圧倒的正しさの前では泣けない

私は泣かなければならない。

悲しいときも、悲しくないときも。
悔しいときも、悔しくないときも。
嬉しいときも、嬉しくないときも。
寂しいときも、寂しくないときも。
虚しいときも、虚しくないときも。

それが私の存在意義だから。

泣かなければ、私の存在価値がなくなってしまうから。

  *
 梱包を解かれた私が見たのは、目の前に立つ人間(ヒト)だった。男と女が一人ずつ。工場で私を組み立てていた人間たちよりも少し年上に見える。三十代後半といったところか。怯えと嫌悪が混じったまなざしをこちらに向けていた。
 二人の奥にはテーブルと椅子が見えた。テーブルは私から見て横長に置かれている。椅子は私と反対側の辺に二つ、右側に一つだ。
 私から目を逸らしながら、女が口を開いた。
「まさか、こんなことになるとはね」
「おい」
 肩を上げて息を吸い込んだ女を、男が咎める。女は男に構わず、思い切り息を吐き出した。
「止めないで。今日は無理。我慢できない。家の中でため息くらい、見逃してよ」
「ユウタのための機械だけど、お前のヒステリーを抑えるのにもぴったりかもな」 
 男が私を指差し、揶揄するように口の端をつり上げた。
「冗談やめてよ!」
 女が金切り声を出す。心底嫌そうな表情を浮かべたあと、私をぎろりと睨んだ。
「君を不快にさせたなら謝るよ。でも、一旦冷静になった方がいい。冗談抜きで。今後の話し合いを有意義にするためにもさ。ほら、ユウタが帰ってくるまであと二十分もない。俺もやるから」
 男が、私の「胸」の真ん中に付いている半球に手を当てた。半球がぼんやりと明るくなる。そこから伝わるものが電力になり、電力が冷気に変化した。「口」から入ってくる空気が、急激に冷やされる。「足」の方から、ぴちゃんと音がした。
 私の内部(からだ)で水ができはじめたのだ。
「ほらお前も」と促され、女が渋々私に手を当て、瞬時に離した。
 その間にも水はどんどん作られ、ついに「頭」まで到達する。私の「両目」から水がしたたり落ちた。
「どういう仕組みなのかしらね?」
 女が顔をしかめる。
「俺も詳しくは分からないが、ネガティブな時とポジティブな時とでは、手から出る成分が違うらしい。ネガティブな時に出る成分が電力に変化するみたいだ。人間のネガティブな感情を吸い取って、水蒸気を水にしているらしい」
「ふうん。じゃあ、『正しい時』に触っても、何も起こらないってこと?」
「理論上は」
 男が肩をすくめた。私の「目」からは、生成された水が流れ続けている。
「やっぱり、泣いてる姿って汚いし、みっともないよね。どうしてこんな精巧に作っちゃうんだろう。胸のスイッチみたいなところはむき出しだけど、服まで着てるし」
 女が後ずさりして、私から目を背けた。
「機械っぽく作ったら意味ないだろう。『正しくない』人間に、『自分は正しくないことをしているんだ』と自覚させるためのものなんだから」
 男が言う通り、私の姿はあえて人間に似せて作られている。
 ただし、首や手や足などあらゆる関節は動かないし、目、鼻、口、耳も単なる空洞にすぎない。私は水を流すだけの置物なのだった。
「でもどうしてユウタが……」
 女が両手で顔を覆った。ほどなくして、鼻水を啜る音が聞こえてきた。
「そう悲観的になるなよ。君まで犯罪者予備軍になってしまうぞ」
「冗談でもそんなこと言わないで!」
 女が弾かれたように顔を上げた。目と鼻から液体が滴り落ちていく。男が眉根を寄せた。
「泣くな。みっともない。もう一度やってみろ。さっきは時間が短くて、効果が表れなかったんじゃないか?」
 男が女の手を取り、私の「胸」に押し当てた。男の時よりも大きな電力を感じる。私の内部(からだ)がこぽこぽと音を立てた。
 女の表情が少しずつ柔らかくなっていった。
「でも良かったじゃないか。早くに分かって。これさえあれば、ユウタがこれ以上『正しくない』方向に進むことはない。……君だって、自分の子を犯罪者にしたくはないだろう?」
「もちろん。まだ遅くないはず。まだ小学生だし。今から矯正したら間に合うはず」
 女は、自分に言い聞かせるように「大丈夫」と繰り返した。
 私の「目」からは、とめどなく水が流れ、「足」に落ちていく。「足」で受け止めた水は、私の内部に取り込まれ、温められて、水素と酸素に戻るのだ。
「さあ、ユウタが帰ってくるまでの間に、どうやって説明するか話し合おう」
 男が手を叩き、右側の椅子に腰掛けた。
 左側からバタンというドアが閉まる音がした。続けて声が聞こえる。
「ただいま! あれ? おきゃくさん?」
 歩いてきた小さな人間(ヒト)が、私の前で立ち止まり、首を傾げた。おそらく、この子がユウタだろう。
「お客さんじゃないよ。まずは手を洗って、ランドセルを降ろしておいで。そしたら、こっちでおやつ食べよ?」
 女の声は先程までとは打って変わって、とろけるように優しい。ユウタが笑顔で「うんっ」と返事をして、小走りで右側に消えていった。そちら側にもドアがあるらしい。
 ドアが閉まる音がすると、女は肩を落として男を見やった。
「説明はあなたに任せるわ」
 男が神妙な面持ちでゆっくり頷いた。
「分かった。やってみるよ」

