二〇十七年四月二日、家の近くの桜並木が満開の時期を迎えていた。それにもかかわらず、僕の心は沈んでいた。付き合いの長い彼女に、昨日、とうとう別れ話を切り出されたのだ。二年前の出来事をひきずって、停滞に陥っている現在の僕の状況を考えれば、無理からぬことだった。結論はまだ出ていない。
 もうすぐ都立高の英語教師としての5年目が本格的に始まるが、今はまだ春休みだ。
僕自身は高校一年の春休みに良い経験をした。ちょうど十年前ことだ。その少し前の二〇〇七年一月、僕は初めて沖縄県八重山諸島を訪れた。その時は一人旅だった。竹富島の民宿で、僕は沖縄の伝統的弦楽器である三線に魅せられた。僕は衝動的に中古の三線を買って東京に持ち帰った。それを機に、いつかはやってみたいと思っていた作詞・作曲も始めた。そして、その最初の八重山の旅から三か月も経たない春休みに、僕はひょんなことから姉と一緒に八重山を訪れることになった。

 姉の容子は五歳年上だった。僕たちが八重山を訪れた時、姉は女子大で国文学を学ぶ三年生で、国語の教師を目指していた。
 姉は派手な顔立ちの美人というわけではなかったが、弟の僕から見ても美しい女性だった。面倒だからと言って、いつも髪は肩にようやく届く程度の長さにしていた。癖がまったくなくサラサラの黒髪は艶があって綺麗だった。やや童顔の姉には、美人という名詞より、「かわいらしい」、「愛らしい」という形容詞が似合うような気がした。
 それゆえに、姉は小学生の頃から男に追い回される存在だった。家族で繁華街を歩いている時に、子役やモデルのスカウトに声を掛けられたことも一度や二度ではなかった。

 子供の頃の僕にとって、五歳の年の差は大きな違いだった。僕が幼稚園の砂場ではしゃいでいた頃、姉はすでに中学受験の準備をしていた。しっかり者の姉から見ると、僕はいかにも頼りなく見えたのだろう。姉は僕をとても可愛がってくれた。そして、僕も母親以上に姉に甘えていた。

 小学校二年生の時、こんなことがあった。その日、近くの神社で夏祭りがあり、家の傍の桜並木には露店が並んでいた。僕は姉に手を引かれて歩いた。初めて見た姉の浴衣姿は、女性を意識する年でもない僕にすら眩かった。
 姉と違って計画性のない僕は、早々に親からもらったお小遣いを使い果たしてしまっていたが、つい杏飴の露店の前に立ち止まってしまった。姉はすぐに状況を察したようだった。自分の巾着から財布を取り出すと、「はい」と言って杏飴の代金を僕に握らせた。
「純、お母さんたちには内緒よ」
 姉は唇の前に人差し指を立てて見せた。その時食べた杏飴の甘酸っぱさは、今でも忘れられない。

 僕が小学校四年生、姉が中学三年生の時、父親の仕事の都合で僕たちはニューヨークに移り住んだ。僕も姉も公立の学校に通い、約四年間を過ごした。
 頭が良く、英語の勉強にも熱心だった姉は、中学二年の終わりには既に二級程度の英語力があった。だから、姉はすんなりと現地の中学に適応した。しかし、何の準備もなく、いきなり現地の小学校に放り込まれた僕にとって、学校は地獄以外の何物でもなかった。
 よく泣いて帰った。そんな時、姉はいつも僕を抱きしめて言ってくれた。
「大丈夫よ、英語なんてすぐに分かるようになるから、心配しなくていいよ」
 姉はよく僕に英語を教えてくれた。宿題もいつも手伝ってくれた。気高く、優しく、美しい姉は、その頃の僕にとっては正に天使のような存在だった。

 僕が中学生になり、英語も普通に話せるようになると、さすがに小学生の時のように姉に甘えることはなくなった。しかし、成長するにつれて、僕は姉のことについて、それまで気づかなかった色々なことに気づくようになった。
 高校三年の終わり頃になっても、姉の周囲には男の気配がまるで感じられなかった。小さい頃から男に追い回されていた姉は、恋愛に関してはひどく臆病だった。追いかけてくるものからは逃げたくなるというのは自然な心理だったし、昭和生まれで純日本風、インドア派で日本語の小説にどっぷりとはまっている姉にとって、ニューヨーカーたちは眼中になかったのかもしれない。
 姉はほとんど外に出かけることはなく、女友達が家に遊びに来ることも少なかった。しかし、梨花さんという近所に住む日本人の同級生だけは、よく僕らの家に来ていて、僕も梨花さんとは言葉を交わすようになっていた。

 それは僕たちがニューヨークを去る日が近づいた秋のことだった。学校帰りに、僕は近所の公園のベンチに腰を下ろす梨花さんの姿を目にした。梨花さんは手にチェーン店のコーヒーショップの紙コップを持っていた。僕は梨花さんに声を掛けることにした。聞いてみたいことがあったのだ。
「こんにちは。梨花さん」
「あら、純君。お久しぶりね」
 梨花さんは小さく手を振り、笑顔で答えてくれた。
「あの、隣に座ってもいいですか?」
「もちろん。座って、座って」
 梨花さんが快く応じてくれたので、僕は梨花さんの隣に腰を下ろした。
「あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「何かしら?」
 僕は単刀直入に尋ねた。
「うちの姉、学校では、普通に人付き合いできてるんですか?」
「ぜんぜん普通よ。どうして」
 梨花さんは、僕の質問はまるで見当違いだという顔をしていた。
「いや、うちの姉、ほとんど外に出かけないし、友達が来ることも少ないんで、ちょっと気になって」
「まあ、お姉さんのこと心配しているなんて、良い弟さんね」
 梨花さんはそう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「いや、そんなことないです」
 僕は少し照れたが質問を続けた。
「あと、ボーイフレンドとかいる気配がないんですけど。どうなんでしょう?」
「うーん、それは確かにいないわね」
 梨花さんの返答は思った通りだった。
「うちの姉、こっちではモテないんですか?」
「とんでもない。容子に近づいてくる男なんて腐るほどいるわよ」
 梨花さんの答えに、僕は半分安心し半分不安になった。
「でも、容子はそういう男たちに、いつも背を向けて逃げちゃうのよね」
「そうですか。日本にいた時と同じですね。でも、そろそろ好きな人ができてもいいんじゃないかと思うんですが」
「いるわよ、容子には好きな人が。その子も日本人よ」
 それは意外な答えだった。僕はその真相が聞きたくなった。
「でも、その男の子にはガールフレンドがいて、片思いってことですか?」
「違うのよ。二人は両思いなのよ」
「じゃあ、どうして付き合わないんですか?」
 僕には理解しかねる話だった。梨花さんは、そんな僕の気持ちを理解してか、二人の様子を詳しく教えてくれた。
「二人とも日本語の小説が好きでね、ランチタイムの時とか、よく小説の話をしているのよ。傍目には恋人同士にしか見えないくらい。でも、その男の子、とても繊細でね。ちょっと気が弱いところがあるの。だから、容子に告白できずにいたのよ。容子も自分から告白できるタイプじゃないからね。純君にも、それはよく分かるでしょ」
「確かに。それは良く分かります」
 あの姉に自分から告白などできるわけがなかった。
 梨花さんはコーヒーをまた一口飲むと、ため息混じりに話し始めた。
「そこでね、私がその男の子をたきつけたのよ。『容子が君のことを好きなのは、私が保証する。絶対に断られないから告白しなさいって』ね。そして、告白の段取りもしてあげたの」
「それで、その男の子は告白したんですか?」
「したよ」
「じゃあ、なんで付き合ってないんですか?」
「容子、その子にも背を向けて逃げちゃったの」
 ありえないと思った。
「何で?訳がわかりません。両思いだったんでしょう」
「そうよ、私も訳が分からなかったんで、容子に理由を聞いて呆れたわ」
「うちの姉、なんて言ったんですか?」
 梨花さんは姉の口調を少し真似して、その男の子に告げた言葉をそのまま僕に伝えてくれた。
「『あなたのことは好きですが、もうすぐ日本に帰る自分には、あなたとお付き合いする資格はありません。でも、これからも友だちのままでいてください』って言ったて言うのよ、容子の奴」
「馬鹿ですね。うちの姉」
 開いた口が塞がらなかった。
「馬鹿よね、本当に。先のことなんて考えず、目の前の気持ちに素直になればいいのにね」
「そうですよね」
 そう言いながら、僕は確かに姉が言いそうなことだとも思った。
 梨花さんはまた一口コーヒーを飲んでからつぶやいた。
「容子に振られた男の子もかわいそうよね。私、たきつけた人間として、責任感じちゃった」
「その男の子、どうしたんですか?」
「ショック受けて、三日も学校に来なかったの」
「あちゃー。で、その後、二人はどうなったんですか?」
 梨花さんは残りのコーヒーを全部飲み干してから答えた。
「私と容子が学校の廊下にいたら、その子が来るのが見えたの。容子は飛んでいって『病気でもしたの?大丈夫?』って、まるで二人の間には何事もなかったように言ったのよ」
「そうしたら、その男の子、どう答えたんですか?」
 梨花さんは、今度は男の子の口調を真似して成り行きを説明してくれた。
「『もう、僕に話しかけないでくれ。君といると辛いんだよ』って言って、逃げるようにしていなくなっちゃたの」
「それを見て、姉はどうしたんですか?」
「最初は、ただ呆然としてたわね。その後、ちょっと壁の方に向いてたから、少し泣いてたのかもしれない」
「泣きたいのは、その男の子の方だと思いますが」
「そうよね」
 そう言って梨花さんはまた一つため息をついた。
 
