「んで? その後は?」

「ないよそんなの」

「お友達ですってか、いっそ不健全だわ!」

「お前ね、別にいいだろ成人男女に純粋な友情があっても」


 あれから満とは特に何もない。顔を見たら挨拶はするし、エントランスで顔は合わせるし、おたがい何となく連絡は取るけれど特に恋愛方面への発展はしていない。
 というかそもそもお互いそういう目的で顔を合わせてるわけじゃないのだ。


「じゃあなんで連絡先なんて交換したんだよ」

「なんで知ってんだよ」

「工藤が言ってた」


 満にしてみれば隠すことでもないのか。
 そしてこいつはあの工藤愛理といまだに連絡をとる仲なのか。ただの同期ってのは嘘なんじゃないのか、むしろそっちのほうが気になった。
 純粋な友情とはいったけど、どちらかというと単なるお友達ではなく患者仲間だ。
 愛理は満の症状について知っているらしいし、奇病そのものについてはそういうものがあるんだなという理解くらいはあるんだろう。多分。
 発展したいとか、そういう感情はいまのところ一切ない。
 こちらだけの意見でなく、向こうにだって好みが存在するし、なにより満はあの様子だったら恋人を作ることそのものを敬遠しているんじゃないかと思う。
 自分と違って、彼女の病気は他人に大きくかかわる病気なのだから。


「だったらさあ」、涼嶋が口を開いた。


「なんで愛島さんのこと見かけるたびそんなに幸せそうな顔してんの?」


 俺はこいつのこういうところが本当に嫌いだ。


「そんな顔してない」

「してるって。だから恋じゃねーのって聞いてんじゃん、大人とは思えないわ」

「本当になにもないんだ」


 自覚はない。恋なんて長いことしていない。最後に好きだったのだって、中学生のときに同級生をなんとなくかわいいなと思っていたとかその程度だ。
 大学生になってからだって、そんなに縁もないし積極的でもない。
 女性がそばにいることは多いから経験豊富なんだろうと酒の席でネタにされることもある。が、生憎そういう面白い話題は持っていない。
 彼女が欲しいかと聞かれれば、まあ居たらいたで、とそのくらいでだからといってそんな軽率に満を好きになったとかそういうことではないはずで。
 ないと思いたいだけかもしれないが、とりあえず今の自分のなかでは「なし」だ。


「色人さ」

「なんだよ、だから満さんとは」

「お前隠し事向いてないよ」


 ひやっとする。ああそうだ、こういうやつだった。いつもは軽いノリでいるからつい忘れがちだけど本来こういうやつだった。
 奇病について、隠してるつもりはない。ただ言う必要がないと思っているだけだ。
 それでも日常生活でなにひとつとして支障がないのかときかれるとそれがそうでもなかったりする。赤い看板が、と指定されて一瞬首をひねってしまったり、赤い服を着ている奴を見てギョッとしてしまったり。
 大きく態度に出しているつもりはなかったけれど涼嶋なら気づいてたっておかしくない。


「愛島さんには隠し事してないっぽいし、だから楽なんじゃん?」


 でもアタシ、色人の本妻の座は譲らないわよ、なんて裏声で言い出すものだから大きく噴き出した。
 本当にこいつは、頭悪すぎるだろう。でもだから友達になったんだった。何も聞かないから。


「こんなごつい本妻いらない」

「まあ! なんてこと言うのよ! もうばかばか!」

「気持ちわりい」


 自分が治る、なんて一度だって思えなかった。もう一生このままだろうって信じて疑わなかったし、それでいいやって投げやりだった。
 童話症候群の薬に意味なんかないって封も切らないで、まして飲むことなんてするはずもなく。
 いつまでそうしてればいいんだ。俺はずっとヒトモドキで、失敗作だと思って生きていかなきゃならないのか。涼嶋に何も言えないまま、満とずるずる傷を舐めあえばいいって?
 そんなのはごめんだ。


