「(うわああ、愛理に怒られる…っ)」


 普段からばたばたするタイプではないものの、その日だけ彼女は急いでいた。
 友人との待ち合わせ時間に遅れそうだったからだ。
 仕事が押して、とはいえやはり人を平気で待たせるのは性に合わないからと彼女は腕時計を何度も何度も見た。
 針は容赦なく、同じ速度で進んでいく。せっかく午後休をとったのにあと五分でそれも過ぎそうだった。
 考え事をしていたのできちんと前を見ていなかった。
 途端に視界が暗くなり、ほんの一瞬のことだった。
 気が付けば自分と、目の前の青年は同じようなポーズでそれぞれの後方によろけている。ついていた。
 花形と名高い、第一営業部のエースの高橋。話したことはないけれど名前くらいは知っていた。


「い、ったー……」


 はっとする。そうだ、ぶつかってしまったのだからこちらに非があるに違いない。
 彼は怪我をしたりしなかっただろうか。


「す、すいません、すいません、前見てなくて」

「いやこっちも考え事してて、大丈夫ですか」


 よかった、怒ってなさそうだ。ぱっと見だけど大きな怪我もしてなさそうだった。
 慌てて散らばった小物を拾い集める。
 こうしてる間にも時間は進むし、顔を見せたら愛理は「おっそーい」と笑うのだろう。


「大丈夫です、すみません」


 もう一度だけ相手の顔を見て、その後ろの時計を見て、慌てて姿勢を整えた。
 待ち合わせは有楽町にある喫茶店だ。少し急がないと。
 青年もかるく会釈をしてくれたので安心して彼女はその場を後にした。


「おっそーい」


 予想通り。自分の脳内で思い描いた顔で友人は笑った。


「ごめんね愛理、お待たせしました」

「満が遅刻するなんて珍しいなーと思ったけど、そういや繁忙期なんだっけ?」

「うん、忙しいのは私じゃなくて営業部と偉いおじさんたち」

「しんどいねー、あ、なんか買ってきたら?」

「そうする」


 愛島満。それが彼女の名前だった。


「愛理のやつなに?」

「アイスのカフェモカのホイップ多め」


 対して彼女は満の友人で工藤愛理という。
 黒髪で、よく言えば楚々とした満に対して愛理は茶髪でネイルをし、付けまつげにハイブランドのバッグととにかく正反対だ。
 後ろをとおりがかったサラリーマンが組み合わせに不思議そうな顔をしていたがこれはもういつものことだった。


「なににしたの?」

「キャラメル、いつもの。キャラメルソース多めで」


 柔らかく笑った友人を見て愛理も笑った。
 中学からの付き合いで、見た目はこれだけ違って、交友関係も変わったがお互いの根の深いところにある付き合いやすさは今も健在なのだ。


「昨日、病院行ってたんでしょ?どうだった」

「いつもと同じだよ、薬飲んで経過を見ましょうってさ」

「ふーん、まあ、満が治ったらいいなって、ずっと思ってるよあたしは」

「ありがとう、愛理のこと今後も大切にします」

「そうして」


 愛理も満も付き合いが長いのもあってお互いのことをよくわかっていたし、基本的によっぽどでなければ隠し事もしなかった。
 しないというか相談するのにすぐ話してしまう、といったほうが正しかったし、心配をかけまいという隠し事はなんとなくお互いすぐばれた。


「あ、そうそう見てこれ」

「ナイトアクアリウム? ふーん、あ、品川のやつか」

「うん、めっちゃ綺麗じゃない? 満こういうの好きかなーって思ったからさぁ行こうよ」

「うん! 行きたい! こういうのほんとす……」

「うわ待ってごめん」

「ううん、こういの興味ある! ありがとう愛理!」


 言いよどんだ理由も、愛理は知っている。







「忘愛症候群?」

「ええ、お嬢さんのは特に、極めて珍しい症状です」


 最初は小さな違和感だった。
 幼い満は感情表現が豊かな子供で好き嫌いも多かった。
 兄や弟とも激しく喧嘩をするお転婆でそれは小学生になっても変わらなかった。
 ある日、父親が珍しく早く帰ってきた。子供たちにケーキを買って。
 兄はチョコレートが、弟はシュークリームが、そして満は真っ白なショートケーキが好きだと知っていた父親はわかりやすくその三つをきちんと選んできた。


