を通り抜けていく。俺が呆気にとられているうちに、爺さんは当然のように券売機の切符を手に取り改札の向こうへ歩き出す。舞依を見ると、手を合わせて爺さんを見つめていた。
いつの間にかホームに停まっていた電車に爺さんは乗り込んで、それに舞依は小さく手を振った。それまで俺たちを気にも留めなかった様子の爺さんだったが、応えるように微笑みを浮かべる。
ささやかな儀式。それでもあの爺さんにとって、うれしいことだったのは間違いないだろう。それほど穏やかな笑みだった。
「止められないんだよね、もう。何をやってもダメだった。きっと、切符が発行された時点で決まってるんだよ。運命ってやつ?」
俺が何も言えないでいると、券売機のやけにうるさい稼働音が響いた。ふいに目をやると、取出口には一枚の切符。たった今発行されたらしい。つまり明日死ぬ誰かの名前が刻まれている。
舞依はそれを手に取って、すべらせたのか床に落とした。そのままなかなか拾わないので、代わりに俺が手を伸ばす。
『久納 舞依』
まい、思わずその名前を呟いた。その名前の響きの持ち主は、あまりにわざとらしい笑みを浮かべて、俺から切符を奪い取った。
「……早死にだねー、私」
「……この名前……おまえ、なのか?」
「そ。……あのさ、お願いがあるんだけど」
舞依はあっけらかんとして、いつもとさほど変わらない口ぶりだ。舞依より俺の方が、この状況を受け入れきれていない。でも、俺は気づいている。舞依の手が小さく震えていることを。
「智紀、私のこと、見送ってね」
人が死ぬのは当然だ。老若男女、いつ死んだっておかしくない。そう思っていた。けれど、目の前の、俺と同じくらいの歳の、俺が会いたいと願った人が、明日死ぬ。そんな事実をすぐにのみこんで見送れるほど、俺は冷酷じゃなかったようだ。けれど、仕方ないじゃないか。切符が発行されてしまえば、もう遅い。切符を隠しても、来た人の行く手を阻んでも、結局電車に乗るのは止められない。それは舞依が散々試して証明が済んだことだった。だから、俺は、舞依の願いを断る理由が見つけられない。
「――わかったよ……」
情けない返事だったが、舞依を安心させるには充分だったようだ。ありがとう、そんな舞依の一言は心の底から湧き上がったような響きだった。
◆
その日舞依と別れてから、ずっと考えた。本当に俺はこのままでいいのか、と。もっと伝えることがあったんじゃないのか。もっとできることがあったんじゃないのか。いくら悩んでも答えは出ない。なんだって受け入れてしまった方が楽だなんて結論づけた自分を恥じる。だって今はこんなにも、舞依が死ぬのが嫌でたまらない。いくら後悔しても、もう俺にできることはない。連絡先も家も知らない。それを教えることを舞依が望まなかったから。だから俺はただ、あまりに冷酷な現実を受け入れるほかなかった。
真夜中、家を抜け出して駅に向かう。舞依の魂がいつ来るかわからない。俺は絶対に見逃すわけにはいかないから、日付が変わるまでに駅に到着する必要がある。
まばらな街灯の中、ほぼ暗闇といっていい景色の中でその駅はぼうっと浮かび上がっていた。不気味でもあり、神秘的でもある。
券売機の取出口には、相変わらず舞依の名前が刻まれた切符。恨めしくそれを見て、気づく。券売機のボタンの見慣れない表示の中に見つけたのは、希望の文字列だった。
『使用期限延長』
期限の、延長。それはつまり、死期を遅らせることを意味してるんじゃないか。迷うことなく舞依の切符を券売機に入れて、延長ボタンを押す。すると、小さな液晶部分に文字が浮かんだ。
『期限をチャージしてください』
それから数秒ほど経って、ブザーと共に舞依の切符は吐き出される。切符に刻まれた日付は変わっていない。期限のチャージ、その方法を考えたときに、ひとつの答えが導き出された。使用期限、それは言い換えれば寿命にあたる。すなわち延長とは寿命の譲渡。
延長の隣にあったボタン、『有効期限確認』をおもむろに押してみる。すると取出口に落ちたのは、俺の名前が刻まれた切符だった。有効期限は、70年先。俺はそれなりに長生きするらしい。
再び舞依の切符を挿入し、延長ボタンを押す。チャージを促す文字列が表示されたところで、俺の切符を入れてみる。寿命の譲渡――そんな考えが本当だとして、迷うことはなかった。俺の命を削ったとしても、舞依が今死ぬことを回避したい、それだけだ。
液晶に表示される、新たな文字列。
『期限の返却はできません』
……それがどういうことか、理解できなかった。受け入れることを、脳が拒否した。券売機から無情に出てきた切符二枚の有効期限は変わっていない。俺の切符に目をこらすと、今の印字の下にかすれた別の日付が見える。それは、俺が事故に遭ったあの日を示す。
あの日。舞依は一人でこの駅を見つけた。そこで――何をした?
