「はぁ……。朝露って本当に綺麗よね」
「あさつゆ? なにそれ?」
「朝方におりた露のことよ。ほら、草の葉っぱに水滴が付いているの、見たことはない?」
「なんだ、ただのぬれた葉っぱか」
「朝の露はね、とっても消えやすいの。だから『儚いもの』に例えられたりするのよ」
「はかない? どういういみ?」
「ふふ。まだ直久にはわからないかもね。儚いっていうのはね、『人の命』みたいなものなのよ――」

 ◆

 ――季節は夏の顔が見え始めた七月上旬。
「良かった……。今年も何とか間に合って」
 新垣直久(あらがきなおひさ)は今年も朝早くから、ラベンダー畑に足を運んでいた。
 首から下げた一眼レフカメラを覗きながら、美しく彩られた花にピントを合わせては、記憶と記録に落とし込んでいく。
 渾身の一枚を撮ろうとすると、息をするのも忘れてしまう程だった。
 直久はシャッターを切る度に、大きく息を吸い込んだ。
 肺に新鮮な空気が取り込まれると、心臓が大きな音を立てて稼働するのがわかる。
 心地の良いその音は、まるで自分が今ここで生きていることを証明してくれているようだった――。
「長袖を着ておいて正解だったな」
 七月といっても、朝方はまだ少し肌寒い。
 軽く腕を擦りながら、直久はラベンダー畑を更に奥へと進んで行く。

「今年のラベンダーはどう?」
「いつも綺麗ですけど、今年は一段と綺麗に見えますね」
「やっぱり? 私もそう思っていたんだ」
「毎年改良されているのかもしれないですね」
「確かに、そうかもしれないね」
 直久の隣を歩く女性は椎名美里(しいなみさと)
 彼女とは直久がこの辺りに住んでいた頃、このラベンダー畑で出会った。
 当時はまだ小学二年生だったので自分でもよくわからなかったが、たぶん、一目惚れというやつだったのだと思う。
 彼女に会うために、高鳴る胸のせいで眠れなくなった夜を乗り越え早起きをし、ここへ来ていた。
 彼女を見つけるのは簡単だった。
 このラベンダー畑の奥には、ベンチが一つしか設置されていない。
 そして、彼女はいつも、そのベンチに座ってラベンダーを眺めていた。
 時折吹く風が、彼女の髪とラベンダーを同じ方向に揺らしていく。
 その時の印象が強いからだろう。
 僕はラベンダーの香りが、彼女の香りだと思っていた。

「どれくらい、こっちにいるの?」
「一泊二日の弾丸です。社会人になると、なかなか連休が取れなくて」
「幾つになったんだっけ?」
「美里さん、それ去年も聞いていましたよ。今年二十三歳です。毎年聞いていません?」
 直久は覗き込んだカメラから目を離し、丸めた背筋を伸ばして彼女を見た。
「そうだっけ? ごめん、ごめん。直久ももう社会人になったのかぁ。時が経つのは早いですなぁ」
「何ですか、その言い方。僕ももう、立派な大人なんですから」
 直久がそう言うと、美里は優しく透き通る笑顔を直久に向けた。
 年々美しくなるラベンダーのように、彼女の笑顔も、今までで一番美しかった。
 悟られてはいけない感情を抑えようとすると、自然とカメラを持つ手に力が入る。
 直久は咄嗟に美里から視線を逸らし、話題を変えた。
「そ、そういえば、今年はもう来たんですか? 毎年来てるっていう老夫婦」
「それが来ていないの。いつもならこの時間には来ているのに……今年は来られないのかなぁ」
 美里はラベンダーの香りを嗅ぐように、鼻を近づけながら言った。
 直久の脳裏に、一つの考えが頭を過る。
 初めてここに来た時、その老夫婦はすでに七十代だったと美里は言っていた。
 あれから十五年の月日が経っている。
 ――もしかすると、あのご夫婦はもう……。
「どうなんでしょう。でもまだラベンダーの見ごろは続きますし、今年はちょっと、遅くなっているだけかもしれませんよ」
 美里にそんな思考が及ばないよう、直久は先程の笑顔に負けないくらいの表情を作って、美里に語り掛けた。
「そうね……。あのご夫婦も直久みたいに毎年写真を撮っているから、もしかしたら一番綺麗に咲いていそうなタイミングを見計らっているのかも」
「いつも美里さんが座ってる、あのベンチからスタートするんでしたっけ?」
「うん。いつもあそこで二人並んで写真を撮って、それからゆっくりとこのラベンダー畑を回っていくの。幾つになっても仲が良いって本当に素敵よね」
 辺り一面が紫の絨毯の中を、仲良く二人で歩いていく。
 考えただけで、心が温かくなるのがわかった。
「美里さんと一緒に、そんな将来を描ければ良かったのに――」
 直久はふと、寂しさに身を震わせた。

