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玄関で今か今と待ち構えていたら、やっとドアが開いた。
帰ってきたのはやっぱり父さんで、その姿を見た瞬間に気分が高揚した。堅苦しくない清掃の仕事を終えって帰ってきたところなのに父さんは今日もスーツ姿だ。そんな姿を見ているとますます目の前にいるのが父さんなのを実感して嬉しくなった。
「お帰り父さん!!」
「ただいま、結賀」
俺が両腕を背中に回すと、父さんは頬にキスをしてから俺の腰に腕を回した。
父さんの髪の毛から洗浄剤の匂いがした。どうやら、今日も真面目に仕事をこなしたらしい。
俺は笑って、父さんをダイニングキッチンまで連れて行った。そこは中央に二人用のテーブルと椅子があって、キッチンの向かいに食器棚と冷蔵庫と炊飯器があるだけの部屋だ。けれど、俺たちにはそれで十分だ。
俺は馬渕結賀。金髪に染めた髪は俺のトレードマーク。瞳は垂れていて、身長は百七十センチメートルくらいだ。身長は低くないしこの髪色だから、学校の担任からはあからさまにぐれた子供だと思われている。けれど俺は別に不良に憧れてこの髪色に染めた訳でもないし、勉強もそれなりにしているから、決して不良ではない。まぁだからといって、皆勤賞を狙えるような優等生でもないのだけれど。
父さんの名前は隼斗。四十歳の父さんは笑うと出るエクボが青年のようで、俺と同く垂れ目で鼻筋もしっかりと通っている。
白髪染めをしているから傍から見たら髪は真っ黒で、おかしな点は何一つない。けれど、父さんは二年前——俺が中一の時からうつ病を患っている。そんな父さんのために俺がしていることは、家事全般。そして毎日の抱擁。するのは父さんが仕事に行く時と、仕事から帰ってきた時。それと俺が学校に行く時と、父さんが涙を流している時。
中学一年生の時からしているから、この日課をするようになってからもう二年以上の月日が流れた。
親に反抗することも少なからずある所謂思春期と言われる年頃なのにどうしてそんなことをしているかと聞かれたら、俺はいつもこう嘘をつく。
『生まれた時から片親で、ずっと二人きりで支え合って生きてきたから』と。
「父さん、俺、冷や汁作ったんだよ」
「お、本当か? きゅうりちゃんと薄切りして絞った?」
「ああ、絞った!」
俺の頭を撫でて、父さんは笑う。
俺はすぐにキッチンの端にある冷蔵庫を開けて、その中にある鍋を取った。鍋の大きさは二十センチメートルくらい。二人分だから、それで十分足りるんだ。
俺がおたまを中に入れてからテーブルに置いたら、父さんは早速蓋を開けた。
「おお、本当に冷や汁だ。えらいぞ、結賀」
味噌汁の中に厚さが一ミリメートル以下のきゅうりが何十個も入っているのを見て、父さんは声を上げた。
「当然!!」
父さんに向かってピースする。
俺はコップの中にあふれそうなくらいの氷を入れると、それとお椀を二つテーブルに持って行った。
父さんは食器棚から俺のお茶碗を出すと、わざとそこに山盛りのご飯を入れた。
「父さん、そんな食べれないから!!」
「食べれらるだろ? 結賀は育ち盛りなんだから」
「それはそうだけど、さすがに朝からその量は重い!」
俺は昨日の夜に作っていたチンジャオロースを冷蔵庫から出すと、それを電子レンジで温めた。
「そうかあ?」
首を傾げながら父さんは自分の茶碗をとって、そこにご飯を移した。
「「いただきます」」
チンジャオロースと茶碗をテーブルに置いて箸を用意したら椅子に座って、お互いの顔を見ながら手を合わせる。
父さんは早速冷汁をすくってお椀に入れた。
父さんは氷を入れる前にきゅうりを端でつまんで、口に運んだ。
そのままだとぬるいんじゃないの?