 そのニューヨークの恋が、姉にとってトラウマになったことは疑いの余地がなかった。日本に戻り女子大に通い始めてからも、姉の周りには男の気配がまるでなかった。近づいてくる男がいなかったとは思えないので、いつも背を向けて逃げていたに違いなかった。
 中には好きな男もいたかもしれない。しかし、好きだった人を傷つけた過去のある自分には、恋をする資格などないと思い込んでいたのだろう。とにかく、姉は恋愛にはひどく臆病だった。

 姉のそんな過去を思い出しながら、午後の日差しを浴びて桜並木を歩いていたら、信じられないような出来事が起こった。ベンチに梨花さんが腰を下ろしているのが見えたのだ。なんとあの時と同じようにチェーン店のコーヒーショップのカップを手にしていた。
 姉が日本に帰国した後も、二人の間にはメールのやり取りがあったが、すぐに音信不通になり、それきりだった。僕はあの時と同じように梨花さんに声を掛けてみることにした。
「あの、失礼ですが、もしかしたら梨花さんじゃありませんか。僕、純です、容子の弟の」
「嘘、純君、びっくりした。わあ、すっかり立派になって見違えちゃった」
「お久しぶりです。最後にお会いしたのは中学生の時ですから、もうあれから十三年になりますね」
 そう言って、僕は梨花さんの隣に腰を下ろした。
「梨花さん、日本に戻ってきたんですか?」
「いいえ、まだニューヨークにいるのよ。海外出張でたまたま近くに来ただけ」
「そうでしたか」
「純君たちが帰国してすぐ、私の両親が離婚してね。パソコンはお父さんが持って行ってしまったの、それで音信不通になって。なんか容子に申し訳なくて。ねえ、容子は元気?」
 一瞬返事に詰まった。
「姉は亡くなりました。ちょうど二年前、明日が姉さんの命日です」
「え、嘘」
 梨花さんの手からカップが落ち、中身が歩道に広がった。

 仏壇にお線香をあげたいと言ってくれた梨花さんを、僕は自宅に招いた。居間での焼香が済むと梨花さんは僕に姉のことを尋ねた。
「ねえ、純君、聞かせてくれない?容子が帰国してから、どんな人生を歩んだのか」
「はい、喜んで。ああ、梨花さん時間ありますか?むしろ僕の方が聞いて欲しいんです」
「大丈夫、今日はもう、ホテルに帰るだけだから」
「そうですか、ありがとうございます。ああ、今、コーヒーでも入れますから。リビングのソファに座って下さい」
「わかったわ」
 梨花さんはリビングに移動してソファに腰を下ろした。

 それから、僕はコーヒーを入れながら考えた。姉の大学生活がどのようのものであったのか、僕はほとんど知らなかった。しかし、それは姉の人生を語る上では重要なことではなかった。だから話す必要はないと思った。コーヒーを梨花さんの前に置いた後、僕は高校時代に、姉と二人で八重山に行くことになった経緯から話し始めた。

 二○○七年、二月、僕は春休みの旅費ほしさに姉の部屋に借金を申し込みに行った。実は一月に八重山に行った時も旅費は姉から借りていた。僕は八重山をもう一度訪れてみたいと強く感じていた。まだ行ったことのない島を訪れ、今度は珊瑚礁の海もシュノーケリングで覗いてみたかった。もちろん三線も持って行くつもりだった。
 
「え、また?この前の分も一円も返してないのに?」
 借金を申し込むと姉は少し不機嫌な顔をしてみせた。
「頼むよ。どうしても、また八重山に行きたいんだ、春休みに。姉さんだけが頼りなんだ」
「さて、どうしようかしら」
 姉は少し考えた様子をみせてから続けた。
「純がどうしてもと言うなら考えてあげてもいいわ。でも、条件があるの」
「貸してくれるなら、どんな条件でものむよ」
 どんな条件を付けられるのかと、僕は少し警戒した。姉が少しズルそうな顔をしたので、僕は身構えて姉の言葉を待った。
「私も一緒に連れて行ってくれるなら貸してあげる。あなた、この前に八重山に行ってから、随分と意欲的になったじゃない。中古の三線まで買って来てさ」
 少し間を置いて姉は続けた。
「どんな所だろうって、興味が湧いてね。自分も行ってみたいなって思たの。どう、連れて行ってくれるの?」
 どんな条件を出されるのかと身構えていた僕は肩透かしを食らった。
「え、もっと条件厳しいかと思った。その程度良いなら喜んでやるよ」
「じゃあ、準備は全て任せたから」
「はい、すべて、こちらでやらせて頂きます」
 僕は大喜びで姉の部屋を出た。姉と初めての旅というのも悪くなかった。姉は免許も持っているので石垣島をレンタカーで回ることもできる。姉の条件は、僕にとって特に不利なことはなかった。
 
 そして、二〇〇七年三月二十六日、僕は三線を抱え、姉と共に八重山へ旅立った。
 僕たちはどこの島でも民宿に泊まった。どの民宿でも姉はモテたが、近づく男たちには背を向けまくった。次々と男を惹きつけては絶望の淵に叩き込む、我が姉ながら結構な悪女だと僕は思った。

 旅が終わりに近づき、最後に泊まったのが西表だった。西表には三泊して、民宿が主催する二つのツアーに参加した。
 最初のツアーではシーカヤックを漕いでマングローブの川を進んだ。カヤックを降りてから坂道を登り、ピナイサーラの滝の上から鳩間島を眺めた。帰りは滝つぼで泳いだ。
 次の日のツアーはシュノーケリングツアーだった。小さな珊瑚の骨格が積みあがってできたバラス島や、当時は定期船のなかった鳩間島にも上陸するというものだった。いつかは全ての島を訪れたいと思っていた僕にとって打ってつけのツアーだった。

 僕たちは、民宿が漁港の近くに建てた小屋でウェットスーツを身につけ、ボートに乗った。その日の参加者は僕たち二人を含め六人。小学生の男の子とその両親、あと一人は二十代半ばに見える割とイケメンの男性だった。
 その男性は親子連れとは言葉を交わしていたが、僕たちには話しかけてこなかった。午前中のシュノーケリングの時は一人で黙々と泳いでいた。姉に近づくチャンスはいくらでもあったのに、彼にはその気がまるでないようだった。姉に話しかけようともしない若い男性は、その旅の中では極めて珍しい部類に入った。

 午前中のシュノーケリングの後、ボートは鳩間島の港に入港した。そこは如何にも寂れた漁港という感じで、建物らしいものはほとんどなかった。
「坂を上って島の頂上でお弁当を食べると良いですよ。左手に鳩間中森という表示が見えたら左側の森の中に続く道に入ってください」
 宿のスタッフはそう言って僕たちに弁当を配った。僕たち六人は、その薦めに従ってウェットスーツを着たまま細い坂道を登った。
 定期船のない島の集落は春休み中だというのにひっそりとしていた。店らしきものもほとんどなかった。島民は観光とはおよそ無縁の暮らしをしているように見えた。
 あっという間に集落を通り過ぎ、僕たちは森の中の道を島の頂上へと向かった。「鳩間中森」という文字が刻まれた石塔が見えたので、宿のスタッフに言われた通りに、そこで左に折れた。そして、極めてあっさりと僕たちは島の頂上の灯台の麓にたどり着いた。
 灯台の少し右側にお城の土台の部分のミニチュアのようなものがあった。「物見台」という表示があった。僕たちは物見台の上で昼食を取ることにした。そこからは小さな島の全域がぐるりと見渡せた。灯台は物見台の少し下から空に向かって伸びていた。物見台の上はそれほど広くなかったので、僕たちは自然と身を寄せ合うように腰を下ろした。西表の逆側に親子連れが並び、僕たちは彼らと背中合わせに西表の側に座った。寡黙な若い男性と僕の間に姉が座る格好になった。
 海も空も青く美しかった。空と海の狭間のような場所で僕たちはお弁当を食べた。鳩間島に来られてよかった、僕は心底そう思った。その旅が翌日で終わるのが残念でならなかった。

 お弁当を食べ終わり、僕は海を見ながらふとつぶやいた。
「綺麗だな」
 僕が感慨に浸っているというのに姉が無粋なことを言った。
「私に感謝しなさいよ。私のお陰で、この景色が見られたんだからね。お金、なるべく早く返してね」
「姉さん、空気が読めてないよ。こんなところでお金の話なんてしなくたっていいじゃないか。それに姉さんは家庭教師のバイトで稼いだお金、ほとんど使っている様子もないから、大金持ちじゃないか」
 姉は如何にも不満げに言い返してきた。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。家庭教師のバイトはね、お金のためじゃないの。将来、教師になるための経験を積むためにやっていたのよ」
 姉の話を聞こえたのか、家族連れのお父さんが話しかけてきた。
「お嬢さん、先生になりたいのかい?だったら隣の人にアドバイスをもらうと良いよ。その人、学校の先生だから」
 姉は右隣の若い男性の顔をまじまじと見た後で遠慮がちに尋ねた。
「あの、教員をやっていらっしゃるのですか?」
「はい、都立高校で国語を教えています。名前は村川茂樹です」
 丁寧な話しぶりからして、誠実な人という印象を僕は受けた。姉はやや戸惑いながら自分たちの名前を伝えた。
「私は山崎容子、こっちが弟の純です」
「容子さんに純君ですか。お二人は仲が良さそうですね。僕は一人っ子なので羨ましいです。容子さんは今、何年生ですか。それと何の教科を教えたいのですか?」
 村川と名乗った男性は姉にアドバイスをしてくれるようだった。姉は少し緊張気味に答えた。
「学年は三年です。もうすぐ四年になります。教科は国語で、六月に教育実習をするんですけど、ちょっと不安なんです」
「教育実習、懐かしいですね。大変な思いもしたけれど、充実していました。経験者としては、不安に思う気持ちも分かりますが、大丈夫です。『案ずるより産むが安し』というやつですね」
 彼の言葉には姉の不安を和らげようという配慮が感じられた。
「私、都立大岩高校で実習をするんですけれど、どういう学校かご存知ですか?」
 姉の質問に対して彼は少し不思議そうな顔をした。
「あれ、容子さんは大岩の卒業生ではないのですか?」
「はい、私たち、いわゆる帰国子女で約四年間ニューヨークにいたんです。ですから大岩高校は教育委員会に紹介して頂いたんです」
「なるほど」
 彼は姉の言葉に小さくうなずいた後、大岩高校のことを丁寧に教えてくれた。
「大岩は偏差値的には中堅校です。同僚に大岩から転勤してきた人がいますが、人懐こい生徒が多く、落ち着いた学校だと言っていましたね。僕も一度、練習試合の引率で行ったことがありますが、見ず知らずの僕にも笑顔で挨拶をしてくれる生徒たちばかりで、良い学校だなと思いましたね。あなたのような方が実習でいらっしゃったら、きっと人気者になりますよ」
 彼のものの言いようは、やはり不安を抱いている姉に対する優しさが感じられた。
「からかわないでください。村川さん」
 姉は少し顔が赤いように見えた。めったにないことだった。
「からかってなんていませんよ。ところで容子さんは、なんで国語を選んだのですか?四年もニューヨークにいたなら英語も達者だと思いますが」
 彼の質問はもっともだった。英語なら、まず採用試験の合格は間違いなしだ。僕ならば、そうするだろうと思った。彼の質問に対する姉の答えは少し僕を驚かせた。姉にしては珍しく、男性に対して自分のことを妙に素直に話したのだ。
「私、昔から日本の小説が好きでしたから。英語には英語の良さがありますが、私は日本語の方が好きなんです。英語を知ってから益々、日本語の素晴らしいところが見えてきて、ああ、教師になるなら、やはり国語だなって思ったんです」
 彼は納得したという表情で姉の考えに理解を示した。
「確かに文豪と呼ばれる人たちの中には、大学で外国文学を学んでいた人も多いですよね」
「そうですね、夏目漱石も英文科でしたしね」
 自分の考えを理解してもらえて姉は少し嬉しそうだった。

