高校3年生の私は、今日も風が吹き通る、野ざらしの渡り廊下に立っていた。

「……」

何を言う訳でもない。
ため息をつくわけでもない。
この景色を、ただ眺めているのだ。

ぐるりと見渡せば、一面に山がある。
この学校だけが、まるで別世界のように賑やかな声で溢れている。学校の周りはシンとしていて、雑多に生えた木々が、学校以外のあらゆる音を吸収している気さえする。

そんなシンとした中で、卒業式の日に、私たちは歌を歌わないといけない。
卒業式、兼、閉校式
田舎の、しかも山のど真ん中に建った学校は、減っていく生徒数を留めることは出来ず。どうやら私の代で終わるらしかった。

全校生徒10人。
全員が3年生。
歌唱者9人、指揮者1人。
その配役は、さきほど決まった。

「指揮者は、やっぱり響叶ちゃんだよね!」
「俺もそう思ってた!」
「響叶ちゃんの指揮なら頑張れそうな気がする」

「……頑張るよ」

私、小林 響叶(こばやし きょうか)。
一年の頃から学級委員をしていて、日頃から皆に頼られている。そんな私が、みんなの前で指揮棒を振るというのは、ごく自然な流れかもしれない。

だけど――

「ねぇ、響叶ちゃん。ここの歌い方ってさ」
「小林〜」

「頼る」という言葉は聞こえがいい。けれど「よりかかる」という言葉にした場合どうだろう。僅かに不穏になる気がするのは、私だけだろうか。

私は頼られる存在である、と理解し始めた一年は、とても有意義なものだった。皆が私の名前を呼び、私さえ呼べばもう大丈夫と、謎の安心感に満たされた表情を浮かべる皆を見るのは好きだった。

だけど二年になり、皆の顔にモヤがかかるようになった。名前を呼ばれる回数は日を追うごとに増え、そして私のタスクも比例して増えて行った。皆が私を呼ぶ、その声が。それほど嬉しくなくなってきたのは、この時だ。「響叶ちゃん」と私を呼ぶ声は、あんなにくぐもった声だったろうか。

そして三年になり、受験もあって自分の事に必死になっていた時。私が勉強で大変な思いをしている中、皆は当然のように私の名前を呼んだ。

「私も時間がなくてさ、だから皆も、自分で出来ることは自分でやってほしいな」

なんて、言えたなら良かったのに。
今更ながらの日誌の書き方や、クラスのスローガン決めから始まり、壁面に掲載する学級新聞作りまで。始まりは皆だったのに、気づけば、何から何まで私の元へ仕事が集まっていた。常にタスクがいっぱいで、壊れかけたスマホのように、私は時々フリーズするようになった。

そんな生活に嫌気がさしてきた時。希望の光が見える。それは、卒業。

この学校ともお別れ、このクラスとも最後。皆から「寄りかかられる」生活ともおさらば。そう思うと、気分が楽になった。

だけど、油断は禁物。最後のイベント、卒業式に、「私」という存在は最大限に利用される。その手始めとして、冒頭にあった合唱の指揮だ。

「ありがとう……、頑張るよ」

――卒業式っていう特別な日なんだから、普段目立たない誰かが指揮をやればいいのに

「ここの歌い方はね」

――まずはそれぞれのパート練習をしてから、そのあと皆で相談すればいいのに

なんて。
上っ面ではニコニコしていても、心の中では騒がしく言い返している。と言っても口に出す訳では無いので、愚痴は心の中に溜まっていくばかり。だからパンクしないように、こうやって野ざらしの渡り廊下に出ては、私の心の空気の入れ替えをしている……という訳だ。

「今日もこの田舎は、ビックリするくらい変わらない田舎だ」

何年も、はたまた何十年も変わらない風景。その風景の中に溶け込んでいる私達も、何も変わっていない。その不変は、腐敗と似ている、なんて。そんな事を、最近思うようになってきた。

「早く卒業したいな……」

ふと時計を見る。
もう五分もここにいたらしい。そろそろ戻らなきゃな。そう思っていると、教室から「響叶ちゃんー!」と私を呼ぶ声が聞こえる。

「……はーい」

教室に戻った私は学級委員兼指揮者として、寄りかかってくる皆を、必死に支える事になるだろう。そう思うと気が重いが、しかし戻らないわけにはいかない。戻らなかった時には、皆が勝手に帰宅するからだ。

