大嫌いな姉が悪役令嬢で、私がヒロインで

 

「ねえねえ貴女、アンバー様とお知り合いなの?」

 授業が終わるとクラスメイトが声を掛けてきた。子爵家のご令嬢だったかしら。キラキラした目で私を見つめる。彼女の言葉に空気が波打ち、私に視線が向くのを感じる。
 この貴族社会において身分の影響は大きく、公爵家の令嬢であり第一王子の婚約者であるアンバー様の影響力は大きすぎるほどだ。

「いいえ、アンバー様のお知り合いと勘違いなさってたみたいなの」

 私がそう言うと、彼女は「そうなんだ」と私に興味をなくしたように見える。

「レオ様よ」

 窓の外を見ている女生徒たちの声が聞こえて、その次に聞こえる単語は予想がつく。

「アンバー様もいらっしゃるわ」
「本当に絵になるお二人ね」

 窓の外に皆の興味が移ったことを確認して、私は席を立った。いつもの場所にお昼ごはんを食べに行こう。


 悪役令嬢のアンバー様。

 でも、お姉ちゃんが悪役令嬢ならば、この物語の主人公は悪役令嬢なのでしょうね。多くの悪役令嬢転生物語のように。
 私はピンクブロンドの男爵令嬢。悪役令嬢が主人公の物語では、原作ヒロインは男に媚びたバカな女だ。
『ハナロマ』のヒロインを思い出す。素直で頑張り屋さんで、大好きなヒロイン。ミアをそんな女になんてするもんか。


 ・・

「ねえねえ、萌々香先輩の妹なの?」

 高校に上がってすぐのこと。自席で予習をしていると、クラスで一番目立つ女子が声をかけてきた。

「うん」
「私も萌々香先輩と同じテニス部なんだけど、萌々香先輩にお願いされたの」
「何を?」
「菜々香をお願いねって。クラスに馴染めてないんじゃないか心配してたよ」

 彼女の隣には彼女のグループの女子が並んでいる。皆クラスの中心の華やかな子たちだ。高校入学組の彼女たちは、私たちが姉妹なことを知らなかったようだ。

「ありがとう」

 私は曖昧に笑って見せた。

 それから彼女たちは何度か私に話しかけるようになり、そのたびに私が曖昧な態度を取るから不快に思ったんでしょうね。時折聞こえるように嫌味を投げつけられた。

「萌々香先輩とは全然違うわよね」
「話しかけてやってんのに何あの態度」
「私たちがせっかく時間を作ってるのに」
「まあ萌々香先輩は感謝してくれたからいっか」

 何のためにお姉ちゃんはそんな依頼をするのだろうか。七歳からずっとこの学校に通っていて情けをかけられずともそれなりに友人はいる。
 お姉ちゃんも彼女たちも、クラスの中心にいる事こそが幸せだと思っているんでしょうね。
 私は穏やかに過ごすことが出来ればいいだけなのに。



 ・・

 穏やかに過ごしたいという願いは叶えられない。
 ヒロイン、とはそういうものだから。

『ハナロマ』で攻略対象たちと出会うきっかけは「ファーストクラスに編入する」こと。そしてもう一つ避けては通れない場所がある。

 乙女ゲームの学園モノあるある、謎生徒会。
 ロマンス学園では、五つの魔法属性で一番能力が高い人が生徒会のメンバーに選ばれる。この作品の攻略対象たちは能力が優れた人ばかり。つまり生徒会メンバーの五人は皆攻略対象なのだ。レオ様は雷だったかしら?

 私は基本的な魔力は平凡だったけれど、他の誰も持っていない光属性だから自動的に光属性のトップとなり生徒会メンバーに選出されてしまった。なんとか逃れようとしたけど、こちらは無理だった。


「今日からよろしくね、ミア」

 そう微笑むのはメインヒーローである第一王子レオ様。遠くからしか見たことがなかったけれど、実物を間近で見るとあまりの美しさに同じ人間だとは思えない。金髪碧眼、誰もが羨む完璧な王子様だ。

「よろしくお願いします」
「よろしく頼む」
「……よろしく」
「君ってお花みたい、お花ちゃんよろしくね〜」

 レオ様の側近の長髪銀髪クールメガネさん、学業と騎士団を両立させている赤髪のがっしりした堅物さん、天使の顔をした生意気な天才魔法使いさん、遊び人のちヒロインにだけ本気になる色気を漂わせた上級生さん。いかにも攻略対象らしいメンバーだ。

 挨拶した五人はそれぞれ個性と魅力がある。
 知力、体力、魔力、魅力それぞれのパラメータをアップすることで、彼らとのエンドが迎えられる。レオ様は全ての能力を上げなくてはいけない攻略が難しいキャラだ。

 パラ上げが全てのこのゲーム、今は能力もなくファーストクラスでもない私に彼らの反応は薄い。
 でも別に私は彼らと恋愛する気などない。当たり障りなく過ごせたらそれでいい。

 レオ様とのベストエンドを迎えるために前世の私はパラ上げを頑張ったなあ。なんて考えながら生徒会室を出ると、そこにはアンバー様が待ち構えていた。
 

「ひ……」
 思わず声が出てしまった。
 行く先々に現れるアンバー様は最早ホラーだ。美しすぎる顔がかえって恐ろしい。

「こんにちは」
「……何の用でしょうか」
「あら嫌だ。私はレオ様を待っていただけよ、約束があるの」

 アンバー様は微笑んだ。レオ様は少しやるべき事が残っていると言っていた。すぐには出てきてくれないだろう。

「そうですか、では失礼します」
「ねえ菜々香。どうだった?実物のレオ様は」

 アンバー様の横を通り抜けようとしたけれど、彼女は優しく私の手を掴んだ。

「……素敵な方でしたよ」
「やっぱり好きになっちゃった?」
「いいえ」
「素直に言ってくれてもいいのに。そうだわ、他の方はどうだった?皆さんとっても素敵な方たちでしょう?私も時々生徒会室で過ごさせていただくのよ。――レオ様の婚約者ですから」
「そうですか」

 生徒会室は生徒会メンバーしか入れない特別な場所だったはずだけど。ああそうか。この物語は悪役令嬢転生物語だ。幼い頃から努力し続けたアンバー様はもう既にレオ様に溺愛されているのでしょうね。なんなら逆ハーコースに入っていて生徒会メンバーは皆アンバー様のことを愛しているかもしれない。
 悪役令嬢転生物語はそうだと決まっているから。突然現れたピンクブロンドの入る場所は、物語開始時点で既にないんだから。

 彼らがアンバー様の虜だとしても何ら問題はないけど、アンバー様と放課後に接点ができるのは嫌だなあ。そう思っていると、アンバー様は笑みを浮かべた。

「ミアには申し訳ないけれど、私たちには十年以上の絆があるのよ」
「心配しなくても大丈夫ですよ」
「もしかしてレオ様じゃなくて他の方を攻略するの?彼らの中にも許嫁がいらっしゃる方はいるのよ?誰か気になってる方はいる?」

 面倒な質問だ。
 アンバー様の瞳がきらめく。他の令嬢と結託して悪者にされても困る。でも何か答えないと前世の私がレオ様が最萌えだったせいでずっと疑われることになりそうだ。
 ええと、許嫁がいるのはどなただったかしら。どのルートにどんなライバルキャラがいたかしら……。

「アスカム様が気になるわ」

 仕方なく、誰とも本気にならない遊び人設定のスタンレー・アスカムの名前を挙げた。彼は侯爵家の跡継ぎで結婚しなくてはならないが、誰とも結婚したくない、自由になりたいと語っていて許嫁を作るのをのらりくらりとかわしていたはずだ。

