「ん? 環奈、何か言った?」
「えっ! あっ、ううん。何でもない」
私はこーちゃんに、慌てて首を振る。
どうやら心の声が、無意識に口から漏れたみたいだ。
いけない、いけない。仕事に集中しなくちゃ。
父がサイフォンで淹れるコーヒーの香ばしい香りが鼻を掠める。いい匂いだ。
「環奈、これ運んで」
「はい」
父から受け取った木製のトレイには、こーちゃんが先ほど注文したブレンドコーヒーと、シフォンケーキがのっている。
使い込まれたこぶりのカップからは豊かな香りが立ちのぼり、ふわふわのシフォンケーキのそばには、ホイップクリームとミントが添えられている。
私はそれを、こーちゃんの元へと運んだ。
「お待たせ致しました」
「おっ。いつもながら、美味そう。いただきます」
母お手製のシフォンケーキを口に含んだ瞬間、こーちゃんの顔がパッと花が咲いたように明るくなる。
「やばい。おばさんのケーキ美味すぎて、顔がにやける」
「ありがとう。幸太くん」
カウンターの中で洗い物をしていた母が、こーちゃんに微笑む。
「お母さんのシフォンケーキは、世界一だからね」
「あらあら。環ちゃんまで嬉しいこと言ってくれちゃって」
閉店間際。今はこーちゃんで貸切の静かな店内に、コーヒーカップとソーサーのぶつかる音が時折響く。
「そういえば、環奈」
しばらくパソコンと睨めっこを続けていたこーちゃんが、ふいに顔を上げた。
「あのさ。アレ、届いたか?」
「アレ、って?」
「俺の……結婚式の招待状」
私は、こーちゃんから顔を逸らす。
こーちゃん本人の口から招待状の話が出て、一瞬時が止まったような気がした。
ああ。結婚するのは本当なのだと、改めて痛感させられる。いっそのこと、冗談だったら良かったのに。
『結婚は嘘でしたー!』って、笑い飛ばしてくれたなら、どれだけ私の心が救われただろう。
「ダチの何人かから結婚式の出欠の返事が届いたけど、環奈からはまだだから。招待状、もしかして届いていないのかと思ってさ」
「結婚式の招待状……うん、届いてたよ」
あれから何日か経ったが、私はこーちゃんの結婚式出欠の返信ハガキを出せずにいた。
「ごめん。返信しなきゃと思ってて、忘れてた」
「ははっ。昔からちょっと抜けてる環奈らしいな」
環奈らしい、か。
「どう? 俺が結婚するって知って、どう思った?」
カウンター越しに、こーちゃんと目が合いドキリとする。
『どう思った?』 って聞かれても。そんなこと、私に聞かないで欲しい。こーちゃんが結婚するだなんて、嫌に決まってるじゃない。
そんなこと、本人に面と向かって言えないけれど。
「えーっと。こーちゃんに交際してる人がいること自体、私は知らなかったから。正直、すごく驚いたよ」
驚くどころかかなりのショックで。招待状が届いたあの日の夜は、ほとんど眠れなかった。
「いやぁ。俺、環奈に『そんなんじゃ結婚できないよ』ってよく言われてたからさ。驚いてくれたなら良かった」
こーちゃんは、脱いだ靴下を部屋にそのまま放置していたりと、少しだらしないところがあるから。『そんなんじゃ結婚できないよ』と、以前私が言ったことがあった。
「それじゃあ、環奈へのサプライズは成功だな」
サプライズ成功……か。そもそもサプライズは、相手を喜ばせるためのものでしょう?
こーちゃんには悪いけど、こういうのはきっとサプライズって言わないよ。
思い返してみれば、こーちゃんはいつもそうだ。大事なことは、何一つ私に話してくれない。いつだって事後報告。
あのときだって、そうだった。