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 チャイムが鳴って、4時間目の授業がようやく終わりを迎える。教科書とノートを片付け、早く、しかしなるべく他のみんなと合わせたタイミングで箸セットを机の上に出した。もちろん、そんな動作も誰も気にしない。しかし、どうしても周りの視線が気になってしまう。


 私はクラスメートの間を縫って教室を出る。扉の近くに来た時、ふざけてよろめいていた男子がぶつかってきそうになり、済んでのところでなんとか避けた。


 私はいない存在だから、もちろん誰も気にしない。ぶつかられることなんて日常茶飯事。酷い時には偶然を装って殴られることもしばしば。一体いつまで、こんな日々を送らなければならないのだろう。


 手を洗う前にトイレの個室に入っていると、ドアを隔てた向こう側から声が聞こえた。


「ねっ、あいつここ入ってるよ」


 囁き声に、無意識的にビクッと体が反応する。よく耳にする声。脳裏に浮かぶのは、クラスメートの女子。


「うわっ、マジで」

「あいつと同じトイレとかヤダわー」

「今なら人いないしチャンスじゃん」


 それも複数人らしい。板の向こう側にいる彼女達は何をするつもりなのだろう。恥ずかしさと恐怖で身を縮こめた、その時だった。


 ドンドンドンドンッーー


 唐突にドアが激しく叩かれた。


「ーっ!?」

 
 突如として鳴った大きな騒音に、反射的に耳を塞ぐ。それでも音は鼓膜に届く。何度も何度も叩かれる音と、彼女達の罵倒。


「あっれぇー、おっかしいな。ここは誰もいないはずなのに」

「なんでドアが閉まって鍵掛かってんだろ?」

「幽霊じゃなーい?」


 その声色は、明らかに面白半分でやっている。嗤っている彼女達の表情がいまだ嫌でも脳裏に浮かんだ。


「もー、なんで開かないの?」

「もうさ、無理矢理開けちゃおうよ」

「お、良いね良いね、それ」


 その言葉に、私は酷く動揺した。冗談だって理解できる。だが、今の私とクラスの状態を見る限り、そんなことが現実となってもおかしくない。


 指先が、震えていた。指だけじゃない。腕も、肩も、足も。全身が恐怖に怯えていた。
その間も、ドンドンとドアを叩く音は止まない。私はただ、体をうずくめることしか出来ない。


 ただ、怖かった。もし、彼女達が目の前のドアを破ってしまったら。ここから引きずり出されてしまったら。彼女達の手に刃物が握られていたら。あるいはスマホがあったら。


 どれもこれもあり得そうな光景。だから余計に、ドアを開けられることを拒んだ。本当に殺される。そんな気がした。


 ドンドンドンドンーー


 ドンドンドンドンーー


 何度も何度も叩かれる。ずっと、私を攻撃している。見えないようにしなければならない。いないフリをしなければならない。


 ドンドン……


 弱々しいノックを最後に、ようやく音は止んだ。


「ちぇっ、やっぱ無理かー」

「しょうがないよ、諦めよ。ほら、どうせ誰もいないんだし」

「あ、それもそっかー」

「あはは、私たちったら何してたんだろーね」


 次第に彼女達の声は遠ざかる。しかし、私はすぐにトイレから出なかった。出られなかった。もし、今のが演技で、安心したところをドアの前で待ち伏せているのだとしたら、絶体絶命の状況になる。


 私は個室に篭り、座ったまましばらく震えていた。ポチャン、と微かに聞こえた雫の音すら恐ろしかった。


 息を殺し、耳を塞ぎ、ひたすら時間が過ぎるのを待った。寒さも指先の痺れも、今は気にならない。ガタガタと震える体を抱えて、私はひたすらに待った。


 やがて、廊下の音すら無くなる。そこでようやく、心に余裕が生まれた。
 

 そっとドアを開け、外に出る。軋む音を出しながら開いたドアの向こう側は、仄かに明るい。少しだけ開けた隙間から顔を出し、左右に首を振る。見る限り、待ち伏せをしている人はいない。そもそも、人の気配がない。


 ホッと胸を撫で下ろした。良かった、誰かに襲われることがなくて。安心を武器に大きくドアを不用心に開いて外に出る。洗面所にも、たむろう女子の姿はなかった。ゴタゴタしていなくて助かる、と思いながら鏡を覗き込んで髪の毛を整える。普段ならこんな風にゆっくりとすることはないから新鮮だった。


 水で毛先を濡らしている間も、人ひとりやって来ることはない。まるで、この学校から生徒先生が消えてしまったみたいに。だけど、そっちの方が心地よい。私はいない存在。なら、私からしてもみんなはいない存在だから。


 ゆっくりゆっくり行動して、だけど終わりは来てしまう。十分に整った髪型を見て、ため息が出た。そろそろ戻らなければ、給食に間に合わない。でも、彼女達の元に戻りたくない。


 二つの思いが攻めぎ合って、お腹が痛くなる。もういっそ、ずっとトイレに篭ってしまおうか。しかし、すぐにそれはダメだ、と脳が拒絶した。どんな目で見られているか分からないが、少なくとも先生にとっては生徒の一人。長い時間行方不明にしていれば、きっと出て行った時に怒られるだろう。理不尽な理由で叱責を喰らうのは嫌だ。


 何度か深呼吸を繰り返し、恐る恐るトイレを出る。周りを伺いながら、しかし不自然に思われない程度に。


 だが、廊下に出た途端に、ある違和感を感じた。廊下に誰もいないのだ。今まで音が全く聞こえなかったのはそのせいだろう。いくら給食の時間といえど、数人は廊下にいるのが日常だったはずなのに。


 私は小首をかしげつつ、内心は喜んでいた。少なくとも、廊下で何かをされる心配はないし、視線を気にする必要もない。


 私は軽い足取りで教室に向かった。本当に誰もいない。声も足音も、何もかも聞こえない。足を動かしながら、何気なく横を向いてみた。教室の扉にある窓を、何気なく見た。


 ーー誰も、いなかった。


 愕然とした私は足を止める。そして、見間違いかどうかを確かめるべく、他クラスの教室に近づいた。普段ならば、あり得ない行動。窓からそっと中の様子を伺う。


 やはり、誰一人として人間はいなかった。各机には、湯気が立つ給食が配膳されているというのに。


 奇妙なその光景に、私はしばし目が離せなかった。一体、何が起きているのか。偶然を疑い、また別のクラスも覗き見る。だが、目に映る光景は全く一緒。手当たり次第に全ての教室を見たが、どこも人の姿も気配もない。


 それはもちろん、自分のクラスも。


 扉の前に来たら、大抵男子の騒ぎ声と女子のお喋りの一部分が筒抜けていた。しかし、今は声どころか物音一つしない。

 
 生唾を飲み込んで、扉の取っ手に手を掛けて、勢いよく引く。扉は激しく壁にぶつかり、空気を裂くように大きな音を立てた。だが、それを気にする者は誰もいなかった。私のクラスも、もぬけの殻だ。


 ふらふらとおぼついた足取りで、私は教室から数本、後ずさる。


「なんで……こんな、ことに……?」


 その時ふと、今まで無かった気配を感じた。後ろに誰か立っている。それだけが、かろうじて分かった。無意識に作った握り拳に力が入る。このタイミングで現れるなんて。しかも、こんなおかしい世界にいるのだ。普通の人間ではないかもしれない。


 すーっと息を吸って、私は意を決して振り向いた。