講堂の外に出ると、何とも言えない嫌な匂いがして……逃げてきた方面は見渡す限り焼け野原でほぼ何もなく、あちこちで火がくすぶって水道の水が噴き出していた。
 電線や都電の架線が垂れ下がり、地面の熱がまだ残っている中を進むと……播磨屋に近くなればなるほど被害の状況が酷く、目が染みるような焼けた臭いが強くなった。

 進む中でよく見かけたのは、黒い小さな塊の上に覆い被さった大きな黒い塊……

「なんだアレ……黒いマネキン? じゃない…………人間だ……」

 そこには男女の区別もつかないほど炭のようになった黒焦げの遺体が無数に転がっていた。

「なんじゃあ、こりゃあ!!」

「なんだよ……何なんだよ、これ!!」

 よく見ると大きな黒い塊は四つん這いになっている。
 それはきっと子供を必死に守ろうとした親達だったのだろう……
 ホースを持ったままの消防士など、至る所にまるでマネキン人形のように横たわって亡くなっている人、人、人……
 地獄のような光景に、これは夢なんじゃないかと思った。

 トラックが来て、遺体をどんどん荷台に乗せて運んでゆく……
 防空壕で蒸し焼きや窒息で亡くなった人達の遺体も引き出され、トラックに山積みにされる幼い兄弟の遺体や、手を繋いだままの男の子と女の子の遺体……
 あまりの光景に感情が麻痺し、涙も出なかった。

 なんとか播磨屋の近くに着いたが、最初に逃げようとしたコンクリート建てのアパートが無惨な姿になっていた。
 僕達は助けられなかった人を思い出し、悔しくて苦しくて申し訳なくて……ヒロと一緒にそっと手を合わせた。

 播磨屋の方を見ると建物があった場所は燃えて何もなくなっていた。
 ここにはいませんようにと願いながら防空壕の中を見ると……

 そこには缶を抱えてうずくまり、背中側が炭になった静子おばさんがいた。

「……おばさん? 静子おばさん!!」

 僕達は膝から崩れ落ち、その場にへたり込んでしまった。

「クソッ! クソーッ! なんでおばさんが死なんとあかんのや!」

「そんな……そんな……」

 ヒロと僕は現実が受け取められなくて、暫く呆然としていた。
 ふと下を見ると……静子おばさんが抱え込んでいた缶はススだらけだがキレイに焼け残っていた。

「これ、お米が入ってた缶や……」

 丁寧に引き離した缶を開けると、底には少しだけお米が入っていて……
 中には仏壇から持ち出した位牌と、駅伝の新聞、僕が描いた純子ちゃんの絵とヒロがあげたカンザシと……
 僕達が描いた『未来を生きる君へ』が入っていた。
 そしてもう一つ、ドロップの缶が入っていて……中を開けてみると溶けて固まった砂糖の塊が入っていた。
 匂いからして、おそらくそれは僕達があげた軍粮精……

 火がまわって外に出られなくなったおばさんは、きっと最後の力を振り絞り……遺しておきたい大切なものをかき集めて缶に入れ、防空壕に戻ってこの缶を守ったのだろう。
 何もなくなった地で僕達が、食べ物に困らないように……
 みんなの希望を残したいという子供の意志を尊重し、その成長と未来の幸せを願うように……
 大好きな旦那さんの想いを守り、「最後まで一緒にいたい」と言っていたかように……

 暫くするとトラックが来て、静子おばさんの遺体は小学校に運ばれて火葬されてしまった。
 火葬の前にせめてもの形見と燃え残った服の一部をもらい、僕達は朦朧としながら帰途についたが……
 講堂に戻った僕達は、純子ちゃん達に缶を渡しながら嘘をついた。

