なんとか終電には間に合った。肺を搾るように呼吸をすれば、重たい溜息ばかりがこぼれ落ちる。
 
 僕は、とある中学校で数学の教師をしている。子供が好きな訳でも何か夢がある訳でもない。単に数学しか取り柄がないから、この職業を選んだというだけだ。
 だが安易に就職したことを、今になって後悔している。季節ごとに行われる大きなテスト、週ごとの小テスト、成績の低下著しい生徒への対応、受験に向けてのしがらみ、全く守備範囲外の文芸部顧問。
 数学だけをやっていれば良いという甘い世界ではないのだ。色々なものが猫背の肩にのし掛かり、揉んだくらいでは肩凝りも解消されない毎日の積み重ね。
 
 更に、今年入ってきた新任の先生にあれやこれやと教えなければいけない。これが一番しんどい。
 僕は他人とかかわるのが苦手だ。無口、無愛想、不器用、自分で言うのもなんだが三拍子が揃っている。恋愛については言わずもがなだ。
 
 さて今日も先輩からは仕事を押し付けられ、後輩のミスをフォローしてこの時間である。十一月の深夜はペラペラのコートでは寒すぎる。明日から冬物のコートを出さなくては。

 家に帰っても冷蔵庫には何もない。自炊しなければとは思うものの、結局いつものコンビニに足を向ける。弁当便が来る前の時間帯だったせいか、店内には目ぼしい商品は何もない。つくづくついていない。
 ないない尽くしの視界に入ったのはお握りが二つ。これとお茶でいいか。僕は、ペラペラのキャンペーンシールが貼られたペットボトルに手を伸ばした。

 侘しい一人暮らしの散らかった部屋で、僕は茫然としている。なんだがよく分からないが当たったようだ。ペットボトルに付いていたシールのキャンペーンに応募してみたら、スマホのアプリに当選メッセージが届いて驚いた。

「湯河原の高級温泉旅館で一泊夕食朝食付き 寛ぎのひととき」

 期間内で空きのあるところなら、日付は選べるようだ。インターネットで検索してみると、最安値でも七万円相当のパックプランらしい。大変だ、今年の運を使い果たしてしまうんじゃないだろうか。
 だがすぐに考えを改める。しばらく残業は続くだろう。受験に向けて、学校内の空気もささくれ立っている。僕は、なけなしの運をこの温泉旅につぎ込もうと決めた。

「いらっしゃいませ、ようこそ四ッ足旅館へ」
 すっかり面食らって言葉を失っている。駅へ迎えに来てくれた旅館の送迎バスに乗ること十数分。よく手入れされた植木を眺めながらしっとり濡れた石畳を歩き、趣のある玄関の引き戸を開ければ──。
 
 黒猫が僕を出迎えた。いや、黒猫のように見える人間と言えばいいのか。引き戸を開けてくれたのは、柔らかそうな桃色の、紛れもなく肉球だ。
 こなれた様子で出迎えの挨拶をする、旅館の主人然とした佇まい。着物の袖から伸びる柔らかそうな黒い毛並み。そして顔を見れば、にゃんとも可愛らしい黒猫そのもの。
 着こなしや何となくの雰囲気で、男性……だと見て取れる。猫主人が口角を上げて目を細めた。笑っているつもりのようだ。

「お客様を驚かせてしまったようで大変申し訳ございません。お好みの姿で接客させて頂きます」
 猫主人はくるりとその場で宙返りをした。軽々とした動きの次に現れたのは、歌舞伎俳優のようにすっと目鼻立ちの整った男性だ。ちなみに猫耳は付いたまま。

「猫の方がよろしかったでしょうか。最近は猫の姿に喜んで下さるお客様も多く」
「あ、いや。人間の方で」
「かしこまりました」
 
 お部屋へご案内致します、どうぞこちらへ。
 すっと伸ばされた指先も人間のそれに変わっていた。言われてみればさっきの肉球でも良かったかもしれない。僕は少しだけ後悔をした。
 違う違う、問題はそこじゃない。そもそもこの旅館で良いのかどうかだ。だが断るにしても、他人とかかわるのが苦手な僕には、上手い言葉が思い浮かばない。この場合は猫だからいいのか。よく分からなくなってきたな。
 考えが頭の中をぐるぐる駆け巡るうちに、離れの一室へ通された。

 ──素晴らしい眺めだ。
 隠れ家のようなこぢんまりとしたつくりの離れは、そうは言っても一人には贅沢な広さだ。からからと引き戸を開ければ、足元の灯りが雰囲気を演出してくれる踏込。猫主人の開けてくれたふすまの先にはゆったり寛げる客室。そして客室から延びる広縁には、いかにも年季の入った応接セット。