「悪い、たった今用ができた。午後の予定は全部キャンセルする」

「いまぁ?」

「そう、今」

「ふーん、愛島さんとこ行くんだろ」

「残念、満さんじゃない」


 もうやめよう。諦めることをやめてやる。ため息をつくのはもう疲れたんだ。







「驚きましたよ、まあ前向きになってくれたならよかった」


 訪れたのは奇病科、瀬戸口医師のところだった。午後は休診だったはずだ、と慌てて電車に飛び乗れば、受付で帰り支度をしているナースたちを運よく捕まえた。
 今日は終わりで、というナースを制止して診察室に案内してくれた瀬戸口医師はどことなく泣きそうに見えた。


「なにかいいことでもあったんですか?」

「愛島満が同じ会社でした」

「ああ、たしかに、言われてみればそうですね」


 ほかの科に比べて、奇病科の患者は数が少ない。
 その分重篤であることも多いけれど、瀬戸口医師は自分の患者のことをしっかり把握しているらしい。
 少ないとは言っても百人以上は確実にいるのだから、この人の誠実さはやっぱり本物なのだろう。


「それで、なんで奇病科に?」

「諦めることをやめようって思ったんです」

「なぜ?」

「満さんが諦めてたから」


 自分とおなじように、彼女だって治るわけがないって諦めていた。
 言葉に出さなくたってわかる、自分たちは同じ失敗作だから。人並みにすらなれない、人知を超えた理解されえない症状を抱えてどうして自分がと心の底で叫び続けている。
 いつだって、諦めているようで、諦めきれなくて、その不毛さに疲れてしまって、どうしようもない焦燥感を燻ぶらせているのだ。ぶつける場所なんてどこにも存在しない。


「自分以外の患者なんて話すことないですから、それこそ第三病棟にでも行かない限り」

「そうですねえ、そういうサロンみたいなものを企画したことはありましたが院長から却下されたことがありました」


 プライバシーとかの問題があってね、と言われてそれもそうかと妙に納得した。
 とはいえ、関りがないことで「自分はこの世界で独りぼっちだ」「自分だけが人間になれなかった生き物だ」という思考が生まれやすいのも本当だ。童話症候群の根底には強い「孤独」が居座っている。


「食性遺伝だとか、汗毒体質だとかパッチワーク病だって俺はその症状を知っていてもその患者は知らない。だからその人がなにと戦ってきたのかなんてずっと知らなかった」


 これからもないはずだった。同じように理解されないはずだった。一人なのだと感じていた。
 これから先に、希望なんて見いだせないって本気で信じていたはずなのに。
 患者がいたって、その人の症状を知っていたって、なんの慰めにもならなかったのはいつだってそれが治らないもので結局自分とは違うと思っていたからだ。
 けど今はそうじゃない。


「酷なことをいいますけど、前向きになってくれたのは嬉しい。でも治療法がないという事実は変わりません」

「本当に? 何一つとしてないんですか」

「亡愛症候群に関して言えば、あれは本来、忘れる愛と書きますから完治例がないことはないんです。愛島さんからなにか聞きましたか?」

「家族が死んだ前例ってやつなら」

「まさに。厳密には大切な人が目の前で死ぬであって家族に限定はしませんが」


 大切な人、と聞いて眩暈がする。じゃあ、だったら、俺だったらあるいは、彼女を救えるかもしれない、と思う。
 時間はかかるだろうし、もしうまくいっても彼女が死にたくなるほど悲しい思いをするのもわかる。
 だけどもし奇病が完治したら、それで口にだしても忘れないでいられるなら、新しい未来を彼女が積み重ねてくれるなら、それを彼女が許してくれるなら、いつかそれを過去の話にして幸せになってくれるかもしれない未来があるなら。
 そうじゃないと言い聞かせてきたけれどもう認めよう。俺は彼女が好きだ。
 だったら、彼女のためになら何回だって死んでやる。