卒業式まで、あと一ヶ月。
私はあらゆる人に対する潤滑油として、今日も遅くまで、忙しなく手を動かした。



「小林〜、答辞の事なんだが」
「……はい?」

卒業式まで、あと二週間。
急に担任に呼ばれた。何かと思えば、「答辞をして欲しい」との事だった。

「でも先生、在校生による送辞をする“生徒そのもの”がいないから、答辞は割愛だと言われてませんでした?」
「だったんだけど、校長が“やっぱり形だけでも”と言われてなぁ。答辞及び、卒業生代表の挨拶って事で。何とかならんか」
「何とかって……」

校長が「やっぱりやりたい」と覆した意見の中に、私の意思は全く反映されていない。目上の人がYESと言ったら、下も「前ならえ」でYESなのだと、担任の色褪せた目を見ると分かる。そして担任が校長に進言しない所を見ると、私も同じ目の色に染まれという事なのだろう。

と言っても、慣れない指揮に上乗せして、意外にもまとまらない皆の合唱に四苦八苦している真っ最中だ。

別の先生から「小林さんは字が上手よね?最後だし印刷じゃなくて、思いの籠った手書きにしようと思って」と、卒業式の目録もやるよう言われた。そこに私の思いはこめられないのだと、私に有無を言わさないよう要件だけ伝えてさっさと背中を見せた先生の態度を見て察した。

合唱の指揮に、答辞に、目録。私の両手には、溢れんばかりの「やる事」だらけ。もう手一杯だ。

さすがに自分の限界を覚えたから、答辞の話が出た翌日に、担任に相談した。

「私に答辞は無理そうなので、他の誰かにやってもらえないか聞いてみます」

だけど、私の言葉に担任は頷かなかった。むしろ眉間にシワを寄せて、一歩私に詰め寄る。

「何を言ってるんだ、小林。お前がやる以外、他に誰がやれるんだ? あと二週間しかないんだから、弱音はいてる暇ないぞ」
「……」

私だって出来やしない、と。そう言いたかったのに言えなかったのは、ちょうどクラスメイトに名前を呼ばれたからである。

「響叶ー! 急いでコッチに来て〜!」
「あ、」

「じゃあな小林。答辞、頼んだぞ」
「ちょっと!」

私の言葉は、最後まで声にならない。
いつも暇そうにしている先生たちは、こう言う時だけ、どうして忙しそうにする? のどかな田舎に住んでいるのに、なぜ私だけが、いつも忙しない?

「山に、吸われてるのかな……」

学校を囲うよう生えている山々に、私の声は、吸われているんだ。そうに違いない。だから、何を言っても私の声は誰にも届かないんだ。

響かない声、届かない思い。楽になりたいという、叶わない願い。

「響叶ちゃんー!」
「……はーい、」

今行くよ――

自分の思いに、見て見ぬふりをして。私の名前を呼ぶ声へ、足を進める。その時、泥の中を進んでいるのかと思うほど、動かす足は重たかった。

その日。
結局、学校を出たのは、夜遅くだった。先生さえも残ってないような、そんな気配がする静寂の夜の校舎。

「疲れたな……」

例の渡り廊下で、ぽつねんと呟く。
卒業式まで、あと二週間。それなのに歌は、まだまだの出来だ。合唱の練習の時、まだ皆の手には歌詞カードがある。あと二週間後の卒業式では、そのカードを見ながら歌うことは出来ないのに。

「そろそろ歌詞を覚えた方が、」

「でも忙しくてさぁー」
「ねー、無理だよね」

誰も聞く耳を持たなかった。歌う側ではない指揮者の私が、歌う側の事を心配する事態だというのに。

忙しいっていうけどさ、皆は私ほど忙しくないよね?――と。いつものように心の中で毒づいた。つい漏れそうになった声は、急いで口を閉じて蓋をした。
そんなとりとめのない一日を、この渡り廊下で思い出す。そして、ため息が出た。

「こんな卒業式、意味ないよ……」

私一人が頑張る卒業式。
みんなの期待を勝手に押し付けられて、私一人で企画運営し、そして実行する。この場合だと、きっと片付けも私がするのだろう。卒業式という式典において、私は「卒業生」という主役の一人なのに。

「もう、やめたいな」

指揮者を降りたいし、目録もパソコンで印刷しろと言いたいし、答辞なんて無意味な事も校長一人にやらせておけと担任にピシャリと言いたい。あてのない虚無感からか、私の心を黒い緞帳(どんちょう)が降りていった。

