「臨未ちゃん、付いていこうとしてたんですか?」
「ああ。それも、制服姿でな」
「だから……、助けたんですか」
「いいや。説教をすべきだと思って、強引にカフェに連れ込んだんだ」
「それは……たぶん、助けたってことだと思いますよ」

 遊園地で、ナンパから彼女の手を引き剥がしたときのことと、辻宮さんの話す出来事が不意に重なる。
 僕にはきっと “強引に” というのは無理だっただろうな、と、膝の上に置いた右手を握りしめた。

「だから彼女の声を聴くまで、彼女のことを愚かな女子高生だと思っていたよ」

 ふっ、と漏れる息が、彼の肩の力を抜く。憤っていた過去を思い出しながら、多少強張っていたらしい。
 そんな様子を見て、僕の肩も少しだけ軽くなった。握りしめた右手も、すぐに解いた。目の前にいるこの人が、正直で対等な人だと思えたからだ。

「カフェで、何を話したんですか?」

 だから僕は、息を吐くようにしてそう訊ねた。

「君は何を考えているんだ、と。最初は咎めた」
「まあ、そうですよね」
「だが話していくうちに、応答する彼女の声や話し方を目前にして、俺はかなり意表を突かれた」
「意表、ですか」
「ああ。完璧ではないが、自分なりの言葉で筋道を立てようとするところに、好感を持ったよ」

 辻宮さんの、今までにない優しい口調と表情に、思わず喉が鳴る。焦燥感を覚えるのは、美術部での活動以来だった。

「辻宮さんは、臨未ちゃんのことが好き……なんですか」

 恐る恐る尋ねると、辻宮さんはふっ、と息と視線を落とす。それからすぐに顔を上げて、

「それほど好きではない。と言った方が、君にとっては安心か」

 と、揶揄いを含んだような目で僕を見据える。どう答えようかと悩んでいると、辻宮さんはまた笑みを溢して口を開いた。

「すまない。年下を虐める趣味はないんだ。こういう会話は新鮮だから、つい試したくなったんだ」
「試し……え?」

 どういうことか、と眉を寄せる。

「性別に関わらず、俺には友人が出来たことがないからな。駆け引きというものを、体験してみたかったんだ」
「はぁ、」

 せっかく説明を付け足してくれたのに、よく理解が出来ず、情けない声が落ちる。それでも辻宮さんは嫌な顔ひとつせず、続けた。

「そういう、今までにない世界をくれたのは、紛れもなく石川臨未だ」

 力強い言葉に、今は飲む気もないカフェオレのカップに指を絡める。何かを触っていないと、落ち着かなかった。

「……じゃあ、やっぱり」
「好意はある。だが、君と同じ感情かどうかは判らない」
「え?」
「君の好意は恋愛感情だろう。きっと、彼女が君に向ける感情も」

 カッと顔が熱くなるのを感じて、カフェオレを体に注ぐ。ホットが(ぬる)くなっただけの飲み物は、顔を冷ます役割を果たしてはくれなかった。代わりに、咳き込む始末だ。

「すまない。大丈夫か」
「いえ、全然、だいじょうぶです」

 おしぼりで口元を拭うと、辻宮さんは真顔に戻ってこちらを見据える。

「今のは、デリカシーがなかったか?」
「え……、デリカシー?」
「前に一度、石川くんに説教をされた。俺にはデリカシーがない、と」

 二人は一体、いつもどんな話をしていたのだろうか。更に気になりながらも、辻宮さんと彼女が会話をしている場面は、徐々に腑に落ちてくる。
 理屈を好むところも、自分自身を省みようとするところも、二人はよく似ている。

 それからしばらく、他愛もない話が続いたけれど、辻宮さんの話には必ず「石川くん」が含まれていたし、僕の話にも必ず「臨未ちゃん」が登場した。
 好きな人の話をするのは楽しかったし、何より、自分の知らないところでこんなにも話が広がっているとは思わないだろうな、と臨未を浮かべて笑みを溢した。