 それから二人はしばらく文学談義を交わしていた。そして僕は気がついた。姉の様子がやはりいつもとは違うのだ。適当に相手の話に合わせているわけではなく、姉は真剣に彼の言葉に耳を傾け、自分の言葉もきちんと伝えようとしていた。姉のそんな様子を見ながら、僕は初めて姉の別の顔を見たような気がした。
 「国語教師」という共通項を持つ二人は明らかに惹かれあうものを感じていた。恋愛に臆病な姉にとって、この出会いは千歳一隅のチャンスだと僕は思った。しかし、もし彼には既に相手がいたというオチがついてしまったら、姉はますます臆病になるだろう。そういう事態は避けなければならないと思った。二人の話を遮らないようにタイミングを見計らって僕は尋ねた。
「村川さんは・・・」
「茂樹でいいよ。純君」
「じゃあ、茂樹さんは結婚していたり、彼女がいたりするんですか?」
「いきなり、なんて失礼なことを聞くのよ」
 姉は拳骨で僕の肩を叩いた。そして、すぐさま謝罪の言葉を口にした。
「すみません、馬鹿な弟で」
「あはは、別にいいですよ。純君、僕は独身で彼女もいないよ。というか振られたばかりでね。実は、この旅行は二人で来るはずだったんだ。でも、振られて、ドタキャンされてたんだ。既に休暇も申請して、旅行届も出していたし、キャンセルしてもお金はほとんど返ってこない。それなら一人で行こうと思ったんだ」
 姉はひどく恐縮した様子で更に謝罪を繰り返した。
「本当にすみません。辛いお話をさせてしまって」
「気にしないでください。僕が話したくて話したんですから」
 茂樹さんは妙に爽やかな顔をしていた。
 僕は胸をなでおろした。話の内容からして茂樹さんに女がいないのは確実だ。後は何とかして二人の関係が育つよう手を貸すだけだ。姉に任せておいたら二人の関係が進展しないのは見えている。さあ、どうしようかと僕は考えた。
 僕はまず二人の元から離れて二人がより話しやすいようにしようと思った。
「僕、灯台の下の方に行ってみますね」
 そう言って僕は一人で物見台を離れた。灯台を通り過ぎて、その前の鉄柵にたどり着いた時、思わず息を飲んだ。眼下に見える鳩間の海があまりにも美しかったからだ。特に港を守る防波堤の内側の水の色は、とてもこの世のものとは思えなかった。あえて言うならば明るく輝く濃い水色といったところだろうが、そんな言葉で言い表せる色ではなかった。わざわざ二人を置いてきたものの、やはりこの海は二人にも見てもらうべきだと僕は思った。
「姉さん、茂樹さん、こっちに来てみてください。海がすごく奇麗ですよ」
 僕は大声で二人を呼んだ。茂樹さんが声を掛けたようで、姉も重そうな腰を上げ、二人で僕のところまでやってきた。そして、二人は肩を並べで眼下の鳩間港を見下ろした。
「うわあ、本当だ、すごく奇麗な海だね」
 茂樹さんはえらく感動した様子だった。
「本当に奇麗ですね」
 姉も素直に茂樹さんに同意した。
 さすがに、すぐに僕だけがその場を離れるのは不自然だったので、僕もそこに残った。あまりにも海が美しかったので、二人のために妙な小細工をする気も失せた。そうして、僕たち三人はしばらく言葉もないままに灯台の足元で鳩間港を見下ろしていた。その光景はきっと僕たち三人にとって決して忘れられない景色になるような気がした。

 それから、僕たち六人は一緒に坂を下り港に戻った。ほどなくボートは出港して午後のシュノーケリングポイントに向かった。
 ポイントに着くと、スタッフが海に潜りロープでボートを固定した。スタッフは海から上がると僕たち六人に声を掛けた。
「それでは、皆さん用意してください」
 僕と姉と茂樹さんはフィンを足に着け、シュノーケルが取り付けられた水中眼鏡を頭から被った。
「純、あなた、私の傍を離れたらダメだからね」
 姉が不安げに言うと茂樹さんが反応した。
「容子さんはシュノーケリングが得意ではないのですか?」
「私、今日、初めてやったのです。純に旅の予定を任せておいたら、このツアーを予約していて驚きました。まったく泳げない訳ではないんですけど。フィンが上手く使えなくて」
「そうですか、じゃあ、僕たちが力を貸しましょう」
 茂樹さんはそう言うと、ロープの先に小さな浮き輪のようなものが着いた用具を手に取ってスタッフに尋ねた。
「あの、これ借りていいですか」
「どうぞ、ご自由にお使いください」
 スタッフが快諾したので、茂樹さんはその道具を僕たちの所まで持ってきた。
「容子さんは、この浮き輪のようなものを掴んでいてください。僕と純君で引っ張りますから」
 姉は茂樹さんの申し出を受けるのに抵抗したが、僕が押し切った。その後の三人そろってのシュノーケリングはとても思い出深いものになった
 海の中は色とりどりの珊瑚や魚で溢れていた。珊瑚はもちろん、魚も見たことのないものばかりで、如何にも熱帯魚という感じのカラフルなものが多かった。
 水面で屈折した光は、波まかせに珊瑚の表面をせわしなく動き回り、まるでネオンサインを見ているようだった。海の中では、珊瑚も魚も、みな光り輝いていた。
 僕たちは西表の海を堪能し、瞬く間に時は流れ、シュノーケリングの終了時間はあっという間にやって来た。

 港に着き、小屋でスーツを脱いで着替えをしながら、僕も茂樹さんにお礼を言った。
「茂樹さん、姉を助けてくれて、どうもありがとうございました。もし、良かったら今日の夕食、一緒に食べませんか。僕が席をキープしておきますから」
「それは嬉しいな。喜んでご一緒させてもらうよ」
 茂樹さんは笑顔で答えてくれた。
 どうやら茂樹さんも姉のことを気に入ってくれているようだった。僕は夕食がすごく楽しみになった。

 宿の夕食は六時からだった。姉と茂樹さんは文学や教育の話題で会話が弾んでいた。僕は蚊帳の外に置かれた感があったが、むしろそれが嬉しかった。
 食事が終わる頃、茂樹さんが姉に尋ねた。
「お二人は、明日はどういう予定ですか?」
「朝、石垣に渡ってレンタカーで石垣を回った後、夕方の飛行機で東京に帰ります」
 姉は極めて事務的に返事をした。もう少し可愛らしい言い方ができないものかと僕は思った。
「そうですか、僕は石垣にもう一泊する予定ですが、明日はレンタカーで石垣を回るので、どこかでまた顔を合わせるかもしれませんね」
 茂樹さんのその言葉を聞いて、僕は瞬時に名案を思いついた。
「あの、茂樹さん、レンタカー代は僕たちが払いますから、茂樹さんの車に僕たちも乗せてもらえませんか?僕、実は姉の運転が心配で」
「何を言っているのよ、純、そんなのご迷惑でしょ」
 姉は僕をきつく睨み、それから茂樹さんに詫びを言った。
「すみません。純が馬鹿みたいなことばかり言って」
「いえ、そうさせてくれると僕も嬉しいな。一人で回るより楽しそうだし。容子さんさえ良ければ、そうさせてくれませんか?」
 茂樹さんの申し出に姉はかなり動揺したようで、すぐに次の言葉が出てこなかった。
「私は別にかまいません」
 姉の表情はどこか嬉しそうな表情に変わっていたのに、返答は相変わらずそっけなかった。「こちらこそ、よろしくおねがいします。石垣も一緒に回れて嬉しいです」と、なぜ言えないのかと僕はあきれ果てた。
「じゃあ、決まりですね、僕、予約キャンセルしちゃいますね」
 僕はすぐに携帯を取り出すとキャンセルの電話を入れた。
「ああ、容子さん、純君、料金のことですが、もう払ってあるのでいいですよ。サラリーマンの僕が学生さんたちからお金を取るなんてみっともないですから」
 姉もここは茂樹さんの顔を立てるべきだと思ったようだった。
「すみません。本当にご好意に甘えてばかりで」
「そんなに謝らないでください。僕は、今日、すごく楽しかったし、明日もすごく楽しみですよ」
 謝ってばかりいる姉に気を使う茂樹さんは、やはり大人だと思った。
「そう言っていただけると、私も嬉しいです。」
 姉もほんの少しだけ進歩したかと、その時、僕は思った。

