あの日「卒業したくない」と泣いていた彼女は、降りしきる桜の雨の中で「卒業おめでとう」と笑っていた。


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 僕の通っている桜坂高校は、名前の通り桜並木のある坂の上に位置している。

 そこまでの急勾配ではないものの、自転車通学組はその坂に差し掛かると気合いを入れて自身の足の限界に挑戦したり、早々に漕ぐのを諦めて、降りて押しながら登ったりする。

 夏は歩いて通う面子も大変で、通学時から汗が止まらず、帰宅時の下り坂は放課後特有のテンションのままに駆け降りていく者も少なくない。
 冬の受験シーズンは、登りも下りもうっすら積もった雪に足を取られ滑って転ばないようにと細心の注意を払う、何かとスリリングな坂道だ。

 坂は人生と同じだ。時期によって環境や姿を変えて、時には困難を伴い、登り方もそのペースも人それぞれ。
 三年間続いた、そんな坂道の先の高校に通う日々も、今日で最後だった。

「桜、満開だな……」

 この季節だけはただひたすらに美しい薄紅色に包まれるこの通学路を、式を終えた卒業生たちは感慨深そうに見上げながら歩く。

 啜り泣く声や、思い思いに写真を撮る音、仲間内で思い出話の尽きない集団や、春休みの計画を立てる声。

 三年間僕たちの日常を見守っていた桜並木は、涙のように花びらを散らしながら春風に揺れている。その道は、別れを惜しむ様々な音に満ちていた。

「……逢坂くん! 卒業おめでとう!」
「花城……?」

 ふとそんな音に混ざり聞こえた明るい声に、僕は足を止め振り返る。
 ここら辺で一番大きな桜の陰に隠れるようにしてこちらを覗いていたのは、今日までクラスメイトだった『花城初香』だった。

 卒業生の証である花飾りを制服の胸に付け、長い黒髪を春風に靡かせながら、ひょこりと顔を出し手を振っている。

 僕は驚きに一瞬目を見開いてから、下りかけた足を再び動かし、もう登らないと思っていた坂道を少し戻る。すると今度は彼女の方が驚いた顔をして、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。

「戻ってきてくれたんだ……逢坂くん、ひとり?」
「……ああ、特に仲良い奴も居なかったし……家族は先に帰った」
「それは寂しいねぇ……」
「お前だってひとりだろうが」
「えへへ、ばれたか」
「いや、どう見たってそうだろ」

 僕と彼女は美しい桜の陰で、そんな風にそこらの喧騒の一部となるような軽口を叩き合う。

 僕に卒業を惜しむ程仲の良い奴が居なかったのは事実だが、花城にはクラスにもたくさん友達が居たはずだ。
 何故僕に声をかけたのか、未だ驚き怪訝に思いながらも、純粋に嬉しくなった。

「さっちゃんたちはまだ校舎なんだもん。部活の後輩たちと打ち上げパーティー的なやつみたい」
「……なるほど。それでこっちに来たのか」
「それだけじゃないけどー」

 僕と花城は幼稚園から高校までずっと同じ学校に通っていた、所謂幼馴染みだった。
 昔は『初花ちゃん』に『至くん』なんて呼び合う仲で、しょっちゅう家族ぐるみでの交流もあったのだが、成長してからは何と無く周りの目が気になって、呼び方も変わり一緒に遊ぶことも減っていった。

 それでも、家が近所で顔を合わせる機会はよくあり、学校の奴等の居ない場所でのみ幼馴染みを続けていた。
 お陰で彼女は、僕が唯一気兼ねなく話せる女子といえる。

「……」

 けれどこんな風に話すなんて、いつぶりだろうか。どんな顔をしていいのかわからずに、僕は視線を泳がせる。
 ふと、思わず周りの目が気になったものの、幸い誰も木陰となったこちらを気にする様子はなかった。
 花城もそんな落ち着かない僕の様子に気付いていないのか、いつもの調子で話を続けた。

「あのね、さっちゃんは上京して進学するんだって」
「……へえ、それはすごい」
「みいちゃんはね、就職組だって。資格たくさん取ってたもんねぇ」
「ああ、あいつなら即戦力だな……さすが委員長」