 何と言っても僕の目を釘付けにしたのは、広縁から直接降りることの出来る専用の露天風呂だ。露天風呂の周りは玉砂利と竹囲い、植木が風情を醸し出している。
 
「お風呂はいつでも好きな時間にご利用いただけます。プライバシーにも配慮しておりますのでお気兼ねなくお寛ぎ下さいませ」
「は、はい」
「こちらのお部屋は、かの文豪もよくお使いになられていました。そちらのテーブルで、あの名作が生まれたのでございます」
「え、え、かの文豪……ってあの明治の」
「ええ左様でございます。実は私も少しばかり登場など……ふふ」
 処理しきれない情報量に、僕の脳はすっかりキャパオーバーである。
 
「お夕食はお部屋にお持ち致します。何時頃がよろしいでしょうか」
「あ、えっと、ううん。どうしようかな……」
「お任せいただけるようでございましたら、そうですね。七時ではいかがでしょう」
「じゃあそれで」
「かしこまりました。それでは、お夕食の時間までどうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」
「は、はい」
 
 すっと畳に指をついて一礼をすると、猫主人はふすまをしめて部屋を出た。一人になった僕の耳に、庭の葉ずれ、湯の流れる音だけが聞こえてくる。

 頭の整理をしよう。ペットボトルのキャンペーンに当選して、湯河原の四ッ足旅館へ一泊しに来たしがない数学教師の僕。有名な旅行予約サイトにも載っている老舗高級旅館へ一泊二食付きの小旅行の筈だった。猫主人がいるなんて説明は、勿論どこにも書いていない。
 
 よし、一旦落ち着こうか。座卓に座り、お茶を淹れることにする。盆の上に置いてある一筆箋には、『美味しいお茶の淹れ方』が書いてあった。えらい達筆だ。
 
 ポットに適温の湯が入っております。お湯を湯呑みに入れて下さい。お湯を? まあ書いてある通りにやってみよう。茶筒に入った茶葉を急須に入れます。茶さじ一杯で二人分。じゃあ半分でいいか。そこに湯呑みの湯を注いで下さい。なるほど、これで一杯分が分かるのか。茶葉が開き、味が出るまで待ちましょう。スマホのタイマーを一分にセットして、と。急須をゆっくり回しながらお茶を湯呑みに注いで出来上がりですにゃん。にゃん!?
 一筆箋の最後には肉球の形のスタンプが押されている。落款のつもりだろうか? そのフォルムの可愛らしさに思わずにっこり……そうか、あの猫主人が書いたのか。
 
 座布団はふかふか、お茶はとても美味しい。外はすっかり日も落ち、ライトアップされた庭に露天風呂の湯煙が浮かび上がる。
 
 うん。まあ、いいか。
 黒猫が喋ろうが、猫が主人だろうが、この旅館が素晴らしいことに変わりはない。夕食まであと一時間。とりあえず……何も考えず露天風呂に入ろう!

 湯がこんこんと注ぐ贅沢な掛け流しの岩風呂に身を沈めれば、玉砂利に湯が溢れ出す。なんという贅沢。
 岩肌に両腕を伸ばし、昇る月を眺めるうちに、身体と心の疲労が湯に溶けてゆくのがしみじみと分かる。
 
 晩秋の夜風が顔に心地良く、首から下は丁度良い湯加減。無色透明で刺激の少ない泉質は、温泉ほぼ未履修の僕にはありがたい。これはいつまでも入っていたいお湯だ。
 日頃の不満だとか自分自身への鬱憤だとか、そんなものすべてがどうでもよくなっていく。そうだ、この旅館の主人が猫だっていいじゃないか。
 
 月が少しずつ明るさを増すにつれ、植木の向こう側が闇色を濃くしていく。辺りはすっかり夜だ。
 大変だ。そろそろ夕食の時間になってしまう。僕は岩風呂を出て身体を拭き、広縁の応接セットに掛けておいた浴衣に着替えた。
 
 芯からあったまったせいか、浴衣一枚でも身体はぽかぽかだ。備え付けの冷蔵庫から取り出した冷たいペットボトルのお茶で喉を潤しつつ、文豪が座ったという椅子でしばしクールダウン。
 
 少しして、『失礼致します。お夕食をお持ちしました』との声と共に、引き戸の開く音がした。慌ててだらけた浴衣の合わせを整える。

 先に入って来たのは猫主人。後ろには仲居さんが二人、お盆に料理を乗せて運んで来た。当然のように、仲居さん達の頭にも猫耳が生えている。やっぱりか。

 だがそんなことより今、僕の目はお盆の上の料理に釘付けだ。お、美味しそう。
 仲居さんが僕の前に先付の載った皿と小さめのワイングラスを置くと、今度は猫主人が手に持っていたワインボトルから山吹色の液体をグラスに注いだ。ワインボトルのラベルには、つんと澄まし顔の黒猫のイラストが描かれている。細かいところまで抜かりがない。
 
