「優歌〜、ご飯できたよ。降りてらっしゃい」
「はーい!」
下の台所から母の声が聞こえる。
お気に入りの水色のキャリーケースに詰め込んだ荷物。
その最終チェックをしていた手を止め、いっぱいいっぱいのそれを上から押し込んでなんとかファスナーを閉めた。
大きく息を吐き出し、立ち上がる。
自室だと言うのに使い慣れたテーブルも机もその上には何もない。
それがすごく寂しくなってしまう。
「本当に、出ていくんだな」
言葉にすると実感してしまう。
つい、3週間前に高校を卒業したばかり。
夢の看護師になるために4月から関西の看護大学へ進学する。
生まれ育ったこの家を、この九州の町を出て新しい町で新しい生活が始まる。
もちろんワクワクもある。
でも親元離れての生活から離れるのは不安のほうが大きい。
今まで守られて生きてきた。
これからは、自分で決めて自分自身で歩いていくことになる。
まだ学生だから、本当の自立の予行練習みたいなものだろうけど。
「優歌〜?」
「あ、今行く!」
先ほどよりも母の声は近い。
きっと遅い自分を心配して、階段の下まできて声をかけたんだろう。
部屋の電気を消し、階段を降りる。
降りた先で母親が待っていた。
「ごめんごめん。荷物の確認してた」
「明日だもんね。本当にあなたはしっかりしてるわ」
母はそう言って優しく微笑んだ。
ずっと変わらない温かい笑顔。
この母親の笑顔が大好きだ。
それもしばらく見れなくなると思うと堪らない寂しさが込み上げる。
「ほら、早く行こう!お腹すいちゃった」
「あら、はいはい」
目頭が熱くなるのを感じて、慌てて母親の背中を押し、ダイニングへ向かった。
テーブルの上にはオムライスにハンバーグ、ポテトサラダと所狭しにたくさんの母の手料理が乗っている。
全部全部私が大好きなものばかりだ。
「すごっ、お母さんこれ全部1人で作ったの?」
「ふふ、あなたとの食事もしばらくお預けだから。お母さん、張り切っちゃった」
「ありがと〜。嬉しすぎる!」
目の前のご馳走に気分が上がる。
2人で食べ切れるのかはわからないが、今は関係ない。
興奮気味に席に着く私に母はニコニコしながらキッチンの方へ向かっていった。
どの料理からも湯気立ち上り、美味しそうな温かな香りが部屋いっぱいに満ちている。
「はぁー美味しそう」
コトンとテーブルに白いスープ皿が置かれる。
野菜がたっぷり入ったポトフだ。
美味しそうな料理たちに目移りしてしまう。
「お待たせ、冷めないうちに食べちゃおっか」
「うん!いただきます!」
2人揃って手を合わせる。
まずは目の前で1番存在感を放っているオムライスから。
お母さんのオムライスはバターライスを卵で巻いたシンプルなもの。
その黄色い卵の上にはケチャップで書かれた少し歪な私の名前と全然似てない似顔絵。
つい笑ってしまうと母は「もう」と少し頬を膨らませたあと、おかしそうに笑った。
「お母さんの料理は本当にどれも美味しい!」
「ありがとう。優歌はいつも美味しそうに食べてくれて、作り甲斐があるわ」
そう微笑む母親の目尻には小さなシワ。
母も今年で43歳。
まだまだ全然若いが、確実に歳をとっている。
うちは母子家庭だ。
父は私が4歳の時に病気で亡くなった。
それから、母1人で私を育ててくれた。
働きながら、子育てと家事。
本当に大変だったと思う。
でも、母は決して弱音を吐かなかった。
私の前では絶対泣かなかった。
母は強い。
どんなに辛くても泣かない。
きっと誰よりも強くて優しい人なんだ。
だから、私は父が嫌いだ。
こんなに強い母なのに、あの頃いつも泣いていた。
父のそばで静かに泣いていた。
幼かった私の記憶には父親はあまりいない。
少ない父との記憶のほとんどは小さな病院の個室だった。
いつも父はベッドの上にいた。
あの頃はなぜ父が家に帰ってこないのかわからなくて、寂しくて寂しくて堪らなかった。
だって本当は大好きなパパだったから。
「優歌も本当に大きくなったね。すごく立派になってくれてお母さん嬉しい」
夕食をとりながら、母は感慨深げに呟いた。
「お母さんのおかげだよ」
「ううん。お母さんはちょっとお手伝いしただけ。全部全部あなたが頑張ってるから」
温かくて心地よい静寂が包む。
どこかむず痒くて、グラスの水を一気に呷る。
そんな私の心情もきっとバレてるんだろう。
母の小さな笑い声が聞こえた。
「優歌なら1人でもきっと大丈夫。ただ無理だけはダメ。1人でも1人じゃないからね」
「うん」
「私はいつまでもあなたの味方。あなたの幸せだけを願ってる。それはお父さんも一緒よ」
母の最後の一言に思わず食事の手が止まった。
意外だったから。
母は自ら進んで父の話をしない。
それなのに、突然どうして。
戸惑う私を知ってか知らずか、母は淡々と話を進める。
「お父さんもきっと立派になったあなたを見て喜んでるわ。優歌のこと大好きだったから」
「…そうかな」
「当たり前よ。この場で一緒にあなたの門出を祝えないこときっと悔しがってるわね」
母の声は懐かしそうで嬉しそうで。
父の話は御法度だと思ってた。
思い出したら悲しいから、辛いから。
きっと母は思い出したくないんだろうって思ってた。
「お母さんはお父さんのこと今でも好きなの?」
「あら、何よ。藪から棒に」
照れたような声。
それだけで答えはわかるよ。
「憎んでないの?」
「憎む?どうして?」
母は本当に不思議そうだった。
だって。
あの時、お母さんを泣かしてばっかりだった。
お父さんは私たちを残していった。
あの日から私達の生活は変わったんだよ?
誰よりもお母さんが苦労したでしょ?
言葉に詰まる私に母はまたあの優しい笑顔を向けた。
「優歌、あなたはお父さんの事嫌い?」
「え?」
「ふふ、そうじゃないかなって思ってた」
母は静かに立ち上がる。
そして、椅子を私の隣に持ってくるとそこに腰掛けた。
「あの頃のこと、あなたは覚えているのね」
「まぁ、なんとなくだけど」
「…そっか。やっぱりあなたは優しい子。あの人の娘だわ」
優しいのは私じゃない。
ましては父親なんてもってのほかだ。
だってあの時の父はどこまでも冷たく酷い人だったから。