 次々あげられる名前に、ぼんやりとクラスメイトの顔を思い浮かべる。僕は他の奴が卒業後どうするかなんて、気にしたこともなかった。けれど花城は、まるで自分のことのようにクラスメイトの進路に詳しかった。
 人類皆兄弟と言わんばかりのコミュニケーション能力のなせる技なのか、単に他人への興味の度合いなのか。
 僕が知っているのは、幼い頃から変わらない花城の将来の夢くらいなものだ。

「これで本当に、みんなバラバラになっちゃうね。……あーあ。卒業なんて嫌だ、って泣いてたのが昨日みたい。あっという間だなぁ……」

 そうだ、確かあれは一月か二月あたり、具体的な進路の話と卒業の空気の漂う教室の真ん中で、不意に感極まったように泣き出した花城の姿は、記憶に新しい。
 元々喜怒哀楽のはっきりした幼い印象だった彼女は、あの時子供のように「寂しい」と声に出して泣いていた。

 そんな姿を、少しだけ羨ましくも感じた。僕は彼女と対照的に、感情を素直に表に出すのが苦手だったのだ。

 人並みに返事をしたり、当たり障りのない会話をすることはできる。だからクラスで物凄く浮いていた訳でも、いじめられていた訳でもない。
 けれど誰かと本心からぶつかるようなことも、腹の底から笑うようなことも、一丸となって本気を出すようなことも、そんな青春らしいことは何一つなかった。

 趣味も特になく部活だって帰宅部だったし、文化祭ではサボることはないものの終始裏方に徹していた。休み時間は図書室で時間を潰したり、賑わいから逃れるように机で突っ伏して寝たふりをした。
 それでも、誰かに何かを貸してと言われれば応じたし、委員会や係の仕事は全うした。
 付かず離れず、けれどそんな僅かばかりの壁を残した態度を続けたお陰で、卒業式で別れを惜しむような仲の相手も出来なかったのだ。

「卒業、そんなに寂しいもんかね……」
「寂しいよ! 逢坂くんくらいだよ、そんなこと言うの!」
「そうか? 結構居ると思うぞ」
「えー?」

 クラスメイトとの別れは、そこまで寂しさや悲しさなんてものは感じなかった。そんなものだろうなと、当然の摂理として受け入れている。

 けれど本当は、花城と別れるのは寂しかった。もう揃いの制服に身を包むことがないのも、同じ教室で授業を受けられないことも、休み時間に友達と話す楽しげな声を聞くことが出来ないのも、どれも寂しく悲しかった。今さら、口が裂けても言えないけれど。

 もう少し早く自分を表に出すことが出来たなら、もう少し素直になれたなら、この桜の道をひとりで歩き帰ることなく、彼女と手を取り合いながら、並んで歩けたのかもしれない。

 そんなありもしない想像をしながら、僕は大きな桜の木に凭れるようにして、先程から紙吹雪のように降りしきる花びらを抗うことなく浴びている花城へと視線を向ける。
 そしてふと、彼女の表情が「寂しい」なんて言葉と裏腹に、終始笑顔であることに気付いた。

「……そういえば、もう卒業嫌だって泣き喚かないのか?」
「喚いてない! ……嫌だって言っても、もう卒業式終わっちゃったもん」
「まあ、それはそう」

 花城は拗ねたように僅かに頬を膨らませる。その仕草は何とも子供っぽいものの、それが似合うのだから彼女はいわゆる愛されキャラなのだろう。
 それからすぐに頬の空気を抜くように小さく息を吐き、吹っ切れた笑みを浮かべた。

「そりゃあ寂しいよ。すーっごく寂しい。お別れやだ! ……でも今はね、おめでとうって思うの」
「へえ? 心境の変化ってやつか?」
「うん。みんなおめでとう。お別れは寂しいけど、ちゃんと嬉しいの。変かなぁ」
「いや……いいと思う」
「そっか、良かった」
「そう思えるってことは、花城も成長したってことだろ」

 何と無く上から目線になってしまったその言葉にも、彼女は嬉しそうに微笑む。やっぱり泣き顔よりも笑顔の方がいい。
 そんな恥ずかしい感想を口にすることはないけれど、ついつられて口許が緩んだ。