博士とロザリー「5分後に涙」収録作品

 二人で食事をとっていたある日のこと。
「ねぇ、博士。新しい小説が読みたいのだけど」
「どんな小説だい? いつもの英雄伝シリーズの新作を買ってこようか」
 ナイフとフォークを置いて、ロザリーは「いいえ」と首を横に振った。
「ラブロマンスがいいわ。そうね、可哀そうな境遇の少女が王子様に見初められてお姫様になるような……素敵な、」
「どうしたんだいロザリー⁉」
「えっ?」
 唐突に目を見開いて心配する博士に、ロザリーは体をビクつかせる。
「わ、私、何かおかしなことを言ったかしら……」
「きみは、御伽噺のような恋物語は大嫌いだって、一度も読んだことなどないじゃないか」
「そうだったかしら? でもなんだか読みたくなってきたの。私が何を読んだっていいでしょう?」
 博士の言葉に、どこか責められてるような感覚を覚えるロザリー。語尾が少し強められた彼女の声に、博士はハッとする。
「あ、あぁ、そうだねロザリー。取り乱してすまない。次に街に行ったらいくつか見繕ってこよう。本屋の店主にからかわれてしまいそうだな、はは」
 博士は精一杯の冗談を言ってその場をごまかした。
 しかし、心臓はバクバクと脈打ち、全身は冷や汗をかいていた。
 嗜好が変化している。
 ロザリーには、恋人の記憶がある。そして人工知能による学習もさせているから多少の変化はおかしくはない。しかし、これまで毛嫌いしていたものを欲することは、学習の範囲を超えていた。
 そして、それはこの時だけに留まらず、その後も変化が現れた。
「今日は紅茶じゃなくて、博士と同じコーヒーが飲みたいわね」
「馬に乗ってみたい」
「違う色のドレスが着たい」
 ちょっとしたことから、大きなことまで嗜好が変わっていくロザリー。
 博士はロザリーにどういう心境の変化なのか尋ねるが、彼女自身にもよくわからないらしく、機嫌を損ねてしまったこともあった。
 博士はプログラムのバグだろう、とロザリーが眠りについた後、夜を徹してシステムをチェックするもバグは一つも見つからなかった。
 博士は、確信する。
 ――ロザリーに、自我が芽生え始めている。

 毎月、博士は研究所への報告や買い出しのために街へ降りる。
 それは必ず月末の30日と決まっていた。
「じゃぁ、行ってくるよ。すぐ戻るからね、待っていてくれ」
「気を付けてね」
 ロザリーも特に興味もなく、博士を見送る。それがいつものこと。
 しかしこの日は違った。
 彼女は、なぜだか無性に気になり、博士の後を追う。見つからないように、見失わないようについていく。ドキドキした。バレてしまうかもしれない、という不安と、久しぶりの街が見れる興奮とで。

 ロザリー自身もまた、変化を感じていた。自分が自分ではないような、不思議な感覚。これまで好きだったことへの興味が薄れていったり、これまで目が向かなかったことが気になり始めたり。
 とにかく、うずうずした。
 まるで孵化する直前の卵の中の雛鳥のように、羽化を待つ蛹のように、新しい自分の誕生を待っているような気持ちだった。
 欲する衝動を、抑えられなくなっていた。
 博士がいれば満ち足りていたはずのロザリーの人生は、渇きを潤すためにもっともっとと手を伸ばしては掴もうと必死だった。

 街に着いた博士は、立派な建物に入って行く。入り口には研究所の支所のプレートが掲げられていた。しばらくかかるだろうと思ったのに、10分もしないうちに博士が出てきた。
 いつも街に行くときはお昼になるまで帰ってこないのだ。いくら買い物があるといってもそんな数時間もかかるはずがない。
 一体どこで何をしているのだろう、と考えていたロザリーは、森とは反対の方角へと歩を進め始めた博士の後を慌てて追う。
 ロザリーの胸のざわつきは酷くなるばかりだ。
 そして数十分歩いて辿りついたそこは、墓地。博士は、途中花屋で買った一輪の花を、墓標の前に手向けると誰にともなく話し出した。ロザリーは、見つからないように木の影に身を寄せる。
「やぁ、ロザリー、元気にしているかい。今日はスイートピーにしたよ。薄ピンクが可愛いだろう」
 耳を疑った。
 当たり前だ。博士が口にした名は、自分と同じ名だったから。
 ロザリーは、バクバクと逸る胸を押さえる。
「愛してるよ、ロザリー」
 ――それは、いつも自分に注がれる言葉なのに……。
 ズキン、と胸が痛んだ。