 その後、僕は強引に茂樹さんを僕たちの部屋に呼び、三線の演奏を聴いてもらった。もちろん、それは口実で、姉と茂樹さんの仲を発展させようという作戦だった。
 途中から僕は誰でも知っていそうな曲を選んで三線を弾いた。初めは僕の計画に憤慨していた姉も、茂樹さんが歌いだしてからは終始笑顔だった。

 翌朝、僕たち三人は宿の車で上原港に着いた。僕たちが出会った鳩間島が間近に見えた。そこから高速船で僕たちは石垣に戻った。
 石垣港に着くと茂樹さんが予約していたレンタカーの会社から迎えの車が来ていた。レンタカーの会社に着き、茂樹さんが手続きを済ませ、いよいよ出発の時がやってきた。
「僕は後ろに乗るから、姉さんは助手席に座って。免許持っているんだから茂樹さんのナビをしてあげて」
 僕はさっさと後部座に寝転び姉の侵入を防いだ。姉は渋い顔を見せながら助手席に座った。茂樹さんが運転席に着きハンドルを握った。
「じゃあ、出発しましょう」
 そう言って茂樹さんはゆっくりとアクセルを踏んだ。

 最初の目的地の玉取崎の駐車場から僕たちは展望台に向かって歩いた。姉と茂樹さんの二人はずっと語り合いながら歩いていて、どう見ても付き合いの長いカップルにしか見えなかった。僕はわざと少し遅れて二人の後をついていった。遊歩道の脇には真っ赤なハイビスカスが花を付けていた。
 頂上の東屋からの眺めは素晴らしかった。北側には石垣島の一番細い部分が間近に見えた。糸の先に付いた風船のように、細い部分の先端にはこんもりとした山がくっついていた。細い部分の右側は、波一つ立っていない綺麗な水色の浅瀬で、白い砂が透けているようだった。沖に目を移すと、珊瑚礁の一番外側、リーフエンドに立つ白波の曲線が北から南へと続いていて、石垣島が珊瑚礁に囲まれた島であることを明確に示していた。
 
 二つ目の目的地である平久保崎は石垣島最北端の地だった。駐車場から歩いてすぐに僕たちは灯台の下にたどり着いた。そこは地球が丸いことを再確認できる場所だった。岬の右手は太平洋、左手は東シナ海だった。岬のすぐ先には、無人島がひとつぽっかりと浮かんでいた。宮古島と石垣島の間にある多良間島も微かに霞んで見えた。
 灯台の右側に見える海は特に美しかった。スカイブルーに輝く水面の所々に黒く見える所があり、そこには珊瑚があるらしかった。シーカヤックが二艘、こちらにやって来るのが見えた。灯台のすぐ近くでタンデムのモーターパラグライダーが旋回を繰り返し、やがて右手に遠ざかっていった。どうやら、パラグライダーを体験できるショップがあるようだった。
「ここ、ハワイよりも綺麗だわ」
 そんなことを言って、オバサンたちが僕らの後ろを通り過ぎて行った。
 灯台の反対側は岩山のようになっていた。「危険登るな」という看板があったが、岩山の上にはいくつかの人影があった。ふと、考えが浮かんだ。僕がこの岩山に登っても二人は追いかけては来ないだろう。二人きりにするチャンスだと思った。
「僕、ちょっと、あの上に登ってくるよ」
 僕は二人の反応を待たずに登り始めた。
「立ち入り禁止って書いてあるじゃない。やめなさいよ」
 姉は予想通りの反応を示したが僕は無視した。危険は全くなく、僕はあっさりと頂上にたどり着いた。そこから見ると地球は更に丸みを増して見えた。
 灯台の下に茂樹さんと姉の姿が見えた。二人で今、何を話しているのだろう。僕のことを気にしている様子は全くなかった。二人は並んで海を見ていたが、その間には恋人未満の微妙な距離があった。茂樹さん、姉さんの肩を抱き寄せてくれればいいのにと思った。しかし最後まで、その微妙な距離が縮まることはなかった。

 最後の目的地である川平湾では、特産の黒真珠のアクセサリーを売る店の駐車場に車を止め、遊歩道を歩いた。右手に見える浅瀬はスカイブルーに近い色をしていた。やがて左手の高い所に東屋が見えてきたので、僕たちはそこに登っていった。そこは川平湾を少し上から見下ろせる場所だった。
 川平湾は細長い入り江で、中央には濃い緑で覆われた小島があった。その小島の水際は濃いエメラルドグリーンだったが、湾内には青というか緑というか、とにかく様々な色や濃さが混在していた。グラスボートが頻繁に行き交う川平湾は、珊瑚の種類が非常に多いことでも有名な石垣島随一の観光名所だった。
 東屋でしばらく海を眺めた後、僕たちは浜に降りた。珊瑚の骨格が砕けてできた真っ白できめの細かい砂を踏んで、僕たちは湾の外側の方に向かって歩き続けた。崖が作る日陰がみつかったので、僕は一休みすることを提案した。
 僕はリュックからブルーシートを取り出して砂浜に広げた。シートは、竹富の民宿で会った人の真似をして用意してきたものだった。僕と茂樹さんはシートの両端に横になった。姉は横にはならず、僕たちの間で体育座りをしただけだった。
 川平湾に着いてからの僕たちは、いつの間にかかなり口数が減り、ついには黙って美しい海を見つめるだけになっていた。三人それぞれが、旅の終わりの切なさをかみ締めていたのかもしれなかった。
 姉が自分の気持ちを言いだせないのは分かりきっていた。茂樹さんが姉に好意を抱いているのは明白なのに、なぜ茂樹さんは素直に自分の気持ちを姉に伝えようとしないのか、僕には分からなかった。もはや、二人のために繰り出せる作戦は何もなく、僕自身の旅の終わりの切なさと、姉と茂樹さんの距離を縮めることのできない焦りがない交ぜになって、ひどく心が落ち着かなかった。

「そろそろ、行きましょうか」
 腕時計を覗き込んだ茂樹さんが起き上がった。
「はい」
 答えた姉の声は消え入りそうなほどに弱々しかった。
 水面に差し込む西日の反射がやけに眩しかった。旅は正にエピローグを迎えようとしていた。この旅は寂しい結末を迎えるのだろうか。真っ白な砂浜を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。

 そして、ついに車は石垣空港の駐車場に到着してしまった。茂樹さんが真っ先に車を降りてトランクから僕たちの荷物を出してくれた。
「ゲートまで見送らせてください」
 茂樹さんの言葉を押し返すように姉が言った。
「いいえ、もう、ここで結構です。本当にお世話になりました。村川さんも、どうぞお元気で」
「いいえ、こちらこそ。お陰さまで良い旅ができました。実習と採用試験、頑張ってくださいね。上手くいくようにお祈りしています」
「ありがとうございます」
 姉はスーツケースを引いて空港入り口に歩き出そうとしていた。二人とも素直な気持ちを伝えないまま、この出会いを束の間の旅の出会いにしてしまうつもりのようだった。ダメだ、それじゃダメだ。僕の心が強く叫んでいた。だから僕は最後の賭けに出ることにした。姉を抜きにして茂樹さんに直談判する道を選んだ。
「姉さん、悪いけど、先に行っててくれないか。僕、茂樹さんに、ちょっと話があるんだ。いわゆる男同士の話って奴。だから、先に行っててよ」
「分かったわ。でも、早くしてよ。飛行機に乗り遅れるわけにはいかないからね。それじゃあ、私、先に失礼させて頂きます」
 姉は茂樹さんに一礼すると空港の入り口に向かって歩いて行った。決して振り向かないという姉の強い意志を、その背中が伝えていた。僕は茂樹さんの方に向き直り、意を決して自分の願いをストレートに伝えた。
「茂樹さん、どうして姉を追いかけてくれないんですか?姉は、今、きっと泣いてると思います」
 茂樹さんは喉につかえた言葉を絞り出すように言った。
「できないよ。僕には」
 茂樹さんの顔は苦痛に耐えているようだった。
「どうしてですか。姉は絶対に茂樹さんのことが好きです。茂樹さんも、そうなんじゃないんですか?」
 茂樹さんは僕の質問に答えるのが辛そうだった。
「容子さんは、とても魅力的な女性だ。たぶん、今まで僕が出会った中で一番ね」
「だったら、なぜ?」
「僕にはその資格がないからさ。本当は、今日の純君の誘いも断るべきだっんだ」
 返ってきた茂樹さんの答えに僕は納得がいかなかった。
「資格って何ですか。人を好きになるのに資格なんて必要なんですか?」
「初めに言っただろう。振られたばかりだって。そんな男が容子さんに近づこうなんて、失礼極まりないじゃないか」
「姉は、そんなこと、決して気にしないと思います。茂樹さんが次々と女に手を出すような人じゃないことは、僕も姉もよく分かっているつもりです」
「いや、僕にはやはり資格がないよ。それに大事な時期を迎えている学生さんに、社会人の僕が交際を申し込むなんて常識外れじゃないか」
 資格とか常識とかを持ち出してくる茂樹さんに、僕は少し腹が立った。
「人を好きになるのに資格なんていらないと思います。新しい恋をするのに、早すぎるなんてこともないと思います」
「そう簡単にはいかないよ」
 茂樹さんは頑なだった。
 それでも僕は話し続けた。引き下がるわけにはいかなかった。
「姉は昔からずっと男の人に追いかけられていました。だから、男性恐怖症のところがあるんです。そのせいで長い間、男性を好きになれませんでした。ニューヨークで、やっと好きな男性に出会いましたが、素直になれず、相手の男性を傷つけてしまいました。そのことがトラウマになって、姉は日本に帰ってからも男性と付き合いませんでした。姉は、自分は男性を好きになる資格がないと思っている節があるんです。でも、やっと好きだと思える男性に出会えたんです。茂樹さんに出会えたんです。もし、このまま茂樹さんと別れてしまったら、姉は一生、自分の気持ちに蓋をしてしまうかもしれません。このままだと、教育実習にも、採用試験にも集中できないと思います。もし、茂樹さんに、ほんの少しでも姉を愛しいと思う気持ちがあるなら、姉を救ってやってくれませんか。弟の僕では、どうすることもできません。姉を救うことができるのは茂樹さんだけなんですそれに、僕がここまで頼んでいるのは、姉のためだけじゃありません。もし、このまま姉と別れたら、茂樹さんも絶対に後悔します。僕は茂樹さんも好きだから、二人には後悔してほしくないんです」
 僕の言葉に茂樹さんは少し考え込んだ後、苦しそうに答えた。
「そうだろうね。いつかきっと後悔するだろうね。でも、やはり、今の僕には自分の気持ちを伝える資格があるとは思えないんだ。どんなに辛くてもね」
 その言葉を聞いたら、僕はもう茂樹さんの心を動かす言葉を見つけることができなかった。
「純君、そろそろ行かないと、本当に飛行機に乗り遅れるよ」
 茂樹さんが腕時計を覗いた。僕は最後通告を突きつけられたような気がした。そして、僕は、最悪の事態を想定して用意しておいた小さな紙の切れ端に、最後の望みを託すことにした。僕はそれを茂樹さんの手に無理やり掴ませた。
「姉の携帯の番号です。掛けてやってくれませんか。姉が飛行機に乗る前に、携帯の電源を切る前に。東京に着いてからでは手遅れになると思います。どうか、お願します」
 僕は深々と頭を下げてから荷物を持って空港の入り口へと走った。
 