「アスカム様?菜々香の好みとは外れてるわね」

 ええ、私の好みをよくご存知なことで。

「私はミアですから。好みも変わるでしょう」
「そうかしら?」

 アンバー様が私をじっと見たところで、生徒会室の扉が開いた。

「あれ?ガーネット嬢とお花ちゃん」

 話題の人物・アスカム様が出てきて、私たちを見つめている。その視線が私たちの手元に移動する。まだアンバー様に手を握られていた。

「二人は、友達だったの?」
「ええ」
 アンバー様は微笑んで、私の手をしっかりと握ってみせた。

「意外な組み合わせだね」
「実はミアは私の親戚にそっくりなの。親戚かと思って、思わず声をかけてしまって。それから仲良くしていただいてるのよ」
「へえ!」

 アンバー様の言葉にアスカム様はにこやかに微笑む。これで男爵令嬢を見下すこともなく、分け隔てなく優しいアンバー様の出来上がりだ。

「あ、そうだわ。次のお休みにお茶会の開催を考えているの。生徒会の皆様もお誘いする予定ですからアスカム様も是非いらしてね。もちろんミアも」
「お誘いありがとう。参加するよ」

 アスカム様が微笑みを向けるから、私もぎこちなく頷いた。


 ・・

 お姉ちゃんは誰からも人気者だったけど、特に男からモテにモテた。
 彼氏は途切れることがなかったし、いつも誰もが羨むような素敵な方と付き合っていた。

 お姉ちゃんは恋バナが大好きで、私の部屋にきては自分のことを話して私の話を聞きたがった。私たちは表面上は仲のいい姉妹で、よく一緒に過ごしていたから。

 お姉ちゃんは恋の話をしたがるけれど、私は初恋もまだでずっと聞き役だった。部活の憧れの先輩や、隣の席になったクラスで一番かっこいい子に少しときめきのようなものを感じたこともあったけど、恋になる前に彼らはお姉ちゃんの彼氏になった。

 私から奪った、とは思わない。彼らは皆が憧れる人たちだったから、私関係なく恋多きお姉ちゃんは好きになったのかもしれない。それに彼らがお姉ちゃんを好きになるのは当然のことに思えた。

 私はお姉ちゃんのことが大嫌いなはずなのに、誰よりもお姉ちゃんに憧れていて、誰よりもお姉ちゃんが好きだった。

 お姉ちゃんから離れたいはずなのに、お姉ちゃんに話しかけられると応えてしまう。お姉ちゃんは不思議な引力があって、嫌だと思っているのに話しかけられるとなぜか嬉しい。だから苦しい。

 お姉ちゃんは主人公で、ヒロインで、私はお姉ちゃんの添え物だということはずっとはっきりわかっていて諦めている。別に私は主人公になりたいわけでもないし、それでいいとさえ思っていた。


 就職でお姉ちゃんと同じ場所に属さなくなると、私は自然と添え物を卒業した。
『萌々香の妹』でなくただの『菜々香』でいられた。
 誰もお姉ちゃんを知らない場所で、私は初めてうまく息が吸えた気がした。仕事が忙しくてお姉ちゃんと話すこともほとんどなくなった。

 そして、私にも好きな人が出来た。
 職場の先輩で、特別華やかな人ではないけれど真面目で一緒にいると穏やかな気持ちになる。
 激しい盛り上がりはないけれど、これが恋というんだ。彼氏にならなくても、こっそり憧れて会社で話すだけで毎日が楽しくなった。
 私たちは同じチームで年齢も近いから、自然と仲良くなって仕事帰りに食事に行くことが増えた。

「家まで送るよ。危ないから」
 私は密かに期待していた、この帰り道で告白されるかもしれないと。

 だけど、所詮私の物語なんてものはなく。お姉ちゃんの物語のオマケなのだ、いつだって。

「あっ菜々香!今帰り?私もなの!――あれ?こちらの方は?」
 最寄り駅でお姉ちゃんにばったり会ってしまった。嫌な予感がする。

「職場の方よ。山田さん、この人は私の姉です」
「こんばんは」
「山田さん。姉もいますからもう大丈夫ですよ、今日はありがとうございました」
「いや、女性二人も危ないよ。もうこんな時間だし」
「菜々香、送ってもらっちゃお」

 いたずらっ子のように微笑むお姉ちゃんは誰が見ても魅力的だった。
 駅からの十分。私の期待していた十分はなくなって、代わりにコミュニケーションお化けのお姉ちゃんのステージになった。山田さんはこんなに笑う人だったのかと初めて知った。


 しばらくして山田さんは会社を辞めた。


「山田さん、うちに来ることになったのよ」

 今日は二人で飲まない?とお姉ちゃんが言った。お姉ちゃんはワインを出して、チーズやハムを並べて機嫌がいい。

「菜々香と会った日があったでしょ?あの後たまたま同業者の飲み会で彼に会ったのよ。うちの会社が元々の希望だったみたいで、紹介したらすんなり採用されたわ。彼、能力が高いからね」

「お姉ちゃんは山田さんの事を好きなの?」
「え、どうして?もしかして妬いてる?菜々香、山田さんのことが好きだった?」
「別に」
「私は彼氏がいるし、好みじゃないよ」

 そうでしょうね、お姉ちゃんの彼氏になる人はみんな華やかな人だから。

「ただ会社を紹介しただけよ」
「そうね」

 私の小さなオアシスは日常から消えた。
 わざとじゃない、全部わざとじゃないはずだ。ただ、私は少しばかり運が悪くて。お姉ちゃんの物語のオマケなだけだ。
 

 アンバー様のお茶会は数日後に開かれた。
 学園の温室は、自由にお茶会を開いていいことになっていて上位貴族たちはここで休日を過ごすことが多い。お茶会という名の小さなパーティーで、ここで交流を深めたり、どれだけ素敵なパーティーを開くことが出来るか試される場でもある。
 『ハナロマ』の中でも攻略対象たちの好感度をアップするためにお茶会コマンドを何度も選択したっけ。

「ミア来てくれたのね。あら、アスカム様と一緒にいらしたの?」
「ええ。一緒に誘われましたので」

 温室のお茶会に参加するのは初めてだ。どう参加していいかもわからなかったところをアスカム様が教えてくれた。

「ガーネット嬢、お誘いありがとう」

 アスカム様が笑顔を作り、私も真似して微笑んでみる。周りからヒソヒソ声が聞こえる。

「ねえ。またあのドレスよ」
「ふふ、失礼よ。あのドレスしか持っていないのよ」
「アスカム様といらっしゃるだなんて」
「アスカム様は誰にでもお優しいのよ、セカンドクラスの生徒にも話しかけているのをよく見るわ」
「それにしたってあのドレス……」

 周りの声にアンバー様は眉をひそめた。

「ミア、ドレスの相談をしてって言ったのに。いえ、気がまわらなかった私が悪いわね……次回参加してくれる時はプレゼントするわ」
「ありがとうございます」

 私は適当に返して、隅っこにあるソファに腰掛けた。どうせ誰にも話しかけられないし目立たないようにしていよう。アスカム様も隣に座った。

「もしよければ僕がドレスを贈ろうか?」
「いいんです、私はこのドレスが気に入っていますから」
「そう?」

 私は目の前に置かれているクッキーをお皿に取った。先日とっても美味しかったクッキーだ。クッキー以外にも色とりどりのスイーツが並んでいる。アンバー様に誘われて唯一嬉しい点だ。