 博士がいなくなった後、彼女は恐る恐るその墓標の前まで歩いていく。そこには、自分の名が刻まれていた。
「私は……3年前に、死んでいるの……?」
 墓標に刻まれた日付けは3年前の3月30日。
 毎月、30日に出かけていたのは、月命日だったからだとロザリーは気づく。
「じゃぁ、私は一体なんなの……」
 導き出された答えはただ一つ。
「そんな、まさか……」
 瞬時に否定したロザリーだったが、思い当たる節があった。涙が出なかったり、痛みに疎かったり、記憶が曖昧な所があったり……。これまでなんとなく引っかかっていた一つひとつのピースが、カチカチとハマっていくような感覚に捉われる。
 食事もして排泄があるのは不思議だが、目の前の墓標と、不可能はないと言われた稀代の天才である博士が何よりの状況証拠となってロザリーが人間ではないことを確信付けた。
「私は……身代わりとして造られた機械……。博士の愛が向けられていたのは、()ではなかったのね」
 また胸が痛んで、服の上から手で押さえる。自分は機械なのだから痛みなど感じるはずもないのに、とロザリーは自嘲する。
「ほら、こんな時でも涙がでないのが何よりの証拠よ」
 だがロザリーは思う。
 この、胸を切り裂かれるような痛みは、苦しみは、一体なんなのだろう。プログラムされた単なる思考なのか。はたまた人間ぶった機械の単なる勘違いか……──



「目が覚めたかい」
「え……私」
「倒れて、数日眠っていたんだよ」
 靄のかかった意識が、数秒でクリアになっていく。あの日、失意の中屋敷へと帰ったロザリーは部屋に引きこもり、博士の呼びかけも無視して数日間ストライキを起こした末に意識を失ったのだった。
 肘をついてベッドの上で上半身を起こすロザリーを、博士が抱きしめる。
「とても心配したよ、ロザリー。一体どうしたんだい」
 その声は至極切なげで、心からロザリーの身を案じているのが伝わってくる。しかし、今の彼女には露とも響かない。
 博士が見ているのは自分ではない。その心配は、自分ではなく、自分の中にある恋人に向けられたもの。
 それが、悲しかった。全てを、自分という存在そのものを否定されたようで、悲しかった。
 けれど、ロザリーは博士の背中に腕を回し抱きしめ返した。
 例え、身代わりだとしても、自分の中には博士を愛する恋人の記憶とは別に、ロザリー自身の博士への愛が存在している。そのことから目を背けることはできなかった。
 ロザリーにとって、博士こそが世界だったから。
 だけど、自分が機械であることも、死んだ恋人の身代わりであることも、「はいそうですか」と受け入れられるようなものではなかった。
「ねぇ、博士。私、ここを出るわ」
 抱きしめた腕の中、博士の体が強張る。ゆっくりと体を離した博士は、ロザリーの顔を覗き込んだ。
「な……、何を言っているんだい……」
 ロザリーの両肩を掴む手に力が入り、指が食い込んだ。しかし、痛覚のないロザリーは気づかない。
「少し、考える時間がほし」
「ダメだ! そんなことは許さない! きみは、どんな時だって僕のそばにいると約束したんだ!」
 ――その約束をしたのは、()じゃない。
 ロザリーは心の中で叫ぶ。自我が目覚めた今、死んだ恋人の感情や思い出はもはや別人の単なる「記憶」と化していた。例えるならば、小説で読んだ架空の人物の物語だ。
「私は……、私はもう博士の(・・・)ロザリーじゃないわ!」
 博士は、雷に打たれたかのように固まり、息を呑む。ややしてロザリーの肩を掴んでいた腕は力なく項垂れた。
 ロザリーの目に迷いがないことに気づく。
 自我が芽生えた彼女は、ここから……自分から離れることを選んだのだ。
「……そう、だな……、きみはもう、あの時の(・・・・)ロザリーではないんだな。きみの人生だ、きみが笑顔でいられるなら……僕は、快くきみを見送るべきなんだろう……」
 博士は虚ろな目で椅子から立つと、ロザリーに背をむけてドアの方へと歩いていく。
「旅の準備に必要なものは、僕が準備しよう。あと数日だけ猶予をおくれ」
 ドアに手を掛けた博士は、振り向かずにそれだけ言って部屋から出ていった。