「こちらは山梨県のワイナリーで作られたシャルドネという品種のワインでございます。和の食材にもよく合う辛口になっております。先付は、相模湾で獲れた鯵のなめろうを洋風にアレンジしました。ブルスケッタに乗せてお召し上がり下さい」
「いただきます」
 まずはワインをひと口。リッチな味がする。僕にワインの舌がなくて本当に申し訳ない。美味い。なめろう乗せを口にしたあと再びワイン。合う。和食とワイン、合う。
 
 食べ飲み進めているうちに、いつの間にか猫主人が次の料理をテーブルの上に並べてくれていた。
 手前に置かれた皿には、豆腐、銀杏や栗、しらすなどを使ったひと口サイズの料理が綺麗に盛られている。その奥には、お待ちかね海の幸だ。
 
「こちらは前菜六品でございます。秋のお造りは金目鯛、太刀魚、黒鮪にイサキ。どれも地のものを使っております。お手数ではございますが、お好みでわさびをすってお召し上がり下さいませ」
 
 口にもご馳走だが、目にもご馳走だ。グルメに縁のない僕でも、一目で新鮮な魚だと分かる。前菜もひとつひとつ手が込んでいて、食べるのが勿体ないくらいだ。わさびをする作業も楽しい。
 
 前菜をつまみ、ぷりぷりの刺身に舌鼓を打ち、わさびにツンとなり、慌ててワインを飲む。目と鼻の間を押さえてツンを逃がしていると、いつの間にか目の前には、くつくつと煮えた小鍋が登場していた。
「松茸と三ケ日牛のしゃぶしゃぶでございます。湯河原のみかんを使ったポン酢だれでどうぞ」
 
 こちらも地のものにこだわった心尽くしのメニュー。松茸と牛肉なんて口にした記憶は遥か遠く、口いっぱいに広がる味わいに、喉も胃も大喜びだ。
 
 しゃぶしゃぶする食材が心もとなくなってきた頃、運ばれてきたのは金目鯛の煮つけ、炊き立てのご飯、椀物だ。絶妙なタイミングにはさっきから驚かされる。どこかで様子を見ている? まるで猫のような動きだ……あ、そうか。猫か。
 優しい味付けの金目鯛は箸でほろっとほぐれ、ご飯に乗せるとつゆが染み込んでいい具合の美味さだ。お椀の中身は赤だしの味噌汁。これもまた贅沢な料理で満たされた胃には嬉しい。
 
 すっかり猫主人のペースにハマり、出てくる料理をすべて平らげたところで、ようやく満腹になっていたことに気が付いた。普段こんなに量も質も摂取していない自分自身に申し訳なくなってくる。
 
 膨らんだ腹をさすっていると、猫主人が再びお盆を持って来た。
「料理はご満足して頂けましたでしょうか?」
「はい。どれも美味しかったです」
「ありがとうございます。こちらは食後のコーヒーと、手作りマカロンでございます」
「マカロン?」
 
 さすがにコーヒーくらいしか入らないとは思ったが、見ればひと口サイズの焼き菓子がソーサーに添えられている。表面には猫の顔が描かれていて、僕の心はすっかり射抜かれた。
「可愛いですね」
「ありがとうございます。フードペンで描くのですが、これがなかなか難しくて」
「えっ、ご主人が作ったんですかこれ!?」
「ふふ、左様でございます」
 
 さても謎の多い猫主人だ。

 再び一人になったところで、コーヒーに口を付けた。満腹感と多幸感の詰まった胃に、程よい苦味が爽快感をもたらしてくれる。食後のコーヒー、いい。
 不思議なことにあんなに満腹だったのに、手が勝手にマカロンへ伸びて口に運んでいた。
 サクッと軽い食感、ほんのり甘いバニラの香り、口溶けの良いあと味。これがまたコーヒーとよく合うので、一つ二つとつまんでしまう。

 ゆっくりとコーヒーを味わっていると、猫主人がおかわりを注ぎにやって来てくれた。つかず離れずのタイミングが心地良い。
 
「温泉は堪能して頂けましたでしょうか」
 猫主人の問いかけに、いつしか僕は身構えることを忘れ、まるでそれが自然なことのように受け答えしていた。
「はい。とてもいいお湯でした。肩の凝りもほぐれるような」
「それはようございました。当旅館のお湯は、筋肉の疲れ、リウマチなどによく効きます。見たところ、お客様のお疲れは相当溜まっているとお見受けしました」
「はは、バレてましたか」
「ええ。私共と同じような猫背が」
「あ、あはは」
 確かに、気付けば肩が丸まっているもんな。

