走った先で入ったのはまたしても1年生の教室。慣れた様子で躊躇いもなく扉を開け、1番近くの席に座った。


 私も同じように彼の隣に腰を下ろす。机の上には、未だに湯気が立つ給食があった。美味しそうな匂いが鼻腔を掠め、途端に空腹が募る。


「さっ、食べよっか」


 祐也は誰かの机の上に置かれたシチューを、その誰かが用意していたスプーンで掬って、一口、口に入れた。


「あつっ!うわ、でも美味いな。シチュー、久しぶりに食べたし」


 冷ましながらも食べる勢いが止まらない祐也の姿を見ていると、口の中に絶え間なく唾液が湧いて来て、私も誰かのスプーンを使って誰かの給食を食べた。


「いただきます」


 手を合わせてから、そっとひと匙、口に入れる。焼けそうなほどの熱さと、コクのある濃厚な旨みが口いっぱいに広がった。


「美味しい……」

「だよね。僕、ここの学校の給食で、シチューが1番なんだよね」

「私も。1番美味しい気がする。……絶品って、こう言う時に使うのかな?」

「かもね」


 祐也とシチューを食べながら他愛のない会話を交わす。思えば、誰かとこんな風に昼食を取るのは久しぶりだった。


 いつも、とにかくあの息苦しい空間から抜けたくてかき込んでいたものだから。誰かとお喋りしながら食べたことなんてないし、給食を味わったことも少ない。


 誰かと笑いながらゆっくり食べることが、こんなにも幸せなことだったなんて。


「ねぇ」

「ん?」

「祐也は、いつぐらいにこの世界に来たの?」

「んー、いつぐらいだったかなぁ」


 彼はシチューを置き、腕を組んで空を仰ぐ。ギコギコ、と椅子が不規則に揺れる。


「割とすぐだよ、入学してから」


 祐也は目を細める。もう既に懐かしむ程遠くの記憶となっているようだった。


「入学してってことは、半年以上いるってこと?」

「うーん……。それが、分かんないんだよね。この世界、時計もカレンダーもないからさ。だけど、それ以上に長く居ると思うよ」

「それ以上って……」


 どう見ても祐也は同い年ぐらいにしか見えない。それに、入学してすぐなら同い年で当たり前なのだが。


 時が、止まってる。彼の中の時が、全て。


 ふとそんな考えが頭をよぎった。あり得なくはない。


「……いや」


 考えるのはよそう。この世界は複雑すぎるから。それにしても、そんなにも早くからこっちに来る程のことがあった、と言うことだろう。一体、彼はどんな人生を送っていたのか。


「その……なんで、こっちに来たの?」


 好奇心に負けて尋ねてしまった。言った後で、しまった、と後悔する。きっとそこには、思い出したくも無いことがあるはずなのに。


「ごめん、やっぱり……」

「合わなかったんだ」

「えっ……?」

「先生と、合わなかったんだよ」


 ふと横を向くと、祐也は頬を緩めた表情を浮かべていた。どうやら、私の心配は杞憂だったらしい。彼は極めて穏やかに言う。


「僕さ、昔から他人と交流することが苦手なんだ。まともに喋れないし、いつも顔色伺って。この前髪だって、表情が見られないようにと思って伸ばしてる」


 こんなんじゃ余計ダメだよねー、と祐也は笑った。


「それでさ、入学前の仮入学ってあったじゃん」

「うん」

「その時さ、担任の先生が気さくに話しかけて来てくれたんだ。だけど僕、何を話せばいいか分からなくて黙り込んでた。多分、それがいけなかったんだろうね。俯いてたら、先生のため息が聞こえて、顔を上げたら軽蔑するような眼差しがあったんだ」

「軽蔑って……それだけで?」

「それだけでだよ。教師として、こいつはダメだって思ったんだろうね。それのせいで、入学式から早速僕に対する先生の態度が悪くなって」

「そんな……。たった一度会っただけで決めつけるなんて最低じゃない」

「僕もそう思った。だけど、憎んだところで状況は変わらないから、頑張って機嫌を取るように動いてたよ。だけどある日、それがなんか疲れちゃったんだ」

「……それは、疲れるよ」

「それでさ、もうここには居たくないって本気で思った。だから学校に来て、教室にも行かずに空き教室で隠れてたんだ」

「……」

「そして教室を出たらこっちの世界ってオチ」

「……そう、なんだ」


 それ以上も以下も、掛ける言葉が見つからない。他人の立場になったような気で何かを言うことはできるけれど、それはその人の本当の痛みを知ったわけではない。


「その……驚かなかったの?こっちに来て」

「うーん、流石に最初は驚いたよ。けどさ、こっちにいる人達、みんな優しかったから。慣れれば、向こうの世界なんかよりずっと居心地がいいって気づいたんだ」

「じゃあ、こっちの世界に来て良かったんだね」

「うん、本当にそう思う。きっと実咲も、来て良かったって思えるよ」

「……うん、そうかもね」


 カタリと食べ終えたお椀を置く。頷きはしたが、本当のところ分からない。もしかしたら、もう少し長くいれば、この世界の良さが理解できるかもしれない。


「ご馳走様」 「ご馳走様」


 2人で手を合わせる。久しぶりに、給食の時間が安らかで楽しいひと時だと思えた。

 
 暇を持て余す祐也に、私はまた、思い切って訊いてみる。


「祐也は、さ。戻りたいとか思わないの?その、元の世界に」

「戻りたい、か……」

 
 彼は腕を組んで考える。が、すぐに結論が出たのか、はたまた結論は決まっていたのか、すぐに答えた。


「今のところ、戻りたいとは思わないかな。こっちの世界に不便は感じないし。何より、あっちの世界でやってから自信がないから」

「そうなんだ……」

 
 不思議と、祐也の答えを聞いて少しだけ悲しかった。何が、かは分からない。こっちの世界で生きやすいなら、こっちにいればいいだけの話なのだから。


「よし、じゃあまた色々と説明するよ。紹介したい人達だっているし」

「えっ、まだまだあるの?」

「もちろん。さっ、着いてきて」

「あ、うん!」


 食べ終えた食器をそのままに、私達は教室を出た。