空は、吸い込まれそうなほど深い闇に落ちている。てのひらについたサビの臭いを払うように数度手を叩いてから、私は地面を見た。
 死が、落ちている。
 あと一歩、いや、半歩踏み出せばいい。
 学校に行くことより、教室に入ることより、教室で顔を上げることより簡単なことだ。
 この一線を越えてしまえば、もう学校に行かなくていい。毎晩、朝が来ることに怯えることもなくなる。
 今日、ようやくその覚悟ができた。
 このときをどれだけ待ちわびただろうか。
 目を閉じると、頬を撫でる風が少しだけ冷たくなったような気がした。
 音が消えた世界で呼吸を整え、いざ、と思ったとき。
「おぉ」
 背後から声がした。
「これはタイミングが良い」
 ハッとして振り向くと、不思議な少女と目が合った。
 なぜ、不思議か。
 少女が座っている場所がそもそもおかしいのだ。だって、少女はフェンスの上にいる。一歩間違えば、転落する可能性もある二メートルを優に超えるフェンスの上に、少女は涼しい顔をして座っている。
 そして、格好も不思議だった。全身黒ずくめ。頭には大きなフードを被り、背中には大きな鎌を背負っている。
「なっ……な、なに、あなた」
 突然の不思議な少女の登場に、私は思わずバランスを崩し、咄嗟にフェンスにしがみついた。
 だれ? いったいいつからここに? さっきまで、たしかに私ひとりだったはずなのに。
「おまえ、ひとりか?」
「え?」
「いや、なんだ。最近は、集団自殺というものも流行っているからな。ひとりか?」
「……ひとりだけど」
「ほう。こんな夜更けに、ひとりでひっそり飛び降り自殺か」
 そんなの、私の勝手だ。ムッとして私は少女を睨んだ。
「……あなた、だれ?」
 訊ねると、少女はニッと口角を上げて不気味に笑った。赤い瞳が意味深に光る。
 ぴょんっと、少女は重力を忘れたように優雅にフェンスのこちら側に飛び降りた。
 そして、私の前に立つ。近くで見ると、驚くほど造作の整った少女だった。少しつった大きな瞳は深紅に染まり、肌は陶器のように滑らかな白。精巧に造られた人形だと言われたほうが、まだ頷ける。
 だけどどこか見覚えがあるような……いや、気のせいか。
 少女が瞬きをした。長いまつ毛が揺れ、ハッと我に返る。
「私は死神」
「死に……」
「おまえ、死ぬつもりなのだろう? なぜだ?」
「なぜって……そんなの、生きることに疲れたからだよ」
「だから、なぜ」
「…………言いたくない」
「ふん……いじめか」
「…………」
 黙り込んだ私の反応を、少女は肯定と受け取ったらしい。
「いいだろう。それなら、私が特別に契約してやる」
「え……?」
「おまえのいのちをもらう代わりに、おまえの願いをひとつだけ叶えてやる」
「……いのちをあげるのはかまわない。けど私、願いなんてないよ」
「おや。そうなのか?」
「願いがあったら、ふつう自殺なんてしないでしょ」
「そうだろうか。死にたい、という思いだって立派な願望だと思うが?」
「……それは屁理屈だよ」
「では聞くが。おまえはなぜここで自殺することを選んだ?」
 ここ、とは、私が立っているこの場所のことを言っているのだろう。
 ここは、学校だ。私が通う中学校。
「それは……」
 私をいじめてたヤツらへのささやかな仕返し。
「……私が死んだことを、あいつらの目に焼き付けてやるため。あいつらのせいで私は死ぬ。あいつらは、一生私の死を背負って生きていけばいい……って思って」
 少女がくつくつと笑い出す。
「さて、それはどうかな……果たしてクラスメイトをいじめて楽しんでいたヤツらが素直に反省なんてするだろうか? そんなまともな人間なら、そもそも自殺に追い込むほどのいじめなんてしないだろう」
「…………」
 私のいのちを持ってしても、あいつらに罪の意識を植え付けることは不可能なのか。そんなに私のいのちは軽いのだろうか。
「でも……さすがに私が死ねば」
「いじめっ子たちの良心を信じるのか」
「…………」
「まぁ、そうだな。さすがにおまえが死ねば、少しは悪かったと思うかもしれない。だが、きっとすぐに忘れて同じ過ちを繰り返すさ。人間なんてそんなものだ」
「……じゃあ、どうすれば」
「私は、確実な方法を知っている」
「なに? 教えて」
 私の顎を、死神がそっとすくった。赤い瞳がじっと私を見下ろしている。まるで血のような、深い赤色。
「おまえは本気で死ぬつもりか?」
 静かに頷く。
「両親が悲しむぞ?」
「……分かってる。お母さんとお父さんのことは、本当に大好きだから。相談しようかと何度も思った。でも……でも、やっぱりこんなことで心配をかけるのはいやなの」
「友達は?」
「いるわけないでしょ。最後に友達と呼べる子がいたのなんて、幼稚園の頃。当時はたくさん遊んだ気がするけど、もう顔も名前も覚えてないよ」
「……そうか」
「私が死ねば、ぜんぶ終わる。……だけど、あいつらに負けたって思われて死ぬのだけはぜったいにいや」
「それなら、魂と引き換えに、その覚悟に応えよう」
 その日、私は死神に魂を売った。