 なんというか、いろんなものから隠れるみたいにして、毎日息を詰めて過ごしているような僕だ。面倒くさいもの、近寄りたくないもの、苦手なもの。疲れからくる猫背を理由にして、縮こまって目立たないように生きている。

「お布団を敷かせて頂きますが、別料金にはなるのですが、よろしければ猫マッサージというものがございます。お試しになりますか?」
「猫、マッサージ?」
「はい。癒されるとお客様には好評でございまして」

 なんとなく想像がつく。癒しの猫マッサージ。もしかしてもしかするかもしれない。
「その、マッサージしてくれる方というのは」
「ええ。我々、猫が施術させて頂きます」

 かくして僕は、ふかふかの布団に上にうつ伏せになっている。僕の上には猫が三匹。その柔らかい肉球で踏み踏みをしている真っ最中だ。
「揉み加減はいかがでございましょう?」
「さ、最高、れす……」
 首から肩にかけて、適度な重みと暖かさで凝りをほぐしてくれているのが、猫主人。仲居さん二匹は、腰とふくらはぎを担当してくれている。なんだこりゃ天国か。
 強い力では決してないのに、じんわりと肉球の優しさが伝わってきて、縮こまった筋肉が癒されていく。温泉とはまた違った贅沢さを味わえる。

「どこか、ご希望の箇所はございますか」
「……いや、もう……むにゃ……」
 どうやら僕はそのまま寝落ちしてしまったようだった。最後ににゃん、という一声を聞いたような聞かなかったような。


 障子の隙間から小鳥の囀る声と、柔らかく差し込む朝の光で目が覚めた。こんなに熟睡したのは何年ぶりだろう。
 ううーんと伸びをして枕元のスマホを見れば、朝の六時。アラームの力を借りずに目覚めるこの気持ちよさよ。足元はぽかぽかと暖かく、いつも寝苦しい首の寝違えもない。腰は軽く、快適に上体を起こせる。心なしか猫背も伸びたような気がする。

 朝食は七時だと、猫主人は言っていた。よし朝風呂に入るか。きらきらと輝く露天風呂へ、僕は再び湯を堪能した。

「お早うございます。お目覚めはいかがでしたでしょうか?」
 今朝は思い切って、猫姿の猫主人をリクエストしてみた。猫主人は「お安い御用でございます」とその場で宙返りをし、黒猫姿に着物といういで立ちで、器用に朝食を座卓に並べてくれた。

「朝食は、相模湾で獲れた鯵の一夜干し、静岡産の釜揚げしらす、昨晩の金目鯛のあら汁でございます。ご飯はお櫃におかわりをご用意してございます」
「いただきます」

 昨晩あんなに食べたというのに、朝はお腹がぺこぺこだ。ひとっ風呂入ったのもあるだろうけれど、健康的な朝に、身体が喜んでいるのが分かる。

 地のものを味わい、朝も大満足だ。昨日覚えた淹れ方でお茶を飲んでいると、あっという間にチェックアウトの時間になってしまった。この時間がずっと続いたらいいのにと思うが、僕は思い返す。これはなけなしの運を使い果たした温泉旅だ。もうこんな機会はないだろう。
 
「とてもいい時間を過ごせました。ご主人、皆さん、本当にお世話になりました」
「こちらこそ。お客様に楽しんで頂けて何よりでございます。あ、近くに小さいですが滝がございまして、そちらも癒し効果抜群の観光スポットとなっております。ぜひお立ち寄りになってみて下さいませ」
「行ってみます」
「それと。荷物になってしまいますが、当旅館のお茶をお持ち帰り下さい」
「あ、このお茶とても美味しかったです。ありがとうございます」
 
 猫姿の猫主人から自分の荷物とペットボトルのお茶を受け取り、名残り惜しい気持ちを堪えながら宿の玄関をあとにする。いい旅館だった。ちょっと不思議だけど、非常にいい旅館だった。猫主人、仲居さん達、ありがとう。
 僕はもう一度お礼をしようと来た道を振り返る。きっと皆さんが見送っていてくれているのだろう。

 そこに宿の姿は影も形もなく、さわさわと木立のざわめきが聞こえるばかりだった。

 あっけに取られた僕は、喉の渇きを覚えてペットボトルのお茶を口にする……、あれ。このお茶は消えていない。どういうことだ。
 コンビニに置いてあったお茶のキャンペーンシール。あれから全ては始まった。謎が解けたような、より深まったような。

 うん。まあ、いいか。猫主人に教えてもらった滝を見てから帰ろう。
 にゃん、と背後で合いの手が聞こえたような気がした。

   終