「アスカム様、一緒に来てくださってありがとうございます。私はここにいますからお気遣いなくお過ごしください」
「お花ちゃんはどうするの?」
「私はこういった場は苦手ですから。でもせっかくなので、この場にあるスイーツをコンプリートしてみようと思っています」
「いいね、そっちのほうが楽しそうだ。僕にも手伝わせてくれる?」
「ええ、でも私は全種類食べてみたいので一つしかないものはご遠慮くださいね」

 アスカム様は「わかったよ」と言って楽しそうに笑った。やっぱりクッキーはとても美味しい。


 ・・

「今日は来てくれてありがとう」

 お腹いっぱいになった私たちの席にアンバー様がやってきた。淡いピンクのドレスがよく似合う。今日もとびきり彼女は美しかった。

「僕も今日は本当に楽しかったよ、こんなにケーキをたくさん食べたのは初めてかも。お花ちゃんはすごいね」
「甘いものが大好きなんです。アンバー様、お誘いありがとうございました」
「そ、そう。お誘いしてよかったわ。次もたくさん用意するから是非来てちょうだいね」
「もちろんだよ」

 アンバー様ともお話が出来たし、もう十分でしょう。私は立ち上がった。

「それじゃあそろそろ私はお暇します。本当にありがとうございました」

 キラキラのスイーツは数え切れないほどあって、残念ながらコンプリートは断念した。でもまた誘ってもらえるなら次回の楽しみにしておこう。どうせ誰かと交流することもない。

「お花ちゃんが帰るなら僕も帰ろうかな。ガーネット嬢、今日はありがとう」
 隣のアスカム様も立ち上がった。

「あら、もう帰ってしまわれるの?ご令嬢たちがアスカム様とお話したがっていたんですのよ」
「アスカム様、私は大丈夫ですから」
「えぇ、僕ももう帰るよ」

 とアスカム様は言うけれど、私たちの会話を聞いていたらしいご令嬢たちが何人も押し寄せた。

「私たちアスカム様を待っていましたのよ」
「お話していきましょうよ」

 彼の両腕には美しいご令嬢たち。アスカム様は困った顔をしているけれど、彼なら女性を無下にはできないはずだ。

「では私は失礼します」
 私が軽く礼をすると、アスカム様も諦めたようにもう一度ソファに座った。

「私はミアを見送ってくるわ」
 アンバー様が代わりに立ち上がり、皆に笑顔を向けた。「皆様ごゆっくり」

 温室の出口まで到着してもう一度お礼を言うと
「本当にアスカム様にしたのね」とアンバー様は小さな声で言った。

 聞こえないふりをして温室の外に出るが、アンバー様もついてくる。うんざりしながら私は振り向いた。

「アンバー様とも他のご令嬢ともライバルにはなりたくないんです」
「それでアスカム様なのね。貴女が一番好きなのはレオ様だし、次に好きそうなのはゲイティス様だと思ったのに。ゲイティス様には婚約者がいるものね」

 アンバー様は残念そうな表情を浮かべた。ゲイティス様……ああ、クールメガネさん。確かに素敵な人で、菜々香が好きそうな相手だ。でも、私はミアだから。

「そうですね……」

 ミアが乙女ゲームのヒロインな限り、どうしても攻略対象たちと接点がある。
 でも私は彼らと恋をするつもりはない。

「お姉ちゃん」
「私のことをまたお姉ちゃんと呼んでくれるのね」

 嬉しそうに笑みを浮かべるアンバー様。いや、貴女はいつまでも萌々香で、菜々香の姉のままでいる。

「私は――ミアは穏やかに過ごしたいだけなんです」
「ええ」
「ですから、私のことはそっとしていただけませんか?貴女に話しかけられると目立つのです」
「でもミアも相当目立っているわよ?この世界のヒロインですもの。ファーストクラスにはならなくても、生徒会メンバーになったじゃない。今はまだただの男爵令嬢でも、これから貴女はヒロインになっていくでしょう?」

 ああ、そうか。それを恐れているのかこの人は。
 私のパラメータが上がって、それに比例して皆の好感度も上がっていくのを。ヒロインの運命力を。

()()()()()
 私はもう一度伝えることにした。菜々香として最後の言葉だ。

「私は生徒会の方と恋をするつもりはありません。お約束します。ですから安心なさってください。私は田舎の男爵令嬢のままでいいのですから」

 アンバー様の瞳が少し揺らぐ。そして端がちらりと燃えるのを感じる。

「安心……ね。生徒会で一緒に過ごせばわからないわ。貴女にそのつもりはなくとも」

 話が通じない。いつもどこでも主人公だったお姉ちゃんの弱いところを初めて見た。
 あんなにいつも自信満々だったのに。アンバー様はすべてを手に入れている存在なのにどうしてそこまで怯えているんだろう。
 「悪役令嬢」と「ヒロイン」の運命を信じているのかしら。

「『ハナロマ』はハーレムエンドもありませんし、股がけプレイもできませんから。レオ様ルートは選びません」
「本当にアスカム様にするの?」
「……そうですね……」

 私は濁しつつ頷いた。なんとか納得させないと伝わらない。
 菜々香の最後の言葉が伝わってるといいのだけど。私の願いは「そっとしておいてほしい」だけなのだから。

「それでは本当に失礼します」

 アンバー様はまだ何か言いたげだったが、私はアスカム様のルートを選んだという嘘をついた気まずさもあり足早にその場を去った。

 私はアスカム様を攻略するつもりもない。
 私が目指すのはノーマルエンドだけなのだから。

 パーティーは思っていた以上に時間がかかった。疲れた、早く癒やされたい。

 私は温室から庭園を抜けて、小さな小屋に向かった。
 

「ライリー!」
「ん、お疲れ」
「はあ、本当に疲れた。私にはああいう場所は似合わないわ」

 庭園の隅にある小さな小屋で、干し草に寝転んで私を迎えてくれたのはライリー。ふわふわとした栗毛に草が少しついている。私の領地に住んでいた大切な幼馴染だ。
 ワンルームくらいの大きさで、庭園の手入れに必要なものが無造作に置いてあるだけ。ライリーがどこからか干し草をこっそり運んできてベッドにした。ここはライリーの秘密基地だ。

 ライリーは『ハナロマ』の隠し攻略キャラクター……というか、パラメータが足りなくてベストエンドに行けない時のノーマルエンド用のキャラ。メイン攻略対象と違ってたくさんスチルやイベントがあるわけでもなく、ノーマルエンドにちょっとした恋愛匂わせがある程度だ。

 私は、誰のことも攻略せずにノーマルエンドを迎えたい。

 だって、私はライリーのことがずっと好きなのだから。


「ああそうだ、ドレスだった。寝転がれないや。もう満腹で苦しいから寝転びたいよ」
「ずっと食ってたの?」
「うん、だって美味しいんだもん。……ご飯が美味しいならライリーも行きたかった?」
「いやいい。めんどい」

 本当にめんどくさそうにライリーは答えた。

 ライリーは平民だけど、あまりの魔力の高さに特例でこの学園の入学許可がおりた。本気を出せば生徒会メンバーに入れる気さえするのに、彼はあまりにもやる気がない。
 授業に顔を出さないことも多々あっていつもここで寝転んでいる。そもそも本当は入学許可証が届いてもどうでもよさそうだったところを、私がライリーと一緒がいいと駄々をこねたから来てくれた。

「ほら、これで寝転がれるだろ」
 ライリーはいつのまにか布団まで持ち込んでいたらしい。干し草の上に布団を敷いて私に寝転べと促す。

「これどうしたの?」
「こないだミアの制服がちょっと汚れたから」
「……それで持ってきてくれたの?ありがとう」

 ライリーはぶっきらぼうで思ったことをなんでも口に出すから誤解をされることもあるけれど、本当はすごく優しい。
 さり気なくフォローしてくれるたびに小さな嬉しいが降り積もって、積もった嬉しさに気づいた時にはもう大好きになっていた。

