こういうときはいっそ、頭の中を一度からっぽにしてしまったほうがいい。お医者さんに前にそう教えてもらった。

 そんなことを考えながら、赤信号の横断歩道の前で大きく深呼吸をする。
 それから行きかう車の群れを見ていると、なんだか心がおちついてきた。
 しばらくして信号が青に変わる。左右の確認をしてから、手をあげて向かい側に渡る。
 すれ違ったサラリーマン風の男の人も疲れたような顔をしている気がした。私も他の人から見たら、あんな風に見えるのかな。
 横断歩道を渡り終わったあとも、なんとなくその背中を目で追ってしまった。


「あれ?」
 そのとき、視界のはじっこに大きなカバンを持ったおばあさんが立っているのが見えた。
 あのおばあさんは、私が深呼吸をしているときからずっとあそこにいた。つまり横断歩道の前で立ち止まっているのだ。
 それだけではなく、なんだか周りをきょろきょろしていて、渡るべきか渡らないべきか迷っているように見えた。

 どうしたんだろう、あのおばあさん。青信号に気がつかなかったのかな? それとも道に迷ってしまったのかな?
 声をかけようかとも思ったけれど、信号はすでに点滅し始めていて、引き返すわけにはいかなかった。
 私はそのまま何も気づかなかったかのように、家に続く道を歩き始めた。

 ……別にいいよね? こんな子供に急に話しかけられたって、おばあさんも困っちゃうかもしれないし。
 なんにもできないくせに、人の世話を焼きたがるのもよくないことだ。それは自己満足でしかない。
 自分にそう言い聞かせるようにしながら歩いていったけど、その足はまるでおもりがついたみたいだった。
 雨宮さんなら、こんなときどうするだろうか。困っているおばあさんをそのままにして、帰宅する?
 もしかしたら急いでどこかに向かわないといけないのかもしれない、そんなおばあさんをそのままにして?


 そんなわけ、ないじゃない。
 私は振り返って、元来た道を駆け足で戻っていく。
 信号はまだ赤だった。向かいにはまだ、あのおばあさんが困ったような顔をして立っている。
 私は信号の切り替わりを待つ。早く、速く、はやくッ!
 その時間がまるで永遠のように感じられた、――そのときだった。


「あの、すみません! 何かお困りでしょうか!?」
 雨宮さんの声だった。
「あら、私?」とおばあさん。
「は、はい! すみません、なんだか遠目に見て困っているように見えたので……」
「いえいえ、ただちょっとスーパーを探しているだけなのよ。
 私、このあたりに引っ越してきたばかりで道が分からなくって。この横断歩道を渡ればいいのかしら?」
「スーパーって、ササキスーパーですか?
 だったら向かいじゃなくて、この通りを真っ直ぐ向こうに進んだ先です。
 すぐそこなので、よかったら案内しましょうか?」
「あら、いいのかしら。ごめんなさいね」
「いえ! 私もよくお母さんと一緒に行くスーパーなので!」

 そんなやり取りのあと、雨宮さんとおばあさんは歩き出していった。
 気づけば信号は青に変わっていたけれど、私はただその様子を見守ることしかできなかった。
 このときは雨宮さんも、私の姿には気づいていないようだった。――私はただの傍観者だった。



 翌日の学校。教室にて。朝礼の時間。
 出席確認を終えると、杉田先生がみんなの前でこう言った。
「さて、ここで皆さんに少しお話があります。
 雨宮さん、黒板の前まで来てもらえますか?」
「わ、私ですか? す、すみません……」
 雨宮さんは突然の呼び出しに困惑したような表情をしながら、おずおずと黒板の前に進んだ。
 何か怒られるのかもしれない。そう思っているのだろう。だけど、私にはそうは思えなかった。
 雨宮さんならほめられることはあっても、しかられるようなことはないだろう。

「皆さんもよく聞いてください。実は今朝、あるおばあさんから学校に電話がありました。
 『昨日、そちらの学校の生徒さんに道案内をしていただいたので、お礼が言いたい』と。
 名札で学校と名前は分かったけれど、お礼を言いそびれてしまったそうなのです。
 雨宮さん、心当たりはありますか?」
「あ、はい……。す、すみません、そのときは急に恥ずかしくなって、案内したあとすぐ逃げ出しちゃって!」
「いえいえ、おばあさんはとても感謝していましたよ。心優しい女の子に助けてもらって感激したと。
 先生も誇らしい気持ちです。雨宮さん、少し名札を触らせてもらってもいいですか?」
 先生はそう言うと、教壇の上にある紙から何かをはがして、雨宮さんの名札にはりつけた。
 それはどうやら星型のシールのようだった。名前の横に小さく、それでいて煌めく星があった。

「あ、その……、すみません……」
「ふふっ、こういうときは胸を張っていいんですよ、雨宮さん」
「あ、すみま――、ありがとうございます!」
 そんな彼女の声とともに、教室中に拍手の音が鳴り響いた。クラスのみんなが雨宮さんをほめたたえているのだ。
「えらいよ、雨宮さん!」
「よくやったな、雨宮!」
「かしこいうえにやさしいんだね! 今度勉強おしえてよ!」
 歓声にも似た声をかけられて、雨宮さんは照れくさそうに笑っていた。
 そんな彼女はとても輝いているように見えてまぶしかった。
「皆さんも雨宮さんをみならって、困っている人にはやさしくしてくださいね。
 ただし、どうにもならないときは他の大人に頼るように」
「「「はーい!!」」」

 ……私も、雨宮さんみたいな煌めく星になりたいと思った。


 午前の授業が終わって、待ちに待った給食の時間がやってきた。
 『待ちに待った』というのは何も私が食いしん坊だからではない。……いや、今日のおかずは私の好物の肉じゃがだけど!
 今日の私は給食当番。しかも、白いごはんの担当だ。白いごはんはいつも何杯かあまるようになっている。
 それを最初から大盛りにしておけば、おかわりの手間もいらないし、食べるのが遅い子だとおかわりしたくても、もうごはんがないということがこれまでにも何度かあった。
 それなら最初の盛りつけから上手く調整しておけばいいんだ。これで食いしん坊の男の子たちも喜ぶはず!
 ふっふっふ、これはクラスのみんなにいいところを見せるチャンスだね! 私だって、やればできるってことを見せてやる!

「よーし、みんなー! 今日は大盛り特別サービスだよ!
 たくさん食べたい子は私に言って! お腹いっぱいになるくらい盛りつけるから!」
 私が白いしゃもじをかかげて、そう宣言するとやっぱり男の子たちは大喜びだった。
「おおーっ!」
「いいのかよ、やったぜ!」
 だけど、まずは先生の分の給食を用意しなければいけない。
 次に給食当番以外の生徒の分。最後に給食当番の分と決まっている。
「ずいぶんはりきっていますね、早川さん」
「ふっふっふ、まかせてよ、先生!」
 私はそう言いながら、すでにおかずとスープが盛りつけられた先生のトレーに、白いごはんをよそったお茶碗を乗せる。
 先生はそのあと牛乳ビンを手に取って、自分の席についた。