思い立って、私は席を外す。
「私、ちょっとトイレに行ってきますね」
「りょーかいっ」
先輩の許可を取った後、教室を出た。ゆっくりと閉めた扉を隔てて、3人の会話が聞こえてくる。
「花蓮先輩」
「ん?どうした泉?」
「いいんですか、言わなくて?」
「何を?」
「この世界、普通にトイレは流せないってことを」
「……あっ」
「馬鹿じゃないの、花蓮」
「ん、まぁ何とかなるよ」
「何とかねぇ……」
正直、漫才みたいなお喋り。けど私は、それを聞いて安心する。分かってる、この世界は水道が止められているから、普通にトイレはすることができないだろうと思っていた。それでもああ言ったのは、別にトイレをしたい訳じゃない。ただ、その場所に行きたかった、それだけだから。
私はその場から離れ、早足でトイレに向かった。一つ、考えがあった。もしかしたら、同じように個室に篭れば元の世界に戻れるかもしれない。
何も、この世界が嫌な訳じゃない。むしろ、ここにいる人達と会えなくなると思うと惜しい気がする。だが、気づいてしまったのだ。
私は、ここにいるべきじゃない。
確かにこの世界は、拒絶するものなんて何一つないし、私自信が拒絶されることもない、心地良い世界だと思う。だが、敵のいない場所で安打を覚えることが本当に幸福なのか、と考えた。
自分は、攻撃してくるものが何もない静けさを望んでいたのではなく、理不尽を打ち破った先に待つ幸せを望んでいたのではないか。
無灯火の薄暗いトイレに入り、個室に向かう。その道中、大きな鏡がある。それを、何気なく、視界に入れてしまった。
「えっ……」
思わず立ち止まる。爪先を鏡の方向に変え、ゆっくり近づき、それに手を伸ばした。勿論、掌に伝わるのは硬く冷たい感触だけだった。
しかし、私の目の前に映っているのは、鏡を覗く自分ではない。
私の教室の風景だった。
「な、何これ……」
肝心の私の姿はどこにもない。
教室は、いつも通り賑やかな雰囲気を醸し出している。ひっきりなしに人が過ぎ去るが、一瞬人の移動が途切れ、私の席が露わになった。
息を呑む。ふらり、と足元がふらついく。また、反射的に口元を抑えた。
私の机の上には、花瓶が一つ、置かれていた。ご丁寧に枯れた花も添えて。
『あいつ、まさかほんとに死んじゃっとはね』
『正直、聞いた時は驚いたねー』
『まぁでも、いなくなってスッキリした感じだわ』
『それな』
姿は見えないが、よく耳にする声が会話していた。十中八九、私のことを。
いや、それよりも。
「死ん、だ……?」
彼女達の会話の中で聞こえた「死んじゃった」の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
私は死んだ。あり得ない。だって私はここにいる。ただ、別の世界にやってきただけ。死んでいるはずがない。そんなことはない。
いや、そもそも別の世界に来るなんてことが現実的にあり得るのだろうか。実はそう錯覚しているだけで、実際はこの世に存在してないのではないか。
「あぁ……っ」
ぐしゃりと前髪を握る。何もかもが、分からない。
その時、コツリ、と足音が響いた。反射的に振り返ると、そこには祐也が立っていた。
「えっ、な、なんで……?てか、ここは女子トイレ……」
「誰もいないからいいでしょ。それよりさ……」
祐也はゆらりと首を傾ける。その際に揺れた前髪から、切れ長の瞳が私を射抜いた。最初にも見た通り、冷酷な色をしている。
「見たの?」
「えっ……」
「その鏡、見たの?」
「あ……う、うん。ねぇ、祐也。これって、どう言うことなの……?私が死んだって、そんなの……」
否定して欲しかった。私が見たのは幻か何かで、そんなことはない、と。
だが、そんな願いも虚しく、祐也は淡々と告げる。
「本当だよ」
「ほ、本当って……」
「だから、実咲が鏡越しに見たことは全部本当だって。実咲はもう、向こうの世界で死んでるんだよ」
「な、なんで……?だって祐也、最初はただ……」
「あれは……嘘だ。実咲を、怯えさせないための……」
