先ほどまで聞こえてきたシエラの甲高い声も、使用人たちの楽しげな声も、水を打ったように静かになっていた。ほんの束の間の静寂が、エリザのか細い声を大きく響かせる。
 シャルロッテは彼女の手からグラスを取ると、再び水を注いだ。エリザは小さくお礼を言って受け取ると、今度は飲むことなく両手で包んで膝の上に乗せた。

「シャルロッテ様は、父のことはよくご存じですよね? 妙齢の女性を見ると、誰彼構わず口説かずにはいられないような人なのです。シエラのことがあってからは、子供だけは作らないと誓いを立てているため、血のつながらない義理の兄弟が出来ることはありませんが、あの性格を変えることは出来ないのです」

 子供を作っていないというだけで、エッゲシュタイン子爵はいまだに隙あらば女性に声をかけていると聞く。最低限の分別として、娘と同じような年ごろの女性には手を出さず、伴侶のいる婦人には声をかけていないようだが、未婚の淑女や未亡人は含まれていない。
 一時期よりは頻度は減っているとはいえ、エッゲシュタイン子爵は“エッゲシュタイン子爵”のままなのだ。

「母は、しっかりした人です。何事も、キチンとしていないといられない性分なのです。シャルロッテ様も、庭をご覧になったでしょう? 完璧な左右対称の、一部の乱れもない庭園。それが、母の理想とする姿なのです」

 エリザの目が、窓の外へと向けられる。角度的に庭園を見ることは出来ないはずなのだが、彼女の目には恐ろしいほどに整えられたあの姿が映っているようだった。
 大きな瞳が怯えるように揺れ、ジワリと滲む。ギュっと唇を噛み、耐えるように眉根を寄せるとグラスを持つ手に力を込めた。

「母は、わたくしたちに流れる父の血を憎んでいました。わたくしたちも父のように、移り気な人間になることを恐れていました。だから母はわたくしに“エリザ”と名付けたのです。一途に王子を想い続けた素晴らしい女性になるようにとの願いを込めて」

 それは、願いと言う名の呪いだった。
 自身が得られなかった一途な愛を、娘に強要する。何度も何度も、後世に美しく脚色された事実とは異なるエリザのお伽噺を語って聞かせ、一途に人を愛することこそが正義なのだと刷り込む。一度心に決めた相手を裏切ることは大罪なのだと思い込ませる。
 あなたたちの父親は罪人なのだと。そんな父親に騙された自分は被害者なのだと。だからこそ、あなたたちはそんな過ちを犯してはいけないのだと。

「わたくしは、リェン様をお慕いしています。素晴らしいかただと思う気持ちに、偽りはありません。けれどこの気持ちが愛なのかと問われれば、否定せざるを得ないのです。子供の時に抱いた憧れを、恋だと思い込んでいたのです」

 幼い時に出会ったオウカの貴族リェンの優美な姿に、エリザは好意を抱いた。それが憧れなのか恋なのか、区別をつけられるような年齢ではなかった。恋心に似た敬慕はリュディヴィーヌの耳に届き、エリザが自覚する前に恋へと振り分けられてしまった。
 成長し、リェンへの思いが恋とは違った感情だったと気づいたときにはもう遅かった。
 エッゲシュタイン子爵の令嬢は、一途に思い続けることで有名だ。しかしそれは裏を返せば、一途に思い続けなければいけないと言うことでもあった。
 母の期待に添うように。母を失望させないために。母を悲しませないために。父と同じ過ちを犯さないために。

「……エリザさんは、恋を知ったんですね?」

 シャルロッテの問いに、エリザは答えなかった。怯えるように身を縮め、ハラハラと涙を流すと深く俯く。
 細い顎から滑り落ちた涙が一粒、グラスの表面に波紋を描いた。