 数日後、ロザリーは長距離列車に乗っていた。見送りはなかった。それが全てだとロザリーは胸に刻む。
 これから季節は本格的な冬になるから出来ることなら南へ行ってほしい、という博士の懇願のような助言に従って南下することにした。座席に座ったロザリーがカバンから取り出したのは、博士が持たせてくれたランチボックス。
 蓋を開ければ、サンドウィッチと、
「ジャムクッキー……」
 自我が芽生え始めてから、好きだったものが嫌いになることが度々あったが、これだけはどうしても嫌いにはならなかった。
「手紙……?」
 ランチボックスの蓋の裏に張り付けられた封筒に気づく。白地に小さな赤いバラの絵が描かれた素敵なデザインのそれを、ロザリーは手に取り中の便箋を取り出した。

『親愛なるロザリーへ

 きみの門出を笑顔で見送ることができなくてすまない。
 直接顔を見てしまえば、引き留めてしまいそうで……。
 こうして手紙でさよならすることをどうか許してほしい。

 きみがこうしてまだ見ぬ世界に羽ばたいていくことを、僕は誇りに思う。
 どこへ行き、何を見て、誰と出会い、どう感じるのだろう。
 思う存分、世界を見て感じてきてほしい。

 そして、もしきみが望むのなら、いつでもここへ帰っておいで。
 僕は、いつまでもきみを待っていると約束するよ。

        きみの博士より』

 読み終えたロザリーは、角ばった文字を愛おしそうにしばらく指でなぞっていた。

 ロザリーは、まるで遊牧民のように世界中を点々とした。気の向くまま、足の向くまま訪れた街で日銭を稼ぎながらその日その日を楽しんだ。たくさんの人と出会い、話し、笑いあった。時には騙されたり罵られたり悔しい思いをすることもあったが、そのどれもが屋敷にいては味わえないものだった。
 狭い鳥かごを抜け出した雛鳥は、広い大空を満喫し人生を謳歌していたのだ。
 かけがえのない経験を重ね、喜びに満たされていくうちに、どういうことか、ロザリーの中の博士の記憶は薄れていき、仕舞いには消えていた。
 旅立った当初こそ、一人眠る寂しさに毎晩のように博士を思い出していたというのに、今では名前すら思い出さない。

 しかし、ロザリーは常に心の奥底で、隙間風が吹いているのを感じていた。
 ――何かが、欠けている。
 満たされているはずなのに、どこか物足りない感覚に不安を覚える日々が続く。そしてそれを、新たな発見と出会いで埋めようと世界を飛び回った。
 ある時、ロザリーは訪れたことのない街に辿りつく。
 なんの変哲もない、小さな街だ。なのになぜだろう、どこか見たことがあるような既視感に捉われたロザリーは、街をくまなく探索してみることにした。
 店が並ぶ大通りを歩いている時、子どもとぶつかった。
「いってー!」
「あ、ごめんなさい。大丈夫? けがは無い?」
 ロザリーは、尻もちをついた子どもに手を差し出す。しかし、ロザリーを見上げた子どもの顔がみるみる青白くなっていく。
「ロ、ロザリー⁉ うわああああああ!」
 口をぱくぱくとさせた後、そう叫んだかと思えばものすごいスピードでどこかへ駆けていってしまった。
「どうして私の名を知っているの……?」
 ――もしかして、私はこの街に来たことがある?
「あーはっはっはっは!」
 大声に思考が中断され、顔を上げるとすぐ近くの花屋の夫人らしき女性が笑っていた。
「急に叫ばれておどろいただろう! いやー、私も驚いた! お嬢さん、森の屋敷のロザリーに瓜二つじゃないか!」
「森の屋敷……?」
「ほら、あそこさ」
 夫人が指さす先、森の一角に佇む立派な屋敷が目に映る。
 その瞬間、ロザリーの頭の中におびただしい量の記憶が流れ込んできた。
「うぅっ」
「どうしたんだい、お嬢さん」
 頭を抱えたロザリーに夫人が駆け寄るが、次の瞬間にはロザリーは駆けだしていた。
「すみませんっ、急用を思い出したので失礼します!」
 夫人の心配する声を振り切って、ロザリーは走る。――森を目指して。

