「…ん。」


窓から差し込む光で目が覚める。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。涙が乾き、顔がカサつく。顔を洗いたいが動けない。しばらくして焦点が合い、ようやく今の状況を理解した。目の前には月矢さんの顔、吐息で僕の前髪が揺れている。そして彼女の手は僕の背に。動けないわけだ、僕を抱きしめたまま眠っている。昨日、月矢さんはあの後も僕と一緒に泣いてくれた。そのまま疲れて一緒に寝てしまったのだろうか。それとも僕が泣き止むまで見守っていたのだろうか、だとしたら本当に頭が上がらない。恥ずかしいとも思うが、それよりも感謝が勝つ。言ったらからかわれるだろうから言わないけど。

それよりも今は別のベクトルで恥ずかしい。僕と彼女の体はかなり密着している、今すぐにでも離れたいが彼女が(意図的ではないだろうが)それを許さない。何より起こしたくはない。付き合わせてしまった、せめてもの償いに。現在時刻は午前九時、土曜日だから恐らく起こさなくても問題ないだろう。「観念して二度寝しよう」そう思った矢先、目があった。


「「あっ…」」


一瞬気まずい沈黙が流れた。


「おはようございます…」

「あ、うん、おはよ」

「……」

「……えい」

「んぐぅ!?」


何を思ったのか、彼女は両方の手を僕の後頭部にまわして自分の胸に埋めた。息苦しさからか恥ずかしさからか、顔に血が集まっていくのがわかる。結構力を入れているのか、抵抗はしているがなかなか離れられない。


「んんん、っはあ!」

「あはは、顔真っ赤!」

「誰のせいですか誰の!」

「私だけど?」

「なんで悪びれもせず言えるんです?」

「いい眠気覚ましになったでしょ?」

「永遠の眠りにつくとこでしたよ!」

「その時はキスで起こしてあげる」

「…からかわないで下さい」

「あ、また赤くなった。本気にした?」

「してませ…エホッ!」


あ"あ"、の"と"か"!


「ああ、喉乾いてるか、ごめん!飲み物は何が良い?」

水が良い(・・・)です」


ガラガラ声で答えた。


「ふふん」

「どうしたんですか?」

「ううん、昨日のこと覚えててくれてるんだって思って」

「あ…」

「曖昧に生きるのは難しいし、何より辛いよ?少しでも正直に生きようよ」

「正直に…」


昨日の僕は、正直になれていただろうか。冷えた水を飲みながらそんなことを思う。


「どう、今は辛くない?」

「…今までよりは、多分、はい」

「…正直すぎるのも、やっぱどうかと思うなぁ」




トーストを一枚いただき、空腹を満たしたところで月矢さんに問いかけた。


「何かして欲しいことありますか?」

「して欲しいこと?なんで?」

「何か、お返しがしたいです」

「お返し?何の?」

「昨日のことです」


明確な解決策はもらえていない。でも、自分の苦しみを聞いてもらえた。理解してもらえた。それだけで今の僕には救いになった。


「あの時僕の話を聞いてくれたこと。少しでも僕に同情してくれたこと。それに対する恩返しがしたいです。貰ってばかりは嫌なんです」

「うーん、でもなぁ。別にやって欲しいこととか欲しい物無いしなぁ」

「じゃあ、僕、今日の夕方までここにいます。それまでに何かやって欲しいこと、欲しい物、決めておいてください!」

「ええ〜」

「『ええ〜』じゃないです」

「こーゆーのって押し付けるような物じゃないと思うんだけど?それに、見返りが欲しいからやったわけじゃないよ」

「押し付けでも構いません。気持ちの問題です」

「…そーかー」


困った様子だが、どうしても何かしたい、させて欲しい。


「…わかった。だからさ、少し待ってて」

「はい」


なんとか説得出来たらしい。ひとまず安心した。


「ところで君」

「はい」

「お風呂入らない?」

「…はい?」




彼女が言うことには、歩いて数分の所に銭湯があるらしい。元々家の浴室を使わせてくれる予定だったらしいがお断りした。彼女は気にしない素振りだったが僕が気にする。これこそ気持ちの問題だ。紆余曲折を経て、その結果、現在その銭湯の男湯に肩までゆっくり浸かっている。

一日ぶりの風呂は気持ちが良く、昨日の疲労がすべて洗い流されたような気分だった。冷房に一晩中当たって冷えた体に温かいお湯が染み渡る。汗を落としに来ているのだが、そこで流れる汗には心地よさがあった。サウナもあったが非常に暑く耐えられなかったため断念した。水風呂も冷たすぎる。最近流行っているため気になっていたが、まだ僕には早かったらしい。シャワーを再度浴びて浴室を後にした。


「…ぷはあっ!」


風呂上がりといえばコーヒー牛乳だ、少なくとも僕の中では。普通の牛乳もフルーツ牛乳も僕は好きだが。瓶に入ったそれを一息に飲み干すと、体が引き締まるような気がした。心地よさに自然と笑顔になる。マッサージ機もあったため有り難く使わせていただいた。

