次の水曜日の放課後、杏実は初めて水谷に「会いに」行った。といっても、教室まで行く勇気は出ず、いつも通り昇降口前の自動販売機の横に立っていただけなのだが、「たまたま会う」と思っていた今までと、「また水曜日に」と言われた今日では、杏実の心持ちが違ったのだ。
 風が吹いた。刈られたばかりのグラウンドの芝生の匂いが舞い上がって、季節が夏に移行しようとしているのを感じた。
「清野さん、こんにちは」
 後ろから現れた水谷に声をかけられ、思わず笑みがこぼれた。そんな自分に戸惑う。桧山から「あなたは慎之介の隣にふさわしくない」と言われてから、水谷を変に意識してしまっている。
「こんにちは」
 目を合わせられなかった。
「この前はありがとう。忙しい中、ジャージをすぐに返してくれて助かったよ。お金も」
 水谷がエコバッグからがま口財布を出し、自動販売機にお金を入れ始めた。
「いえ。お礼を言うのは私の方です。本当にありがとうございました」
「歌恋から聞いたよ。自販機の前で偶然会った歌恋が声掛けたんでしょ? 三年生の教室まで来るのは大変だろうから預かっておいたって言ってたよ。『清野さん、びっくりして固まってた。悪いことしたかな』って言ってたけど、そりゃあ、突然声かけたら驚くよね。ごめんね」
 がごん。一本目の緑茶が落ちた。
 会長と副会長は、お互いにファーストネームを呼び捨てするような親密な関係なのだ。心臓がわしづかみされたように痛んだ。実際に会った階段ではなく、「自動販売機」と言ったのは、毎週水曜日に水谷と会っている杏実に対するけん制だろう。桧山が杏実の紙袋をだしに水谷と喋ったことも、紙袋を預かったのはあたかも自分の好意であるかのように語った桧山も、桧山の代わりに謝る水谷も、全部気に入らなかった。
 違いますと言いたかったのに、口の中がからからで、うまく声が出ない。
「歌恋は、なんでもズバッと言う性格だから、きついと思われがちだけど、根はいい子なんだよ。仕事もできるし、すごく頼りにしてる。だから清野さんも今回はびっくりしたかもしれないけど許してあげて」
 がごん。二本目はフルーツティーだ。マスカット味の甘くて冷たい紅茶。クラスの女子がよく飲んでいるイメージだ。これは一体誰のリクエストなのだろう。
「手紙、嬉しかったのに」
 こんな言葉に限って、はっきりと声に乗ってしまった。
「え?」
 水谷の動きが止まった。ゆっくりと振り返る。
「のに、ってどういうこと?」
 杏実はその質問を無視する。
「水谷会長は、桧山副会長と付き合っているんですか?」
「付き合ってないよ。家が近所で昔から付き合いがあるっていうだけ。分かりやすく言えば幼馴染かな」
 幼馴染。杏実が絶対に構築することのできない関係性だ。それって、恋人よりも深い関係なのではないか、と思った時に、再びあの疑問が首をもたげる。
 ――私、水谷先輩のことが好きなの?
 よく分からない。でも、水谷の口から桧山の話を聞くのは、不快だった。
「いつもふがいない僕のことを支えてくれて、すごく助かってるんだよ。僕がここまで生きてこられたのは、歌恋のおかげと言ってもいい。そのくらいお世話になってる」
「会長は、どうしてそのままで平気なんですか!」
 大きな声が出た。窓が開く音がした。きっと桧山が聞き耳を立てている。でも、そんなことはどうでもよかった。目の前にいる水谷がとても無責任に見え、ふつふつと怒りがわいてきた。
「生徒会長に立候補したくせにやる気なくて、入学式であんな無様なスピーチして、副会長にカンペまで出してもらって、それで一年生にも在校生にも笑われて、悔しくないんですか? 羞恥心はないんですか? 私だったら絶対に無理です。あんなスピーチしたあと、学校に来られません。先輩は違うんですね。醜態をさらした上に、生徒会メンバーの買い物なんて雑用引き受けて、この学校の上に立つ者として恥ずかしくないんですか? 選挙で敗れた奥田先輩に、申し訳ないとは思わないんですか?」
「思うよ」
 ヒートアップする杏実とは対照的に、水谷の声は穏やかだった。逆上されるならまだ理解できた。水谷が何を考えているか分からず、恐ろしかった。
