その日、私は会社を辞めた。
「お疲れ」
上司は、目も上げず形ばかりの言葉を返す。
私は一つ礼をして、3年間お世話になった職場を後にした。
「あ、伊部」
資料室の前を通り過ぎようとした時、それは聞こえて来た。
(千財さん、池逗さん。それに……)
「……」
(……武森さん)
フロアのリーダー格、千財さんは蔑んだ眼差しをこちらへ向ける。
「そういえば伊部、今日で辞めるんだっけ?」
「送別会でもするぅ?」
「まさか」
池逗さんの言葉を、千財さんは言下に否定する。
「伊部と一緒に食事とか無理じゃない?」
「だよねぇ」
池逗さんが狡そうに笑う。
「絶滅したオスと原始的な繁殖がしたいとかぁ、その感性が無理ぃ」
二人は露骨に私へあてつけながら、聞こえるように会話している。
(くっ……)
私は足早にその場から去ろうとした。
しかし千財さんは逃さぬとばかりに声を荒げる。
「武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!」
「……」
振り返った先、武森さんはうなだれていた。髪がのれんのように横顔を覆い、その表情は見えない。
やがてぽつりと零れたのは、無機質な声。
「……いいよ、もう」
「武森! だってあんた、伊部に振り回されて……!」
「……関係ない!」
武森さんの声は小さく震えている。横顔を覆う髪の向こうから雫が落ちるのが見えた。
「……ごめんね!」
いたたまれず、私はその場から駆け去る。
「最低!」
千財さんの鋭い怒声を背に受けながら、私は会社を後にした。
(また、ここに来ちゃった……)
私は区画D――自然保護区へと足を踏み入れる。
目の前に広がるのは、夕日に染まる草原。樹が生い茂り、花が咲き、穏やかな音を立てて川が流れている。甘い風がふわりと私の髪を揺らした。
(気持ちいい……)
目を閉じると、虫の羽音や動物の鳴き声が耳に届く。新鮮な草のアロマ。鼻先をかすめる気配に目を開くと、テントウムシが飛び去って行くのが見えた。遠くでは鹿の群れが移動している。
「はぁ……」
草むらに腰を下ろすと、じわりと視界が歪んだ。
――武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!
千財さんの言葉が胸を苛む。けれどそれ以上に堪えたのは、武森さんの涙だった。
――……関係ない!
(ごめん、武森さん。ごめんね……)
私と武森さんは数日前まで恋人だった。仲睦まじい私の二人の母のように、温かい家庭を作ることを目指すパートナーだった。
でも、駄目だった。
私は彼女を、どうしても恋愛対象に見られなかったのだ。
(彼女はあんなに優しいいい子なのに……)
私は昔からこの女だけの世界で、女に恋愛感情を抱くことが出来なかった。それよりも、なぜかとうに絶滅した「男」に心惹かれた。
人類史の本によれば、男という生物は女よりも体が大きく力が強く、ゆえに力づくで物事を解決する傾向があったらしい。体は筋肉質で固く、胸は平坦、全体的にごつごつとしている。その声は地の底から響くほど低く、女に恐怖を抱かせるものだったとか。
授業で教えられた時、クラスの子たちは揃って顔を歪め悲鳴をあげた。しかし、私は恐怖よりも興味の方が勝った。
一度見てみたいと。
それから私は、「男」に関する記録を読み漁った。
だが、その行為は周りの人間の目には奇異に映ったらしい。時が経つほどに、友人と呼べる人間は一人、また一人と去って行った。私の異様な行動には両親も頭を抱え、気付けば私は地域で孤立していた。
そんな私に手を差し伸べてくれたのが、武森さんだった。
彼女は私の噂を知りながら、好意を寄せてくれた。私の知識を誉め、研究する姿勢に敬意を示してくれた。
そんな彼女に、私も自然と好意を抱いた。
手を繋ぎ、ハグをすると、心の奥から甘いぬくもりが湧きあがる。これが愛し愛されることだと感動を覚えた。
彼女なら愛せる、永遠を誓うパートナーになれる、確かにそう思ったのだ。
けれどそれはハグまでだった。
キス以上のことをしようとすると、私の体は拒絶反応を起こす。大好きなのに、大切なのに。
やがて私は彼女に別れを切り出し、関係を解消するに至った。
私の変人ぶりが原因で孤立することはあっても、暴力や迫害を受けたことはこれまで一度もなかった。それは文明レベルの低い者のすることであり、恥ずべき行為とされていたからだ。
けれど武森さんを傷つけたことで、会社の人たちは私を白眼視し始めた。献身的に愛を注ぐ恋人を傷つけ、絶滅した前時代的な生物を選ぶ、頭のおかしい人間だと。
その空気に堪えられなくなった私は、ついに今日会社を辞めた。
(私だって、普通に生まれたかった……)