すると、その時だった。

「なら、いい子をやめればいいんじゃない?」

シンとした山の中に佇む学校。夜の校舎に人気はない、はずだった。
けれど私の横を見ると、男子がいた。それも、背の高い男子だ。そして記憶を辿る限り、この生徒の事を私は知らない。今の三年生十人が全校生徒な今、他人が入り込んだらすぐに分かる。

「あなた、誰?」

不審者だったらどうしよう――なんて。
心臓が飛び出そうな緊張感を抱きながら質問した、なんて。この男子もまさか思わないだろう。それくらいの平常心を装って、顔色を変えず質問した。

すると、

「俺が誰だったら嬉しい?」と。
摩訶不思議な回答が返ってきた。

「誰だったら、って……」

ただの不審者くらいにしか思っていなかったから、あえて答えるとすれば「不審者じゃなかったら嬉しい」だ。

だけど、言わない。例に漏れず、私は自分の口に蓋をする。もし男子が危険人物なら、挑発することを言って火に油を注ぐことは避けたい。

「残り二週間しか存在しない学校に転校してきちゃった男の子、なのかな?」
「ブー」
「うん……、だと思った」

長い手をクロスさせて、バッテンを作る男の子。その姿を見ると気が抜けて、力の入った肩が自然と下がる。

「勝手に校舎に入っちゃダメだよ? 先生に見つかったら怒られるからさ」
「先生、今いるの?」
「さすがに生徒を残しては、帰らないと思うんだけど……」

「先生はいるよ」と自信を持って答えられないところに、私の先生に対する信頼の薄さが見える。あぁ、私って本当にこの学校で頼れる人がいないんだ。

「はぁ……」

無意識に、ため息が出た。
誰も味方がいない学校で、どうして私だけ孤立無援で戦ってるんだろう。皆は「私のおかげ」と言いながら、実質めんどう事を全て私に押しつけているに過ぎない。私以外の卒業生である他の九人は、今ごろ温かいご飯にありついているのだろうか。

「むなしいなぁ」

ポツリ呟いた、その時だった。

♪〜

私の心を通る風。その風に乗って、歌が流れてきた。しかも、この歌は――

「卒業式で歌う歌?」

隣を見て尋ねる。すると、私の隣で歌っていた男子は、目を細めて、それを返事とした。

なぜ、この男子が私たちが出席する卒業式の歌を歌っているのかは分からない。

だけど――

その男子の歌う声が低くて、すごく落ち着いていて。不審者だ変な人だとかの垣根を越えて、私の心にストンと落ちて来た。男子の歌声は、なぜか聴く者を魅了させる、不思議な歌い方だった。

別れ、さよなら――卒業式で歌う歌は、これらの言葉が何度も出てくる。クラスの誰かが「暗い歌だよな〜」と言った。私もそう思っていた。つい、さっきまでは。

♪〜

だけど、この男子が歌うと違うのだ。この男子の声は、とても静かに、そして真っ直ぐ伸びている。息継ぎのタイミングも上手く、サビの部分で流れを切ることなく歌い上げることで、聞く人の心に温かな温度を運んでいる。

この男子が歌った後。
私は、この歌が好きになった。もともと有名なアーティストの持ち歌だが、このアーティストの声ではなく「男子が歌うこの歌」が好きになった。

何度でも聞きたい――そう思ったのは、歌を練習し始めてから、初めてのことだった。

「見よう見まね、ならぬ、聞こう聞まねだったけど。どう?」

男子は歌い終わり、私を見た。そしてギョッとしていた。なぜなら、私が涙を流しながらスタンディングオベーションで拍手を送っていたからだ。

「ちょ……さすがにビックリした。幽霊かと思った」
「ごめん、泣くのはやり過ぎかなって思ったんだけど、止まらなくて。
それより、聞こう聞まねって?」
「君たちが毎日、歌を練習している声を聞いてるんだよ」
「へぇ。じゃあ、学校の近くに住んでるんだね」

ポケットからハンカチを取り出して、目元を拭う。すると呆れた声で、男子が笑った。

「はは、まさか泣かれるとは。もうすぐ卒業だと思うと、感極まっちゃった?」
「……」

その言葉で、一気に涙が引っ込んだ。だって男子の言葉は私の考えとは正反対で、あまりに真逆すぎて、ありえない発想だったからだ。

「むしろ、早く卒業したいんだよね」
「……どういうこと?」
「ここにいると、しんどくてさ」

その時、私は三年間で初めて。自分の思いを口にした。今まで錆びて回らなかった口は、自分の潤滑油を自分のために使う事で、やっとスルスルと本音を吐き出せていた。

「周りの期待がしんどくて、潰れそう。
皆は私に期待をする癖に、結果を求めない。仕事を押し付けて終わり。自分の仕事を私に流したら終わり。みんな、自分勝手に身軽にいたいだけ。私は、その被害者」
「被害者、か」
「……」

