何か急な用事でもできたんだろうか。あるいは、それとも――。

「さきちゃん、ここ見て」
「え、なあに?」
 私は張り紙の下のほうを指差す。
 そこには「急ぎの御用がある方はこちらまで」という文章とともに、連絡先の電話番号が書かれていた。
 多分ここに電話をかければ哲さん、あるいは千鶴子さんが出るのだろう。
「一度この電話番号にかけてみない? 私たち他に連絡先なんて知らないし」
 正確には碁会所の電話番号は調べれば分かるかもしれないけど、今ここに誰もいないのだからかけても仕方がない。
 哲さんと千鶴子さんの家はここからそう遠くない場所にあるらしいけれど、その場所も知らない。
 とにかく書かれてある通り、この電話番号にかけるのが手っ取り早いと思ったのだ。

「いいよ。それじゃ私が――」
 私はそう言って、スマホを取り出そうとするさきちゃんを制止した。
「大丈夫。私がかけるよ。
 電話は苦手だけど、知らない人が出るわけじゃないだろうし」
 もちろんさきちゃんに任せてもいいのだけど、なんとなく不安な気持ちがあって私自身で確かめたかった。
 電話越しでも声の調子で分かることもあるかもしれないし、自分でかけたほうがいいだろう。
 私はスカートのポケットからスマホを取り出して、その張り紙に書かれた電話番号を入力していく。
 そして通話ボタンを押すと呼び出し音が鳴って、やがて繋がった。


『はい、もしもし。梶原です』
 その声は聞き覚えのある女性のものだった。
「あ、もしもし! 千鶴子さんですか?
 雨宮かさねです。碁会所の前まで来たら張り紙がしてあって――」
『ああ、かさちゃん! さきちゃんも近くにいるのかしら?
 ごめんなさいね、連絡先さえ分かればあなたたちにも連絡したんだけれど……』
「あ、ええっと、それは構わないんですけど。
 それより何かあったんですか?」
 急に休みになったことを責めたいわけじゃない。私は慌てて本題に入る。
 そしたら千鶴子さんはなんでもないことのように応えてくれた。

『いえいえ、別に大したことじゃないのよ?
 ただ私たちももう年だから。たまにはのんびりする時間も欲しくなって。
 それで急なことだけど、お休みすることになったのよ。
 再開する日が決まったらすぐに連絡するわね。連絡先は今かけてくれた電話番号でいいのでしょう?』
「あ、はい。すみません、お願いします……」
 それからさきちゃんに電話を代わって、しばらく様子を見ていたけど、すぐにその通話は切れたらしい。
 なんだか腑に落ちないところもあるけれど、千鶴子さんには特におかしな様子はなかった。
 だから私はその言葉を信じて碁会所の再開を待つことにするのだった。
 それまではさきちゃんと打ったり、本を読んで勉強する時間を増やしたりしよう。



 そして春の訪れを感じる季節になったとき、千鶴子さんから碁会所再開の連絡があった。
 長くても1ヶ月くらいだろうと思っていたので、3月になるまでお休みが続いたのには驚いた。
 もしかしたらもう営業再開することはないんじゃないかという漠然とした不安も感じかけていたくらいだ。
 でも哲さんは帰ってきた。千鶴子さんから連絡をもらったのは土曜日のことで、私はさきちゃんの家に向かう途中だった。
 その連絡を受けた私は駆け足でさきちゃんの家へと向かい、予定を変更して急いでふたりで碁会所へ行くことにした。
 ……そこには確かに哲さんがいた。そして挨拶をしながら店へと入る私たちに明るく返事を返してくれた。

 だけど、その姿は――。


「あれ、ちょっと痩せました?」
 さきちゃんは遠慮もなしにそんなことを訊いた。
 私も気になっていたことだ。前に会ったときよりも少しだけ頬がこけたように見える。
 ……痩せたというよりはやつれたといったほうが正確なんじゃないだろうか。どことなく顔色もよくない。
「お、分かるかい? 年甲斐もなくダイエットにハマっちまってよ。
 休みの間はずっと筋トレしてたんだよ、筋トレ。
 碁会所を開けるのも忘れるくらいにな! がっはっは!!」
 その笑い方はいつも通りの哲さんのように思える。
 だけど、私はその姿を見てもやっぱり漠然とした不安がかき消せないままだった。
 カウンターにいる千鶴子さんの表情も暗く沈んでるように見えるのは気のせいだろうか。

「いいじゃないですか、いくつになっても運動は大事だもん!
 うちのお父さんなんてお酒が好きなうえに運動不足で――」
「あの、哲さん! 私と打ってくれませんか!?」
 さきちゃんの言葉を遮って、私はそう申し入れた。
 哲さんもさきちゃんもきょとんとした顔をしている。いきなりどうしたんだと言わんばかりだ。
 だけど、哲さんはすぐに笑顔を浮かべて快諾してくれた。
「おう、構わんぜ。
 かさちゃんが俺と会わない間にどれだけ強くなったか試させてもらおうじゃねえか」
「はい。私は強くなりました。
 その力を今ここで試させてください!」
「ははは! そちらが試す側かい?
 いいねえ、その意気だぜ、かさちゃん」


 そうして始まった碁は哲さんとは初めての互先だった。
 置き石はなしにしても、せめて定先のほうがいいんじゃないかと言われたけれど、私はそれを固辞した。
 囲碁は盤上では黒番のほうが有利な分、互先のとき白番は6目半(中国ルールでは7目半)の陣地を初めからもらうことになる。
 そのルールをコミというが、コミなしで打つのが定先だ。これは段級位で言うと、1段階差の相手と打つときに適正なハンデとなる。
 置き碁も定先も固辞したということはつまり、対等な条件で一局打つということだ。
 ……別にそれで勝つ自信があるわけじゃない。
 だけど、ハンデをもらって打つのでは、私の力を十分に試したとは言えない気がしたのだ。
 ニギリの結果、私が白番になった。もちろん哲さん相手に白で打つのは、これが初めてのことだ。

 その一局は序盤は比較的穏やかな流れだった。お互い喧嘩もせず、着実に地を増やしていく。
 三隅は哲さんに取られたが、その分私は辺で地を稼いでいるから互角の形勢だ。
 途中厳しい打ち込みもあったが、軽やかにかわして互いに安定した形となった。
 それはまるで社交ダンスのよう。互いの息を合わせてステップを踏んでいく。
 しかし、中盤に差し掛かると哲さんの動きは激しくなり、私もそれに応えるように攻め立てていった。
 こうなるとこれはもうダンスなんかじゃない。ボクシングの殴り合いだ。激しい応酬が続く。
 とにかく攻めて攻めて攻めまくる。先に息切れしたほうが負けだ。
 そして勝負は終盤に差し掛かる。激しい荒らし合いの中で、一瞬の隙をついて私は勢いよく石音を立てた。
 ――哲さんの顔色が明らかに変わった。その一手こそがこの碁の勝敗を分ける急所だったのだ。

 そのまま終局し、整地をした結果、コミを入れて私の、――白の1目半勝ちだった。


 私自身も哲さんも、隣で観戦していたさきちゃんも静まり返ったまま動けなかった。
 言葉にならないというのはこのことか。息をするのも忘れてしまうほどに私は呆然としていた。