視界がにじんできた。涙のせいかと思った。
ちがう、雨が降り始めたのだ。煙る雨と僕の吐く息で、ガラスが曇っていく。
茜は涙を拭かずに、なにかをつぶやいた。
雨が止んだ。雲の切れ目から、陽の光が差す。
あふれていた僕の涙は、水蒸気のように跡形もなく消えた。

あの日以来、僕と茜は泣いたことがないんだ。
僕か茜が涙をこぼしそうになると、茜は魔法を使った。
その代わり、雨は降らなくなった。長年、『異常気象の日本列島』と報道された。
でも、僕らはこうするしかなかった。
生きるには、こうするしかなかった。

あれから何年経っただろう。
きみと出会ってから3年だから……19年か。
そういや、茜が「あと一年で、35歳だわ。昔ならアラフォーって呼ばれてる歳じゃないの」って、騒いでいたなあ。
ああ、ごめん。
さっきから、茜の話ばかりしていたね。
でも知っておいて欲しかったんだ。
茜はいまでは、僕のたったひとりの家族だから。

……父の最期を看取れなかったこと。
それが、僕らが施設から脱走した理由なんだ。数日後に職員に発見されたけど、茜は僕を抱きしめて叫んだんだ。
「私には、譲をずっと守る権利がある!」ってさ。
その日から、僕らはふたりで生活をはじめたんだ。茜、25歳。僕、15歳の頃。
茜は初めての就職。僕は初めての学校。お互い新生活で慣れなくて、大変で、喧嘩したこともあった。
ある日、いつものように僕に魔法を使う茜に、僕は怒鳴ったんだ。
「僕は思いきり泣きたいんだよ!」ってね。
茜は笑顔で、だけど、なにかをこらえているような表情で言った。
「譲。泣けないからって怒らないでね。でも笑わなくていいのよ。……いまのわたしたちは幸せだなんていえないかもしれない。けれど、譲には、いつかきっと見つかるわ。譲を抱きしめてくれる人。私よりも、たくさんの愛を譲に与えてくれる人。それまでは…それまでは、私は空に、譲の涙を捧げるの」
そのあと、僕は茜から聞いたんだ。
あのとき。ふたりで施設から逃げたときに茜が放った言葉の意味を。
茜のおかげで僕は施設を出られた。だから、きみと出会えたんだよ。
茜は、茜は……。

ごめんなさい、茜。
僕だけが……僕だけが、幸せになっていいのかな?
由紀。きみとの結婚が決まったときから、何度も茜に尋ねたんだ。
「当たり前じゃない……だって、私は……」
続く茜の言葉を聞くたびに、僕は涙がこみ上げてきそうになったよ。
茜は、実は……。

僕は、黙って聞いている由紀に、時間の許す限り話をした。
ウエディングドレスを着た由紀は、僕の手を両手で握っている。白い手袋を外して。
今日は、由紀と僕の結婚式だ。僕らは誰もいない控え室にいる。
「……由紀。僕は由紀を幸せにするよ。そして、僕も幸せになる」
由紀は笑顔でうなずいた。
父と離れたときに見た虹。あの虹よりも、こころを奪われる美しさだった。
由紀は、白いドレスを身にまとった由紀は……とても綺麗で、僕が手に入れてはいけない存在のような気がしてならなかった。

結婚式前日のことだ。
夕食を食べ終えソファに座り、これからのことを考えていた。
僕と茜がずっとふたりで暮らしてきた、この部屋。
茜は、ここで……ひとりで暮らしていくんだろうなあ……きっと、いつまでも。
そう思ったら、胸がつまるような、なにかがこみ上げてくるような感覚がした。
……僕は、やっぱり泣き虫だな。
この歳になると、泣く前兆みたいなものがわかってくる。