*


 暗い、昏い、闇い。


 ここは何処だろう。狭いし、それに心なしか寒く感じる。


 そう、ここは……。


 ハッと我に帰ると、そこはトイレの個室だった。薄暗く狭い空間。蓋をしたトイレの上にうずくまった状態で、当たりを見回す。だが、景色は大して変わらない。


「……あれ?」


 私は一体、何をしていたのだろう。


 首を傾げても、不思議と何も思い出せなかった。


 そこからそっと出ると、誰かの話し声が聞こえる。それは、洗面台で髪の毛を整える女子の声。私に気にせずおしゃべりに花を咲かせているその光景に、なぜだか目が離せなかった。日常的な光景のはずなのに。


 ふと、鏡に視線が行く。大きなそれは、端にいる私さえも映している。しかし、私は少しだけ歪んでいた。ヒビが入っていたのだ。誰がどうやって入れたのだろう。


 そんな疑問を抱きながら見つめていると、流石に女子達が視線に気づいて睨みつけてくる。幾つもの刺すような視線は痛く、私は慌ててその場を離れた。


 廊下に出ると、ふざけて走っている男子生徒を見かける。彼らは追いかけ合い、やがて転んで、丁度見ていた先生に叱られた。給食前にふざけるんじゃ無い。はーい、すいませーん。それも、よく見る光景、のはず。しかし、どうしても違和感があった。


 どうして私はこんなにも、久しぶりに感じてしまうのだろう。


 そう考えても、もちろん原因など不明。教室に戻るべく足を運ぶ。他クラスを通り過ぎる際に、無意識的に中を覗いていく。みんな、給食を分け終えていた。


 湯気が立つあの熱々のシチューの味を、私は最近味わった気がする。だが、肝心の記憶が思い出せない。シチューはたまにしか出ないのに。

 
 私は足を止め、胸元に手を当てて問いかける。この違和感は、この胸騒ぎは、一体なんなのか。


 唯一の頼りである記憶も存在せず、しかし、確かな感覚だけがそこに在る。これが肉体の記憶、と言うものか。


 再び足を進めて、教室の扉を開けた。普段なら、誰も気に留めないはずの行動。まるで透明人間が人知れずやってきた、そんな風に。

 
 しかし、今日は違った。教室に入るなり、私を迎えたのは幾重もの驚きの表情。嘲笑でも嫌悪でもない。純粋な驚愕。


「な、なんであんたが居るわけ……!?」


 私をいない存在として扱う。最初にその暗黙のルールを破ったのは、一軍女子の一人。


「なんでって……仮にもここ、私の教室だし」

「いや、そうじゃなくて……」

 
 第三者の声が飛んできた。意外だったのでそちらに顔を向けると、眼鏡をかけた気弱そうな少女を見つける。彼女の視線はある一点に集中しており、私は彼女の視線の先を辿った。


 そして、目を見開いた。少女が見ていたのは私の机で、その上には花が活けられた花瓶が乗っていたのだ。


 よく聞く、言わば死んだように扱ういじめかと思った。だが、そうではないと分かるのは、その花が美しいのと、遊びではないような豪華なものだったから。


「な、何それ……」

「だ、だって実咲ちゃん……あれ?」


 話をしようとした彼女は首を傾げる。


「あ、あれ……なんで……なんで私達、花を……?」


 とぼけている様子はない。本気で困っていた。何故、自分たちが私の席に花を置いたのか。


「ま、まぁ、そのままでいいんじゃない!」


 唐突に一軍女子が声を張る。動揺から少しは元の調子を取り戻したらしい彼女は、無理した表情で笑っていた。


「だ、だってどうせあんたは死んだようなもんでしょ。だったらこのままでいいじゃん!」

「あ、そ、そうだねー」

「い、いいじゃんそのアイディア」


 一軍女子らはまた、私をある意味で亡き者にしようとする。やっぱり、何も変わらないか。


 そう落胆しかけた時、眼鏡の少女がサッと動いた。誰もが呆気にとられる中、彼女は花瓶を手に取った。そして、震えた手で支えながら、私に笑顔を向ける。


「ごめんね、実咲ちゃん。今すぐ、別の場所に飾るから」

「えっ……」


 正直に言って、少女は怯えていた。おそらく、こんなことをすれば自分がどうなるか分かっていただろう。しかし、彼女は私を優先してくれた。


 チッ、と誰かが舌打ちをする。それが合図だったかのように、一斉にみんなはそれぞれ動き始める。どうやら私は、また同じような存在に戻ったらしい。


 だが、確実に変わったことはあった。


 その小さな変化が、私には無性に嬉しかった。