ダイニングの中央にある机の上には、離婚届けが置いてあった。父さんは何も言わずに、それを見つめていた。

「結賀、お前だけはいなくなるな。頼むから、お前だけは俺を捨てるな」

 隣にいる俺の腕を掴んで、父さんは懇願する。

 爪がくい込んで、血が流れた。

「痛いよ、父さん」
「いいから誓え!! お前だけは俺を捨てないと。俺達は死ぬのも生きるのも一緒だ。……そうだよな?」
 俺の背中を撫でて、父さんは歯を出して笑う。悪魔のように醜いその笑いを見ているだけで鳥肌が立って、冷や汗が流れた。

 返事を急かすようにさらに腕に圧を掛けられる。

 父さんはズボンのポケットからライターを取り出すと、火をつけたそれを俺の顔に近付けた。

 額から汗が噴き出して思わず後ろに下がろうとしたら、背中を拳で叩かれた。
 力が強くてふらつきそうになったけれど、必死で耐えた。倒れたら火が当たると分かっていたから。
 父さんにこんなことをされたのは初めてだったから答える前に恐怖心が湧いて、身体が震えた。

「う、うん。俺はいなくならないよ」
 涙が溢れて、声が掠れた。

「いい子だ、結賀」
「んっ!?」
 背中を撫でられたと思ったらキスをされて、口の中に錠剤を入れられた。
 唐突に眠気が襲ってきて、俺はそれに抗えずに目を閉じた。
 目が覚めたら、俺は寝室にいた。

「――っ!?」
 寝室のベッドの柱と、照明のそばに監視カメラが置いてあった。
 嫌な予感がしてダイニングと玄関に行ったら、同じようにカメラがあった。

 なんだこれ。俺は監視させられるのか? これから毎日?
 一体どうして。まさか、本当に居なくならないか見るためか……?
 なんで。

 離婚をする前の父さんはとても穏やかで、俺か嫌がることなんて一切しないような人だったのに。

「どうしたんだ、結賀」
 玄関に立ち尽くしていたら、父さんに声をかけられた。

「……父さん、俺はカメラなんてつけなくてもいなくならないよ。信じられない?」
 父さんは首を振った。

「違う。でも怖いんだ。俺はあいつを信じてた。結賀のその言葉を信じるのと同じように。それなのにアイツが俺を捨てたから、俺は息子のお前を監視でもしないと安心できなくて……っ!!」

 俺の肩を掴んで、父さんは泣き崩れた。
 この顔は見覚えがある。
 母さんが近所に住む幼なじみとキスをしていたのを俺が話した時に見せた顔にそっくりだ。

 良かった、悪魔みたいな人に変わってしまったわけじゃなくて。

「……それなら俺を犯してよ。俺が絶対に父さんを捨てられないと思うまで」
 俺は父さんから離れるつもりはこれっぽっちもない。けれど、何かで無理に縛り付けないと父さんが安心できないと言うなら、俺は……。

 父さんはすぐにあらゆるところにあったカメラのスイッチを切った。そして俺のパジャマのボタンを外して、俺をベッドに連れて行った。
 怖くなかったわけでも、本当にして欲しかったわけでもない。ただ父さんがそれで楽になるならしていいと思った。発想が馬鹿げているのは自覚していた。けれどこうでもしないと父さんが正気に戻ってくれないと思ったのも確かだった。

「っ、俺が好きだからってこんなことをするな!!」
 裸の俺を見てやっと、父さんはそう叫んだ。

「結賀、頼むからもっと自分を大切にしてくれ。俺に叩かれるのが嫌だったなら、俺が正気に戻るまでそのことを訴えてくれ。でないと俺は何をしでかすかわからないから」
「うん、ごめん」
 父さんを抱きしめて、俺は頷いた。けれどそれは演技だった。
 俺は今でも自分を大切にする方法がわからない。もう初めてを奪われそうになってから、二年過ぎたというのに。