体がほぐれたところで体重計に乗った。体重は六十キロを下回っていた。落ちたのはきっと筋肉だろう。運動もろくにせず、食事も戻してしまうことが多かったからだ。余計なことを思い出しそうになったので思考を止めた。着替えは元から持ってなかったので、近くの古着屋で買い揃えた物を着ている。白の薄い生地の長袖、黒の長ズボン、グレーの靴下。下着は流石に新品を買った。


「ダサくはない…よな」


鏡を見てつぶやく。今まで着ていた服はコインランドリーに放り込んで来た。長風呂だったからそろそろ洗い終わってるし乾いただろうと思い、出入り口前で靴を履いた。すると自分の後方から来た老人が隣で靴を履き始めた。黒のサンダルとグレーの半ズボン、シンプルな青の半袖ポロシャツ、丸メガネ。



そして、見覚えのある『一眼レフカメラ(・・・・・・・)』。


「あの…!」


瞬間、僕は彼に声をかけた。見間違えることはない、どう見ても彼は


「…あ、君は!」

「はい!博物館で会いましたよね!」


昨日話した老人だ。






「はえ〜、この近くに住んでるんですか」

「そう、最近ずっと暑くてね。ちょっと写真撮りに行っただけで汗だくよ。家に着くまでに我慢できなくなって来たわけ」


話を聞くところによると、歩いてすぐのところに住んでいて、家に帰る前に寄っていくのが最近のルーティンになっているらしい。


「汗だくのままだと気持ち悪いですからね」

「そう、でも何より我慢出来なかったのはこれよ」


そう言って彼は撮った写真を見せた。写っていたのは


「ビールと、枝豆ですか?」

「そう!キンッキンに冷えたビールをエアコンの効いた場所で知り合いと一緒に飲む!これより幸せなこたぁ無い!」

「すっごい嬉しそうですね」

「当たり前よ!そこに野球なんかの中継もあればもう最高よ!」


靴を再度脱ぎ、出入り口前の椅子に並んで座りながら話を始めた。お酒が入っているからか彼はかなり饒舌だった


「今日は何を撮って来たんですか?」

「ん」

「おお、すごい綺麗!宝石みたい!」


見せられたのは日の光を反射して輝く水面、そこに浮かぶ貨物船の数々だった。


「自然のもの以外も撮るんですね」

「人が作ったものにもいいのはあるさ。芸術なんてのはよく分からんが、少なくともそれ以外にも美しいものがあることは知ってる。何気なく見ているもんのほうが綺麗なこともあるもんさ」

「何気なく…」

「目新しいものはすぐに目に入るし良さがよく分かる。でもいつも見ているもんのそれは、よ〜く見ないと分かんないもんさ」

「…良いこと言いますね」

「若いもんの前くらいはカッコつけさせてくれよ。『老害』なんて言われんのは避けたくてね。みんながみんなクレーマーやら頑固ジジイじゃねぇぞ?」

「それはおじいさん見てたら分かりますよ」

「…虎岩(・・)

「はい?」

「『虎岩富蔵(とらいわとみぞう)』。俺の名前だよ、好きに呼んでくれ。虎の岩に、富んだ蔵だ」


おじいさん呼びは確かに申し訳なかったが、まさかフルネームを言われるとは思わなかった。


「ええと、じゃあ『虎岩さん』で」

「よし、じゃあ俺はなんて呼べば良い?」

「僕は『白雲遊』って言います。白い雲に、遊ぶって書きます」

「じゃあ『遊』だな。改めてよろしく。また会うかもだからな

「え?」

「ここに来るってぇことは近くに住んでるんだろ?」

「う〜ん、そーゆーわけじゃないんですけど」

「じゃあどっかからの帰りか?」

「それとも違くてぇ…」

「どーゆーこっちゃ」


なんて説明すればいいんだろうか。うまいこと説明しにくい状況のため難しい。頭を抱えながら脳をフル回転させて考えた。


「昨日は、ちょっと疲れちゃってぇ、全然動けなくてぇ、ちょっと東京で泊まったんですよ」


なんて下手くそな嘘!


「おお、そうだったんか。早とちりですまん」


信じちゃったよこの人!すみません虎岩さん!それ嘘です!


「あ、じゃあこれ」

「…連絡先ですか?」

「そう。また近くに来る時連絡してくれよ」

「…はい!」

「よし!良い返事!」




こうして話を終えて帰路についたが、どうやら家までの道のりが僕と途中まで一緒らしく、また雑談をしながら歩いた。いつもはどう過ごしているか、東京以外にどこの風景を撮ったのかを軽く聞かせてもらった。だが、どこまで歩こうと虎岩さんはついてくる。月矢さんのマンション前に来てようやく理由を理解した。


「あの…もしかしてですけど…」

「うーん、俺も思ってたんだが…」



「「同じマンションじゃね?」」