「でもドレスしわになっちゃうからやめとくわ、ごめんね」
「脱げば?」
「脱ぐわけないでしょ」
「裸なんか何回も見てるけど」
「何歳の時の話よ」

 私がふざけて睨むとライリーは笑ってくれるから、私も嬉しくなって笑った。

 本当はライリーと学園生活を楽しく過ごせればそれでよかったのに、ヒロインだと言われて悪役令嬢に絡まれて。本当にうんざりしている。

 ライリーだっていつかの山田さんのように、私の毎日から消えてしまうかもしれない。
 そう思うと、こうしていつも一日のほとんどをここで過ごしているライリーに安心してしまう。ライリーと一緒にいるところをアンバー様にあまり見られないで済むから。

 ライリーを隠して私だけのものにしたくなった、というのは乙女ゲームのヒロインにあるまじき考え方かもしれないけれど。


 ・・


 私の願いは聞き入れられず。またしてもアンバー様にお茶会に誘われた。

「また誘われたわ」
「断れないの?」

 ライリーと二人、干し草に転がって私は招待状を眺めていた。
 せっかくの休日。ライリーとのんびり過ごせると思っていたのに憂鬱な気分だ。

「正式に招待状が来てしまったから。公爵家のお誘いを断れないわ」
「貴族って面倒だな」
「本当に。私がこんなことに巻き込まれるなんて予想もしなかった」

 ため息をつく私を見て、ライリーは思い出したように言った。

「またあの水色のドレスを着てくの?」
「うん、あれしか持っていないから」
「バカにされるんだろ?」
「別にいいわ、私が価値をわかっていればいいの」

 ライリーはちょっと黙ってから起き上がり、干し草からおりると「行くぞ」と言った。

「どこに?」
「ドレス買いに」
「えっ?」
「あのドレスは俺も好きだよ。でも貴族様ってのは何着も持ってるもんなんだろ?」
「それはそうだけど……」

 私の戸惑いを無視して、ライリーが私を引っ張り上げた。

「お金は?」
「金ならある」
「なんで」
「働いてるから」
「時々どこかに出かけてると思ったら働いてたの!?」
「うん」

 ライリーは涼しい顔で、私の手を繋いだまま小屋から出た。そしてずんずんと歩いていく。学園から出るつもりだ。

「……ねえ仕事って、危ないことに手出してない?」
「ない」
「私に言えること?」
「うん。魔法が必要な人をちょっと手伝ってるだけ」
「それならいいけど」
「学園にも許可もらってるから」

『ハナロマ』でライリーにそんな設定があった記憶はない。でも学園に許可をもらっているなら心配になることはないのだろう。

 それよりもドレスショップに歩いていくライリーについていくことに必死だった。

 ・・


 学園の近くにはドレスショップがある。
 上位貴族は皆お抱えの職人がいてドレスを何着も作るようだけど、セカンドクラスの女生徒はここでドレスを調達することが多いようだ。
 色とりどりのドレスがあって目移りする。既製品ではあるが、ここに置いてあるものもどれも高価でとてもハリディ家が買えるものではない。

 たくさんのドレスに囲まれて困っていると、ドレスショップの店員は色々と紹介してくれる。

「流行りのドレスはこちらです、ああそれから、パートナーの瞳の色のドレスを着るのも流行っているのでこちらのドレスはどうですか?」

 そして、ライリーの瞳の色であるブルーのドレスも持ってきてくれた。パートナーだなんて、と少しドキドキしていると

「うん、これがミアに似合う」

 ライリーは店員のおすすめをスルーして、迷うことなく近くに飾ってあるミントグリーンのドレスを指した。

「店員さんがブルーをおすすめしてくれたけど?」
「え、でもこれがミアに似合うから」
「瞳の色のドレスが流行っているみたいよ」
「ふうん」

 興味なさげにライリーは、ミントグリーンのドレスに目を向ける。
 それは爽やかなドレスだった。ビスチェには細かな花の刺繍が施されていて、柔らかいシフォン生地がふわりと広がっている。初夏の日差しのような明るいドレスだ。

 ライリーは私の返事を待たずに「これを試着で」と店員に伝えると、あっという間にドレス姿になっていた。

「あら、本当によくお似合いですよ」

 店員がニコニコと笑顔を作る。鏡に映る自分はいつもと別人みたい……!自分でもわかる、私に本当によく似合っている。ボリュームのある胸元が私の貧相な胸をカバーしているし、柔らかい色とピンクブロンドの相性は抜群だった。

「お客様は色白で可愛いお顔立ちですから、こういうドレスがとても似合いますね」

 店員の言葉にライリーは満足気に頷いている。こんなに私にぴったりなドレスを、着飾ることにまるで興味がなさそうなライリーが選んでくれたことが嬉しい。

「じゃあこれでお願いします」
「待ってライリー、これ結構なお値段するけど」
「俺稼いでるから」

 一体なんの仕事をしているんだろう……!?
 そんな疑問が浮かんでいる間に、ライリーはさっさとお会計を済ませてしまった。後日届けてくれるということで私たちは手ぶらで元来た道を帰る。

「ライリー本当にありがとう。とっても素敵なドレスで嬉しい」
「……うん」
「大切にするね」

 隣を歩くライリーを見ると「ん」と一言だけ発して、ライリーはそっぽを向いた。耳が赤い、照れているんだわ。
 嬉しいをたくさんくれて、私の心をこんなに温かくするのはライリーだけだ。
 

 アンバー様のお茶会は、アスカム様と一緒に出掛けた。
 別に意図して二人だったわけではない。生徒会の集まりの後のお茶会だったから。
 寡黙なアッシャー様と天才魔法使いのエズラ様はお茶会は欠席されたし、レオ様とクールメガネのゲイティス様は用があり遅れたから。

 アスカム様と温室に入ると、私たちに目線が集まるのを感じる。
 どうせ陰口を叩かれるのだし、私は気にしないようにして「今日こそコンプリートしましょうね」と言って、前回と同じく隅っこのソファに座った。

「ねえあの子のドレス……」
「アスカム様が贈ったのかしら」
「アスカム様のセンスって本当に素敵」

 話し声が聞こえてくる。どうやら彼女たちのドレス審査に合格したようだ!
 アスカム様が選んだものだと勘違いしているからで、平民であるライリーが贈ってくれたドレスとわかれば手のひら返しをするかもしれないけれど。

 でもライリーが褒められた気がして悪い気はしない。それに本当にこのドレスは素敵だ。

 心の中でニンマリしていると
「本当にそのドレス素敵だね、お花ちゃんによく似合ってる」とアスカム様も微笑んでくれた。

「大切な人に贈ってもらったんです」
「彼から?」
「まだ彼ではないですけど」
「好きなんだね」
「はい」

 ライリーのことを思い出すと顔が赤くなってしまう。
 そんな私をアスカム様は「初々しいなあ」とニコニコ見守ってくれるから、ますます恥ずかしくなって私はクッキーを口に放り込んだ。

『ハナロマ』は一途プレイしか出来ない完全個別ルートのゲームだ。一人のルートに入ると、他の攻略対象は良き相談相手になってくれたりあまり登場しなくなる。アスカム様はどのルートでも応援してくれる頼れるお兄さんだったなあ。


「お二人さん、私たちもここに座っていいかな?」
 振り向くとそこにはレオ様とゲイティス様がいた。用事が終わったのだろう。レオ様の微笑みは本当に同じ人間だと思えないほど美しい。