「友達から向いてるよって言われたのを真に受けて立候補して、本当に生徒会長になってしまったけど、後悔してる。他の人の方が優秀だから。奥田くんや歌恋が生徒会長だった方が、この学校にとって良かったんじゃないかと思うよ」
「そんなことないです」
 とっさに否定するが、
「さっき清野さんがそう言ったんだよ?」
 墓穴を掘って笑われた。
「でもね、最近分かったんだ。人それぞれ得意なことは違うから、得意なことは得意な人に任せればいい。そう思ってる」
 まっすぐに杏実を見つめる瞳は凪いでいて、心からそう思っていることが伝わってきた。
「ごめんなさい、今のは八つ当たりでした。私、幼稚園の時、おゆうぎ会で頭が真っ白になったことがあって、勝手に先輩と自分を重ねてしまったんです」
 水谷が静かにまばたきを繰り返した。桧山の邪魔は、まだ入らない。喋ってもいい、今なら友人にも言えなかったことが喋れると思った。
「私のセリフは一言しかなかったんです。今でも覚えています。『みんな、一緒におにぎり食べよう』これだけです。前の人のセリフが終わって、次に行くはずが、誰も話し始めないんです。どうしたんだろう、おかしいな、と思った瞬間、自分のせいだって気づいたんです。みんな私のセリフを待ってるんだって」
 水谷がゆっくり頷いた。分かるよ、と言ってもらえたような気がして、滑らかに口が動いた。
「練習では一度も飛ばしたことがありませんでした。だからみんな驚いていました。思い出そうとすればするほどパニックになって、何と言えばいいか分からなりました。客席の最前列にいた先生が小声で教えてくれて、なんとかなりましたが、その時の感覚――たとえば体が冷えていく感じや、頭はフル回転しているはずなのに何も思い出せなくて、より焦るような感覚は未だに覚えています。私は人前に立つのが苦手です。その時のことを思い出してしまい、また失敗するんじゃないかと思うと何も話せなくなるんです。この引っ込み思案な性格をなんとかしたいです」
 しばらくしてから水谷が口を開いた。
「無理に変える必要はないと思う。苦手を克服するんじゃなくて、得意なことを見つければいい」
 優しい声だった。心がふわりと浮いたような心地がした。
 毎日顔を合わせるクラスメイトの前でさえ発表できず、「ここで話せないと社会で通用しないわよ」と怒られてばかりいた杏実にとっては、予想外の答えだった。
「無様でもですか?」
 水谷が苦笑して頭を搔く。
「まあ、無様なのは嫌だけどね」
「どっちなんですか」
 腹の底から笑いがこみ上げてきた。人前に立つことが苦手だろうと得意だろうと、そこに優劣はないのだろう。舞台で堂々としているだけが正解じゃない。だって、水谷先輩はこんなにも優しい。こだわっていたのは周囲の人達ではなく、杏実自身なのだと気づかされた。
「私、水谷先輩が無様なおかげで、自信を持てそうです」
「はあ? どういうこと?」
 水谷が素っ頓狂な声を上げた。杏実はくすくすと笑う。
「人前に立つことが向いていなくても、それを無理に矯正する必要がないんだって思えました。ありのままに生きている先輩のおかげです」
「馬鹿にしてるの?」
「まさか! 褒めてるんですよ」
 杏実が顔を上げ、水谷の目を見据えた。水谷は苦笑いを浮かべている。
「ありのままついでに言いますね。私、たぶん水谷先輩のことが好きです」
「たぶんって何?」
 水谷が眉根を寄せた。杏実が息を吸い込んだ瞬間。
「慎之介! まだ買い終わらないの? みんな待ってるよ。早く」
 桧山が上の窓から顔を出し、声をかけてきた。それを聞いて我に返った。
「引き留めてしまってすみません。私は帰ります」
 水谷が何か言う前に杏実はその場を立ち去った。背負っているリュックのひもを両手でぎゅっと握り、駆け足で校門へと向かう。
 ――どうして桧山先輩に見られてるって分かってたのに、あんなこと言っちゃったんだろう。
 人生で初めて、自分を受け入れてもらえたような気がした。だから油断した。杏実の邪魔をしてくるところを見るに、桧山はきっと水谷のことが好きなのだろう。
 幼馴染で頼りになって美人な桧山に、凡人の自分が勝てるわけがない。失敗が怖いなら、挑戦しなければいい。
 雑念を振り払うように、走るスピードを上げる。水谷と桧山が手を繋いでいる幻影が脳裏をかすめた。普段運動をしなれていないせいで、息が苦しい。