祐也は辛そうに視線を足元に向けた。どうやら、それは本当らしい。だが、私を怯えさせないからと言って真実を隠すなんて、そっちの方が腹が立つ。
「僕は最初に言ったよね。この世界は、向こうの世界で拒絶された、もしくは向こうの世界を拒絶した人間が来る、と」
「うん」
「拒絶する、される時点で、向こうの世界で生きる意味はないんだよ。だから、みんな死ぬ」
「……は、はぁ?意味って……そんなの……そんなの関係ない、でしょ」
「関係あるよ。拒絶はつまり、要らないということだから。そういう死んだ人間の魂が流れ着くのが、この世界なんだよ。言わば、常世かな」
「そ、そんな……っ!」
穏やかだと思っていたこの世界。だが、その正体はあまりにも残酷だった。その悍ましさに、手がわなわなと震えをなす。
「それじゃあ……もう、戻れないの……?」
「ああ、無理だと思う。……そもそも、なんで戻ろうなんて思うの?」
「それは……」
どう答えるべきだろうか。本心を述べるべきか、最もらしい答えを告げるべきか。少し考えた挙句、私は前者を選んだ。
「それは……私が、この世界にいるべきじゃないと思ったから」
「どうして?」
「私は……こんな世界を望んでいた訳じゃなかった。この世界が嫌いだとか、そういう訳じゃないよ。だけど、私はここで穏やかに過ごすことが幸せじゃないって、そう気づいたの」
これで納得してもらえれば、と心の中で祈る。祐也なら、きっと私を理解してくれるはず。
だが、そんな淡い期待は即座に裏切られる。
「……そんなの、おかしいよ」
「えっ……」
「だから、その考えはおかしいって。どうして?ここはすごくいい世界なんだよ?僕らを拒絶するものなんてない。僕らが拒絶するものもない。ここで暮らせば幸せなんだって!」
「でも……」
「ねぇ、実咲。僕らと一緒に、この世界で暮らそうよ」
祐也が手を伸ばしてくる。ゆらりと、曇った瞳で。
ああ、そっか。私は分かってしまった。私と彼は違う。望むものも、どんなことをされてきたかも、元々の性格も。
だから。
「嫌だ!」
叫んだ。彼の手が私に届かないように。
その時、ピキリ、と音がした。2人同時に振り向くと、鏡にヒビが入っていた。ピキリ、またピキリと、そのヒビは深く長くなる。
「嘘、だろ……!?」
祐也は驚きを露わにしていた。その間もヒビ割れは続き、向こう側の景色が歪んでいく。
そして次の瞬間、派手な音を立てて鏡は割れた。破片が弾け飛び、宙を舞う。私達は必死に顔を覆い隠し、破片から守った。
鏡の欠片が全て落ちたかと思えば、今度はその隙間から突破が吹き始める。
「……っ!」
強い風は私と祐也を取り囲み、服の裾やら髪の毛やらを激しく揺らす。
顔を腕で隠しながら、少しだけ目を出す。そうして目の当たりにした光景に、目を見開いた。突風が吹き込んでくる隙間は、ただの壁ではなく光が溢れる空洞となっていた。
直感的に思う。あそこからなら、戻れる。
私は突風に抗いながら前へと足を運び、風の出現元となっている光は手を伸ばした。
「待って!」
だが、鋭い声に手を止める。
「実咲、行かないでくれ」
祐也は必死な表情で私を見つめていた。黒々とした瞳の中で淋しさの色が垣間見え、私は一瞬、迷った。
でも。
「ごめん」
風にかき消されないように言った。私はもう、決めている。
「私は、向こうの世界に戻りたい。まだ、やりたいことがあるから」
私がそう告げると、祐也は口を噤む。唇を噛み締めたまま俯き、そしてまた、顔を上げた。
彼は、とても柔らかい笑みを湛えていた。
「分かった。じゃあ、また」
だから私も、笑顔を浮かべた。謝罪と、感謝を込めて。
「うん、さよなら」
最後の挨拶を交わし、私は溢れる光の泉に手を触れる。グッと引き込まれる感覚。前のめりに倒れ、重力のない空間に放り出される。
光に触れて僅か数秒後、頭の中がふわふわして、段々と眠くなっていった。とろんとした目を閉じる寸前。
背後から、大きな何かが壊れた音が、聞こえてきた気がした。