「アンバーは忙しそうだし」
 レオ様が温室の中心を見ると、アンバー様は女生徒に囲まれて話が盛り上がっているようだ。まだこちらには気づいていない。

「今お花ちゃんとスイーツコンプリートチャレンジをしているんだよ」
「この量を、ですか」
 ゲイティス様が眉をひそめるが、レオ様は楽しそうな笑顔を見せる。

「たくさん食べるのはいいことだからね、私も見物させてもらおう」
「殿下はあまり召し上がらないでくださいね」
「お花ちゃん聞いて。レオってこう見えて甘いもの大好きでさ。止めなかったらいつまででも食べているんだよ」
「スタンレー、言わなくていい」

 レオ様は咳払いをしながら顔が赤い。いつも凛としているレオ様がこうして照れている姿は可愛らしい。

「ふふ」

 思わず笑みがこぼれる。
 彼らと恋をするつもりは全くないけど『ハナロマ』をプレイしていたから親近感はある。なんだろう、親の気分かしら?
 三人が話すのを聞くのは楽しくて、つい顔が緩んでしまう。

 私は浮かれて気づいていなかった。アンバー様がこちらをじっと見ていることと、女生徒たちが私を見る目が少し変わっていることを。


 ・・


 翌日のお昼。ライリーと食事をしようと小屋の方に向かっているとファーストクラスの女生徒に声を掛けられた。

「ハリディさん、今からお昼かしら?」

 振り返るとそこには五人程の女生徒がいる。いつか私の水色のドレスをバカにした人たちだ。何か怒られることでもしたのだろうかと身構えていると

「よかったら私たちとランチをしない?」
 と中心にいる女生徒が言った。

 意外な言葉に心底驚いていると「ハリディさんと仲良くしたいのよ」と他の女生徒も続いた。

「ええと、今日は先約があるからごめんなさい」

 アンバー様の差し金かしら。
 断ったら前世のように嫌味をぶつけられるかと不安がよぎったが、彼女たちは嫌な顔をせずに微笑んで「ハリディさんは人気者ですからね」「仕方ないわね」と言うのだ。

「はぁ……」
 戸惑っていると「明日はどうかしら?」だの「今度は私の開催するお茶会にいらして」だの、何やら本当に私と仲良くしようとしているらしい。

 やんわりと断っても「またお声がけさせてもらうわね」と微笑まれてしまうのだから驚きだ。

「ところでハリディさんって、アスカム様とお付き合いされているのかしら?」
「えっ、アスカム様と?」
「ええ。先日のドレス、とても素敵だったわ。あれはアスカム様から贈られたんでしょう」
「えっ?」
「だって、ねえ」
「ええ。だってアスカム様の瞳のドレスだったから」
「アスカム様にそんな独占欲があるとは思わなかったわ」

 何か勘違いをされているようだ。そういえばアスカム様の瞳はグリーンだったか。そんなこと全く気にしていなかった。
 だけどせっかくライリーが贈ってくれたものだ。そんな風に思われたくない。

「違うわ、あれは……」と否定するけれど「照れなくていいのよ」と微笑まれてしまった。

「アンバー様が貴女に声を掛けたとき、はじめは何事かと思ったけど」
「さすがアンバー様よね」
「貴女、生徒会に入るんだもの」
「きっと次の学期からはファーストクラスになるわ」

 私のドレスをあざ笑っていた人たちとは思えない。彼女たちは「またご一緒しましょうね」と去っていったが、私はしばらくぽかんと突っ立っていた。



 ・・


「そりゃそうなるだろ」
 私が買ってきたパンを食べながらライリーは言った。

「公爵家のアンバー様が目をかけていて、生徒会メンバーに選出されて、ファーストクラスのお茶会に参加して、そこで生徒会メンバーと親しくしてたんだろ。そりゃ仲良くしようと思うだろ」
「あんなに私をバカにしていたのに?」
「心の中じゃ今も見下してるかもしれないけどな。まあ客観的に見たら、今のミアとは仲良くしとくべきと思ったんじゃない?」
「それもそうか……」

 ミアと仲良くしたいわけじゃないのだ、上位貴族たちと繋がりが深くなったミアと仲良くしたいだけだ。

「なんだか嬉しくはないわね」
「まあな。めんどいことに巻き込まれてんな」
「うん。それに……」
「それに?」
「せっかくライリーが贈ってくれたドレスなのに」
「あー……まあ言いたいやつには言わせておけば?」

 私の心を一番重くするのはそれなのだけど、ライリーはどうでもよさそうにパンを齧っている。

「誰が何と言おうと俺が贈ったドレスなんだから」
「でも、やっぱり瞳の色は特別みたいよ」
「どうしても欲しかったら次はブルー買うけど?」
「ううん!あのドレスはとっても気に入ってるの!」
「ふうん、じゃあいいじゃん」

 ライリーは本当に気にしていなさそうなので、逆に少し不安にもなる。

「嫉妬とかは、ない?」
「嫉妬?」
 ライリーは少し考えてから「ないな」とあっさり答えた。
 こんなことを言うだなんて、めんどくさい女だと思われたかしら。でも少し残念な気持ちになってしまう。ライリーは私のことを幼なじみとしか思っていないのかも、なんて気持ちがしぼんでしまう。

「まあ本当にアスカムってやつが贈ったの着てたら嫌だけど。俺が贈ったの着てるってだけでいいだろ?優越感ってやつ」

 ライリーは少し笑いながらサラリと言った。
 今、なんて言った?一瞬で顔に熱が集まるのを感じる。私の顔を覗き込んで、ライリーはドレスを選んだときのように満足気な顔をしている。

「またドレスが必要になったら俺が買うから。他のやつから贈ってもらうなよ」
「うん。絶対ライリー以外からはもらわない」
「それならいいよ」

 もうライリーの顔を確認するのは恥ずかしくて、私もパンを齧った。
 

 憧れの生徒会といっても、私の主な仕事は雑務だ。
 行事がある時なんかは生徒会主導で色々行われて目立つけれど、普段華やかなことはほとんどない。『ハナロマ』での生徒会活動は行事がある時に恋愛イベントが起きたけど、それ以外はコマンドで選ぶだけのもので実体は謎だった。現実は地味な作業を繰り返すだけだ。

 ほとんどをレオ様とゲイティス様が担当しているので、私には書記と会計のような仕事が回される。
 今日はアスカム様と入学パーティーの費用の会計報告書類を作っている。

 アスカム様はゲームの中では、いつも女生徒たちと遊んでいる印象が強かったけれどわりと真面目で現実的な方だ。
「本当は面倒だけど生徒会活動は今後の地位にも関係するからね」なんて言っている。
 卒業後は領地に帰ってライリーと過ごせればいい私にとって生徒会はタダ働きなだけだ。でも週に数回のこの活動によってハリディ家が少しでも認められたらいいか、の気持ちでやっている。


「みなさん、こんにちは」

 レオ様と一緒にアンバー様が現れた。後ろにはアンバー様の付き人がいてスイーツや紅茶が載ったワゴンを押している。

「アンバー、ありがとう」
 レオ様が優しく微笑みかける。アンバー様も微笑みを返すとレオ様の机の近くのソファに腰掛けた。
 アンバー様の付き人が空いている机にスイーツを並べ始める。

 最近、お茶会に誘われなくなったけれど、アンバー様はこうして生徒会によく差し入れをくれる。早く業務を終わらせてあのクッキーを食べたいと思っていると

「……最近あの人来るの多くない?」

 手伝ってくれず、寝ているとばかり思っていたエズラ様が言った。
 そう言われてみるとそうだ。ほとんど毎回のようにアンバー様は集まりに顔を出す。
 ちらりとアンバー様を見ると、レオ様と何か話しながら優雅に紅茶を飲んでいる。