全て話したところで、ふと我に返った。あれ? なんで私、こんな事を言ったんだ? 今まで誰にも言ったこと無かったのに。

「ごめん、忘れて。って、もう会うこともないか。どこの誰だか知らないけど、もう勝手に入らないようにね。さすがに次は、先生に言わないとだし」
「不審者が出ました、って?」
「そうそう」
「そんなとこでも、いい子なんだね」
「それ、褒めてないから」

苦笑を浮かべると、男子は笑った。茶色の髪が夜の闇に反抗して、星と一緒にキラキラ光っている。星が綺麗に見えるのは、田舎の特権だ。こういう長所は、捨てたもんじゃないと思う。と言っても自分の本音は、何回捨ててきたんだって話だけど。

「」
「ギブアンドテイクって、大事だなぁ。何かをあげた時、何かが戻ってきたら……それだけで満たされる気がする」
「……じゃあさ」

男子が、人差し指を空にピンと伸ばす。影から突き出た長い指は、月の光を受け輝いた。

「俺の事を先生にチクらない代わりに、俺が君の前で、毎晩歌を歌うってのはどう?」
「へ?」
「泣くほど感動する歌を、疲れた一日のシメにするのもいいと思うけどな。俺は」
「シメって……」

そんな、大人が寝る前にお酒を楽しむみたいな言い方……。だけど、冷静に考えたら悪くない。私は男子の歌声を気に入ってるし、実際ずっと聞きたいと思ったから。

「ギブアンド、」
「テイク!」

私が手を出すと、男子も応える。そしてガシッと、私たちは握手をした。
そして利害関係が一致した日から毎日、男子は校舎に無断で侵入し、私は黙認する。そのお礼として、男子が歌い、私は癒されるという、世にも不思議な関係がスタートした。

「そう言えば、あなた名前は?」
「……あー」

私が尋ね、しばらく言い淀んだあと、男子が口を動かす。

「透(とおる)だよ」

♪〜

透の歌は、まさに一日の疲れを癒してくれる栄養剤のようだった。
目録を書く練習をして、顔や手に墨汁がついて凹んだ日も。答辞の進まない原稿用紙を眺め、落ち込んだ日も。指揮棒を折ってしまいたいほど怒りの衝動に駆られた日も――どれほど疲れ凹んだ日でも、透の歌を聞けば凝り固まった体がやんわりほぐれ、心が軽くなっていった。

「透の歌声は、まるで魔法だね」
「良い効果が期待できそう?」
「うん」

透は冗談めいて言ったけど、私には本当の話で。今日まさに、クラスの皆の「良い効果」を実感した。

「ねぇ、響叶ちゃん〜! 教えて!」
「ここは、もっと高く歌ってみたらどうかな? そうすれば、このパートに移るのもスムーズだし歌いやすいと思うよ」
「え……あ、うん」

私が答えた時の、皆の反応が違った。聞いてきたのは皆なのに、いざ私が答えると拍子抜けしたような、目が点になったような。そんな顔をするのだ。
しかも、

「ありがとう、やってみる!」
「え、試してくれるの?」

前は「聞いたら終わり」だった皆が、私のアドバイスを素直に聞き入れ、更には実践に至ったのだ。「本当は歌合唱なんか嫌だけど、ちゃんと良い子に練習してますよ」なんてアピールばかりだった皆。それが今や、ただの張りぼてではなく、真摯に合唱と向き合っていた。
前は聞く耳持たずだったのに、なぜ――と思いながらも、残り少ない時間の中、良い方向に心変わりしてくれたならありがたい。私がアドバイスを伝え、皆が素直に聞き入れる日が、何日も続いた。

といっても。

どれだけ皆で練習しても、不思議なことに透の歌声にはならなかった。みんなの声では満足出来ない私が、あと数滴で心のオアシスか満タンになる――その「数滴」を、透の歌声で補う毎日。

卒業式まで残り二週間だった日数も、光陰矢の如しで、恐ろしい速さで減って行った。そんな中、私は満足のいくまで目録の字を練習し、納得のいくまで原稿用紙の上で消しゴムを往復させた。