 ***


 教室は、いつだって私を(おとし)める囁き声にあふれていた。
『あいつマジでウザい。消えてくんないかな』
『ね〜! てか、なんか臭くない?』
『あいつ、肌から(かび)でも生えてんじゃね?』
『ははは』
『生きてるだけ無駄。死ねよ』
『ねぇねぇ、あんたいると空気悪くなるんだよね。空気清浄機買ってきてくんない? それかもう学校来ないでくれる?』
『究極〜』
 嘲笑の声を聴きながら勉強をして、破かれて捨てられた教科書を拾い集めて。ゴミ箱がわりにされた鞄から、お弁当を取り出して。
 いくら先生に相談しても、いじめの解決には至らなかった。
 結局、学校は面倒ごとには関与しない。徹底的に見て見ぬふりを決め込んだ。
『ちょっとした悪ふざけでしょ。そんなのいちいち相手にしなきゃいいのよ』
 ……悪ふざけ?
 教科書を破られるのが?
 鞄をゴミ箱がわりにされるのが?
 財布から勝手にお金を抜き取られることが?
 死ね。
 ブス。
 毎日毎日繰り返される罵詈雑言に、これ以上耐えろというの?
 いつからだろう。
 涙も出なくなって、なにも、感じなくなった。
 心が、とうとう崩壊したのだ。


 教室の扉を思い切り開けた。大きな音に、教室内が一瞬、静寂(せいじゃく)に満ちる。
 クラスメイトたちの視線が、一気に扉を開けた私に刺さる。静寂はすぐに壊れ、あっという間に喧騒(けんそう)が戻ってきた。
 そして、いつもどおり私を貶める声も。
「おい。うるせえんだけど。あんた、扉も静かに開けられないの? マジで邪魔だわ」
 私をいじめている主犯の女子だ。明るい色の髪を気だるげにうしろに流しながら、そいつは言った。
「おい、聞いてんのかよブス」
 一重の目は狐のように鋭く、私をまるで親の仇かのごとく睨みつけている。
 すべてが昨日と同じ景色。だけど、本当なら今日見るはずのなかった景色。
 彼女の私を(あざけ)る顔を見て、昨日の夜死ななくてよかったと思った。
 死神の言うとおりだった。
 もしあのまま死んでいたとして、こいつは絶対自分のせいだなんて反省しないだろう。
 だって、こいつにとって私は虫けらのようなもの。虫けら一匹死んだところで心を痛めるような人間は、この教室には最初から存在しない。
「あいつが主犯か。いい人相をしているな」
 私の背後にいた死神が呟いた。
 こんな変な格好をした死神がいるというのに、クラスメイトたちの反応はない。きっと、彼らに彼女の姿は見えていないのだろう。
「ははっ……そうだよね。みんな、生きてるんだし」
 小さく笑いが漏れた。
 彼女を見ることができるのはおそらく、死を覚悟した人間だけだ。
「え、なにこいつ。ひとりで笑ってんだけど。こわ」
「みんな生きてる……私以外は、みんな」
 あぁ……そうだ。
 この教室で、私は殺されたのだ。
 この女に。
 ゆっくりと歩み寄る。肩にかけた鞄に手を入れ、その感触を確かめながら。
「なに? 来んなよ気持ち悪い」
 苛立った声が教室の床や壁を打ち、反射して私を刺す。
 昨日まではこの声が怖くて怖くて仕方なかった。
 だけど、今は。
「ずっとこうしてやりたいって思ってた……だけど、こんなことをしたら親が悲しむと思って、我慢した」
「は?」
「あんたみたいなクズな人間は……死んだってきっと治らない。だけど、もう限界なの」
「あんた、なに、いきなり……」
 鞄を捨てる。
「だから、死んでよ」
 手に持ったナイフを思い切り振りかざした。その瞬間、あいつの顔が、恐怖に引き攣る。
 ぐさり。
 てのひらに、鈍い感触が広がった。
 あいつは驚いた顔のまま、声も出さずにその場に崩れ落ちる。
 一瞬の沈黙の直後、悲鳴が上がる。
 一斉に教室からクラスメイトたちが逃げていく。
 あいつは目を血走らせて、口をパクパクさせている。まるで鯉みたい、と思った。
「ずっと聞きたかったことがあるの。ねぇ、私、あなたになにかした? ここまでいじめられるようなこと、なにかした?」
 聞いても、答えは返ってこない。
「ずっとこうしたかった。頭の中で、何回この想像をしたか分からない。だけど、こんなことをしたらお父さんとお母さんが犯罪者の親にされちゃうから、そんなの悔しいから、覚悟ができなかった。でも、今の私は違う」
 なんだってできる。だって私には、みんなには見ることすらできない味方がいるから。
 ゆっくりと振り返る。
「ねぇ、死にかけの気持ちって、どんな気持ち? 苦しい? 痛い? 辛い? 教えてよ。私、分かんないんだ。いじめられる苦しみは分かっても、刺されたことはないから」
「……っ……」
 彼女は口を開けながらも、そこからはただ唾液が出るばかりで、言葉は出てこない。
「声にならないよね。私もそうだった。あなたにいじめられてるとき、ずっと怖くて声を出せなかった。声を上げたら、今度はもっとひどいことをされるんじゃないかって思ったら、耐えるしかなかった」
「…………」
 ひゅう、と、いのちが消える音がした。
 目を伏せる。
 もう後戻りはできない。やるしかない。いいんだ。よかったんだ、これで。私にはこれ以外、方法がなかったのだから。
 目を開け、己の過ちを目に焼き付ける。
 今まで彼女に与えられた痛みがあふれだすかのように、胸がカッと熱くなった。
「……ねぇ、死神。いよいよ私の願いを聞いてほしいのだけど」
「なんなりと」
 死神が後ろ手に鎌を持つ。その姿を見て、私は心が震えるのを感じた。
「……ありがとう。私、今日初めて生きてるって感じがした。ねぇ、死神。あなた、どうして私にこんな面倒なこと教えてくれたの? あなたに差し出す魂の量減っちゃうのに」
 死神はなにも言わない。ただ、鎌をかまえてそのときを待っている。
「……まぁいいや。約束通り、私の残りのいのちはあげる。その代わり……よろしくね?」
 願いを告げると、死神は赤い目をすっと細めて妖しく笑った。
「……あぁ。おまえの願いは、この私が最後まで見届けてやる」