 初めて気が付いたのは、直久が高校生になった十六の年。
 父親に買ってもらった一眼レフカメラを片手に、どことなく大人になれたような感覚に陥りながら、意気揚々とこのラベンダー畑にやって来た。
 そして、いつも通りベンチに座る彼女をカメラに収めた。
 しかし、撮ったデータを確認すると、そこに写っていたのは朝露の微かに残るラベンダーだけだった。
 何度撮り直してみても、結果は変わらない。
 カメラのファインダーから目を離せば、彼女は目の前に、手を伸ばせば触れられる距離に存在しているにも関わらず。
 当時は恐らく、とても動揺していた。
 今まで十年近く、毎年のように一緒に過ごしてきた彼女はこの世に存在しない(・・・・・・・・・)
 そんな事実をすぐに理解できる程、大人にはなれていなかった。
「綺麗に撮れたので、今度印刷して持って来ますね」
 それでも決して言葉に出すことはせず、直久は平然と振舞った。
 今考えても、あの時は良くそんな言葉が出てきたなと、我ながら感心する。
 記録に残らなくても良い。
 記憶に残っていれば良い。
 写真に写らなくたって、自分の愛する人は、ここにいる――……。

 それからも毎年、同じ月の同じ日、同じ時間に、直久はここに通っている。
 この一秒、この一瞬をしっかり目に焼き付けておくために。
 この時間こそが、直久にとっての『朝露』だったのかもしれない。
 例年通り、今年も美里と他愛のない話をしながら、ラベンダー畑を一周していく。
 あと少しで、この儚い時間が終わってしまう。
 少しずつ、日差しが強くなっていく。
 わかっていても、名残惜しいと思わずにはいられない。
「日が出てきましたね……、美里さん。いつものベンチで、少しだけ休みませんか」
 美里が微笑みながら頷くと、二人はベンチに腰を掛けた。
「あー、暖かい。今日は良い天気ね」
「本当ですね……。何だか少し、眠たくなってきました」
「私も。何だかんだで、まだ朝早いものね」
「そうですね……、美里さん。来年もまた、ここに来ますね」
「うん、待ってる。また来年ね……」
 その言葉を最後に、二人は身体を寄せ合うように眠りについた。

「よいしょ……、よいしょ……。おじいさん、あと少しですよ」
 (よわい)九十歳に迫ろうかという女性が男性の手を引き、ゆっくりと歩いている。
「ほらあのベンチ、今年もちゃんとありますよ」
「あぁ……」
 老夫婦は一歩、また一歩とベンチに近づいていく。
「よいしょっと。ふぅー……。おじいさん、今年も何とかここに来られましたねぇ」
「あぁ……。あと何回、来られることやら……」
「来年も、よろしくお願いしますよ」
 二人はベンチに腰を下ろすと、持参した水筒のお茶を一口ずつ飲んだ。
 そして、何かを思い出したかのように、女性が口を開く。
「それにしても今朝の事故、凄かったですねぇ。ここ(・・)に向かっていたそうですよ」
「凄いスピードだったんだろう? 遅刻でもしそうだったのか……、急いでいたのかもしれないねぇ」
 二人の間に、季節外れの冷たい風が流れ込む。
「あ、忘れないうちに今年も写真、撮っておきましょう」
 女性は(おもむろ)に鞄から小さなデジカメを取り出すと、必死に腕を伸ばし、二人が入る画角でシャッターを切った。
「今年も無事に撮れました……あら、見てください、おじいさん。今年も朝露が綺麗ですよ」
「本当だ……。美しいものは、いつ見ても儚く見えるねぇ……」
 二人は静かに、朝露の残るラベンダーを眺めている。

 ベンチに置かれたデジカメの画面には、笑顔の二人だけが(・・・・・・・・)映し出されていた――。