「最近どうしたんだろうね」
 アスカム様も小さな声で首を傾げた。

「今までも生徒会室にいらしてたんじゃないんですか?」
「レオと約束がある前には寄ったりもしたけど、こんな風に滞在することはなかったかなあ」
「僕甘い匂い嫌いなんだよね、帰る」

 エズラ様は不機嫌な顔を隠さずに立ち上がり、生徒会室を出ていてしまった。

「全くエズラはマイペースだなあ。まああいつは何にも仕事してないけどね」
 苦笑しながらアスカム様がエズラ様が去ったドアを見る。

「さっさと終わらせて美味しいもの食べましょう!」
 私は明るい声を出して、書類に向かった。



 ・・


 アンバー様と過ごす時間は自然と増えた。

 生徒会室にはよくいらっしゃるし、何かと理由をつけて私とランチやお茶をしたがった。通りすがりに出会った時も話しかけられる。――いや、私の姿を探しているのかもしれない。広い学園内で、毎日何度も会うのは偶然にしてはおかしい。

 アンバー様に見張られているようで息が詰まる。
 ライリーとも会う時間が減ってしまった。アンバー様にライリーの存在を知られたくなくて、小屋に行くのが憚られるから。

 そっとしておいて欲しいと言ったのに。
 どうして放っておいてくれないのだろうか。
 そんなに四六時中見張らなくても、私はレオ様を盗るつもりなんて全くない。


 ・・



「ガーネット嬢の出入り禁止を殿下にお願いしましょう」

 それから一月ほど経った頃、ゲイティス様が言った。
 今日はレオ様がいない。アンバー様とご両親との食事会なのだそうだ。

「賛成〜。今日は息ができるよ」
 エズラ様がほっとしたように息を吐いた。

 あれからも生徒会で集まるたびにアンバー様は訪れた。いつも素敵な差し入れをしてくれるし特別に私たちの邪魔をしているわけではないけれど、元々は「生徒会メンバー以外は立ち入り禁止」なのだ。
 そこに毎回豪華なお茶の用意をして、アンバー様が入室するのだから他の生徒から疑問の声が上がっていたそうだ。そりゃそうだ。生徒会はただでさえ目立つ。こっちは真面目に仕事をしているのに、優雅にお茶会をしていると思われるのは困る。

 エズラ様は前々から甘い匂いが気持ち悪いとゲイティス様に不快さを訴えていて、ゲイティス様も生徒会の印象が悪くなることと、レオ様の仕事のスピードが下がることに悩んでいた。アンバー様がいるとレオ様はどうしても彼女に気を配るからだ。

「ガーネット嬢どうしたんだろうね」
 アスカム様も不思議そうな顔をしている。「今まで彼女と親しくなかったのに、なぜかここ最近はよく話しかけられるんだ」

 そういえば何度かアスカム様とアンバー様が一緒にいる姿を見た。私との恋の進捗が気になって探っているのかもしれない。

「アスカムに乗り換えようとしてるんじゃない?」
「それはないと思うけど」
「だとしても、彼女の立場上周りの目は気にしなくてはなりません。殿下の婚約者が特定の男性と親密にしているだなんて、殿下の評判に関わりますから」

 黙って話を聞いていたアッシャー様も「規則だからな」とだけ言った。
 私としても少しでもアンバー様の監視するような瞳から逃れられるならありがたい。特に反対意見も出さず、その場の意見に頷いた。


 ・・


 アンバー様がレオ様と出かけているのなら!と、生徒会の集まりの後。急いでライリーのいる小屋に向かう。
 小さな小屋をそっと開けると、ライリーが干し草の上で眠っている。
 起こすのも悪いし、隣に寝転んで寝顔を見つめる。久々にゆったりとした時間を過ごせる。

「んっ」

 うとうとして目を閉じた瞬間に、ライリーに鼻をつままれた。

「ライリー、起きてたの」
「うん」

 ライリーと会うのは三日ぶりだ。嬉しくて私はにやけるけど、ライリーはぶすっとしている。

「全然来なかった」
「ごめんね。アンバー様の目が気になって……」

 ライリーは起き上がると、私をじろりと見た。

「そもそもアンバー様はなんでそんなにミアに執着してるわけ?今まで会ったこともなかったんだろ?」
「うん」
「まあそれはいいとして……なんで俺と会ってること、その女にバレたくないの?」
「えっ」

 ライリーの瞳は全然笑っていない。怒りのようなものも見える。

「ミアは最近生徒会や公爵令嬢様といるから、俺といるのが恥ずかしい?」

 ライリーの冷たい言葉に、私の身体は凍りつく。
 最近の私はアンバー様を気にするばかりだった。ライリーと会ってることを知られたくない、が先行しすぎてしまって私は一番大切な人のことを考えられていなかったのか。

 でもどうしよう。アンバー様がライリーのことを狙うかもしれない、そんな話をしたって言い訳にしか聞こえない。公爵令嬢で王子の婚約者のアンバー様が平民のライリーを好きになるかもしれないと言ってもおかしなことを言うと笑われるだけだ。

 そうだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()
 普通に考えたら、アンバー様がライリーを好きになるわけがない。それなのにこうして怯えてしまっているのは、私に菜々香の感情が戻ってしまっているからだ!このままじゃダメだ。

 ……伝わるだろうか。でも隠したままでは伝わらない。私は意を決してライリーに話すことにした。

「ライリー、あのね。聞いてくれる……?」
 

 私はライリーに全てを話した。
 私とアンバー様は姉妹だったということ、初めてお茶をした時に前世を思い出したということ、この世界の元となる物語を知っていること、アンバー様の婚約者を奪うのではと疑われていること、萌々香と菜々香の関係までも。

 信じてもらえないかもしれないけど、ライリーに誤解されるのも嫌だ。つまらない嘘だと思われるかもしれない。でもライリーは信じてくれる、そんな気がした。

「なるほどね」

 ライリーは話を聞くと、もう一度干し草に寝っ転がった。先程までの怒りのようなものは消えて、眠そうな瞳に戻っている。

「なるほどって……信じてくれたの?」
「うんまあ」
「本当に?」

 あまりにもあっさりしているから逆に不安になる。

「辻褄が合うし、ミアがそんな嘘ついても仕方ないだろ」
「ライリー、ありがとう」

 ライリーが私を引っ張り、私も干し草の上に寝転ぶ形になる。目の前にはライリーの顔。

「でも心外だな。俺が流されると思ってたんだ?」

 鼻と鼻の距離がすごく近い。そんな距離でライリーはいたずらな顔をする。

「だってアンバー様ってこの国一番の美人なんだもん」
「へえ?まあ人には好みってものがあるからな」

 ライリーがまた私の鼻をつまんで笑った。

「私ね、アンバー様のこと、いつまで萌々香のつもりなのかしらと思ったけど。私も気持ちが菜々香に戻ってしまってたわ」

「うん。ミアはミアだよ。俺とずっと過ごしたミアだ」

 ライリーは力強く言ってくれた。同時に私の腕を握るライリーの力が強くなる。

 そう、私はミア。ミアとして十六年間生きてきた。
『ハナロマ』の『ミア』じゃない。『乙女ゲーム』の『ヒロイン』じゃない。

 私はミア・ハリディ。ピンクブロンドの田舎の貧乏男爵令嬢で、ライリーのことが好きな、ただのミアだ。


「それにしても。ミアが俺を閉じ込めたいなんて独占欲があったとはなあ〜」
「そ、そこまで言ってない」
「そう聞こえたけど?」

 乙女ゲームのヒロインにあるまじき考えは見透かされていたらしい。でもライリーは嫌そうな顔はしていない。むしろ楽しそうだ。

「俺のところに来なくなったこと、許してやらねーって思ってたけど、そういう理由ならいっか」

 ライリーは目を細めて私を見る。私たちは恋人じゃない、ただの幼なじみだ。でも、今日のライリーの言葉たちには期待してしまう。

「俺ももうちょい外に出るか。俺がいるって分かったらアンバー様も少しは執着が減るんじゃない?」

 ライリーは軽く言ってくれるから、私の心も少し軽くなる。
 何よりライリーと過ごす時間が増えることになるのも嬉しかった。



 ・・


 しかし、執着は減ることなくむしろ増した。

 アンバー様は変わらず、私と時間を過ごそうとした。ライリーは今抱えている仕事だけ片付けなくちゃとすぐには学園に来れなかったからアンバー様の安心要素にはならなかったようだ。

