翌日。俺が学校の廊下を歩いていると、背後から変な声が聞こえてきた。
「いとー」
振り返ると、坂巻が後ろから走ってくるのが見えた。
「何その呼び方」
坂巻が俺の隣に来てから問うと、え、と目を見開いて坂巻が言った。
「伊藤、でしょ?あんたの苗字」
「そうだけど」
「じゃあ合ってんじゃん」
「合ってるんだけど、なんていうか、思いっきり伸ばし棒が付いてるから」
「...人の発音にケチ付けてくれるなよ」
「少しだったら付けても良くないか?」
言い合いを続けながら教室に入ると、なんだかみんなの雰囲気に違和感があった。
なんというか、刺々しいというか、俺と坂巻だけ浮いている感が出ているというか...
坂巻もそれを感じ取ったらしく、困ったように此方に顔を向けてきた。俺はもっと困って、坂巻から顔を背けた。
席についても、周りからのなんともいえない視線と圧は、俺がそのうちぺちゃんこになるんじゃないかと思う程だった。
もうこうなってしまうと、周りに声を掛けることさえ憚られるようになる。
冷たい汗が首筋を伝った。
「あの話、本当かな?」
周りのコソコソとした会話が聞こえてくる。
「葵ちゃん、言ってたよね、瑠衣ちゃんが二重人格者だって」
耳を疑った。
圦里 葵は、昨日俺に声を掛けてきた鈴谷と仲が良い、クラスの人気者だ。
明るく楽しく元気良く、と3拍子揃った圦里の話なら、あっという間に広がってもおかしくない。
頭がくらくらしてきた。
いつもそうだ。ちょっとした綻びをきっかけに、あっという間にクラスの輪から弾かれてしまう。人の思い込みと噂ほど怖いものを、俺は他に知らない。
嗚呼、またか。
諦めのような、悔しさのような、どす黒い感情が心の中に渦巻いて行くのを、どうすることもできなかった。
* * *
私は自分の席につくと、あれこれと考えを巡らせていた。
「坂巻」
後ろから声をかけられて振り返ると、あまり喋ったことのない男の子達が立っていた。
「なに?」
「お前さ、なんで伊藤と関わったりするんだ?彼奴おかしいぞ」
「え、なんで?」
私は驚いて素っ頓狂な声を上げた。
「なんでおかしいの?」
男の子達は困った様に顔を見合わせると、私の目を真っ直ぐ見て言った。
「昨日、圦里がクラスのチャットルームで言ってたんだよ、伊藤は二重人格者だから関わらない方が良いって。坂巻、チャットルーム入ってたっけ?」
急に、香織ちゃんと仲が良い女の子2人のうち1人の名前が出てきて、私は少なからず驚いた。
「いや、入ってないけど...」
「そうだっけ、入る?」
「ううん、携帯持ってないから」
「え、あぁ、そうなんだ」
「その話、葵ちゃんが放課後に言ってたの?」
「応」
「ふーん...そうなんだ...違うと思うけどな...」
「あんまり彼奴とは関わらない方が良いぞ、碌なことにならない」
私は遠回しに否定したものの、男の子達は捨て台詞を吐いて足早に去っていった。
彼奴おかしいぞ––––アイツらは確かにそう言った。何がだよ、何処がおかしいんだ。ろくに伊藤と会話もしたこと無いくせに。
静かな怒りが込み上げてきた。でも、と私は思い直した。男の子達は葵ちゃんから、嘘というか勘違いというか、どちらにせよ少なからず悪意のある情報を頼りに動いているのだ。
つまり、私が、というか伊藤と私が、怒りの矛先を向けるのはさっきの男の子達でも、私たちを孤立させているクラスの皆でもない。
葵ちゃん唯一人なのだ。
でも、葵ちゃんに対する怒りを口にする勇気など、私には湧いてきそうになかった。
どうも、あの子は苦手だ。明るくて、友達がたくさんいて。典型的「いい人」なんだけど、どこか近寄り難い雰囲気を醸し出していたのだ。この高校に入って、このクラスになって、ずっと抱いていた「なんとなく」の苦手意識や疑い、僅かな恐怖が、一気に噴き出すのがわかった。
多分、葵ちゃんに伊藤が二重人者であると吹き込まれた人(残念ながらクラスのほぼ全員になる)は、私がわざわざ伊藤と関わる意味が分からないのだろう。仮にクラスメイトが二重人格者だと教えられたら、本当かどうかはひとまず置いておいて、その人と関わらなくなるのは正常な反応だと思う。
それでも、どうして、私たちが。
何故私たちが、避けられなくてはいけないのか。
考えれば考えるほど、分からなくなって、息をするのが苦しくなってきた。
脳がふわふわと浮かんでいるような奇妙な感覚に囚われながらも、私は伊藤の席に顔を向けた。
伊藤は、光が消えた瞳で、呆然と一点を見つめているだけだった。
「いとー」
振り返ると、坂巻が後ろから走ってくるのが見えた。
「何その呼び方」
坂巻が俺の隣に来てから問うと、え、と目を見開いて坂巻が言った。
「伊藤、でしょ?あんたの苗字」
「そうだけど」
「じゃあ合ってんじゃん」
「合ってるんだけど、なんていうか、思いっきり伸ばし棒が付いてるから」
「...人の発音にケチ付けてくれるなよ」
「少しだったら付けても良くないか?」
言い合いを続けながら教室に入ると、なんだかみんなの雰囲気に違和感があった。
なんというか、刺々しいというか、俺と坂巻だけ浮いている感が出ているというか...