 ***


 夢を見た。
 それは、魂がズタズタに切り裂かれる恐ろしい夢だった。
 四方から浴びせられる心ない悪口、罵倒、嘲笑。
 それらに必死に堪えているのは、あたしだった。
 真っ暗闇のなか、鋭利な凶器で全身を切り刻まれているかのようだった。
 痛くて怖くてたまらない。
 それが何時間も続いたあと、あたしはようやく家に帰った。けれど、翌朝になるとまたあの暗闇に閉じ込められて、刃物で切り付けられる。
 そんな毎日が続いた。
 家にいても明日が恐ろしくてたまらない。朝が来ることが怖くて眠れない。
 家に帰ったらシーツにくるまって、家族に気付かれないように必死に声を殺して泣いて、朝が来るのをいやがった。
 けれど、明日はどこまでもあたしを追いかけてやってくる。そしてまた、暗闇があたしを襲う。
 いつしか涙は枯れ果て、目の焦点すら合わなくなった。
 叫び声すら上げられないほど、胸が痛くて痛くて堪らない。呼吸が苦しくてたまらない。
 ――これは、幻覚……?
「それは、魂に刻まれた絶望の痛みだ」
 突然、目の前に赤い瞳の化け物が現れてそう言った。
「……あんた、だれ?」
 あたしは涙を流したまま、その化け物を睨む。
「私は死神」
「死神……?」
「おまえは死んだ。殺されたのだ。おまえがいじめていた女に刺されてな」
「…………」
 ここで目を覚ます前の記憶が蘇る。そうだ。この化け物の言うとおり、あたしは刺された。……あいつに。
 ……胸を押さえる。
 じゃあ、この気持ち悪い感覚は、壮絶な痛みはもしかして……。
 あたしがあいつに与えたものなの……?
 朝に怯えて、苦しみに耐え凌ぐうちに夜になって、夜は明け来る朝に怯え続けて。
「……あいつの記憶が、どうしてあたしに」
「あいつはおまえを殺したあと、私に願った」
 ――いのちを分け与える力をくれ、と。
「いのちを分け与える……?」
 そうだ。おまえが生きるはずだった残りの寿命分を自分の魂からおまえに授けた。残りの魂は私が願いの対価にいただいたから、結局あいつは消えたがな。
 そう言って、死神は遠くへ視線をやった。
「……じゃああたし、生きてるの?」
「安心しろ、おまえはあいつに生かされた。じき目を覚ますだろう」
 ほんの少し、ホッとした。あれはただの悪夢だったのだ。
「……なんなのよ、あいつ。なにがしたかったわけ? 殺したいほどあたしを憎んで刺したくせに、わざわざ助けるなんて」
 ふん、気の小さい女、と小さくぼやくと、そのとおり、と死神が言った。
「おまえのようなクズ、私もわざわざ生き返らせなくてもいいと思ったんだがなぁ。それでもあいつはおまえを生き返らせた。これがどういう意味かわかるか?」
「はぁ?」
「拒絶だ。おまえと同じクズにはなりたくないというはっきりとした拒絶。それから、復讐。死ぬより辛い目に遭わせてやるという執念だ」
「な……」
 死神の鋭い視線と口調に、思わずどきりとする。
「たとえ目覚めても、魂の痛みはおまえを襲い続ける。おまえはこの先、おまえが殺した人間の魂の痛みを浴び続けるのだ。死ぬまでな」
「なによそれ……」
 冷や汗がこめかみをつたい落ちた。