「ミア、今日は一緒にランチをしましょうよ」
 アンバー様は今日も私の前に現れて微笑んでいる。ここ数日毎日この調子だ。私が断るとアスカム様を誘っているらしい。どうしても私とレオ様の関係を把握しておきたいらしい。

「すみません、予定がありまして」
「でもお話したいことがあるの」
「ごめんなさい、本当に予定が……」

 昨日もなんとか断ったけれど、今日は本当に予定があった。光属性の調査としてこの国の魔法研究所の方と約束があった。

「お願いミア」

 アンバー様は私の腕を取った。以前もこんなことがあったけど、あの時はもっと優しかった。今日はキリキリと爪が食い込んで痛い。

「魔法研究所の方がいらっしゃって……」
「ねえどうして私は生徒会室に入れなくなったのかしら」
「えっ」

 どうやらゲイティス様は実行したらしい。いつも微笑みを絶やさないアンバー様は真顔で私を見下ろしていた。冷たい瞳だ。

「ミアがそうしたの?」
「ち、ちが――」
「私を追い出そうとしたんでしょう!」

 そのアンバー様の鋭い声は廊下に響いた。近くにいた生徒たちが振り返り、私たちのことをぎょっとした表情で見ている。アンバー様はそのことに気づいていないようだ。

「あっ、ガーネット嬢、お花ちゃん。何してるの〜?」

 私がなんと反応すればいいか迷っていると、柔らかい声が聞こえてきて、そこにはアスカム様がいた。
 アスカム様はやんわりとアンバー様の手を取って、私の腕から引き離した。

「お花ちゃん、魔法研究所の方がもう到着されたみたいだよ、急いで。ガーネット嬢、レオが一緒に食事をしようと言っていたよ?」
「ええ、ありがとう」

 彼がふんわりと話すから、アンバー様もようやく我に返ったように微笑んだ。

「じゃあね、お花ちゃん。ほら、ガーネット嬢こちらだよ」

 二人が去っていっても、周りの生徒たちは興味津々と言った様子で一人残された私を見ている。私はしばらくその場から動けなかった。



 ・・



 人の噂は早いもので。
 アンバー様が私に声を荒げた瞬間から、様々な噂が飛び交うようになった。
 直接聞いたものもあるし、アスカム様やライリーから聞いたものもある。

「アンバー様、最近変わってしまわれたわよね」
「アスカム様のことを好きになってしまったそうよ」
「ええっ、じゃあ最近ハリディさんにまとわりついてるのはそのせい?」
「そう。あの子、アスカム様の恋人でしょう?」
「奪おうとしていたみたいなのよ」
「殿下という婚約者がいらっしゃるのに!?」
「生徒会も出禁になったんだとか」
「でもアスカム様を諦められないようよ」
「それで今でもハリディさんに嫌がらせをしているのね」

 おおよその内容はこんな感じだ。
 最近のアンバー様の言動は一つ一つが疑問に思われるもので、すべてがまとまった結果ありもしない噂話が立つようになったのだ。


「困りましたね」

 生徒会室でいつものように業務をしているとゲイティス様が切り出した。

「ガーネット様の様子はどうですか?」
「そこまで変わらない。噂は気にしない振りをしているよ」
 疲れた表情でレオ様は答えた。

「言っておくけど、僕とガーネット嬢は誓ってそんな関係じゃないよ。ついでに言うとお花ちゃんともそんな関係じゃない」
「もちろん分かっているよ」
アスカム様の言葉に、レオ様は静かに頷いた。


「しかし……今のガーネット様は殿下にふさわしくないでしょうね」

 ゲイティス様の冷静な言葉に、誰も何も言わなかった。それは事実だと思ったから。

「彼女には少し休暇を取ってもらった方がいいかもしれませんね」

 アンバー様は、以前と変わらない様子で過ごしている。
 そう、今まで通り。皆のアンバー様を見る目が以前と変わっているというのに、今でもなんとか私と話をしたがるから異様に思える。
 もう私の問題ではないというのに。アンバー様とレオ様の問題なのに。私と話してどうなるんだろうか。

「そうだな、しばらく学園を休ませようか」

 レオ様の言葉に、私はなんとなく窓の外を見た。そして、固まる。
 下からこちらを見上げているのは、アンバー様だ。思わず声を上げそうになる。ここは三階だから中の様子は見えないだろうに、じっと見ているから心臓が嫌な音を立てる。



 残念ね。
 悪役令嬢転生物語のヒロインになるのなら。『悪役令嬢』は『原作のヒロイン』に近寄らないようにするのが鉄則ではないかしら。

 これじゃあ貴女は本当に、ヒロインに嫌がらせをする悪役令嬢じゃない。
 

 それから数日後、学園でささやかなパーティーが開かれた。
 レオ様のお姉様のお誕生日を祝うものだ。

「ライリー、とっても素敵!」

 ライリーのタキシード姿なんて初めて見る。私が褒めるとライリーは「似合わないだろ」とそっぽを向いた。耳が赤くて恋しくなる。

 私はライリーに贈ってもらったミントグリーンのドレスを着ている。やはりこのドレスが私に一番似合っている。

 ライリーのエスコートで会場に入ると、ざわめきが走った。

「ハリディさんの隣にいる方は?」
「どちらのご令息かしら」
「素敵な方だわ」
「それじゃあアスカム様はどうなったの?」
「それが、勘違いだったらしいのよ。アスカム様とハリディさんは恋人でもなんでもないって」
「えっ、それじゃあアスカム様は」

 アスカム様はゲームの通り、他ルートでは応援してくれる頼れるお兄さんだった。
 私とアスカム様はそんな関係ではないときちんと否定してくれて、今日も「恋人募集中だよ〜」と笑顔を振りまいてくれている。

「アスカム様はお一人なのね!」
「私にもチャンスがあるということかしら!」

 恋のチャンスがあるならば、私とアスカム様の仲がどうだったかなんてどうでもよくなるようだ。皆私に興味をなくしたようでアスカム様の場所に我先にと進んでいく。


「やっぱり殿下はお一人ね」
「アンバー様はお心を壊されたとか」
「結局アスカム様のことはお好きだったの?」
「さあ。アスカム様は否定していらしたけど、殿下がお一人なのが答えじゃないかしら」

 こちらの噂はなかなか払拭されないらしい。
 しばらくアンバー様は休学するということで、更に色んな形で噂が広まってしまった。
 レオ様やゲイティス様は教えてくれなかったけれど、どうやらアンバー様は休学を勧められてますます病んでしまったらしい。