「お疲れ」
上司は、目も上げず形ばかりの言葉を返す。
私は一つ礼をして、3年間お世話になった職場を後にした。
「あ、伊部」
資料室の前を通り過ぎようとした時、それは聞こえて来た。
(千財さん、池逗さん。それに……)
「……」
(……武森さん)
フロアのリーダー格、千財さんは蔑んだ眼差しをこちらへ向ける。
「そういえば伊部、今日で辞めるんだっけ?」
「送別会でもするぅ?」
「まさか」
池逗さんの言葉を、千財さんは言下に否定する。
「伊部と一緒に食事とか無理じゃない?」
「だよねぇ」
池逗さんが狡そうに笑う。
「絶滅したオスと原始的な繁殖がしたいとかぁ、その感性が無理ぃ」
二人は露骨に私へあてつけながら、聞こえるように会話している。
(くっ……)
私は足早にその場から去ろうとした。
しかし千財さんは逃さぬとばかりに声を荒げる。
「武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!」
「……」
振り返った先、武森さんはうなだれていた。髪がのれんのように横顔を覆い、その表情は見えない。
やがてぽつりと零れたのは、無機質な声。
「……いいよ、もう」
「武森! だってあんた、伊部に振り回されて……!」
「……関係ない!」
武森さんの声は小さく震えている。横顔を覆う髪の向こうから雫が落ちるのが見えた。
「……ごめんね!」
いたたまれず、私はその場から駆け去る。
「最低!」
千財さんの鋭い怒声を背に受けながら、私は会社を後にした。
(また、ここに来ちゃった……)
私は区画D――自然保護区へと足を踏み入れる。
目の前に広がるのは、夕日に染まる草原。樹が生い茂り、花が咲き、穏やかな音を立てて川が流れている。甘い風がふわりと私の髪を揺らした。
(気持ちいい……)
目を閉じると、虫の羽音や動物の鳴き声が耳に届く。新鮮な草のアロマ。鼻先をかすめる気配に目を開くと、テントウムシが飛び去って行くのが見えた。遠くでは鹿の群れが移動している。
「はぁ……」
草むらに腰を下ろすと、じわりと視界が歪んだ。
――武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!
千財さんの言葉が胸を苛む。けれどそれ以上に堪えたのは、武森さんの涙だった。
――……関係ない!
(ごめん、武森さん。ごめんね……)
私と武森さんは数日前まで恋人だった。仲睦まじい私の二人の母のように、温かい家庭を作ることを目指すパートナーだった。
でも、駄目だった。
私は彼女を、どうしても恋愛対象に見られなかったのだ。
(彼女はあんなに優しいいい子なのに……)
私は昔からこの女だけの世界で、女に恋愛感情を抱くことが出来なかった。それよりも、なぜかとうに絶滅した「男」に心惹かれた。
人類史の本によれば、男という生物は女よりも体が大きく力が強く、ゆえに力づくで物事を解決する傾向があったらしい。体は筋肉質で固く、胸は平坦、全体的にごつごつとしている。その声は地の底から響くほど低く、女に恐怖を抱かせるものだったとか。
授業で教えられた時、クラスの子たちは揃って顔を歪め悲鳴をあげた。しかし、私は恐怖よりも興味の方が勝った。
一度見てみたいと。
それから私は、「男」に関する記録を読み漁った。
だが、その行為は周りの人間の目には奇異に映ったらしい。時が経つほどに、友人と呼べる人間は一人、また一人と去って行った。私の異様な行動には両親も頭を抱え、気付けば私は地域で孤立していた。
そんな私に手を差し伸べてくれたのが、武森さんだった。
彼女は私の噂を知りながら、好意を寄せてくれた。私の知識を誉め、研究する姿勢に敬意を示してくれた。
そんな彼女に、私も自然と好意を抱いた。
手を繋ぎ、ハグをすると、心の奥から甘いぬくもりが湧きあがる。これが愛し愛されることだと感動を覚えた。
彼女なら愛せる、永遠を誓うパートナーになれる、確かにそう思ったのだ。
けれどそれはハグまでだった。
キス以上のことをしようとすると、私の体は拒絶反応を起こす。大好きなのに、大切なのに。
やがて私は彼女に別れを切り出し、関係を解消するに至った。
私の変人ぶりが原因で孤立することはあっても、暴力や迫害を受けたことはこれまで一度もなかった。それは文明レベルの低い者のすることであり、恥ずべき行為とされていたからだ。
けれど武森さんを傷つけたことで、会社の人たちは私を白眼視し始めた。献身的に愛を注ぐ恋人を傷つけ、絶滅した前時代的な生物を選ぶ、頭のおかしい人間だと。
その空気に堪えられなくなった私は、ついに今日会社を辞めた。
(私だって、普通に生まれたかった……)