 手荷物検査のゲートをくぐると、僕は姉の姿を探した。姉は端の方の席で虚空を見つめていた。茂樹さんの所へ駆け戻りたいという気持ちを姉は必死に抑えているような気がした。
「遅くなってごめんね」
 僕は姉の隣に腰を下ろした。
「いいわよ、間に合ったから」
 姉は答えはしたものの、如何にも心ここにあらずという感じだった。
 その時、姉の小さなショルダーバッグのポケットの中で携帯が鳴った。
「キタ!」と僕は確信した。しかし、姉は電話に出ようとはしなかった。
「どうしたの、姉さん。携帯が鳴ってるよ」
「いい、今、なんか出たくないの」
 僕は静観してはいられなかった。
「もう、どうしようもないな」
 僕は姉のバッグから携帯を取り出して応答のボタンを押した。
「何やってるのよ、あなた」
 姉が怒るのを無視して僕は電話に出た。
「あ、純です。今、姉に換わりますから」
 僕は携帯を姉に返しながら強く祈った。
「姉さん、茂樹さんからだよ。話、ちゃんと聞いてあげて。それから、姉さんも素直に気持ちを伝えてあげて。ここはニューヨークじゃないんだから」
 姉は携帯を受け取ると、ゆっくりとそれを耳に当てた。
「お電話換わりました。容子です。・・・・・いいえ、私、そんなこと気にしていません。・・・・・お気持ちとても嬉しいです。・・・・・はい、じゃあ、また東京で。・・・・・はい、お電話お待ちしています。・・・・・はい、じゃあ、失礼します」
 姉は携帯をバッグに戻すと一瞬、天井を見上げた。さっきまで沈んでいた顔がゆっくりと笑顔に変わっていった。その頬に一筋の涙がつたっていた。十六年も一緒に暮らしてきたのに、僕はその時初めて姉の本当の笑顔を見たような気がした。

 東京で再会した後の姉と茂樹さんの交際は順調のようにも不調のようにも見えた。
 しかし、たまに三人で食事をしたりすると、あの八重山の旅の時のように二人はお似合いのカップルのように見えた。
 姉は茂樹さんの助けもあり、無事に教育実習を終え、採用試験にも合格した。そして、二人が出会ってから、もうじき一年という二○○八年二月、都立高校への就職も決まった。
 お祝いに三人で食事がしたいという茂樹さんの誘いがあり、僕たちは洒落たレストランで姉の就職祝いをした。
 その食事を、僕はただの就職祝いだと思っていた。しかし、僕は食事が終わる頃、茂樹さんから思いもよらぬ話を聞かされた。
「純君、君は僕たちの縁結びの神だから、最初に報告するけど、実は僕たち、来月に結婚することにしたんだ」
 僕は思わずナイフとフォークを落としそうになった。

 僕でさえ驚いたほどの急展開だったが、茂樹さんは父に殴られることもなく、あっさりと挨拶は終わった。三月中の吉日を選んで二人は入籍を済ませ、姉は最初から村川容子として教壇に立つことになった。
 
 そして、四年の時が流れ、二○十二年三月、姉は最初の卒業生を出した。四月には転勤で別の学校に移り、六月、ようやく二人は式を挙げた。その時、僕は大学の四年生で、教育実習が間近に迫っていた。
 そして七月、二人は僕の家の近くにマンションを買った。やがてできるであろう子供のことを考えてのことだった。
 八月には新婚旅行でヨーロッパに行った。二人には明るい未来が開けていると誰もが思っていた。
 
 しかし、二人には残酷な運命が待ち受けていた。二○十三年九月、職場の定期健診がきっかけで、姉の体に癌がみつかったのだ。それから長い闘病生活が始まった。
 二○十四年三月、休職中だった姉は復帰の目処が立たず教師を辞めた。その頃、教員二年目を迎えた僕は、一年生の担任の就任が決まっていた。
 徐々に弱ってゆく姉の姿を見るのは心が痛んだ。しかし、僕にはどうすることもできなかった。できる限り頻繁に見舞いに行く、僕にできることはそれしかなかった。
 
 それは、まだ姉が相部屋の病室にいる頃だった。ベッドの脇に置かれた丸椅子に腰を下ろしていた僕に、姉が余計なお節介を焼いてきた。
「純、頻繁にお見舞いに来てくれるのは嬉しいんだけど、あなた、最近、デートの数が足りないんじゃない?あなたの彼女、この前ここに来た時、私を見る目がすごく怖かったんだけど」
「馬鹿だなあ、姉さん、考えすぎだよ。あいつはそんな嫉妬深い奴じゃないよ」
「いや、私はあなたが鈍感なだけだと思うな」
そんなやり取りをした後のことだった。姉は静かに自分の願いを語り始めた。
「私、早く家に帰りたいな。それから、あの場所にも帰りたい」
「あの場所って、どこのこと?」
「鳩間中森、あの灯台のある所」
「あそこは姉さんにとって『行く』場所じゃなくて『帰る』場所なの?」
「うん、だって茂樹さんと出会った場所だから」
 まるで夢でも見ているように、姉は窓の外のどこか遠くに視線を向けた。
「なんだ、のろけてるの?」
 僕が冗談めかして聞くと、姉の語り口は極めて現実的な色合いに変わった。
「違うわ。もっと真剣な話。私ね、あそこから、もう一度歩き出したいの。もっと良い奥さんになりたいし、教師にも戻りたいな」
「じゃあ、治療がんばらないとね」
「そうね」
 姉の答えは心なしか虚ろに聞こえた。
「純、この話、茂樹さんには内緒にしておいてね」
 姉はそう続けた。
「うん」、とだけ僕は答えた。
 茂樹さんを困らせたくないという姉の思いが、僕には痛いほどよく分かった。その時の姉にとって、その願いはまだ目標だったのか、すでに叶わぬ夢だったのか、僕には知る由もなかった。

 作詞・作曲を続けていた僕は、新しい歌ができる度にそれを姉の携帯に入れていった。姉はいつも僕の歌を褒めてくれた。
「うん、これも、いい歌ね。でも、純、あなたの歌って悲しい歌が多いよね。私のせいかしら?ねえ、もっと明るい歌も作ってみたら」
「姉さんのせいってことはないよ。たぶん、それが僕の作家性なんだよ」
「作家性なんて、随分立派な言葉を使うようになったのね」
「姉さんみたいに国文科じゃないけど、一応これでも英語英文学科卒だからね」
「でも、もう一度、生で聞きたいな、あなたの歌」
 昔だったら決して言わない台詞のような気がした。
「病院じゃ無理だよ」
 分かりきったような返事をすると、姉はまたいつもの問いを投げかけてきた。
「ところで、純、鳩間島の歌はまだ出来ないの」
 姉はしばしば、鳩間島の歌を早く作れと僕を急かした。
「ごめん。まだ、出来ていないんだ」
「早くしてよね」
 姉は少し寂しそうにつぶやいた。
 僕は何度か鳩間島の歌を作ろうとした。当然、それは姉と茂樹さんの歌以外にはなりえなかった。しかし、あの時の幸せな思いでの歌は、その頃の姉にはあまりにも不似合いだった。
 そして、同時に僕は不安を抱えていた。鳩間島の歌を聴いたら、姉は安心して逝ってしまうような気がしていた。僕は鳩間島の歌を作れなかったのではなく、作りたくなかったのかもしれなかった。

 姉と茂樹さんは、お互いの前では決して涙を見せなかった。たぶん、それは無言のままに出来上がった約束だったのだろう。でも、僕は茂樹さんが泣いているのを良く知っていた。僕は、姉のいないところで泣いている茂樹さんの姿を何度も目にしていた。

 僕は姉が泣いているのも知っていた。姉は僕の前では、感情の起伏が激しかった。怒ったと思ったら急に泣き出し、泣いていると思ったら急に怒りだした。両親や茂樹さんの前では晒せない思いを、姉は全て僕にぶつけてきた。
 
