「ひ……」
 思わず声が出てしまった。
 行く先々に現れるアンバー様は最早ホラーだ。美しすぎる顔がかえって恐ろしい。

「こんにちは」
「……何の用でしょうか」
「あら嫌だ。私はレオ様を待っていただけよ、約束があるの」

 アンバー様は微笑んだ。レオ様は少しやるべき事が残っていると言っていた。すぐには出てきてくれないだろう。

「そうですか、では失礼します」
「ねえ菜々香。どうだった?実物のレオ様は」

 アンバー様の横を通り抜けようとしたけれど、彼女は優しく私の手を掴んだ。

「……素敵な方でしたよ」
「やっぱり好きになっちゃった?」
「いいえ」
「素直に言ってくれてもいいのに。そうだわ、他の方はどうだった?皆さんとっても素敵な方たちでしょう?私も時々生徒会室で過ごさせていただくのよ。――レオ様の婚約者ですから」
「そうですか」

 生徒会室は生徒会メンバーしか入れない特別な場所だったはずだけど。ああそうか。この物語は悪役令嬢転生物語だ。幼い頃から努力し続けたアンバー様はもう既にレオ様に溺愛されているのでしょうね。なんなら逆ハーコースに入っていて生徒会メンバーは皆アンバー様のことを愛しているかもしれない。
 悪役令嬢転生物語はそうだと決まっているから。突然現れたピンクブロンドの入る場所は、物語開始時点で既にないんだから。

 彼らがアンバー様の虜だとしても何ら問題はないけど、アンバー様と放課後に接点ができるのは嫌だなあ。そう思っていると、アンバー様は笑みを浮かべた。

「ミアには申し訳ないけれど、私たちには十年以上の絆があるのよ」
「心配しなくても大丈夫ですよ」
「もしかしてレオ様じゃなくて他の方を攻略するの?彼らの中にも許嫁がいらっしゃる方はいるのよ?誰か気になってる方はいる?」

 面倒な質問だ。
 アンバー様の瞳がきらめく。他の令嬢と結託して悪者にされても困る。でも何か答えないと前世の私がレオ様が最萌えだったせいでずっと疑われることになりそうだ。
 ええと、許嫁がいるのはどなただったかしら。どのルートにどんなライバルキャラがいたかしら……。

「アスカム様が気になるわ」

 仕方なく、誰とも本気にならない遊び人設定のスタンレー・アスカムの名前を挙げた。彼は侯爵家の跡継ぎで結婚しなくてはならないが、誰とも結婚したくない、自由になりたいと語っていて許嫁を作るのをのらりくらりとかわしていたはずだ。

「アスカム様?菜々香の好みとは外れてるわね」

 ええ、私の好みをよくご存知なことで。

「私はミアですから。好みも変わるでしょう」
「そうかしら?」

 アンバー様が私をじっと見たところで、生徒会室の扉が開いた。

「あれ?ガーネット嬢とお花ちゃん」

 話題の人物・アスカム様が出てきて、私たちを見つめている。その視線が私たちの手元に移動する。まだアンバー様に手を握られていた。

「二人は、友達だったの?」
「ええ」
 アンバー様は微笑んで、私の手をしっかりと握ってみせた。

「意外な組み合わせだね」
「実はミアは私の親戚にそっくりなの。親戚かと思って、思わず声をかけてしまって。それから仲良くしていただいてるのよ」
「へえ!」

 アンバー様の言葉にアスカム様はにこやかに微笑む。これで男爵令嬢を見下すこともなく、分け隔てなく優しいアンバー様の出来上がりだ。

「あ、そうだわ。次のお休みにお茶会の開催を考えているの。生徒会の皆様もお誘いする予定ですからアスカム様も是非いらしてね。もちろんミアも」
「お誘いありがとう。参加するよ」

