坂巻と別れた後、俺は帰り道を歩いていた。一番星が輝いている。でもそれとは反対に、俺の心は暗く沈み込んでいた。
家に帰るのが嫌だった。また、偽りだらけの生活に戻らなくちゃいけないのが、どうしようもなく辛かった。
何故、家でも《演じて》いなければいけないのだろうか。答えは出ているのに、「自分を守る為」だと理解しているのに、これで正しいのかどうか分からなくなってくる。
あの日の頬の痛みが蘇った。
俺が家族にトランスジェンダーであることを打ち明けたのは、確か中学2年生の秋だったと思う。
夕飯を食べ終わった後に、父母と妹を前にして、俺は口を開いた。
「私さ、トランスジェンダーって奴だと思うんだ」と。
暫くの沈黙の後、母が口を開いた。
「心は男の子ってこと?」
「うん」
数日前に、テレビでLGBTQ+についての特集をやっていたので、母はそれを覚えていたのだと思う。
「ちょっと待って」
口を開いたのは妹だった。
「ふざけないでよ姉ちゃん、体が女の子で心が男の子?そんな変な人が家族なんて、私の友達にまで噂が広がったらどうするの、姉ちゃん責任取れるの?」
「おい、沙羅」
父が妹を嗜めようとしたが、妹はさらにヒートアップしていった。
「姉ちゃん、あのさ、なんで家族に話す必要があるの?」
それは、と俺は答えた。
「みんなに嘘つき続けるのは嫌だから、」
言い切る前に母が口を開いた。
「あなたに限ってそんなはずないわよ、どうしたの、何かあった?」
愕然とした。何故受け入れてくれないのだろう、俺はただ、俺の正直な気持ちを受け止めてほしかっただけなのに。
俺が呆然と立ち尽くしていると、妹がつかつかと歩み寄ってきた。
「沙羅...?」
と、突然、頬に衝撃を受けて、鈍い痛みが走った。妹が拳を固めて、頬を押さえて座り込む俺の前に仁王立ちになっていた。妹に殴られたのだと気がつくまで数秒掛かった。今まで妹と喧嘩をしたことは数えきれないほどあるけど、殴られたのは初めてだった。
「沙羅!」
母が大声で止めに入るまで、妹の衝動的な怒りは収まらなかった。
妹は我に返ると、くるりと後ろを向いて自分の部屋に駆け戻っていってしまった。
「姉ちゃんが変なこと言うからいけないんだ」
とだけ言って。
「沙羅も悪いけど、お前が変なこと言うからだ」
父に睨みつけられながらそう言われて、赤黒く腫れ上がった頬を押さえながら目を見開いた。
信じないか、信じられないか。
「受け止める」「受け入れる」という選択肢が、大多数の人間には無いことを、俺はこの日、嫌と言うほど思い知らされたのだ。
それ以降、俺は《普通の女の子》という仮面を被り続けている。今も、ずっと。
* * *
私が家に帰ると、誰もいない部屋は真っ暗だった。でも、いつものことだ。母は毎日、明け方近くまでどこかに出掛けていて、私が学校に行くときにはまだ布団から出てこない。休日も母は一人でどこかに行ってしまう。
そんな訳で、私と母はほとんど顔を合わせない。小さい頃は連れて行ってとせがむこともあったけど、大体母は無視して出ていってしまうし、母の機嫌が悪いと殴られる。
私はそのうち、せがむことをやめた。母に話しかけることもしなくなった。
私がこの家に居ないかのように毎日を過ごし、母も私が居ないかのように生活した。
これが、一番私が傷つかないやり方だったのだ。
家に帰り、私服に着替え、夕飯をスーパーで買って食べる。
こんな生活を、ずっと続けている。
健康的ではない生活であることは分かりきっているけど、台所を使っただけでも怒られるんじゃ、これしか方法がない。
母は1ヶ月に一度、私にまとまったお金を渡してくれるものの、そこからまた1か月は全く私に構わない。
私の為に自分の時間を減らしたくないのだ。母はそういう人間だ。
人の為に動くことを異常なほど嫌う。何故なのかは私にも分からないのだけど。
そんな風に放置され続けたから、私が小学校に入学した時には友達とのコミュニケーションの取り方が分からなかった。
当然からかわれたり、いじめれたりもしたけど、当時の私は感情を失ったように何をされても反応しなかったことと、私が少しずつ自分の気持ちを表現できるようになったことで、いじめは1年弱で終わった。
いじめられなくなったと言っても、決して友達は多い方じゃなかったし、今もそうだ。どちらかというと少ない。
そして高校に入ると、知っている友達はひとりもいなくなった。中学の時の友達は高校でもすぐに友達を作り、仲良くやっているらしい。みんなにとっては当たり前なのかもしれないけど、私にはその「当たり前」ができない。
それがずっと、私の心に劣等感として絡みついていたのだ。
でも、私は今日彼奴に出会って、
「当たり前」とは何なのか。
判らなくなっていた。