「ん、美味い! さすがだな、結賀! どんどん料理が上手くなってくな」
温度なんて気にもせずにそういう父さんを見て、つい笑みが溢れる。
「父さん、大好き」
「俺も好きだよ、結賀」
隣にいる俺の背中を撫でると、父さんはまた顔を近づけて、キスをしようとしてきた。
「お、俺、そろそろ歯磨いて学校行くね」
恥ずかしくなって、俺は慌てて席を立った。
「ふふ。ああ、そうだよな」
父さんの言葉に頷くと、俺はすぐに歯を磨いた。
「いってらっしゃい、結賀」
父さんと抱擁をしてから、俺は玄関に置いていたスクバを肩にかけて靴を履いた。そのまま部屋を出て隣の部屋のインターホンを押すと、予想通り。伊織はすぐにドアを開けてくれた。
「おはよー結賀!」
顔を俺に近づけて伊織は笑う。ウェーブのかかった茶色い髪は彼女が動くたびにゆれて、シャンプーの香りを漂わせていた。
瞳がリスのようにクリクリしていて、身長が百五十センチメートルにもみたないから、俺からすると、伊織は少し小動物みたいな感じがする。
伊織は俺が生まれる前からここに住んでいる。
伊織の父さんと俺の母親は小学校が同じだったけれど、当時は別にたいして仲良くなかったから、母さんが中学受験をして志望校に無事受かったことがきっかけで離れ離れになってからは一度も会っていなかったらしい。そんな二人は、俺が赤ん坊の時に幸か不幸かこのマンションで再会を果たした。
『せっかく隣に住んでいるのだから、仲良くしよう』
誰かがそう言ったわけではないけれど、俺が生まれてから一ヶ月もしないうちから、俺の家族と伊織の家族は毎日一緒に朝ごはんや夜ご飯を食べるようになった。
初めて一緒に食べた時はまだ小さかったから何も考えずにご飯を食べていた。けれど、物心がついたらさすがに、なんでいつも一緒に食べているのだろうと疑問が沸いた。でも俺は別に伊織が嫌いなわけじゃなかったし、母親や父さんが笑って伊織やその両親とご飯を食べていたから、二人に合わせていた。
もしかしたらそうしたことが、間違いだったのかもしれない。
小学六年生になってから間もないある日、俺は伊織の父さんと俺の母親がキスをしているのを目にした。そしてその翌日、俺の母親は部屋を出て行った。当時、父さんは今と違って朝仕事場に出掛けて夜に帰ってくるような仕事をしていた。そのせいで、ポストに入っていた離婚届けは俺が一番最初に見る羽目になった。
授業を終えて学校から帰ってきたら、母親の歯ブラシも衣服もバッグも何一つ部屋になくて、母親もいなくて。母親を探そうと思って外に出たら、ポストにそれがあった。隣の部屋のドアの前には伊織がいて、同じように離婚届を持っていた。俺は母親に捨てられて、伊織は父さんに捨てられた。確信なんてなかったけれど、そうとしか考えられなかった。頭は完全にパニックで、仕事中だとわかっていたのに俺は思わず父さんに電話をかけて泣き叫んでしまった。父さんはいつも通り、仕事を終えてから帰ってきた。そして翌朝も元気に仕事へ行った。けれど離婚届けを直接目にしてから一週間もしないうちに、父さんは一度落ちるところまで落ちた。仕事に通えなくなって、一日中寝たり酒を飲みながら泣いたりするような人になった。
そんな父さんが社会復帰したのは、俺が受験生になって間もない頃だった。その時に復活したのは多分親の責任みたいなものを忘れないでいてくれていたからだと思う。あの時もきっと、それを忘れていなかったから父さんは俺の身体を見て我に返ったんだ。
「伊織、今日の放課後委員会あるんだっけ?」
「うん。だから先帰ってていいよ」
首を振る。
「いや、昇降口で待ってるよ」
「本当? ありがとう!」
目を見開いてから、伊織は声を上げた。
俺と伊織の友情は、お互いの親が恋仲になっても壊れなかった。むしろ二人が恋人になったことで、辛い時も悲しい時も一緒に泣いて、苦しみを分け合う親友になった。
俺は伊織には微塵も恋愛感情がない。それどころか俺は、母親に捨てられてから女の子を好きになったことが一度もない。多分俺は、いわゆる女嫌いってやつなのだと思う。伊織のことは昔から知っているから、別に一緒にいてもなんとも思わないけれど、それ以外の女の子とは話すこともできないから。伊織もそれがわかっているから、自分の父親を連れて行ってしまった人の子と仲良くしてくれているのだと思う。