「ペットとかではだめみたいなんです、医者としていいたくないけど人間に限定されてるんですよねえ……まったく困った……おっととと、失礼」


 瀬戸口医師の症状は体のどこかに植物が急に生えるもの。
 花に関連する病は結構多く、基本的にそのどれもがなにか代償を支払う。
 例えば、寿命、たとえば記憶、例えば誰かの心を感知してしまう、とかそういうものを。
 瀬戸口医師の症状は予知性花咲症と言って、不特定多数のいつかの未来に関連する花が咲くのだという。
 例えば、桜が生えてくると穏やかな気持ちになるらしく、花見に行ったときにビビッときてそれが一致する、といったような。
 予知夢や既視感に近いものだけどそのどれもに必ず花が咲くという病だ。話だけ聞いていれば美しいのでうらやましいと思ったこともある。


「最近よく顔に出るんですよね、前は肩が多かったんですが。……さて、これは初めて見ましたねえ」


 顔から花を払うと、その手にあったのは鮮やかな紫の花だった。


「……いい花じゃ、なさそうです」


 仕事柄、嫌なものを見ていることもあるだろう。奇病患者の最期は、人の姿でないことも多いと聞く。


「お二人の未来ではないことを祈っています」


 そう言って笑う瀬戸口から色人は目をそらせなかった。







 営業らしさ、とでもいえばいいのか目標を決めてしまえばあとは早い。
 どうやって距離を詰めよう、どうしたら好きになってもらえるだろう。
 デートはどこへ誘えばいい、彼女は何が好きなんだろう。
 もうなにもできないだろうという虚無感に苛まれて生きていた。
 たった一色見えないことが、その自分の視界が何もかもを否定しているような気さえして。 
 もう治らないのであれば、でも彼女のために何かできるのであれば、自分のことなんかどうでもよかった。


「満さん、この日は空いてますか。前にこの写真家好きだって言ってたでしょ」

「え、覚えててくれたんですか? わあ、嬉しい」



 人に好かれるのは難しくない。共通の話題、耳障りのいい話し方、笑顔、はっきり話すこと。先輩社員に言われてきたことを思い出す。
 自分たちには童話症候群という、奇病というだれも立ち入れない共通の話題がある。
 それを認めている自分たちの空間に誰も入ってくることなんかできるわけがない。


「高橋さん、最近なんか……」

「ん?」

「……い、いえ、なんでも。私最近、秘書課で冷やかされるんですよ、誰かさんのせいで」

「それは大変ですね。俺としては願ったりかなったりですけど」

「またそんな言い方! だめですよ、もっとこう、真摯じゃないと!」


 まだだ。まだ駄目だ。
 せめて、名前で呼んでもらうまでは。
 欲が出てきたんじじゃないか、と頭を振って雑念を振り払う。
 動機が不純とは言え好きなものは好きだ。好かれたいし、求められたい。
 もしそうなったらやりたいこともたくさんあって、そんな未来が許されるならきっと彼女と真面目に付き合って、プロポーズをしたりしたかもしれない。
 その先もずっと隣にいることを望んでしまう。
 彼女がいれば、たとえ一色くらい見えなくたってそれを塗りつぶすように世界の彩度は高くなっていくのに、その色さえも彼女はいつかなにかのはずみで一つずつ忘れていってしまう。


「お前、最近なんかおかしくない?」

「そうか? やる気に満ち溢れてるぞ」

「そ・れ・が! しれーっとしたタイプだと思ってたのになんかあったんか」

「やりたいことができた」

「仕事? 愛島さん?」

「自分のことだよ」


 もう少し、もう少しだけ。毎日それを繰り返して、彼女に声をかけ続けて、それを不愉快に思われなければあとはただ好きだと伝え続ければいい。
 近い未来に満を傷つけて悲しませるために彼女を幸せにしようなんて本末転倒もいいところだと思う。
 同じくらい、彼女と一緒に生きていきたいし、それができないくらいなら早く死にたいという二律背反の中を生きている。
 色めき立つ世界のすべてが彼女によって塗られている。
 そのすべてを愛おしいと思って視界に焼き付けるには自分たちは不完全で時間が足りない。
 誰かを愛するって、すごいことだ。
 なのに、満の口に鉄格子でもかぶさっているような気がして、同じくらい何もかもが憎い。
 俺が彼女を救わなきゃ。
 自分で決めた、身勝手な使命を満は許してくれるんだろうか、と明日のデートの待ち合わせ時間を打ち込んで送信した。