俺が、今こうして生きているのは。俺の身に起こった奇跡が、奇跡なんかじゃないとしたら。
あの日舞依は、自分の切符の有効期限を、あの日死ぬはずだった俺の切符にチャージしたんだ。それを舞依に返すことはできない。券売機の表示はそう告げている。
「ふざけんなよ……!」
勝手に助けて、勝手に死ぬなんて。覚えた怒りは舞依に向けたものじゃない。あれだけ舞依が誰かのために傷つくのが嫌だったのに、俺の存在が舞依の命の上に立っているなんて情けなくて仕方なかった。
やり場のない気持ちを握りしめて壁を叩く。その衝撃で、券売機の上から何かが落ちた。
『智紀へ』
そう書かれた封筒。中には一枚の便箋がある。
『手紙、気づいちゃったかな? 読んでほしいような、読んでほしくないような、そんな気持ちで書きました。
智紀のことだから、券売機をいじくり回して、何かを知っちゃってるかもしれないね。そうだとしても、気にしないで。私は後悔なんかしてないよ!
智紀、今までありがとう。
実は私、学校に行ってなかったの。電車の話しちゃって、でも友達はみんな電車が見えなくて。ちょっと不気味がられたりして。少し、しんどくなっちゃったんだ。
私、今どきスマホも持ってないし、友達とも全然会わなくなって、正直さびしかったんだよね。だから、智紀が私の話を聞いてくれて、いつも一緒にいてくれて、本当にうれしかったんだ。
だから、ありがとう。
舞依より』
シャーペンで書かれた手紙は、最後の行になにかを消した跡がある。消された言葉を、直接聞きたかった。同じ言葉を、俺だって伝えたかったんだ。俺は伝えなきゃいけなかったんだ。
自分が情けなくて、どうしようもなくて、無力さにうちひしがれて、その場にしゃがみこんだとき。にゃあ、と小さな鳴き声がした。
トラ猫。駅の外を、しっぽをぴんと立てて歩いている。何も知らずに、散歩かよ。おまえ、舞依にかわいがってもらってたんだろ。舞依は、トラ猫の住みかである倉庫に毛布なんかを用意してやってた。これからは俺が代わりに、なんて考えたくもない想像をしたときに、妙案が浮かぶ。
――すべては、受け入れてしまった方が楽。それでも、受け入れたくないこともある。苦労してでも、はねのけた方がいいこともある。俺の思いついた、たったひとつの悪あがき。うまくいくかはわからない。それでも、まだ自分にできることがあるのなら。舞依のためなら、やってやる。
◆
俺は細工を終え、駅に戻る。空は澄んで晴れ渡り、あちこちに積もる雪は宝石のようにきらめいている。
舞依が来た。声をかけても反応しない。魂は、魂であって本人じゃない。悪あがきが失敗したら、これが最後の別れになってしまう。どこからともなく電車が現れるのを見届けて、俺は駅を飛び出して走る。ちゃんと見送れなくてごめん。でも、行かせるつもりもないんだ。
心臓が高鳴る。チャンスはたった一度だけ。電車が近づく音が聞こえる。今だ――俺はマッチを擦り、それを打上筒に放って、思わず祈る。神なんて信じてないくせに、こんなときばかりは頼ってしまう。
打上筒から飛び出した花火は雪山に向かって炸裂し、その衝撃は雪の中へ広く伝わっていく。積もった雪が、呆気なく崩壊する。
――雪崩が起き、電車をのみこんだ。
車体は倒れ、雪の中で停止する。……成功だ。成功した。成功したんだ!
しかしそれを噛みしめる間もなく、視界が白一色に覆われる。こうなることは、大体予想がついていた。
俺は電車と共に、雪崩に巻き込まれていった。
◆
……誰かが呼ぶ声。薄く開いた瞼の間に、橙と青の混ざった空が見える。天国みたいな空。俺は何をしたんだっけ。朦朧とした意識が、一番聞きたかった声によって一気に現実に引き戻される。
「智紀!」
「……舞依」
子どもみたいに泣く舞依の頬に触れて涙を拭う。体温を感じて、あたたかい。生きてる。舞依は、生きている。
「何やってんの……」
「ごめん。電車、吹っ飛ばした」
「なんでこんな、無茶したの」
「……俺の寿命、あと70年だって。誰かさんのおかげで。だから俺は今日死なないって決まってた」
「だからって、なんで、ここまで……智紀らしくないじゃん」
「たまにはいいだろ。舞依に生きてほしかったんだよ」
作成は成功だった。電車に物理的な影響を及ぼせることは眼鏡の犠牲で把握していた。トラ猫がすり抜けたことを考えると、電車を認識できているかの違いだろう。ただ、あの電車がなくなったことで、今後あれに乗るはずだった魂がどこへ行くのか、どうなってしまうのかはわからない。それでも、舞依も俺も生きている。今はそれだけでよかった。
「……ありがとう、智紀」
「お互い様だろ。ありがとな、舞依」
「これからどうなっちゃうのかな」
「さあ。……まあ生きていれば、受け入れることも、あがくこともできるんだ。だからきっと、大丈夫」
舞依は泣きながら笑う。
「智紀が言うなら、そんな気がする」
俺は半分雪に埋もれた格好のつかない状態で、思わず舞依を抱きしめた。伝えるのなら今だと思った。
消された手紙の最後の一行、きっと同じと信じている、俺たちの感情を。