 アスカム様が微笑みを向けるから、私もぎこちなく頷いた。


 ・・

 お姉ちゃんは誰からも人気者だったけど、特に男からモテにモテた。
 彼氏は途切れることがなかったし、いつも誰もが羨むような素敵な方と付き合っていた。

 お姉ちゃんは恋バナが大好きで、私の部屋にきては自分のことを話して私の話を聞きたがった。私たちは表面上は仲のいい姉妹で、よく一緒に過ごしていたから。

 お姉ちゃんは恋の話をしたがるけれど、私は初恋もまだでずっと聞き役だった。部活の憧れの先輩や、隣の席になったクラスで一番かっこいい子に少しときめきのようなものを感じたこともあったけど、恋になる前に彼らはお姉ちゃんの彼氏になった。

 私から奪った、とは思わない。彼らは皆が憧れる人たちだったから、私関係なく恋多きお姉ちゃんは好きになったのかもしれない。それに彼らがお姉ちゃんを好きになるのは当然のことに思えた。

 私はお姉ちゃんのことが大嫌いなはずなのに、誰よりもお姉ちゃんに憧れていて、誰よりもお姉ちゃんが好きだった。

 お姉ちゃんから離れたいはずなのに、お姉ちゃんに話しかけられると応えてしまう。お姉ちゃんは不思議な引力があって、嫌だと思っているのに話しかけられるとなぜか嬉しい。だから苦しい。

 お姉ちゃんは主人公で、ヒロインで、私はお姉ちゃんの添え物だということはずっとはっきりわかっていて諦めている。別に私は主人公になりたいわけでもないし、それでいいとさえ思っていた。


 就職でお姉ちゃんと同じ場所に属さなくなると、私は自然と添え物を卒業した。
『萌々香の妹』でなくただの『菜々香』でいられた。
 誰もお姉ちゃんを知らない場所で、私は初めてうまく息が吸えた気がした。仕事が忙しくてお姉ちゃんと話すこともほとんどなくなった。

 そして、私にも好きな人が出来た。
 職場の先輩で、特別華やかな人ではないけれど真面目で一緒にいると穏やかな気持ちになる。
 激しい盛り上がりはないけれど、これが恋というんだ。彼氏にならなくても、こっそり憧れて会社で話すだけで毎日が楽しくなった。
 私たちは同じチームで年齢も近いから、自然と仲良くなって仕事帰りに食事に行くことが増えた。

「家まで送るよ。危ないから」
 私は密かに期待していた、この帰り道で告白されるかもしれないと。

 だけど、所詮私の物語なんてものはなく。お姉ちゃんの物語のオマケなのだ、いつだって。

「あっ菜々香!今帰り?私もなの!――あれ?こちらの方は?」
 最寄り駅でお姉ちゃんにばったり会ってしまった。嫌な予感がする。

「職場の方よ。山田さん、この人は私の姉です」
「こんばんは」
「山田さん。姉もいますからもう大丈夫ですよ、今日はありがとうございました」
「いや、女性二人も危ないよ。もうこんな時間だし」
「菜々香、送ってもらっちゃお」

 いたずらっ子のように微笑むお姉ちゃんは誰が見ても魅力的だった。
 駅からの十分。私の期待していた十分はなくなって、代わりにコミュニケーションお化けのお姉ちゃんのステージになった。山田さんはこんなに笑う人だったのかと初めて知った。


 しばらくして山田さんは会社を辞めた。


「山田さん、うちに来ることになったのよ」

 今日は二人で飲まない?とお姉ちゃんが言った。お姉ちゃんはワインを出して、チーズやハムを並べて機嫌がいい。

「菜々香と会った日があったでしょ?あの後たまたま同業者の飲み会で彼に会ったのよ。うちの会社が元々の希望だったみたいで、紹介したらすんなり採用されたわ。彼、能力が高いからね」

「お姉ちゃんは山田さんの事を好きなの?」
「え、どうして?もしかして妬いてる?菜々香、山田さんのことが好きだった?」
「別に」
「私は彼氏がいるし、好みじゃないよ」

 そうでしょうね、お姉ちゃんの彼氏になる人はみんな華やかな人だから。

「ただ会社を紹介しただけよ」
「そうね」

 私の小さなオアシスは日常から消えた。
 わざとじゃない、全部わざとじゃないはずだ。ただ、私は少しばかり運が悪くて。お姉ちゃんの物語のオマケなだけだ。