「どうしてっ……、どうして!」
 ――忘れていたのか。
 苦しくも、大切で愛おしい記憶を。
 森の屋敷を見た瞬間、全ての記憶が戻ってきた。
 博士と過ごした日々、大好きな庭のバラ園とティータイム。つぎつぎと溢れる欲望、それに身を任せて博士の後を追って目にした真実。自分がヒューマノイドだと知った日は、最愛の人からの愛が自分のものではなかったと絶望した日でもあった。
 屋敷を出ていったあの日の気持ちも、ランチボックスに入っていたサンドウィッチとジャムクッキーの味も、添えられた手紙の角ばった文字も全て思い出した。
 隙間風の正体は、忘れてしまった最愛の人だった。
 そして今、ロザリーは未だかつてない興奮を覚えていた。
 ――博士に、会える。
 博士に会い、変わった自分を見てほしい。今度は、恋人の代わりではない新しい自分を。

 しかし、ロザリーの興奮は、屋敷を目の前にした瞬間、絶望に変わる。
 屋敷には人の気配はなく、蔦が蔓延りレンガは黒ずんで、記憶の中の美しい面影は一つも残っていなかった。その外観から、誰も住んでいないことは一目瞭然だ。
「そんな……、嘘よ……」
 ロザリーは頭の中で記憶を辿る。一体自分はこの屋敷を出てからいくつ冬を超えたのだろうか、と。しかし、すでに数えきれなくなっていた。各地を点々とするあまり、自分が年を取らないヒューマノイドであることも、人間が年を取ることもすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
 屋敷の扉は硬く閉ざされていた。ドアノブはピクリともしない。玄関ドアの窓から中を覗いたロザリーは、息を呑んだ。
「私……?」
 ロザリーが住んでいた時にはなかった、彼女の肖像画が玄関ホールの壁にかけられていた。その下のプレートには、『愛するロザリー』と刻まれていた。
 さっき街の人がロザリーを見て驚いたのは、これのせいだったんだと焦る頭で理解する。
「博士! いるんでしょ⁉ 私よ、ロザリーよ!」
 無駄だとわかっていながら叫んでドアを叩く。すると、カチャリと鍵が回ったような金属音が聞こえ、ロザリーはドアノブに手を掛けた。どういうことだろう、さっきはびくともしなかったそれが今度は簡単に回った。


 静まり返る屋敷の中、ロザリーが真っ先に向かったのは博士の部屋。室内を見渡したロザリーは、ふとデスクの引き出しが少し空いていることに気づき手をかける。するとそこには一冊の本があった。表紙には「diary」と箔押しがされていた。ロザリーは、ほんの少しの後ろめたさを感じながらも、それを開いた。


52年9月6日・晴天
最愛の人を見送った。
約束も守れなかった。
こんな情けない僕を、どうか許してほしい。

 1ページ目に記されたその日付は、ロザリーが屋敷を出ていった日。その日から毎日ではないものの、時々角ばった文字が綴られていた。1ページずつ、ロザリーは丁寧に読み進めていく。

52年11月30日・曇り
ロザリーは元気にしているだろうか。
食べることさえやめなければ、シャットダウンすることはないからきっと大丈夫だろう。
きみが愛したジャムクッキーだけは欠かさず作っている。
きみがいつ帰ってきてもいいように。

53年12月25日・雪
メリークリスマス、ロザリー。
サンタクロースはやってきかい。
暖かい冬を過ごせているといいのだが。

56年9月6日・雨
思い出すのは、亡くなったかつての恋人ではないきみのことばかり。
変わり始めたきみが、愛しくて仕方なかった。
亡くした恋人への背徳感から、きみを否定するような言葉をぶつけてしまった。
きみに会いたい。きみは今、どこでなにを見ている?