そんな努力が実を結び、卒業式の前日。
目録は完成し、原稿用紙も答辞用の紙に書き写せた。指揮棒もリズム良く振れるようになってきたし、皆との呼吸もバッチリだ。

全て無茶だと思った卒業式。だけど、その卒業式を、私はいつの間にか楽しみにするようになっていた。目が回るほどの忙しい日々の中で、やっと余裕が出てきたおかげだろう。

「よし、じゃあ最後の練習と行こうか」

♪〜

指揮は完璧。
皆の声量もOK。
リズムも、拍の取り方も、全てが完璧に近かった。
それなのに――

「……」

私の中では「何か」が足りなくて、「なぜか」満たされない。原因はなにか、指揮棒を振りながら考える。だけど、すぐに答えが出た。
この歌は、透が歌ってこそなのだと。

その夜。
いつものように透の歌声を聴き終わった後。私は、こんな提案をしてみた。

「卒業式に出てみない?」
「へ?」

「透の歌声を聞くと、すごく癒される。皆きっと感動する。卒業式をして良かったって思うよ」
「でも俺、部外者だよ?」

「まぁ、そうなんだけどね。ほら、せっかくならいい式にしたいし」
「……」

いい式にしたい――
そう言った私を、透は訝しげに見た。だけど、その後すぐ「分かった」と。いつもの笑顔ではなく、どこか不機嫌にも見える表情で答えたのだった。

そして卒業式、当日。

胸に花のコサージュをつけた、十人の卒業生。最初こそ「卒業式なんてしなくていい」と、あーだこーだ言ってた皆だけど。いざ式が始まると唇を噛み締め、涙ぐむ生徒もいたりして。そんな姿を見ると「今日で本当に最後なんだな」と実感する。
卒業後の進路はバラバラで、就職する子もいれば、大学へ進学する子もいる。どちらにしろ田舎では就職先も進学先もないので、みんな揃ってこの地を離れる事になる。

「小林〜!」
「響叶ー!」

この三年間、皆は私に頼りきりだった。そんな皆が、この地を離れてやっていけるのだろうかと。すごく要らないお世話だと思うが、皆を案じずにはいられない。
今までどれだけ私を頼ってきたか。色んな事を任したか。この卒業式だって、どれだけの仕事が私に回ってきたか。

「いや……、もういいんだ」

これが、最後。
今日で、本当に終わり。
この卒業式で、私は解放されるんだから。

「いい式に、しなきゃな……いや、するんだ」

合唱の指揮に目録、そして答辞。この日のためにあくせく動いた私だからこそ、誰よりも良い卒業式にしたいと願っていた。

「続きまして、卒業生一同による合唱です」

司会の先生のアナウンスが終わり、皆で舞台に移動する。九人全員が高さのある台に上り、指揮者の私は体育館に列席した保護者にお辞儀をし、皆よりも僅かに低い台の上に足をかけた。

カチャ

渡された指揮棒を手に取り、皆の顔を順番に見る。既に泣きそうな子もいるが「歌を歌うまでは泣かない」と決心しているのか、誰も涙を流していない。

「……」

九人全員の顔を見た後、舞台の緞帳(どんちょう)に隠れるように身を潜める人物に目をやる。そう、夜な夜な会っていた透だ。
昨日「一緒に合唱しよう」という無茶な提案に乗ってくれた透。どこで歌うか話し合った結果、緞帳の影ならバレないんじゃないかと言うことになった。田舎のため教師も少ない。その教師は全員、舞台を降りて私たちの晴れ姿を見ている。到底バレるものではない。

「(ホッ)」

透の姿を認めた瞬間。私の中で安堵の息が漏れた。

よかった、来てくれた。
これで感動する合唱になる。
これで良い式になる――なんて。
完全に安心しきっていた、だけど。
私が安堵したタイミングを狙っていたのか、そうでないのかは分からない。しかし透はニッと笑い、そして、あろうことか姿を消した。

「ッ!?」

これは私にとって一大事だった。
なぜなら今から合唱する歌は、透が歌ってこそ「最高の良い歌」になるからだ。であるにもかかわらず、その透が不在の今……残された九人に託す望みは、限りなく薄い。
確かに練習は散々した。皆でアドバイスを送り合い、切磋琢磨した。だけど……この九人では、透の歌声には届かないんだ。
これでは、いい卒業式にならない。