「すごく綺麗でしたね」

「そうですね、俺はあれがよかったな、雪とキツネのやつ。満さんなんのポストカード買ったんです?」

「富士山のやつです。ただその、赤富士なので……」

「ああ、うん。見えなかった」


 笑ってそういえば満は気まずげな表情を少しだけやわらげた。
 色人の気分を害したのではないかと思ったのかもしれない。
 色人の目では、この世には見えないものがあまりに多い。マックの看板、ラーメン屋の提灯、プラダのワンピースに、小学生の背中のそれも。神社の鳥居や、信号も、けがをした自分の左手だって満足に見えなかった。
 三原色の基本色である赤が見えないというのは実はけっこう致命的だ。それでも慣れですごしていればなんとなく、それっぽい答えは口にできるようになる。
 ただそんな風にごまかさなくても、満相手ならなにも問題はない。
 それだけで救われたような気がするくらいには。


「少し休憩しましょうか、近くのカフェにでも……」

「あ、あのっ! どうして、私のためにここまでしてくれるんですか」


 数歩後ろで立ち止まった彼女を振り向く。
 ショルダーバッグの肩紐をぎゅうっと握りしめて、先刻やわらいだはずの表情はひどく悲痛な色をしていた。


「私、勘違いします、自惚れます。私をわかってくれる人が、私に好意的なんだって。けど私はそれを返す手段がひとつ足りないんです。みんなができることを私だけができないでいる。なにも言えないから私から言わなくていいって甘えているんです。そんな、わけは……ないってわかってるのに」


 駅から少し離れているとはいえ都内はどこも人が多い。
 まばらに通りすがっていく人たちはこちらに見向きもせず、ポケットに手を突っ込んでいたり、手元に意識を集中させて前も見ない。
 誰も自分たちのことなんて見ていない。気づかれない。それはずっと孤独なのだと思っていた。
 外から見てわかる病気じゃない。誰かに伝染るものでもない。
 だれからも理解されないまま、この世界の終わりまで歩いていかねばならないのかとその歩みを止めそうになったことなど一回二回ではない。お互いに。
 

「どうして、どうしてこんな気持ちにさせるんですか。こんなに言葉にしたいのに、そうした瞬間、私は色人さんを忘れてしまうんです。今ここで叫んでも、数秒後に私たちは他人になってしまう。そんなの、そんなのって」

「満さん」


 泣き出した彼女を、さすがに周囲が何事かと少しだけ目線を投げてくる。
 誰もこちらをみないという当たり前のことさえも孤独だと感じていたのに、彼女がいればそれでいいと思うし、同じくらいこちらを見るなと思う。
 自分のために満が泣いている。それだけでよかった。


「俺だってひとつ足りてない。好きだ好きだと言いながら、俺はそれが見えないままでいる。満さんと同じものが好きなのに、それを共有できないでいる。それはダメなことなんですか?」

「だめじゃないです! そんなわけないです! 私が、私の気持ちに、寄り添ってくれるじゃないですか」

「そのつもりです。だから別に満さんができないことをそんなに責めないでください。あと勘違いじゃないし大いに自惚れてほしいので俺が言います。俺は満さんが好きです。大好きです。満さんが言えない一回を、俺が千回でも二千回でも代わりに言います。俺があなたの声になる。満さんがそれを許してくれるなら」


 溶けたアイシャドウが涙に混ざってきらきらと光る。赤ではないそれを綺麗だと思った。
 彼女の顔に、赤い部分はない。自分と会う日のリップはピンクに変えたと教えてくれた。
 たとえ世界中から色が消えても、彼女の涙が見えるほうが、もっともっと有益だと思う。


「私も、私が口に出せない分、私は色人さんの目になります。それがどういう赤なのか、どう違うのか、何が美しいのかを色人さんに伝えられるように。私が見て、ずっとずっと覚えています。いつかまた見たときに、色人さんが見えたときに、あの日と同じなんですって伝えられるように」


 生きてきて、見えないことに感謝する日が来るなんて思わなかった。
 飾り気のない彼女の手を取って、「愛しています」と口にすれば「私もです」と、やっと満は笑った。