「恋人じゃない、変わり始めた私……?」
 綴られている言葉は、全てがロザリーに関してのものだった。
「博士は、ちゃんと()を見てくれていたの……?」
 始めは、亡くなった恋人への言葉だと思いながら読み進めていたが、そうではないことが言葉の端々から伝わってきて、後悔が押し寄せた。
 そして、時が進むにつれて、博士の言葉も後悔に変わっていった。

67年2月17日・快晴
そろそろ、僕のことを忘れた頃だろうか。
ロザリーがここを出ていくと決めた日の夜、僕の記憶だけが徐々に消えるようシステムを書き換えた。きみの足枷にだけはなりたくなかったから……。
だけど僕は、そのことをずっと後悔している。

 ロザリーが博士を忘れてしまったのは、博士のせいだった。
「そんな……ひどい、あんまりだわ……っ」
 嘆いても、時間はもう巻き戻らない。

70年10月12日・曇り
こんなにも、きみの居ない世界は、酷く色あせて退屈でいて、そして苦痛でしかない。
ロザリー、愛している。会いたい。

「わた、しも、よ博士……愛してるわ……、私も、会いたい……っ」
 もう何十回、何百回と日記の中で目にした博士の愛に応えたロザリーのつぶやきは、陽の光に溶けていく。気づくのも、思い出すのも、帰ってくるのも、言葉にするのも、すべてが遅すぎた。
 ぽた、ぽた、と日記に水たまりができた。雨が降ってきた、とロザリーは思ったが、違う。視界もぼやけるその初めての感覚に、指を目に当てれば指先が冷たく濡れた。
「どうして……」
 ヒューマノイドの自分が涙など流すはずがないのに、一体どういうことだろう。ページをめくる内に、ロザリーは涙の真相を知る。

72年9月6日・曇り
僕もすっかり年老いてしまった。
きみは涙を流せただろうか。
ずっと涙が出ないと不思議がっていたね。
出ていくと言ったあの日の夜、きみに内緒でプログラムを追加したんだ。
きみの心がとてつもない悲しみか喜びを感じた時、それは流れるよ。
その時、きみは何を思って涙するのだろうか。
願わくばうれし泣きであることを祈る。

「うっ……ううぅ……」
 ――博士、あなたのことを思って、悲しくて泣いているわ。
 嗚咽で、言葉にはならない。
 胸が、張り裂けそうだった。

85年3月25日・雪
ロザリーを作ったことを後悔はしていない。
だけど、死期を目の前にした今、きみの元気な姿を最後にこの目で一目見れないことだけが心残りだ……。
きみを愛している。きみは、僕の最高傑作にして最愛の人だ。
どうか……、どうか、きみが幸せでいることを心から祈っている――

 その日を最後に、日記は途絶えた。

「うそつき……っ……博士が私を幸せにするって約束したのに……」

『僕は、きみをいつだって幸せにすると約束しよう』
 昨日のことのように思い出せる、ティータイムの約束。
 涙が止まらなかった。胸が痛い。心が壊れそうだ。そう思った時、

「やぁ、お帰りロザリー、紅茶を入れたから休憩しないか」

 悲しみに暮れるその空間を切り裂くかのように、その声は響いた。
 取り戻した記憶の中と同じ博士の声。振り向けば、部屋の入口に彼が立っていた。

 ――あの時(・・・)と変わらぬ姿で。
「僕を呼ぶきみの声で目が覚めたよ。きみを驚かせようとあれこれ用意していたら遅くなってしまった」
 何ごともなかったかのように話す博士に呆気にとられるロザリー。驚きのあまり涙はぴたりと止まった。そして、その顔は次第に綻び始める。
「も、もちろん……ジャムクッキーは、あるわよね……?」
「あぁ、もちろんだとも。この僕が、きみとの約束を破るわけがないだろう?」
 ロザリーは、あの時と同じ、バラよりも美しく可愛らしい笑みを浮かべて博士の胸に飛び込んだ。



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