「……」

「小林?」
「どうしたの響叶?」

なかなか指揮棒を上げない私を不審に思った九人が、それぞれ反応し始める。舞台に居ない先生や保護者たちも、ザワつき始めた。

「……っ」

これ以上は、延ばせない。
もしかして男子が戻ってきてくれるかもと思ったが、待てど暮らせど閑古鳥が鳴くばかり。私の願望が詰まった明るい未来は、バッサリと絶たれた。
……やるしかない。
腹をくくらないといけない。
この九人で、歌いきるんだ。

バッ

両手を上げる。
さっきまで自信満々だった手は、見事に震えていた。指揮棒の先が不安げに揺れ、絶え間なく波線を描いている。
だけど、振るしかない。このまま何もしない状態こそが、式を台無しにするからだ。私が苦労に苦労を重ねた式を、自分の手で”ふい”にするなんて。そんな事あってはならない。

「――……!」

意を決して、指揮棒を振り下ろす。
決してヤケになったのではない。なりふり構わず、という訳でもない。練習した事はきちんと応用する。今までの努力は、無駄にしない。

だけど……。
それだけしても……。
最高の歌にはならない。だって透がいないんだから。私は透に、全てを託していたんだから。

「〜っ」

思わず目頭が熱くなる。皆とは違う理由で。言いようのない「悔しさ」のせいで。
だけど、私が今泣けば、きっと皆も泣いてしまうと、そんな気がした。私につられて皆が号泣なんてしたら、合唱どころじゃなくなる。

ギュッ

合唱は止めない。式を最後まで遂行する。
その決心が、指揮棒を握る力を強くさせる。固くなった腕は、練習のようには滑らかに動かない。だけど、いいんだ。私の指揮棒が先生や保護者に、皆の歌声を届けるのだから。その棒が止まるということは、合唱そのものが止まるということだ。
だから絶対、私は泣かない――と思った、

その時だった。

「(あ……)」

合唱のため並んだ九人は、突如として十人になった。
何度見ても見間違いではなく、何度数えても数え間違いではない。合唱する十人の、一番端にいる人物。それは、透。部外者なのに、皆に倣って堂々と立っていた。

「っ!?」

ビックリして思わず声を出しそうになった。
すると透は、そんな私の反応を楽しんでいるのかニコニコ笑うだけ。どうやら合唱の列に並びはしたものの、歌う気はサラサラないようだった。

しかも不思議な事に、生徒ではない部外者である透が舞台に上がっても、誰も注意しなかった。
他の九人の皆も、先生も保護者も。ただ私だけが不可解な顔をし、透を見ているのだ。どうして……と不思議に思っていると、透の声が聞こえた。それは耳からではなく、テレパシーのように頭の中に直接ひびいて聞こえる。

『今、ビックリしてる?』
『……してるよ』
『それは、何に?』
『何にって……』

つい、口を閉ざす。
考えてみれば、元々無茶なお願いをしたのは私だ。しかも式の前日という、これ以上ない土壇場で。だからこそ、透の裏切りは許せるものではないけど、私自身も透を責める立場にない気がした。

『今、思ってること。それは口にするべきじゃない?』
『え……』
『少なくとも、俺には君の不満を聞く権利があると思ってる』
『なにそれ……、私に不満を抱かせた張本人でしょ?』
『そうなんだけどね』

穏やかな雰囲気に思えたのも一瞬。
お互いの笑顔は、時を刻む事に消えていき、口角は水平線のように真っ直ぐ横へ伸びる。

『……昨日、』

気づくと、私は喋っていた。

『合唱お願いねって頼んでいたのに、土壇場で裏切られた。なのに平気な顔で舞台に出てくるんだもん、ビックリした』
『はは、ごめんごめん』

喋り終わって「そういえば前も透に自分の不満をさらけ出した事があった」と気づいた。
あの時は学校への不満だったけど、今度は透・本人への不満。だというのに、透は何一つ表情を変えない。「ごめんね」と謝る事もなく、ただニコリと笑うだけ。たった今、自分の悪い所を指摘された人の態度には見えなかった。もしかして透は、さっき私を裏切ってエスケープした事、本当は悪いと思ってないんじゃないだろうか。

『どうして歌ってくれなかったの? 今も、皆と並んでいるなら歌ってほしいのに』
『……』

透は、笑うのを止めて私を見た。そして口に出すのが憚られるような鋭い言葉を、平気で私の脳内に送り込んで来る。

『君のせいだよ』
『は? 私のせい……?』
『最初は純粋に俺の歌を好きでいてくれたのに、最後は、自分のために俺の声を利用しようとした』
『私が、私のために透を利用する……?』