「あいつは、おまえを殺すよりも自覚させたかったのだ。心を踏み躙られ、折られ、殺されていく苦しみを……」
 ぐっと奥歯を噛み、恐怖を押し殺す。
「そもそもあいつが大袈裟だっただけよ! あたしはべつに、あいつに手を上げたりしてないしたかがちょっとバカにしたくらいで」
 すると、死神がすっと目を細めた。
「大袈裟か。だがおまえは今、その魂で実感しているのではないか?」
「…………」
「いい加減気付け。たとえおまえが、あいつをナイフで刺していなかろうが素手で殴っていなかろうが、あいつが死んだ事実は変わらない」
 死神はぐっとあたしの胸ぐらを掴み引き寄せると、恐ろしく低い声で囁く。
「ひとっていうのはな、たかが言葉で簡単に死ぬんだよ。あいつは自殺じゃない。私が殺したわけでもない。おまえが言葉で殺したんだ」
「あたし……が……」
「それでもおまえは、あいつが大袈裟だと言うか? バカだ、愚かだと罵れるか?」
「…………」
 黙り込んだあたしに、死神が囁く。
「死ぬより辛い生き地獄を味わうがいい。おまえは、それほどのことをしたのだから」
 絶望し、膝から崩れ落ちたあたしの耳元で、死神が囁く。
「言っておくが、私はずっとおまえを見ている。自殺など考えるなよ。私はおまえを、そう簡単には死なせはしない。私のたったひとりの友人を殺した罪は重い」
「友人……?」
「幼い頃、霊感があったあいつとはよく遊んだ。しかし、大人になっていくにつれ、あいつは私の姿を認識できなくなった。それでも私は、ずっとあいつのそばにいた。あいつが苦しむ姿を、おまえがあいつを苦しめる姿をずっと見ていた。そして昨晩、あいつはとうとう私の姿を認識した。……嬉しくはなかった。霊感がなくとも私の姿が見える。それはつまり、死の覚悟が決まったときだからだ。私は、おまえを許さない。友人を殺したおまえを、たとえ死んでも許さない……一生取り付いてやる。一生そばで懺悔させてやる。あいつが味わった苦しみ以上のものを見せてやる……」
「……ひっ……いやああああぁっ!!」
 耳を塞ぎ、思い切り叫んだ。


 ***


 目を覚ますと、あたしは病院にいた。身体に外傷はなく、あたしは貧血で倒れ、病院へ運ばれたことになっていた。
 ……そして、あいつは……あたしがいじめていたあの女は、あの日から行方不明になっていると聞いた。
「……ねぇ、死神。いるの?」
 誰もいない部屋に訊ねるけれど、返事は返ってこない。
「…………」
 てのひらを胸に置く。
 どくどくと血が全身に巡る音がする。
 あたしは、生きている。
 この心臓が動き続けるかぎり、あたしは生きていくのだ。
 この(けが)れを背負ったまま。一生癒えない傷を、魂に深く刻まれたまま。死神に睨まれたまま、死ぬことすら許されずに。
 涙が頬をつたい落ちた。
「……あたし……なんてことしたんだろう」
 朝が来るたび過ちを思い出して、夜が来るたび自分の醜さを思い出す。
 それでも、あたしは生きていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 震える手を握り締める。
 せめて。
 せめて……あの子が昇った場所が豊かであることを願った。