「ほら、お前たちが好きな奴だぞ」

「わっ、やった、俺チョコ!」

「ねえちゃんショートケーキだろ」

「わたし…わたしってショートケーキ選んでたっけ?」

「何言ってんの、好きだろこれ。はい」

「…ありがとう、翔太。お父さんも、買ってきてくれてありがとう」


 翔太に遠慮したのかな、お姉さんになったのかもしれないなあ。
 それにくらべて樹は長男なのにまだまだ子供だな。その日、子供たちが寝付いてから夫婦でそんな話をした。
 最初はその程度の歪だったのだ。


「あら、見て満。野良猫なんて珍しいわね」

「猫? あれ猫っていうの?」

「なに、お母さんのことからかってるの?」

「ちがうよ、わたしあんな生き物初めて見た」

「…何言ってるの、あなた猫好きでしょう?」

「すき…?」


 満の好きなもの。
 猫。ショートケーキ。この間選んできたぴかぴかの自転車。お母さんの卵焼き。部活の友達。国語の授業。牛乳。絵をかくこと。家族。赤い色。
 少しずつ、だが確かに彼女はなにかのはずみでそれを忘れていった。


「だれ、あなたたち誰! わたしなんでこんなところにいるの!」


 錯乱状態に陥ったのは彼女が小学六年生の時だ。
 なんでそうなったのか、きっかけはいまだにはっきりしないが、彼女がそのとき、家族を忘れてしまったのだけは確かだった。
 父の知人に奇病の研究家がいた。それを思い出してあわてて連絡をとると、あれよあれよと彼女は総合病院の奇病科に連れていかれたのだ。


「初めまして、担当医の瀬戸口です」

「先生、うちの子はどうなってしまうんですか」

「落ち着いてください、先ずは少し話してみましょうか。こんにちは」

「こんに、ちは」

「お名前は、愛島満さんで間違いないですか?」

「はい」


 満を刺激しないように、瀬戸口医師は満に質問を続けた。
 はいかいいえでしか答えなかった満も少しずつ答えるようになった。
 その間約三十分。短いはずのたかだか三十分はずっと緊迫し続けていた。


「この二人は満さんのお父さんとお母さんです、わかりますか?」

「わかり、ます、わたしさっき、ふたりにひどいことして」

「思い出せたならよかった、まだ早い段階だったからよかったですね、満さん、あなたがいろんなことが分からなくなってしまうのは体が助けてほしいよーって信号を出してるからなんです」

「しんごう…」


 亡愛症候群は、愛してるものを忘れていく奇病だという。
 これは奇病にしては珍しく罹患者の多い症状で、その多くは対人で発生する症状だ。
 「愛している人を忘れていく病気」というのがこの奇病の基本症状だが満の症状は珍しいうえに特定の条件下でのみ発生した。
 好きの対象が人間に限らないこと。
 彼女が「好き」「愛している」などの感情を伴わせて直接的な単語を口にすること。
 要するに、ケーキを見て「私、このケーキ好き」といったことを口にした瞬間、彼女はそれが自分の好物だったという認識を失くすのだ。


「事実関係の記憶や直前までの会話までを忘れることは、薬も出しますから今後はないでしょう。満さん、これはとても難しい治療です。あなたに治す気がないと手伝えません」

「わ、わたしがんばる、先生わたしはどうしたらいいんですか?」

「好き、とか。愛してる、とか、そういう単語は完治するまで一切口に出してはいけません」


 大人にだってかなり難しい注文だ。好きという単語は感情表現をするにあたって頻出する言葉でもある。
 目の前の少女の顔を見つめながら誰より心を痛めていたのは間違いなく瀬戸口医師だったことだろう。
 思いつく限りの直接的な好意を表現する単語をすべて禁止にした。
 一覧表まで、両親と話しながらつくりあげた。
 なんの罰ゲームだろうと、呆然とする兄弟はうまく理解はできなかったが察することはしたのだろう。
 いつもの喧嘩の雰囲気は影を潜め、ただ妹の、姉の手を握って両側から優しく寄り添っていた。
 満からもう、家族に向かって、あの笑顔で好きだと口にされる日はこないのだ。小学生の彼女にはあまりに酷で難しすぎる注文だった。