一体、なんの事? 透の言ってる事がサッパリ分からない。
いつまで経っても不思議がる私の顔を見て、またもや透は笑みを浮かべる。

『今日は誰のための卒業式? 誰が、誰のために用意をして、誰に披露する式なの?』
『え、そんなの決まってる。皆のための卒業式だよ』

はっきりと答えると、透は首を振った。そして「嘘ばっかり」と。またもや鋭い言葉を、私に浴びせる。

『君は昨日“いい式にしたい”と言っていた。自分が目録を書き、自分が答辞をし、自分が指揮をする合唱がある。自分がお膳立てした、自分に送る、自分のための式だって――俺にはそう聞こえたよ』
『え……』

そんな事ない、と咄嗟に言い返せなかったのは、身に覚えがあるからだ。透の言った言葉に、どこか納得したからだ。

『君は俺を頼りにしていた。むしろ俺頼みで、合唱を成功させようとしていた。ここにいる九人の事を、信じようともしないで』
『――っ!』

指揮棒を振る手が、止まるかと思った。だって透の言った言葉は、以前私が思った事「そのもの」だったから。


――私の中では「何か」が足りなくて、「なぜか」満たされない。指揮棒を振りながら考える。だけど、すぐに答えが出た。この歌は、透が歌ってこそなのだと


『心当たり、あった?』
『……』

私は、透を頼りにしていた。
透さえいれば成功するって。部外者なのに「一緒に歌おう」なんて無茶な注文をした。勝手に皆を値踏みして「出来ないだろう」と切り捨てて、そして勝手に応援を頼んだ。全ては「自分が一生懸命準備した式を成功させたい」がために。

今、ハッキリした。
私がした事は、最低だ。

『……』
『その顔、どうやら分かったみたいだね。誤解しないまま卒業しないでよかった』

言うと、透は懐から何かを取り出した。縦に長い、手紙のようなものだ。そして、その表紙には――

『送辞って、そう書いてあるけど……?』
『“ここに残る者として”、俺が送辞を務めるよ』
『ここに残る?』

どういう事? って言うか、ここにいる皆は、どうして透をスルーするの? もしかして、透は皆に見えていないの?

疑問に溢れかえった言葉は、喉まで出かかって刹那に消えた。なぜなら、今まで見た事ないキリッとした顔の透。その透が「送辞」と口にしたからだ。

『君は長いこと“良い子”であり続けた。皆からの期待に応え続けた。その頑張りは、誰もが認める素晴らしい功績だ。
だけど、考えてみて欲しい。
どうして皆が君のアドバイスを聞くようになったか。それは、君が本気で皆と向き合ったからだよ。今まで妥協で付き合っていた仲間たちと、心から向き合ったんだ。そして、その思いは皆に通じた。君の気持ちが皆に届き、皆も同じ熱量を返したいと思ったんだよ。君の意思が、皆を動かしたんだ』

透は口を閉じ、目を伏せた。そして「聞こえる?」と、耳に手を添える。

『今聞こえている声は、今後もう二度と耳にする事はない。皆が一堂に会する未来も、もしかしたら存在しないかもしれない。だからこそ、皆と同じ時間を過ごせる学校生活は貴重なんだ。繰り返せない、唯一無二のものなんだよ。
卒業式の日に、学校生活を振り返らず、悲しい思い出だけに浸らないでほしい。苦しく悲しい思い出の中にだって、たった一度でも光る幸せな瞬間が、誰しもあったはずだから。だからね、思い出して。皆との思い出を。
そして、知ってほしい。
卒業式って言うのはね、いい式にするんじゃなくて。皆と一緒に過した時間を思い出し笑い合うことで、自然といい式になるんだよ』
『――っ』

その時。まるで走馬灯のように、頭に三年間の映像が流れてきた。十人の新入生。進級しても、一クラスしかないため変わることのなかったメンバー。「また一緒かよ」って皆で笑いあった三年間。

――響叶〜
――小林!

皆、私を頼ってくれていた。友達だから頼ってくれていた。
そして私は無理をしてでも期待に応えようと思った。無理なら無理と、素直に言えばよかったのに。それを言わず、自分で自分の首をしめて卑屈になって、皆と心の距離を取っていた。なんとなく皆も、私の態度で気づいていたんだろう。「私が仮面をつけ皆と接していた」事に。
そんな中。透と出会うことで、私は自ずと皆と真っ直ぐ向き合えていた。高校一年生の時みたいに。

――ここは、もっと高く歌ってみたらどうかな?