ぼんやりとした月が出ている。それを眺めながら、私は物思いに耽っていた。
家に帰るのが嫌だった。また、偽りだらけの生活に戻らなくちゃいけないのが、どうしようもなく辛かった。
何故、家でも《演じて》いなければいけないのだろうか。答えは出ているのに、「自分を守る為」だと理解しているのに、これで正しいのかどうか分からなくなってくる。
あの日の頬の痛みが蘇った。
俺が家族にトランスジェンダーであることを打ち明けたのは、確か中学2年生の秋だったと思う。
夕飯を食べ終わった後に、父母と妹を前にして、俺は口を開いた。
「私さ、トランスジェンダーって奴だと思うんだ」と。
暫くの沈黙の後、母が口を開いた。
「心は男の子ってこと?」
「うん」
数日前に、テレビでLGBTQ+についての特集をやっていたので、母はそれを覚えていたのだと思う。
「ちょっと待って」
口を開いたのは妹だった。
「ふざけないでよ姉ちゃん、体が女の子で心が男の子?そんな変な人が家族なんて、私の友達にまで噂が広がったらどうするの、姉ちゃん責任取れるの?」
「おい、沙羅」
父が妹を嗜めようとしたが、妹はさらにヒートアップしていった。
「姉ちゃん、あのさ、なんで家族に話す必要があるの?」
それは、と俺は答えた。
「みんなに嘘つき続けるのは嫌だから、」
言い切る前に母が口を開いた。
「あなたに限ってそんなはずないわよ、どうしたの、何かあった?」
愕然とした。何故受け入れてくれないのだろう、俺はただ、俺の正直な気持ちを受け止めてほしかっただけなのに。
俺が呆然と立ち尽くしていると、妹がつかつかと歩み寄ってきた。
「沙羅...?」
と、突然、頬に衝撃を受けて、鈍い痛みが走った。妹が拳を固めて、頬を押さえて座り込む俺の前に仁王立ちになっていた。妹に殴られたのだと気がつくまで数秒掛かった。今まで妹と喧嘩をしたことは数えきれないほどあるけど、殴られたのは初めてだった。
「沙羅!」
母が大声で止めに入るまで、妹の衝動的な怒りは収まらなかった。
妹は我に返ると、くるりと後ろを向いて自分の部屋に駆け戻っていってしまった。
「姉ちゃんが変なこと言うからいけないんだ」
とだけ言って。
「沙羅も悪いけど、お前が変なこと言うからだ」
父に睨みつけられながらそう言われて、赤黒く腫れ上がった頬を押さえながら目を見開いた。
信じないか、信じられないか。
「受け止める」「受け入れる」という選択肢が、大多数の人間には無いことを、俺はこの日、嫌と言うほど思い知らされたのだ。
それ以降、俺は《普通の女の子》という仮面を被り続けている。今も、ずっと。
* * *
私が家に帰ると、誰もいない部屋は真っ暗だった。でも、いつものことだ。母は毎日、明け方近くまでどこかに出掛けていて、私が学校に行くときにはまだ布団から出てこない。休日も母は一人でどこかに行ってしまう。
そんな訳で、私と母はほとんど顔を合わせない。小さい頃は連れて行ってとせがむこともあったけど、大体母は無視して出ていってしまうし、母の機嫌が悪いと殴られる。
私はそのうち、せがむことをやめた。母に話しかけることもしなくなった。
私がこの家に居ないかのように毎日を過ごし、母も私が居ないかのように生活した。
これが、一番私が傷つかないやり方だったのだ。
家に帰り、私服に着替え、夕飯をスーパーで買って食べる。
こんな生活を、ずっと続けている。
健康的ではない生活であることは分かりきっているけど、台所を使っただけでも怒られるんじゃ、これしか方法がない。
母は1ヶ月に一度、私にまとまったお金を渡してくれるものの、そこからまた1か月は全く私に構わない。
私の為に自分の時間を減らしたくないのだ。母はそういう人間だ。
人の為に動くことを異常なほど嫌う。何故なのかは私にも分からないのだけど。
そんな風に放置され続けたから、私が小学校に入学した時には友達とのコミュニケーションの取り方が分からなかった。
当然からかわれたり、いじめれたりもしたけど、当時の私は感情を失ったように何をされても反応しなかったことと、私が少しずつ自分の気持ちを表現できるようになったことで、いじめは1年弱で終わった。
いじめられなくなったと言っても、決して友達は多い方じゃなかったし、今もそうだ。どちらかというと少ない。
そして高校に入ると、知っている友達はひとりもいなくなった。中学の時の友達は高校でもすぐに友達を作り、仲良くやっているらしい。みんなにとっては当たり前なのかもしれないけど、私にはその「当たり前」ができない。
それがずっと、私の心に劣等感として絡みついていたのだ。
でも、私は今日彼奴に出会って、
「当たり前」とは何なのか。
判らなくなっていた。
ぼんやりとした月が出ている。それを眺めながら、私は物思いに耽っていた。