 パタパタという足音が近づいてくる。二人は瞬時に笑みを貼り付けた。
「今日のおやつはなに?」
 ユウタが女を見る。
「プリンとゼリー、どっちがいい? お母さん、張り切ってどっちも作っちゃった」
 ユウタは、ぱあっと顔を輝かせた。
「プリン! でもおたんじょう日でもないのになんで? あ、もしかして」
 ユウタが私を見る。
「この人のかんげい会?」
 女が憤怒の表情を浮かべた。
「歓迎なんておぞましい」
 低く呟くと、男が気遣わしげに女を見た。その視線に気づいた女が笑顔を取り繕う。
「冷蔵庫からプリン取ってくるね。待ってて」
 女が私の背後に消えていった。私の後ろにレーゾーコがあるのだろう。
 ユウタは私にぺこりと一礼すると、角を挟んで男の隣、つまり私と向き合う位置の椅子に、よじ登るようにして座った。
「あのな、ユウタ。話したいことがある」
 男が重い口を開いた。ユウタは男をきょとんとした顔で見返す。
「これについてだ」
 男がユウタを見つめたまま、私を指差した。ユウタは不思議そうな顔のまま頷いた。
「先生から聞いたんだけど、ユウタは教室でよく泣くらしいな。それだけじゃない。『ぼくなんかにはムリ』『つらい、いやだ』と、ネガティブな発言を繰り返しているとか」
 ユウタが何かを言いかけたが、男は遮るように声を大きくした。
「恥ずかしいと思わないのか」
 冷静さを保とうとはしているが、だんだんと語気が強くなっていた。
 ユウタは完全に口を閉じた。男から目を逸らす。
「何か言ってみろよ、おい。ユウタ!」
 男がテーブルに置いた拳を震わせた。
 トレーにプリンを三つ載せて戻ってきた女が、男の前にプリンが載った皿を置いた。
「落ち着いて」
 スプーンを手渡しながら女が言う。
「すまん」
 男はスプーンを受け取り、深呼吸した。ユウタに向き直る。
「ネガティブなのはいけないことだ、っていうのは知ってるよな?」
 諭すような口調だった。ユウタが強張った顔で首を縦に振った。
「じゃあなんで学校で泣いた? なんで人前で弱音を吐いた?」
 ユウタの目にみるみる涙が溜まっていくが、流れ出すことはなかった。懸命にこらえているようだった。
 女が無言でテーブルにプリンを置き、ユウタの右隣の椅子に座った。ユウタの前にプリンを押しやる。ユウタは小さな体をさらに小さくして俯いた。
「だって、苦しくて。がまんしたら、どうにかなっちゃいそうな気がしたから」
 ユウタの声は震えていた。
「そうか。でもそれは『異常者』がやることだよ。今度から気をつけなさい」
 男は言い終わると目を伏せ、プリンを一口食べた。ユウタも、涙目のまま、スプーンでプリンを崩し始めた。