 こんなことがあった。ある日、僕が見舞いに行くと、姉はひどく不機嫌だった。起こしたベッドから僕を睨みつけると信じられないような言葉を吐いた。
「何しに来たのよ。また下手な歌でも聞かせに来たの?」
「なんで、そんなこと言うんだよ」
 悲しかった。怒りなど湧いてこなかった。姉は更に僕にひどい言葉をぶつけてきた。
「それとも何、私が死ぬ前にお金でもせびりに来たの?」
「そんな訳ないじゃないか」
 僕がそう答えると、姉は今度は急に泣き出した。
「もう、来ないでよ。あなたの顔なんて見たくもないわ。あなたなんて生まれてこなければ良かったのよ」
 僕は返す言葉が見つからなかった。その状況にどう対処すればよいのか、何も考えが浮かばなかった。
「みんなあなたが悪いのよ。あなたさえいなければ、私が茂樹さんと一緒になることはなかった。あなたが茂樹さんを不幸にしたのよ」
 泣きながら怒り狂う姉の言葉はめちゃくちゃだった。姉は完全に理性を失っていた。
「私、あなたを殴らなければ気がすまないわ。純、こっち来なさいよ」
 姉に命じられるままに僕は姉の下に歩みを進めた。
「ここに頭を出しなさいよ」
 姉は自分のお腹の辺りを指で示した。僕は丸椅子に腰を下ろすと言われた通り、自分の頭を姉の前に差し出した。
 姉は僕の後頭部を右の拳で殴り続けた。僕はただ、されるがままにしていた。やり場のない怒りの強さと裏腹に、すでに強さを失った姉の拳は悲しいほどに痛くなかった。

 その次に見舞いに行くと、姉は僕の顔を見るなり泣き出した。
「純、この前は御免ね。ひどいことを言って御免ね」
「気にしてないよ」
 僕はそう言って、いつものように丸椅子に腰を下ろした。
「本当に御免ね、殴られて痛かったでしょう」
「全然、痛くなかったよ」
「嘘よ、嘘でしょ」
「本当だよ」
「御免ね、あなたに八つ当たりしたりして」
 姉はひたすら僕に謝り続けた。
 その日、姉は泣いてばかりで、ほとんど会話にならなかった。僕は、ただ黙って姉の傍にいることしかできなかった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 僕が立ち上がると、姉は僕の腕に両手ですがり付いてきた。
「待って、まだ帰らないで、もう少し私の傍にいて」
「いいよ」
 そう言ったものの僕は次の言葉を捜すことが出来なかった。
「御免ね、私の方が年上なのに、あなたに甘えてばかりで」
 姉はまた謝った。
「大丈夫、昔は今の何千倍も僕が姉さんに甘えていたから、姉さんがどれだけ甘えても、絶対にチャラにはならないから」
 僕がそう言うと姉はいつかの願いを口にした。
「私、家に帰りたい。あの場所にも帰りたい」

 それからというものは、僕が帰ろうとする度に同じことになった。
「私、家に帰りたい。あの場所にも帰りたい」と姉は呪文のように繰り返した。僕は姉が手を離してくれるまで、いつも黙って傍にいることしか出来なかった。
 姉の願いが、すでに叶わぬ夢であることは、僕も姉も悲しいほどによく分かっていた。

 そしてとうとう、その日がやってきた。二○十五年四月二日、つまり、二年前の今日のことだ。
 その日、僕は見舞いに来て欲しいという電話を姉からもらった。僕はよく見舞いに行っていたが、来て欲しいと言われたのは、その日が初めてだった。
 個室のスライド式のドアを開けて、僕は少し驚いた。最近はベッドを起こすことはほとんどなくなっていた姉がベッドを起こしていた。僕はいつものようにベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、姉さん、今日はすごく元気そうだね」
「今日はね、なんだか朝から気分が良くてね」
「そうだんだ。そのせいかな?なんかいつもより奇麗に見えるよ」
 僕がそう言うと姉は嬉しそうに笑った。
「そう、良かった」
 その日の姉は泣きもせず、怒りもせず終始穏やかで、病気になる前とまるで変わらなかった。僕たちは久しぶりに和やかな会話をして時を過ごした。

 面会時間の終了が迫った頃、姉が何か改まった顔で僕に語り掛けてきた。
「ねえ、純」
 それから、姉は少し躊躇したように見えたが、意を決したように話し始めた。
「私ね、あなたにすごく感謝しているの。あの日、あなたがあんなに真剣になってくれなかったら、私と茂樹さんは一緒になることができなかった。あなたが甘えさせてくれたから、たくさん泣かせてくれたから、茂樹さんとはずっと笑顔でいられた。あなたが私の弟で良かったって、ずっと思っていたの」
 子供のころからいつも頭が上がらなかった姉に初めて褒められたような気がした。
「そこまで褒められると、なんか気持ち悪いな」
「ううん、本当のこと。いつか伝えたいと思っていたのだけれど、照れくさくてずっと言えずにいたの。でも、伝えられて良かった」
 その言葉に僕は何かひっかかるものを感じた。しかし、それを姉に問いただすことは僕にはできなかった。だから僕は少し別の方法を取った。
「茂樹さんには、もう伝えたの?ずっと言えなかったこと」
「うん、伝えたよ。素直に全部伝えられた」
「そう、良かったね」
「うん、良かった」
 悲しいことに僕の想像は間違っていないようだった。ならば僕もと思った。少し迷ったが、僕も姉には言っていなかったことを伝えることにした。姉がこんなことにならなければ、たぶん一生言うことはなかっただろう。ずっと言いたかったこととは少し違ったが、伝えるべきだと思った。
「姉さん、僕はね、姉さんと逆のことを思ってた時期があるんだ」
「逆って、どういう意味」
 姉は少し首をかしげた。
「姉さんが、僕の姉さんじゃなければいいのにって、思ってたんだ」
「どういうこと、それ?」
 不思議そうに僕を見る姉に、僕は少し照れながら秘密を明るみに出した。
「血がつながってなければいいのにって、思ってた時期があるんだ。だって、姉さんは僕の初恋の人だから」
 姉は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに、それは笑顔に変わっていった。
「この期に及んで愛の告白?でも、なんか嬉しいな」
「いやあ、思春期の初めの、ほんの少しの間の話だよ。今は、自分に姉さんと同じ血が流れているのが嬉しいよ。今は、ただの弟として姉さんのことが好きだよ」
「おだてても、お小遣いは出ないわよ」
 冗談めかした姉の言葉に、僕はふと遠い昔のお祭りの日のことを思い出した。
「昔、お祭りの時に、お小遣いくれたよね。『お母さんたちには内緒よ』って言って」
「あなた、そんなこと良く覚えているわね」
「だって良い思い出だもの」
 僕のその言葉を聞いた後、姉は少し照れたような笑みを浮かべながら妙なことを口にした。
「ねえ、純。今度生まれ変わったら、恋人同士になって結婚しようか」
「それも、悪くないかもしれないね」
 僕が真顔で言うと姉は急に正気に戻ったような顔をした。
「なんか私たち馬鹿みたいね」
「そうだね」
 そんなやり取りをして僕たちは思わず笑い出してしまった。ああ、姉とこんな風に楽しく笑い合ったのは一体いつ以来だろうと僕は思った。こんな時間がもっと続けばよいのにと思う気持ちに水を差すように病院のアナウンスが流れた。
「間もなく面会終了の時刻になります。面会者の方は退出のご準備をおねがいします」
「もう、そんな時間だったんだね。じゃあ、僕は帰るね」
 残念ではあったが仕方なく、僕は帰宅する旨を姉に伝えた。
 丸椅子から立ち上がろうとする僕を姉の手が引き止めた。しかし、それはいつものような強引な引き止め方ではなかった。そして、姉はまるで女子中学生のように顔を赤らめて、おかしなことを言った。
「ねえ、純、私たちってニューヨーカーだよね」
「ええ~、元だと思うけどな、ニューヨークに住んでいたのは随分昔の話じゃないか」
「いいじゃない、元でも」
 姉は少しためらった後、冗談めかして言った。
「純もニューヨーカーなんだから、アメリカ映画に出てくるカッコ良い男の子みたいに、大好きなお姉さんに『おやすみのキス』くらいしてくれてもいいんじゃない」
 姉は少し唇を前に出すと目を閉じた。
「そうだね」
 僕は丸椅子から立ち上がり、ごく自然に自分の唇を姉の唇に重ねた。それは、それまでの人生の中で、最も軽く、甘く、そして悲しいキスだった。
「おやすみ、姉さん、良い夢を見てね」
「うん、見れそうな気がする」
 姉の笑顔は本当にそう信じているように見えた。
「じゃあね」
 僕がそう言ってドアの方に向かい、取っ手に手を掛けた時だった。
「純」
 姉が僕の名を呼んだ。振り向くと姉は透き通った瞳で僕を見つめていた。
「純、ありがとう。さよなら」
 姉が、「さよなら」と言った。いつもなら、「じゃあ、またね」と言う所で、「さよなら」と言った。姉の瞳には、もう憂いも、未練も、悲しみもなかった。それは死を悟った者の瞳だと僕は思った。
 姉の「さよなら」には、僕も「さよなら」で答えなければならなかった。でも、僕はすぐにその言葉を口にすることができなかった。姉は、まっすぐに僕をみつめたまま、僕の「さよなら」をじっと待っていた。僕は喉の奥から無理やり最後の言葉を引きずり出した。
「さよなら、姉さん、大好きだよ」
 僕はドアを開き廊下に出てから、もう一度後ろを振り向いた。姉は限りなく優しい笑みを浮かべていた。そして僕は取っ手を引いて姉の姿をドアの向こうに消し去った。それが、僕が見た最後の生前の姉の姿だった。
 