「いつだったか、石川くんは君の話をしていたよ」

 カフェオレを飲み干した後で、ご馳走する、と言われたナポリタンを前に、僕は目を見開く。辻宮さんは、フォークに同じナポリタンを巻き付けながら言った。

「君は、事故の少年だったと」
「えっ」
「実はあの日、彼女と一緒に居たんだ。君が車に轢かれた数日後に、彼女と同じ学校の生徒だったと知った」

 そうだったのか。と、パスタを飲み込む。

「『一回だけしか話したことない。ただの知り合い』とは言っていたが、腕と、その後遺症をかなり気にかけていたよ」

 言いながら、辻宮さんは静かに僕の右手に視線を注ぐ。手袋を覆ったままフォークを握る、チタンで出来た中身に。

「『関係ないけど』と言うのが彼女の口癖だったな。あれからは」
「あれから?」
「一命を取り留めた君の腕が、重傷を負ったと分かった後だ」

 ——真冬は描きたい絵があるって言ってた。
 ——この世で一番、失いたくないものだったのかもしれない。たとえ、命に換えても。

 辻宮さんの声によって紡がれた彼女の言葉が、彼女の声で再生される。僕は目が熱くなるのを感じて、豪快にナポリタンを頬張った。

「あの時の俺は知らなかったが、彼女は、……失っていたんだな」

 何を、とは言わない辻宮さんの言葉に頷きながら、鼻を啜る。
 臨未が彼に放った台詞は、すべて彼女自身が抱えていたものだったのだ、と。互いに悟った僕たちは、ナポリタンの湯気を静かに吸い込んでいた。



 ——たまたま浜松で予定があったから寄ったんだ。

 民宿こじまに突如やってきた香吏は、玄関口で私を呼び出し、そう言った。見え見えの嘘に、私は眉を寄せた。

 ——本当に(・・・)、どうして来たの?

 バスターミナルで彼に父親役をお願いしたとき、確かに浜名湖方面に行くとは伝えたけれど、それが民宿こじまであることは伝えていなかったはずだ。そもそも、理由を偽ることになんの意味があるのだろう。
 香吏が真冬を連れ去ってから小一時間が経過している今も、私は首を捻っていた。

「臨未ちゃん、そこは寒くない?お茶でも淹れるわよ」

 食堂から覗き込むようにして、女将さんが顔を出す。
 私は香吏たちが去った後もずっと、玄関付近の半個室に居座っていた。最初にここを訪れたときに、真冬と一緒に通された場所だ。

「ありがとうございます。いただきます」
「少し待っててね」

 そう言って顔を引っ込めた女将さんは、すぐにお茶を持ってやってくる。先に湯を沸かしていたのだろう。

「真冬くんが心配?」

 湯気の立つお茶をローテーブルに置きながら、女将さんは言う。私は「えっ」と声を上げた。

「いや……はい、まぁ……」
「長身の彼と、面識無さそうだったものね。真冬くん」
「はい。初対面です」

 答えてから湯呑みを両手に包むと、冷たい指先がじんじんと熱に溶けていく。薄着ではなくても、玄関先はやっぱり冷えるようだ。

「あの人……あの背の高い人は、私の友達のような人で。なんでここに来たのかも、面識のない真冬を連れて行ったのかも分からなくて……だから、たぶん落ち着かないんです。いま」

 心の内を打ち明けながら、整理していく。女将さんに話すことが私自身の心を整理するきっかけになると、昨日から無意識に感じていたのかもしれない。
 女将さんはお盆を胸に抱くと、隣に座ってふふっ、と笑った。

「友達のような人って、初めて聴いたわ」
「やっぱり、変ですよね」
「ううん、そうじゃなくて。私とお客さんの関係も、それに似ているなと思ったの」
「女将さんと、お客さん?」
「そう。普通のホテルマンとか、コンシェルジュだとそうはいかないんだろうけど、民宿はそこが強みでしょう? うちの宿で過ごしてくれる、家族や友人のように近い存在になっていただけるのよ」