「いや~よかったよかった、おばさん生きとったわ~取りに行ったもんも無事やし……缶の中に入れるとは、さすが静子おばさんやな~」

「心配しなくても大丈夫! ちょっとケガしてて今は一緒に来れないけど、治ったらココに会いに来るって」

「なんだ、よかった~安心したら僕お腹すいてきちゃったよ……源兄ちゃんコレ見て~みんなが乾パンのお礼にって持ってきてくれたんだよ?」
 
 乾パンを渡した時にお礼を言われたが、お返しまでとは……ありがたいし日本人は律儀な国民性だ。

「あの……コレよかったら配給の粉ミルクなんですけど乾パンのお礼です……少しですけど、お腹の足しになれば……」

「いやいや、こんな貴重なモノ貰えませんよ」

「いいんです! もう必要ないので……」

 その時、気付いた。
 目の前にある貴重な食べ物は、本当は大切な誰かに食べさせたかった物だということに……
 ふと、おばさんが残した軍粮精のことが浮かんだ。

「あり……がとう……ございます……」

 その途端、今まで我慢していた涙が溢れ出た。

「源兄ちゃん? なんで泣いてるの? ねえ……そんなに嬉しかったの?」

 その時、純子ちゃんが……

「嘘なんでしょ!? お母ちゃんが来るって……源次さん嘘つくの下手過ぎ……左肩も火傷してたのに黙ってたし、もう大丈夫だなんて嘘つかないで!」

 僕とヒロが看護婦さんに両手の火傷を応急手当してもらった時、ヒロはすぐに右肩の処置もしてもらったが……僕は朝になるまで隠していた分、火傷が悪化しているとのことだった。

「本当は何があったの? ねえ、教えて!」

「すまん純子……ほんまはな……静子おばさん死んでもうたんや……」

「ごめん……播磨屋に行ったら防空壕の中で亡くなってた……もう火葬されて、おばさんの形見は洋服の一部しかもらえなくて……」

「え? 嘘……嘘だよ、お母ちゃんが死ぬわけないよ……冗談だよね、弘兄ちゃん?」

「死んだんや!…………すまんのう……俺がもっと戻るのを止めていれば……」

「私のせいだ……私が取りに戻るなんて言わなきゃ、お母ちゃんが戻る事なかったもの…………私が死なせた……私が……」

「違うよ! 純子ちゃんのせいじゃない! おばさんは自分の意志で取りに戻って、この缶を守ったんだ……見て? この中には静子おばさんの願いが込められてる」

「取りに行ったのが全部入ってる……あれ? この缶なに?」

「軍粮精……浩くんが食べたがってたから一緒に入れておいてくれたんじゃないかな? みんなで食べて元気に生きてほしいって……それとコレがおばさんの形見……」

「そ、んな……嫌だよ……食べるの楽しみにしてたけどさ、軍粮精よりお母ちゃんに会いたい! お母ちゃんに会いたい! お母ちゃ~ん!! お母ちゃ~ん!!」

 浩くんはヒロに抱きついて大声で泣き続けた。
 純子ちゃんは形見の布を受け取りながら涙も流さず呆然とした顔で震えていて……僕はただ純子ちゃんの手を、ぎゅっと握り返すことしかできなかった。

 講堂には被害状況を目の当たりにして帰る所のない人々が続々戻ってきた。
 耳にするのは酷い話ばかりで……

 至る所で巨大な火災旋風が発生し、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化して炎に巻かれて焼死、炎に酸素を奪われて窒息死……
 川の水面は焼夷弾の油に引火した「燃える川」と化して、隅田川・荒川放水路等は焼死・溺死・冷たい水による凍死者が川面にあふれていたそうだ。

 両国橋の被害も凄かったが、言問橋(ことといばし)では人が殺到して身動きがとれず……怒声と悲鳴が飛び交う人達の上に炎がどんどん燃え広がり、橋の一帯で約7000人が亡くなった。
 関東大震災の教訓を活かして作られた幅の広い鉄の橋だったのに、大震災で起きた時と同じ悲劇が繰り返されてしまった。

 中には銀行に逃げ込み、煙は下にいくからと地下室ではなく1階に留まって燃えやすいカーテンをはずし、皆で協力して消火しながら助かった人もいたそうだが……
 避難場所に指定されたあるビルの地下に詰めかけた人々は群衆雪崩で圧死、お寺に逃げこんで念仏をあげる者もいたが木造なので全焼……