 それから、わずか四時間後、日付が四月三日になった直後、姉は静かに息を引き取った。あまりにも突然の出来事で、誰一人臨終に立ち会うことはできなかった。
 僕が両親と一緒に病室に入ると、すでに来ていた茂樹さんが大声で泣いていた。姉の体にすがり付き、「容子、容子」と叫び続けながら、ただただ泣いていた。号泣という言葉は、こういう涙のためにあるのだと僕は思った。
 茂樹さんがどうにか落ち着きを取り戻したところで、僕たちは医師から姉の最期についての説明を受けた。姉の死は末期癌の患者の容態の急変とは言いがたいという話だった。姉の心臓は全く何の前触れもなく突然停止したというのだ。それと同時に、呼吸その他の全ての身体機能が停止し、突然死と言っても良い最期だったと僕らは聞かされた。
 その話を聞いた時、僕は数時間前の自分が間違っていたことを思い知らされた。あの姉の澄んだ瞳は、死を悟った者の瞳ではなかった。それは死を決意した者の瞳だったのだ。姉は僕や茂樹さんに、伝えるべきことを笑顔で伝え、一人で静かに旅立つ道を選んだのだ。
 勝手な思い込みだと人は言うだろうが、そんなことはどうでも良かった。僕には姉の死に顔が何よりの証拠に思えた。姉の死に顔はこの上なく美しかった。微かに笑みを浮かべているようだった。僕は何の疑いも無く信じた。姉は短かったが幸せだった人生に感謝し、なすべきことをなし終えて、良い夢を見ながら旅立ったのだと。

 姉が亡くなったというのに、僕は不思議と泣かなかった。それは姉の死に顔があまりにも美しかったせいかもしれなかった。
 通夜が過ぎ、告別式が終わり、いよいよ棺を閉じる段になっても、涙はこぼれてこなかった。不謹慎だと言われるかもしれないが、白い衣に身を包み、花に埋もれてゆく姉の姿は本当に綺麗だと思った。
 姉の体が、いよいよ荼毘に付される直前、最後のお別れの時に見た姉の顔が呼び起こしたものも、「悲しい」というよりも「美しい」という思いだった。姉の棺が重たい扉の向こうに消えても、なお涙はこぼれてこなかった。

 しかし、涙はまるで夕立のように突然降ってきた。それは姉の遺骨が僕たちの前に運ばれてきた直後のことだった。姉の体が横たわっていたはずのその場所には、やや茶色がかった砂と石の小さな砂漠があるばかりだった。あれほどまでに美しかった姉の姿は、もはや見る影も無かった。かつて姉であったものの向こうに、火葬場の入り口のドアがあった。そのガラス越しに小さな桜の木が見えた。傾きかけた春の日差しを受けて、桜の花びらが音も無く風に舞っていた。
 その時、今まで溜まっていた涙が堰を切ったように一気に零れ落ちた。僕の両膝は無様に床に崩れ落ちた。両手を床につき、僕は赤ん坊のように泣き続けた。床に次々と涙が零れ落ちた。止めることができなかった。いや、止めようという意識すら起こらなかった。

 どれほどそうしていたのか僕には見当もつかなかった、僕のせいで骨上げが始められないことなど頭の隅にもなかったが、ふと、僕の両肩に触れる手に気づいた。茂樹さんだった。
「純君、僕と一緒に姉さんの遺骨を拾ってやってくれないか。僕たちにできることは、もう、それぐらいしかないんだから」
 茂樹さんに促され、僕はようやく立ち上がった。しかし涙が止まることはなかった。火葬場の職員がお決まりの説明を始めた。
「こちらが喉仏でございます」
 職員が掲げて見せた姉の喉仏は、今も「家に帰りたい、あの場所にも帰りたい」とつぶやいているような気がした。

 全てが終わり、火葬場の入り口でタクシーを待つ茂樹さんに僕は付き合った。
「さっきは取り乱してすみませんでした」
 その時になるまで僕は茂樹さんに詫びの一つも言えないでいたのだ。
「いや、気にしなくていいよ」
 茂樹さんの言葉は優しそうでもあり、悲しそうでもあった。やがて、やって来たタクシーに、姉の遺骨を抱いて茂樹さんは乗り込んだ。
「純君、色々ありがとう。じゃあ、またね」
 茂樹さんは無理して笑顔を作っていた。
 タクシーは緩やかに発進すると、先ほどの小さな桜の木が放つ桜吹雪の中を去っていった。愛する人に抱かれ、姉はようやく待望の我が家への帰途についた。

 それから約一ヵ月後、僕はゴールデンウィークを利用して八重山を訪れた。
 ある晩、石垣の宿で一緒になった旅人たちと居酒屋で飲んでいる時だった。僕の短パンのポケットの中で携帯が震えだした。僕は店の外に出て携帯を開いた。着信の表示には茂樹さんの名前があった。僕はすぐに応答のボタンを押した。
「もしもし、純です」
「やあ、純君、久しぶりだね。お義母さんから聞いたんだけど、君、今、八重山にいるんだって」
「はい、今、石垣の宿で会った人たちと飲んでいるところです」
「そうか、邪魔して悪かったね。実は僕も、今、石垣に着いたところなんだ」
 意外な話だった。
 茂樹さんは少し躊躇した後に僕に尋ねた。
「純君、明日は、もうツアーの予約とか入れてしまったかな?」
「いいえ、何も予定は入れていません」
 僕の答えを聞いて茂樹さんはほっとしたように電話の本題を切り出した。
「そうか、じゃあ、明日一日、僕に付き合ってくれないかな?」
「いいですよ。どこで待ち合わせましょうか?」
 茂樹さんの答えは最初から決めてあったようにすぐに返ってきた。
「九時に離島ターミナルまで来てくれないか?」
「いいですよ。ああ、海を正面にして左側にダイビングショップのオフィスがありますから、その近くのベンチに座っていて下さい」
「分かった。そうするよ」
 茂樹さんは了承した後、少し間を置いてから、やや不安げな声で尋ねてきた。
「ところで純君、今回も三線を持って来てるかな?」
「はい、持って来ました」
 僕の答えに安心したのか、茂樹さんの声が少しだけ明るくなった。
「そうか、良かった。悪いけど、明日、三線も持ってきてくれないかな?」
「いいですよ」
「じゃあ、また明日」
「はい、失礼します」
 電話を切り、僕は携帯をポケットにしまった。不思議だった。姉の死の後始末で忙しいはずの茂樹さんは、なぜ突然に八重山を訪れたのだろうか。そして、僕を呼び出して何をしようとしているのか、僕にはまるで見当がつかなかった。

 翌朝、僕は時間通りに離島ターミナルに着いた。約束した場所に座っている茂樹さんの後姿にはすぐに気づいた。しかし、ベンチの前に回った時、一瞬息が止まった。茂樹さんは膝の上に姉の遺骨を抱えていた。

「茂樹さん、お早うございます」
 僕は茂樹さんの隣に腰を下ろした。
「やあ、お早う。すまなかったね、急に呼び出したりして」
 茂樹さんの声はどこか元気がなかった。
「いいえ、気にしないでください」
 僕の言葉を聞いた後、茂樹さんは今日の目的を明らかにした。
「実は、納骨をする前に、姉さんを鳩間島に連れて行ってあげようと思ってね。『家に帰りたい、あの場所に帰りたい』というのが姉さんの願いだったから」
 その姉の願いは、茂樹さんには内緒にしておいてほしいと言われていたものだった。
「いつから知ってたんですか?」
「最後の日に聞かされた。ずっと伝えたいと思っていたことがあるって言われて。それを聞いて、僕は退院の準備をするって約束したんだ。結局、間に合わなかったけどね」
「そうでしたか」
 間に合わなかったというのは少し違うような気がした。
 それから茂樹さんは少し弱気な声で僕に頼んだ。
「なんとなく一人で行く勇気がなくてね。純君、僕と一緒に鳩間島に行ってくれないかな?」
 僕も一緒に行って良いものなのだろうかという思いがちらっと頭をかすめたが、僕は同行を了承することにした。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
「ありがとう、じゃあ、これ」
 茂樹さんは僕に鳩間島行きの往復のチケットを手渡した。そして、僕たちの巡礼の旅が始まった。

 十時四十分、高速船が鳩間島の港に到着した。あの日、寂れた漁港に過ぎなかった港は、すっかり様子が変わっていた。高速船用の浮き桟橋ができ、小さいながらも小奇麗な待合室も建っていた。宿やツアーの送迎の車も何台か来ていた。それは八年前の、あの日には見かけなかった光景だった。
 灯台へ続く細い坂道も、わずかだが様相を変えていた。あの時は、観光とはまるで縁のない場所にしか見えなかったが、真新しい看板や矢印も見られ、宿や店の数も増えたようだった。
 集落を抜けると、そこからは、あの日のままの鳩間島だった。鳩間中森の石塔を見つけ左に折れると、僕たちは山の頂上の灯台の下にたどり着いた。
 それから僕たちは、まず灯台の左側の柵の方に向かった。あの日、三人で黙って見つめた港の海の色は、変わることなく青く奇麗だった。茂樹さんは胸元に抱えていた姉の遺骨を肩に担いだ。僕には茂樹さんが姉に語り掛けている言葉が聞こえたような気がした。僕は海を見つめたまま茂樹さんに声を掛けた。
「姉さん、やっと帰りたいと言っていた場所にたどり着いたんですね」
「ああ、こんなに小さな姿になってしまったけどね」
 それきり、お互いに言葉が途切れた。それから、僕たちはしばらくずっと鳩間の海を見つめ続けていた。海の青も、空の青も、あの日と同じように美しかった。しかし、僕と茂樹さんの間に姉はいない。それ以外は、あの日と何一つ変わっていないような気がした。

