祐也はまず、長い廊下を渡って1年生の教室に向かった。誰もいない廊下は、毎日見ているはずなのに新鮮な光景に思える。
「ほんとに誰もいないんだ」
「うん、ほんとに僕らだけなんだよ」
「なんか不思議な感じ。校舎は全く同じなのに」
「人がいるだけで見えてくる景色が変わるんだよね」
そんな他愛のない話の最中、祐也がぴたりと足を止める。私も続いて足を止め、顔を上げた。『1−6』のプレートが視界に入る。
ここは近所に住んでいる女子が居たっけな、などと、何故かどうでもいい事を思い出す。もちろん、この世界に彼女は存在しないんだろうけど。
そんな考えをふけっている間に、祐也は躊躇なく扉を開けた。
「おいおいそれはないって!」
「ははーん、引っかかったな。どうよ俺のポーカーフェイスは?」
「くっそ!お前もうちょっと手加減してくれよ。ロールケーキ賭けてんのに」
「俺だってこの間買ったシュークリームを……」
ババ抜きで盛り上がっていた男子生徒のうち一人がこちらを向く。そして、私と祐也を交互に見比べた後、驚きを浮かべた。
「っておいおい、泉じゃん!えっ、しかも女子がいるし!見ない顔だな、新入りか?」
「そう、ついさっき来たばかりの子ですよ、先輩」
「うおっ、まじかー!」
その人は手にしていたトランプをスマホの隣に投げ捨て、勢いよく立ち上がる。もう片方の男子が「あっ」と顰めっ面をするも、気にせず私の前にやって来た。
「俺は2年の小鳥遊だ」
「あ、えと……1年の、出羽実咲です……」
「おー、実咲ちゃんか。1年ってことは後輩だな。よろしく!」
ニカッと笑った小鳥遊先輩は手を差し出してくる。握手、だなんてことは考えなくても分かる。数秒、戸惑った後、私はその手を、こう言っては失礼だが恐る恐る握った。
私よりも随分と大きく筋肉質な手だったが、握る力は柔らかく、そして温かい。
この人は優しい人だ。直感的に、そう思った。
「実咲ちゃんは、この世界について話は聞いたのか?」
「あ、はい、祐也から。私達が住む世界の鏡のような世界だって……」
「ああ。実咲ちゃんはどうやってこっちに来た?」
「私は……その、トイレに篭ってて……気がついたら、ここに」
ただ、状況を説明しただけだった。しかし、話している最中にチラリと顔を上げて小鳥遊先輩の表情を伺った時、先輩は何故か真剣な顔つきになっていた。
なんで、と不思議に思ったが、先輩は私の話が終わって頷き始めたので、刹那に見えた表情は崩される。
「そっかそっか。にしても驚いただろ。急に誰もいない世界なんかに来てさ」
手を離した先輩は、どこか淋しそうに横を向く。
「俺も最初は困ったよ。こいつに声かけられなきゃ、ずっと一人だったかもな」
「だろ?感謝しろよ」
未だにトランプを離さないもう一人の男子は得意げに胸を逸らした。恐らくこの人も先輩に当たるだろう。
だからな、と私の方を向いた小鳥遊先輩に、もう憂いは消え去っていた。
「実咲ちゃんも、遠慮なく俺らを頼っていいからな」
「……っ!あ、ありがとうございます」
先輩の笑顔を見ていたら、不思議と胸の奥に温もりを感じた。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「あっ、てか、新入りが来たってことは……!おい小鳥遊、コンビニ行こうぜ!」
「えっ……あ、ああ!そうだな、行こう!」
突然2人は慌て出す。小鳥遊先輩は近くに置いておいた財布を取り、もう片方の先輩はポケットから折り畳まれたケータイを置いて立ち上がった。何故コンビニ?と私は首を傾げたが、その訳を尋ねることはできなかった。
「じゃあ実咲ちゃん、また後でな!」
一瞬振り返り、手を振った後ダッシュで駆けていく先輩達。その後ろ姿を見送り、私たちは教室を後にする。
「随分と凄い勢いで出ていったね。あれ、なんだろう?」
「多分、コンビニとか店に商品が増えたから買いに行くんだよ」
「……『増える』って、どういうこと?」
「それを今から先輩と説明しようと思ったんだけど……」
祐也はポリポリと頭を掻く。当てにしていた先輩達はとうに走り去ってしまった。
「仕方ないね」
祐也は肩をすくめる。
「この世界はさ、あっちの世界のほんの一部分を切り取って生まれた場所なんだ」
「……?つまり……?」
「つまり、全ての時間が止まっているようなものなんだ。だから、電気も水道も使えない」
「あっ、じゃあさっき、片方の先輩が携帯を持っているのに使わなかったのは……」
「電波もなんも飛んでないからね」
「なるほど……」
本物の世界と全く同じ見た目のように感じていたが、こんな不便な点があるとは。それにしても、携帯とは言ってもガラケーなんて、先輩達はどういう趣味をしているのだろう。
「あれ、でもさっきの『増える』って話には繋がってないよ」
「ああ、そうだね。こっちの世界では火が使えないから料理ができない。だから、既製品を食べるしかないんだ。だけど、さっきも言ったようにこの世界はあっちの世界のプリントだから、食べ物には限りがある」
「うん」
「でも、新入りがやってくるたびに、この世界は更新されるんだ。そして、向こうの世界と同じ状況、同じ状態になる。だから、コンビニも商品が『増える』んだよ」
「つまり、私が来た瞬間にこの世界は更新されて、その時の世界の状態になったってこと?」
「そう言うこと」
祐也は親指を立てる。原理は不明だが、理屈はなんとか理解できるのさものだった。最初に見た給食に湯気が立っていたのも、給食の時間を更新されたせいなのだろう。
「さて、そろそろお腹が空かない?」
「空いたかも……」
「だよね!せっかく給食の時間の世界になったことだし、食べに行こう」
「えっ、勝手に食べても大丈夫なの……?」
「いいのいいの。こっちの世界じゃ早い者勝ちだから」
そう言うなり、祐也は私の腕を掴んで走り出す。どうやら、食べ物を待ち望んでいたのは先輩達だけじゃなかったみたいだ。