「あれ、名刺ケースがない」


 バッグのポケット、ジャケットの内側、化粧ポーチまでを開いてみるも、愛用している赤い名刺入れは入っていなかった。
 あれは誕生日に愛理に貰ったもので名前が彫ってある。
 大切に使っていたつもりだったがどこかに落としたのかと満はため息をついた。
 心当たりはあるといえばある。
 明日総務課か、いれば本人を尋ねればいいかとため息をついた。幸い自分の名刺しか入っていない。


「どしたん」

「名刺入れ落としたみたい」

「落とした?」

「今日、会社で人とぶつかって、たぶんその時に」

「おおお、恋の予感は?」

「ありませんよーだ」


 エレベーターホールでぶつかった青年を思い出す。
 話したことはないけれど一応知っている。綺麗な顔をしていたような、そうでもないような。 
 どうにも自分には印象が薄い。営業らしくすっきりと髪を整えていて、ずいぶん細身だったなあと考える。
 そりゃ何も考えず体当たりすればよろけるよなあ、と改めて悪いことをしたなと罪悪感にかられた。


「どんなのとぶつかったの? おっさん?」

「花形部署のエースだよ」

「それだけで女慣れしてそう」

「なにそれ、悪口じゃん」


 言いえて妙だなと思ったことは秘密にしておこう。
 たしかに見かけるたびに違う女性と話している、といえばそれはある。
 とはいえあれはどちらかといえば女性のほうから声をかけに行っているんだろうからナンパでもしてるのかという場面にはさすがに出くわしたことがない。
 上司もみんな褒めているから営業成績以外にもいろんなものが良いのだろう。


「まあ、見つかんなかったらまたプレゼントするよ。あれでしょ、あの赤いやつ」

「ありがとう、でもあれ気に入ってたからさあ、悔しいなあ」


 気にいるだとか興味があるだとかは「明確な好意」とは分類されないらしく満が良く使う単語でもあった。


「今日はこれからどうする?」

「このまま銀座とかでいいんじゃない? 服見に行って歩きながら考えよ」

「オッケー」


 満は自分が奇病にかかってから、自分でできる限り友達を遠ざけた。
 冷たい態度をとったり避けるようにしてみたり、先生は知ったうえでなにも言えなかっただろう。
 悪いことをしたかもしれない。いじめにはならなかったけれど、人付き合いは下手になったし、いまだにあまりうまく他人とは話せない。
 仕事だからと慇懃な態度をとっているから秘書課ではうまくやれているけれど、個人的な付き合いなんてあまりない。
 昔はあんなに感情表現が豊かだったのに、とアルバムの中の自分にだって何度も問いかけた。
 親だって兄弟だってこんな根暗っぽい成長するなんて思いもよらなかっただろう。
 一人は孤独だった。
 それ以上に忘れることが怖かった。
 なにかのはずみで、好きだと口にしたらどうしよう。
 なにかに流されて好意を示してしまったらどうしよう。
 忘れていく。自分が大切にしたいはずのものが、全部、乾いた砂のように指の隙間から落ちていくような感覚がした。
 口が乾いてうまく笑えない。恐怖に支配された状態で、友達との会話を恐れるくらいならひとりぼっちのがマシだろう。
 それが彼女の選択だったはずだったのに。


「満が言えない分はあたしがぜーんぶ好きっていうから今日もがんがん冬服選んでこ」

「まだ秋口だよ?」

「そろそろ冬物になるって!」


 愛理がどういうきっかけで自分が罹患してることを知ったのかは正直覚えていない。
 親に聞いても覚えていないから、本当に単なる偶然だったのかもしれない。
 けれど今こうして自分の代わりに彼女の口からストレートに好きだという単語を吐き出してもらえるだけで満は十分に幸せだった。
 理解者の有無。
 彼女と色人の違いはそこにある。