★★
「ふあ。ごめん、やっぱ無理。ちょっと保健室で寝てくるわ」
学校に入ったら、ただでさえあった眠気が無視できないレベルになってきた。
欠伸をしながら目を擦る。
帰ったらすぐに夜ご飯を作って、洗濯物を取り込んで、風呂を洗ってとさまざまな家事をいつもこなしていると、夜にある程度睡眠をとっていてもだいぶ疲れが溜まる。そのせいで俺はこんな風にいつも眠くなる。
「えーまた? はあ。結賀、自分のこと大切にしてなさすぎじゃない?」
俺を見て、伊織はため息をついた。
「別にそういうわけじゃ」
「そういうわけでしょ。学校の時間以外はずっと家事してるって言っても過言じゃないんだから」
「それは別に父さんが鬱病だから俺が無理させたくないと思って進んでやっているだけだから、俺の性格が理由じゃない」
仕事に復帰する前までは、父さんの面倒は俺じゃなくて訪問介護の人が見ていた。いや正確には、俺は面倒を見させてもらえなかったというのが正しいか。
介護の人に父さんが依頼したのは風呂の世話とカウンセリングだけだった。けれど、その人は訪問したらすぐに俺に、寝室への立ち入り禁止を命じた。
病気と言うのは厄介で、息子の前でも死にたいと思ったり、実際に自傷行為をしてしまったりするらしい。介護の人はそんな姿を思春期の子供に見せるべきではないと考えて、俺に制限をした。そのため俺は実際に父さんが自虐的な言葉を言ったり、自分に暴力をふるったりしているところを数回くらいしか見たことがない。
介護の人に今日はご飯を作りましょうか? と聞かれたり、父さんから料理や洗濯も依頼しようかと聞かれても大丈夫だと断ったのは、ただ俺が父さんのために頑張りたいと思ったからだ。
日常的に自虐の言葉を発する人になんて声をかければいいかなんて俺にはわからない。けれど一人っ子だったから幼い頃から母親と一緒に料理をしていたし、洗濯の仕方もわかっていたから、それくらいはやりたいと思った。それに何より俺は飯を作ったり服を干していたりすると父さんや介護の人が俺を褒めてくれるのが好きだった。父さんは決して、毎日褒めてくれたわけじゃない。時には何も言わず、無言で食べていた時だってあった。けれどそんな時は介護の人が笑って、父さんに見えないところで俺を褒めてくれていた。そういう環境だったから、俺は朝も昼も夜も家事をすることを何も苦に感じていなかった。けれど、どうやら伊織にはそれが不思議でならないらしい。
「本当に? 隼斗さんのことがあるからって、結賀が無理して倒れたら本末転倒なんだよ?」
「わかってる。だからちゃんと、休憩時間は取ってる」
嘘じゃない。一人でソファに座り込んでテレビを見ている時間だってあるし、勉強をする時間だってあるから。
「休憩時間をとってるかは問題じゃない。ちゃんと心も体も休ませてるかどうかが問題なんだよ?」
「それは……」
言葉に詰まった。
それを休められていたら、きっと俺は保健室なんて行く羽目になっていない。
「はあ。もういいよ。保健室行きな。ちゃんと休みなよ?」
俺に呆れているかのような視線を向けて、伊織は肩を落とした。
「……わかった」
俺は下を向いて頷いてから、保健室に向かった。
これで、伊織に同じことを三回注意されたことになる。
別に俺だって好きで注意されているわけじゃない。
ただ俺には正直、注意される理由がよくわからない。
俺は父さんはまだ仕事に復帰してから二ヶ月くらいしか経っていないから、今は家事より仕事に専念して、早く清掃をすることに慣れるべきだと思っているから、家事をこなしているだけだ。それだけなのにどうして、俺が怒られなきゃいけないんだよ?
無性に腹が立って、俺は思わず窓を睨んだ。
「はあ」
アホ。伊織はただ俺を心配しただけだろうが。それなのに怒るなよ、この短気が。
窓に映った顔を見て、俺は我に返った。
沈んだ足取りで、とぼとぼと保健室に向かう。
ありがとうくらい、言えばよかったのかもしれない。いや、絶対言うべきだった。
後悔と自己嫌悪に苛まれて、足が止まった。