坂巻もそれを感じ取ったらしく、困ったように此方に顔を向けてきた。俺はもっと困って、坂巻から顔を背けた。
席についても、周りからのなんともいえない視線と圧は、俺がそのうちぺちゃんこになるんじゃないかと思う程だった。
もうこうなってしまうと、周りに声を掛けることさえ憚られるようになる。
冷たい汗が首筋を伝った。
「あの話、本当かな?」
周りのコソコソとした会話が聞こえてくる。
「葵ちゃん、言ってたよね、瑠衣ちゃんが二重人格者だって」
耳を疑った。
圦里 葵は、昨日俺に声を掛けてきた鈴谷と仲が良い、クラスの人気者だ。
明るく楽しく元気良く、と3拍子揃った圦里の話なら、あっという間に広がってもおかしくない。
頭がくらくらしてきた。
いつもそうだ。ちょっとした綻びをきっかけに、あっという間にクラスの輪から弾かれてしまう。人の思い込みと噂ほど怖いものを、俺は他に知らない。
嗚呼、またか。
諦めのような、悔しさのような、どす黒い感情が心の中に渦巻いて行くのを、どうすることもできなかった。
* * *
私は自分の席につくと、あれこれと考えを巡らせていた。
「坂巻」
後ろから声をかけられて振り返ると、あまり喋ったことのない男の子達が立っていた。
「なに?」
「お前さ、なんで伊藤と関わったりするんだ?彼奴おかしいぞ」
「え、なんで?」
私は驚いて素っ頓狂な声を上げた。
「なんでおかしいの?」
男の子達は困った様に顔を見合わせると、私の目を真っ直ぐ見て言った。
「昨日、圦里がクラスのチャットルームで言ってたんだよ、伊藤は二重人格者だから関わらない方が良いって。坂巻、チャットルーム入ってたっけ?」
急に、香織ちゃんと仲が良い女の子2人のうち1人の名前が出てきて、私は少なからず驚いた。
「いや、入ってないけど...」
「そうだっけ、入る?」
「ううん、携帯持ってないから」
「え、あぁ、そうなんだ」
「その話、葵ちゃんが放課後に言ってたの?」
「応」
「ふーん...そうなんだ...違うと思うけどな...」
「あんまり彼奴とは関わらない方が良いぞ、碌なことにならない」
私は遠回しに否定したものの、男の子達は捨て台詞を吐いて足早に去っていった。
彼奴おかしいぞ––––アイツらは確かにそう言った。何がだよ、何処がおかしいんだ。ろくに伊藤と会話もしたこと無いくせに。
静かな怒りが込み上げてきた。でも、と私は思い直した。男の子達は葵ちゃんから、嘘というか勘違いというか、どちらにせよ少なからず悪意のある情報を頼りに動いているのだ。
つまり、私が、というか伊藤と私が、怒りの矛先を向けるのはさっきの男の子達でも、私たちを孤立させているクラスの皆でもない。
葵ちゃん唯一人なのだ。
でも、葵ちゃんに対する怒りを口にする勇気など、私には湧いてきそうになかった。
どうも、あの子は苦手だ。明るくて、友達がたくさんいて。典型的「いい人」なんだけど、どこか近寄り難い雰囲気を醸し出していたのだ。この高校に入って、このクラスになって、ずっと抱いていた「なんとなく」の苦手意識や疑い、僅かな恐怖が、一気に噴き出すのがわかった。
多分、葵ちゃんに伊藤が二重人者であると吹き込まれた人(残念ながらクラスのほぼ全員になる)は、私がわざわざ伊藤と関わる意味が分からないのだろう。仮にクラスメイトが二重人格者だと教えられたら、本当かどうかはひとまず置いておいて、その人と関わらなくなるのは正常な反応だと思う。
それでも、どうして、私たちが。
何故私たちが、避けられなくてはいけないのか。
考えれば考えるほど、分からなくなって、息をするのが苦しくなってきた。
脳がふわふわと浮かんでいるような奇妙な感覚に囚われながらも、私は伊藤の席に顔を向けた。
伊藤は、光が消えた瞳で、呆然と一点を見つめているだけだった。