 防火用水に潜って助かった者、沸騰した防火用水に飛び込み命を失った者……
 折り重なる焼け焦げた遺体の下で偶然生き残った者、川に飛び込み多くの人が飛び込んできたことにより溺死した者……
 都内には色々な川があり川に逃げた人の大半は亡くなったが、たまたま通った船に引き上げられて助かった者もいて、全てが紙一重だった。

 隅田川には毎日のように遺体が流れ、公園や小学校や動物園など広い場所には遺体の山ができた。
 一箇所に山積みされて火葬され、通常の埋葬ができないので公園や寺院の境内などに穴を掘って仮埋葬がされた。

 焼け野原の中でも銀座の和光ビルは焼け残って……下町からも見えたという時計塔は「戦火を乗り越えた希望の象徴」になったという。

 「東京大空襲」では一夜にして10万人以上の命が失われた。
 東京の3分の1以上が焼けて、負傷者は15万人以上、損害家屋は27万戸以上にのぼり100万人もの人が家を失った。

 疎開で地方にいた者も卒業式のためなどで東京にいた者も多く……
 空襲警報が遅れたこと、北風や西風の強風による延焼、小学校・地下室・公園などの避難所も火災に襲われたこと、踏みとどまって消火しろとの指導で逃げ遅れたことなど様々な要因があるが……
 単独の空襲による犠牲者数が歴史上過去最大で、まるで「東京大虐殺」だった。

 米軍の中には「民間人の被害が多く出るのでは」と意義を唱える者もいたが、司令官は「軍事産業の労働者だからよい」と一蹴し断行されたそうだ。

 3月10日の夜の首相ラジオ演説は「空襲に耐えることこそ勝利の近道、一時の不幸に屈することなく聖戦の達成への邁進を切望する」とのことで……
 「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めた。
 空襲による悲惨な本当の被害実態はラジオや新聞で報道されず……「被害は僅少」という大本営発表が報じられた。
 皆が何も言えない中で「消防は二の次で、逃げるのが一番よいと思う!」と反論する議員がいたのが唯一の希望だった。

 地獄のような惨状の中でも人々は助け合い……食べ物を求める人と貴重な食糧を分け合ったり、寒い中で服や靴を失った人に服や靴を手渡す姿も見られた。
 
 落ち着いた頃に皆で僕のアパートの方に行ってみると……幸いにもなんとか焼け残っていた。
 近くの大学病院で火傷を診てもらったら、ヒロが全治3週間で僕が全治1ヶ月位とのことで……
 それをヒロが百里原に連絡したところ、火傷の療養を行い治った後に合流するようにとのことだった。

「あのさ……火傷が治るまで暫く僕の実家にみんなで住まない? アパートじゃ狭いし、妹に似てる純子ちゃんや気に入ってるヒロ達が来たら母さんも喜ぶだろうし」

「ありがたい話だけど、ご迷惑じゃない? でも妹さんもいらしたのね、私もお会いしたいわ」

「妹は西埼玉地震の時に亡くなったんだ……」

「えっ? そんな……ごめんなさい……」

「いいよいいよ、僕が言ってなかったんだし。ねえ浩くん……君が好きな軍艦と同じ地名だし、東京より安全な場所だよ? ヒロもそれが一番いいと思うだろ?」

「早う敵を取りたいとこやけど、こんな手じゃ操縦管が握られへんしな……すんまへんがお世話になります! それにしても、な~んにもなくなってもうたな~」

「なんにもじゃないよ? 姉ちゃんも僕も、弘兄ちゃんも源兄ちゃんも生き残ってる…………お母ちゃんは、お父ちゃんや姉ちゃんや僕の思いを守ってくれたんだよね? だったらこれからは僕が姉ちゃんを守るよ!」

 浩くんは泣き腫らした目で両手を広げ、9歳とは思えない強い眼差しをしていた。

「浩ちゃんはすごいね…………昔から甘えたがりで私が子守唄歌わないと泣いてばかりだったのに………私より何倍も強い」

 純子ちゃんは静かに涙を流しながら缶を大事そうにギュッと抱き締めて立ち上がった。

「行こう、みんなで! 源次さん、お世話になります!」

 そう言ってお辞儀し、無理やり笑顔を見せようとする純子ちゃんの姿は……痛々しくて見ていられなかった。