この九人で、少しでも透の歌声に近づきたい。そんな事を思って、必死に指揮棒を振った。その必死さは、日々積み重ねてきた「いい子」の仮面をとっぱらい、皆に素直な気持ちをぶつけていた。

――もっと伸びやかに
――大きな声で

全力でぶつかれば、全力で返ってくる。そして互いの心の距離が近くなる。だから全力でぶつかればいい――なんて。そんな今更なことに、卒業式の今日、やっと気づいた。

『私、バカだなぁ』

さっき透は「こんな光景は二度とないかもしれない」と言った。そうだ、その通りだ。もう見ることの出来ない景色が、いま眼前に広がっている。

最高の声と、最高の仲間。
そんな皆と作り上げる、最高の卒業式。
私だけじゃなく、全員で作り上げた卒業式。
ねぇ、みんなはさ。
今日の卒業式、いい式だった?

「……〜っ」

ラストのサビに入り、思わず下唇を噛む。
終わる、あと少しで歌が終わる。大好きな声が消えていく。皆で作りあげた、最高の合唱が――

その時。透がパチパチと手を叩く。

『今日で良い子は終わりだね。卒業おめでとう。どうかこれからは自分の思いに蓋をしないで。
響叶の思いは、声にして、そして響かせて。そうすれば必ず叶うんだから』

「〜っ!」

瞬間、私の目からポロポロと涙が零れた。
九人は私を見て、初めこそビックリしていたけど……一人泣けば隣が泣き、と。歌が終わる頃には、数珠繋がりで全員が号泣していた。そのため、最後は合唱なんてものじゃなく。聞こえるのは皆のすすり泣く声で、音程もリズムも、何もかもがあったもんじゃない。
せっかく練習した合唱が台無しだと、降壇しながら皆にヤジを飛ばされる。

「ずりぃぞ小林、なんで泣くんだよ」
「涙が我慢できなかったよ〜」

「ごめんね。でもさ、三年間を思い出すと、この合唱の練習期間を思い出すと……なんかじーんと来て、涙が止まらなくてさ」

素直な私の言葉に、皆が目を開いた。そして、さらに溜まった涙を、全員が一斉に流す。

「泣かせんなよ小林〜!」
「響叶ー! 今までありがとう」
「最高の式だったよー!」

三百六十度、グルリと九人に囲まれる。誰を見ても皆が泣いていて、そんな皆を見て、さらに私も泣いた。

「うん、本当に……
いい日で、いい卒業式だった!」

私は今日、この学校を卒業する。
そしていい子でいる自分も、
本音を言わない自分も、卒業する。

――――――そんな私たちを遠くから見つめるのは、透。
フッと笑みを浮かべ、満足げな表情をしている。そして「僕の役目もここまでだね」なんて呟いていると、


『答辞』


いきなり、私の声が脳内に響いた。

『透、ありがとう。
最高の卒業式だったよ』

「!」

それは透にお礼を言いたくて、だけど探しても探しても見つからない彼へ、心の中でお礼を述べた私の言葉だった。

「……はは! 最後の思い出にと読んだ送辞。その答えが、まさか返ってくるなんてね」

その時、透は思い出す。利害関係が一致した私たちが、まるで友達のように握手を交わした日を。

――ギブアンド、
――テイク!

送辞に、答辞。お互いが「ない」と思っていた、言葉の送り合い。

「まさにギブアンドテイクだ」

透は顔がクシャクシャになるほど笑う。そして存分に笑ったあと、いつもの笑みを浮かべて、

「また“僕”に遊びに来てね」

そう言いながら、サラサラと砂漠の砂みたいに消えたのだった。



設立から七十八年。
山々に囲まれた自然の中に、堂々と存在した登織(とおり)高校が幕を閉じた。町民の訛りで「とおる高校」の愛称で親しまれた、有名な学校だ。

最後の卒業式が終わり、全校生徒が笑顔で校門を出て行く。その後ろ姿を、温かく見守る校舎と山桜。散りゆく花びらが四方に舞うその様は、まるで「じゃあね」と別れの挨拶をしているよう。だけど同時に、透き通った青空の下で行われた「再会の約束」にも見えたのだった。


【 完 】