 どれくらいそうしていたのか、時間の感覚がなかった。
「純君、じゃあ、あっちに行ってみようか」
 茂樹さんに声を掛けられて、僕はようやく我に返った。そして僕たちは、あの日一緒に昼食を取った物見台に上った。腰を下ろして落ち着くと、茂樹さんが僕に頼んだ。
「純君、姉さんに君の作った歌を聴かせてやってくれないかな。もう一度、生で聴きたいって言っていたからね」
「はい、わかりました」
 僕は三線をケースから取り出して調弦をした。
「じゃあ、歌いますね」
「ああ、楽しみだな」
 そして、僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌った。僕の歌の歌詞の中には姉と共に訪れた場所もあり、時々涙がこぼれそうになった。茂樹さんは黙って僕の歌に耳を傾けてくれた。

「ありがとう、純君。どれも皆、良い歌だね。姉さんもきっと喜んでいると思うよ」
 全ての歌を歌い終わった時、茂樹さんがそう言ってくれた。
「そうだと良いですね。」
 僕には姉に届いているという確信はなかった。
「でも、鳩間島の歌はまだ出来ていないんだね」
 茂樹さんが少し悲しげにつぶやいた。
「すみません。姉にもせがまれていたんですが、どうしても鳩間島の歌はできませんでした」
「そうか、できた時には僕にも聴かせて欲しいな」
「はい、頑張ってみます」
「期待しているよ」
 茂樹さんが言った直後だった。僕は信じられない声を耳にした。
「御免ね、純、茂樹さんと二人きりにしてくれないかな?」
 姉の声だった。
 僕は茂樹さんの方を見たが、茂樹さんには姉の声が聞こえた様子は見られなかった。姉の願いを叶えるためには、僕は茂樹さんを残して、一人でこの場所を離れなければならなかった。言い訳を少し考えてから茂樹さんに声を掛けた。
「茂樹さん、僕、せっかく遠くまで来たので、島を回ってみたいんですが、構いませんか?」
「もちろんだよ、歌も歌ってもらったから、姉さんの願いはもう叶っただろうし、行っておいで」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 僕は三線をケースに収めて立ち上がった。
「それじゃあ、純君、港でまた会おう」
「はい、失礼します」
 僕はゆっくりと物見台の石段を下りた。しばらく歩くと、ふと気になって茂樹さんの方を振り返った。そして僕は、一瞬、自分の目を疑った。
 茂樹さんの隣に姉が座っていた。まるで、あの時と同じように。茂樹さんは黙っていたが、姉は茂樹さんの言葉に答えるように嬉しそうにうなずいたりしていた。僕に気づいた姉が小さく手を振った。その唇が「ありがとう」と動いたように見えた。僕は二人に背を向けて集落の方へ坂を下りていった。

 一時間もしないうちに、僕は島を一周していた。
 僕は木陰のある浜をみつけ、そこにブルーシートを敷いて横になった。横になって海を見ながら、僕は二人のことを思った。二人は今、どんな気持ちで時を過ごしているのだろうと考えた。茂樹さんには姉の姿も見えず、声も聞こえないようだった。でも、茂樹さんはきっと、心の中で姉に向かって言葉を掛けていたのだろう。そして、その心の声が姉には聞こえていたのだ、あんなに嬉しそうに頷いたりしていたのだから。
 気がついたら僕は眠りに落ちていた。茂樹さんとあの場所で過ごす姉は、僕の夢の中には出てきてはくれなかった。
 
 日が傾き始めた頃、港の待合室にいると、茂樹さんが姉を抱いて戻ってきた。
「茂樹さん。お疲れ様、二人きりでたくさん話ができましたか?」
「ああ、声には出さなかったし、もちろん答えなどなかったけれど、姉さんは隣で僕の心の声を聞いていてくれたような気がしたよ」
「そうですよ、だって姉さん、すごく・・・」
 言いかけた言葉を僕は飲み込んだ。「すごく嬉しそうにしていたから」と言うつもりだった。でも、僕は姉さんの声を聞いたことも姿を見たことも、茂樹さんには黙っていることにした。そうしなければいけないような気がした。僕はすぐさま別の言葉を用意した。
「茂樹さんの心の声はきっと姉に届いていたんだと、僕もそんな気がします」
「そうだと良いね」
「そうですよ、きっと届いていますよ」
 僕たちはお互いの顔を見て少し笑った。

 十六時十五分、高速船は鳩間島の港を出港した。その時、僕たちはまだ船室に入らず船尾にいた。ふと灯台を見上げると、不思議なことが起こった。距離が遠く、見えたわけでもないのに、僕は姉があの場所から僕たちに手を振っているのが分かった。だから、僕は茂樹さんに声を掛けた。
「茂樹さん、馬鹿げたお願いをしても良いですか?」
「なんだい」
「僕と一緒に、手を振ってやってくれませんか。姉があの場所から手を振ってくれているような気がするんです」
「ああ、そうかもしれないね」
 僕があの場所に向かって手を振ると、茂樹さんも付き合ってくれた。港で見ている人がいたら、見送る人もない港の方に手を振っている僕たちは変な奴らに見えたかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。僕には分かっていた。僕たちが手を振っていることを姉も感じ取っていると。そして僕は心の中でつぶやいた。

 さよなら、姉さん、大好きだよ

 船が防波堤を超えた時、僕は姉が手を振るのを止めたことに気づいた。僕が手を振るのを止めると茂樹さんも手を止めた。そして、僕は知った。あの場所から、空と海の狭間のあの場所から、姉がもう一度歩き出したことを。海を行く僕たちとは逆に空の方へと。

 語り終えた時、梨花さんが遠慮がちに聞いてきた。
「それで鳩間島の歌は結局できなかったの?」
 その問いを受けて僕は歌が出来た時の気持ちを語った。
「いえ、できました。姉さんが旅立ったと思った途端に、頭の中でメロディーが流れ出したんです。姉の死を歌にするなんて不謹慎だと思ったんですが、メロディーは止まらなかった。言葉も次々と浮かんできました。素人だけど物書きの性なのかと思いました。僕の意思とは関係なく歌がどんどん勝手に出来ていったんです。そうして船が石垣に着く前に歌は完成していました。ひどい話ですよね」
「そんなことないよ」
 梨花さんの言葉はとても優しく聞こえた。
「ありがとうございます、そう言ってくれると、なんか少し救われた気がします。実はそれ以来、僕は歌を作っていないんです。鳩間島の歌も、頭の中にはしっかりありますが、一度も歌ったことがありません。誰にも聴かせたことがありません」
 それに続く梨花さんの言葉には、僕のことを心配する気持ちが滲んでいた。
「純君、二度も『さよなら』を言ったのに、まだ容子とお別れできてないのね」
 それから梨花さんは話を少し別の方向に向けた。
「ところで純君、話に出てきた彼女、今も付き合っているの?」
「はい」
「うまくいっているの?」
 梨花さんは、うまくいっていないと思っているようだった。
「微妙です。姉が亡くなってから」
 その後、僕は梨花さんに少し叱られた。
「駄目じゃない、彼女とちゃんと向き合ってあげなきゃ」
 僕が言葉を返せずにいると梨花さんは話を鳩間島の歌に戻した。
「純君、鳩間島の歌、私に聴かせてくれない?容子の代わりに」
「・・・」
 何も言えないでいる僕に梨花さんは優しく語り掛けた。
「その歌を容子だけのものとして封印しているから、純君は容子のことを吹っ切れずに、立ち止まってしまったんじゃないかな。今日が容子に初めて『さよなら』を言った日なら、容子ときちんとお別れするには最高のタイミングだと思わない?」
 梨花さんが言っていることが正しいのだろうと僕は思った。

 それから僕たちは、先ほど梨花さんが座っていた桜並木のベンチに引き返して、そこに腰を下ろした。僕の手には三線のケースがあった。どうせなら、思い出の桜並木で歌うのが良いというのが梨花さんの提案だった。
 僕はケースから三線を取り出し、調弦をした後、前奏に入った。そして覚悟を決めて歌い始めた。

鳩間島に定期船がまだなかったあの頃
島に渡るシュノーケルのツアーで会った二人
お弁当を食べるために皆で坂を上り
君のそばに腰下ろした白い灯台の下
空の青と海の青が向き合うその狭間で
語り合って惹かれあった日から既に八年
島で芽生え街で育ち愛は花つけたけど
今年四月、桜と手を取り合い共に散った
 
あの日語り合った場所にもう一度帰りたい
願っていた君を連れて二人最後の旅へ
定期船で島に渡り時の流れ感じて
君を抱いて坂を上り灯台の下に着く
何もかもが移ろう中、今もあの日のままの
青い空と海の色が君にも見えるだろう
帰りたいと言った場所にやっとたどり着いたね
君の姿、悲しいほど小さくはなったけど

ラララ、ラララ
ラララ、ラララ
ララララララ、ララララララ
ラララ、ラララ
ラララ、ラララ
ララララララー

 歌い終わると、周囲から少し拍手が聞こえてきた。僕は気づいていなかったが、歩道に数人、僕の演奏に足を止めた人たちがいたのだ。僕の隣で、梨花さんは静かに涙をこぼしていた。梨花さんは涙を拭ってから僕に告げた。
「純君、とても良い歌ね。実は、純君が歌っている間に、容子が私の中にいたような気がしたの。容子の奴、私の耳を通して純君の歌を聴いていたみたい」
 僕は梨花さんの言葉をそのまま信じたかった。でも、それは僕のためについた梨花さんの優しい嘘なのかもしれないとも思った。しかし、梨花さんの涙と、周囲からもらった拍手は決して嘘ではなかった。歌を作って良かったのだ。それを歌って良かったのだと僕は思った。歌の封印を解いて、僕もようやく吹っ切れたような気がした。

 僕は桜の花越しに空を見上げた。

 姉さん、僕はまた歌を作ることにするよ。
 姉さんに言われたように、これからは明るい歌も作れるように努力しみるよ。
 そっちに行ったら聴かせてあげるから、楽しみにしていて。
 でも、それまでは、しばらくお別れだね。
 三度目になるけど、三度目の正直という言葉もあるからね。
 じゃあね。
 さよなら、姉さん、大好きだよ。


                                   終