 しばらく私たちは隅で食事をしていたのだけど、噂話がいつまで経っても聞こえてくる。うんざりした私はライリーに声をかけた。

「顔を出したからもういいわよね、もういつもの場所に帰らない?」
「そうだな。ミアのパートナーは俺だってアピールもできたし?」
「何よそれ」

 私たちは笑い合って手を繋いで会場を出た。




 そして小屋に向かう途中、夜の庭園の中に彼女は一人ぽつんと立っていた。

「ミア」

 そこにいたのはアンバー様だった。美しく着飾ったアンバー様。
 初めて出会った時のように可憐な姿で。しかし暗闇の中に佇む彼女は恐ろしさすらある。

 私を庇うようにライリーが前に立った。

「ミア、その男は誰」

 アンバー様は微笑んだままだけれど、言葉は冷たかった。

「ライリーよ。私の幼なじみ。『ハナロマ』のノーマルエンドを覚えていない?」

 私は最後のチャンスだと思って言葉を続ける。

「私はライリーが好きで、ライリーエンドに行きたいの。だからレオ様を攻略なんてしないわ」

 私の言葉にライリーがこちらを見た気がした。恥ずかしいけれどそれどころではない。アンバー様に伝えなければ。

「ライリー……?ノーマルエンド?嘘よ!菜々香はノーマルエンドに行ってしまったら残念がってたじゃない!」

 アンバー様は私を睨んだ。
 そう、菜々香はノーマルエンドが嫌だった。だってベストエンドに入れないエンドだもの。そりゃ残念にも思うわよ。でも――


「私は菜々香じゃない、ミアよ!そして貴女も萌々香じゃない、アンバー・ガーネットでしょう!」


 私は叫んだ。アンバー様の瞳は変わらない。うつろな目でこちらを見ている。どうして伝わらないんだろう。


「レオ様は渡さないわ」

 低い声でアンバー様は言った。アンバー様の手から雷が見える。まずい、禁止されている攻撃魔法を使おうとしている。

「俺もミアを渡さないよ」

 私の前に立つライリーの手から炎が上がる。これは……!

「待って、ライリー!」

 私はライリーを思いっきり抱きしめた。そして私はありったけの魔力を込めて転移魔法を発動させた。


 ・・


 私とライリーはドレスとタキシード姿のまま、小屋の中に移動していた。
 荒い息を整えると、ライリーがこちらを見つめている。

「今あの女、ミアを殺そうとしてなかった?」
「そうかも」

 アンバー様の瞳は尋常ではなかった。手にまとっていた雷の威力も優しいものではない。あんなに美しくていつも凛としていたアンバー様の虚ろな瞳を思い出す。どうしてこんなことになったんだろう。

「俺が殺してもよかったのに」
「……」
「冗談だよ。でもあそこで騒ぎになってたらあの女、罪人として捕らえられたんじゃない?そうすればよかったのに」
「うん……」
「嫌いなんだろ?」
「……そうね」

 さっき私はライリーを抱きしめた。その時に思い出した、自分の最期を。

 大嫌いなはずのお姉ちゃん。消えてほしくて離れてほしくてずっと憎んでいた。
 でも、私たち二人はずっと一緒で。最期も一緒だった。私たちが二人で横断歩道を渡っている時、突っ込んできたのは信号無視をしたトラック。
 私はお姉ちゃんだけでも助かってほしいと、お姉ちゃんを突き飛ばそうとした。その感触を思い出した。
 あんなに嫌いだったはずなのに。嫌いだけど、どこか憎みきれないのが、一番近い姉妹というものなのでしょうね。



「まあミアがいいならいいけどね」
 ライリーは興味ないという顔をして、ぽすんと干し草の上に座った。

「正直言うとアンバー様のことは嫌いかわからないのよ。萌々香のことは嫌いだったけど、それは菜々香の感情でしょう?」

「前世の恨みも込めて復讐してやればよかったのに」

「ううん、アンバー様のことも過去のことも、気にしないことこそが復讐なんだわ」


 だって、私は十六年間一度も萌々香を思い出さなかった。ミアとして幸せに生きてきた。
 菜々香は、お姉ちゃんへの憧れと嫉妬心を常に持っていた。周りも皆お姉ちゃんしか見ていなかったから自尊心は削られ続けていて、自分に自信がなくて自分が大嫌いで。
 でも、ミアは違う。裕福ではないけど両親に惜しみなく愛情をもらって、大好きな人も出来た。大切な人たちが私を大切にしてくれたから自分を愛せた。

 萌々香への恨みを持ち出したら、菜々香に戻ってしまう。私はミア・ハリディでいたい。ライリーが好きでいてくれて、ライリーのことを好きなミアでいたい。

 アンバー様は、誰もが羨む公爵家で、国一番の美貌で、第一王子の婚約者だ。いつか来るヒロインに負けないように、勉強も運動も頑張る努力家な面もある。
 それだけ素晴らしい環境で素敵な人なのに。アンバー・ガーネットとして生きていれば幸福だったのに。

 十年ずっと怯えて暮らしていたのだ。菜々香の影に。
 そこに確かにレオ様との絆があったはずなのに。アンバー様を見つめるレオ様の瞳を思い出す。アンバー様が見つめる相手はレオ様で、菜々香じゃなかったのに。
 萌々香に呑み込まれなければ、「悪役令嬢」に対して思い詰めなければ、今も幸福なままでいられたのに。


「それなら、私は菜々香になんて戻ってやらない。恨みなんて持ってやらない。アンバー様のことなんてどうでもいいわ!」

 私の宣言にライリーは微笑み、ただ頷いてくれた。


 ……ミアに関わらなければ良かったのに。
 自分で自分を壊した。哀れなアンバー様、いや、萌々香お姉ちゃん。
 自分で悪役令嬢の道を進んでしまった。十年の努力を無駄にして。十年怯え続けて。それはどれほど怖かったのだろう、心を壊してしまうほどに。

 無理かもしれないけど、私の叫びが少しでも届いていますように。

 あなたは、萌々香じゃない。
 あなたは、アンバー・ガーネットだと。



 私は最期をもう一つ思い出したのだ。
 私はお姉ちゃんを突き飛ばそうとしたけど、大きなトラックは目前に迫っていて助けることはとても無理だった。
 一瞬のことだけど。お姉ちゃんは私を庇うように、私の前に出て手を広げた。
 それはほんの少しの抵抗でしかなかったけど、それは確かにお姉ちゃんからの愛だった。



「先日話してた件だけど、私も学園を辞めるわ」
「俺と来てくれるの?」
「うん、ライリーと一緒ならどこでもいいの私」

 ライリーは国の一番大きな魔法研究所から仕事を頼まれていたそうだ。ライリーにとって学園の勉強はくだらないことで、研究所からもすぐにでも正式に働いて欲しいと頼まれて心が動いてたらしい。私を優先して学園に留まってくれていたのだけど。

 ミアの光属性もこの国を発展させるために必要だ。研究所に一緒に行かないか? ライリーはそう言った。私はライリーがいればどこでもいい。
 噂だらけで、本当に大事なものを見ようとしないこの学園にいたって、意味があるとは思えない。


「ねえライリー、本当の一番の復讐ってなんだと思う?」

「なに」

「それは幸せになることなのよ」

 私が微笑むと、ライリーも「そうだな」と微笑んだ。


「私が幸せになるためには、ライリーとずっと一緒にいなくちゃいけないんだけど。どうかしら?」

「仕方ないな、復讐に協力してやるよ」

 煌びやかな会場とはほど遠い、小さな小屋。
 誰に分かってもらえなくてもいい、私の幸福はここにあるのだ。

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