「かさねちゃんって雨宮って名字だから雨が好きなのかと思った」
梅雨の時期になると、よくそう言われる。友達にも先生にも、しまいには名字の違う親戚にもだ。
だけど、そんなわけない。もしかしたら雨が好きな人もいるのかもしれないけど、少なくとも私はじめじめとした季節は嫌いだ。
「雨止みそうにないね、かさちゃん。
お天気のお姉さんは夜までは降らないって言ってたのに」
雑居ビルで雨宿りする私の隣でそう呟いたのは、同じクラスの早川さきちゃんだ。
彼女は私と同じ小学2年生で、クラスのムードメーカー的存在だ。
ある日の昼休みにひとりで読書していた私にも、明るく話しかけてくれた。
私の「雨宮」という名字もいい名前だって褒めてくれて嬉しかった。
それから近所に住んでることもあって、一緒に登下校をする友達になった。
1年生の頃にはなんの接点もなかったから、まだ2ヶ月程度の付き合いしかないけれど、私はすぐに彼女のことが大好きになった。
彼女と並んでコンクリートの階段に座っていた私はその横顔をそっと眺めた。
その表情は暇そうだったけど、どことなくこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
雨は嫌いだけど、こうしてさきちゃんとのんびりお話しする時間ができたと思うと、ほんの少しだけ天の神様に感謝したくなった。
「にわか雨ってやつじゃないかな。多分すぐ止むよ」
私はそう応えたけれど、本音を言えばこのまましばらくさきちゃんと一緒にいたかった。
だけど、学校帰りに急にどしゃ降りの雨が降ってきたものだから、傘も持っていなかった私たちは全身ずぶ濡れになっていた。
お互いハンカチは持っていたけれど、そんなんじゃ全然拭き足りなくて、髪からは雨水がぽたぽたと滴っていた。
それにさきちゃんはボブカットで短い髪型だけど、私の髪はハーフアップでまとめているから余計に拭くのは大変だった。
早く身体を温めないと風邪をひいてしまいそうだ。今日に限ってお互いの両親も留守にしているから、迎えにも来てもらえない。
まさに万事休すというやつだ。本当についていなかった。
「うーん、でももうちょっと待って止みそうになかったら走って帰ったほうがよくない?
もうすっかり身体が冷えちゃって。早くおうちでお風呂に入りたいよ。……へっけちゅ!」
「え、今のくしゃみ……?」
さきちゃんのくしゃみは、なんだかへんてこだった。
ちょっとかわいらしかったけど、彼女の身体が心配になってしまう。
確かにさきちゃんの言う通り、あと少し待っても雨が止まないようなら、急いで帰るほうが正しい選択なのだろう。
そう思ったとき、階段の上のほうから声をかけられた。
「あらあら、大変。なんだかかわいらしい声が聞こえると思ったら」
振り返って見上げると、そこにはお団子頭の優しそうなおばあさんがいた。
背中は少し曲がっていて、髪もほとんど白髪だったから、私のおばあちゃんより少し年上のように見えた。
この雑居ビルには人は住んでない様子だったので、きっとどこかのお店の人なんだろうなと思った。
「あなたたち、この近くの学校の子かしら?」
「す、すみません……! こんなところにいたらお邪魔ですよね……!
ほら、もう行こうよ、さきちゃん!」
私はさきちゃんにそう促して慌てて立ち上がったけど、おばあさんは手を振って「いいのよ、いいのよ」と微笑んだ。
さきちゃんはぼーっとしたまま、そのおばあさんを見つめていた。
「それより、そんなずぶ濡れのまんまじゃ風邪をひいてしまうわ。
よかったら上がっていきなさい。タオルくらいは用意してあるから」
「え、でも……」
私は遠慮するような気持ちと、知らない大人についていってはいけないという警戒心で、その誘いを断るつもりだった。
だけど、さきちゃんは私と違って素直な反応だった。
「いいんですか!? それじゃあお邪魔します!」
こういうとき天真爛漫な彼女が傍にいてくれると助かる。
このおばあさんはきっと純粋に私たちのことを心配してくれているのだろうし、ここで断ってしまうほうが失礼に当たるような気がしたからだ。
私たちはおばあさんに招かれて2階への階段を上り、ガラス張りの扉の向こうに通された。
その瞬間、嫌な臭いと煙が漂ってくるのを感じた。
部屋の中には木製の長机がいくつか並べられており、その上には木の板のようなものが等間隔で並べられていた。
また、その木の板を挟むように向かい合ってパイプ椅子も並べられていた。
それにそこに座っているのはおじさん、あるいはおじいさんと言ってもいい人ばかりだった。
私は初め喫茶店に連れてこられたんだと思ったけれど、どうやらその読みは違っていたようだ。
「どうぞどうぞ、座ってちょうだい。
タバコ臭くて悪いけれど、そっちの隅っこなら換気扇も回っているから」
おばあさんはそう言って、カウンターの裏側の棚を開けてごそごそと何かを探し始めた。
私は濡れた身体のまま座っていいのだろうかと躊躇したが、悩んでいるうちにさきちゃんはすでにランドセルを床に置いて座っていたのでそれに倣うことにした。
……それにしても、目の前にあるこの木の板はなんだろうか。
よく見ると、上面にはいくつもの黒色の直線が方眼紙みたいに縦横に交わって描かれていた。
こういうのって「碁盤の目」って言うんだっけ。ああ、それが答えか。
さらにその盤の上にはふたつの木製の入れ物があったが、おそらくその中には黒石と白石がそれぞれ詰められているのだろう。
私はおじいちゃんの家に遊びに行ったとき、五目並べで遊んでもらったことを思い出していた。
本当はこの盤は「囲碁」というゲームをするためのものだとも教えてもらった。
しばらくしておばあさんがタオルを持ってきて、私たちの身体を頭から拭いてくれた。
私たちはそこまでしてもらうほど子供じゃないし、少し照れ臭かったけど、くしゃくしゃと心地よかったのでされるがままにしておいた。
「ほれ、これくらいでいいかね。温かいお茶も淹れてあげようかね。
お茶菓子もあるから、もう少しここで雨宿りしていきなさいな」
「あ、すみません……、お願いします」
「ありがとうございます!」
私はつい「すみません」と言ってしまう。本当はこういうときは、さきちゃんの言うように「ありがとう」のほうがいいんだろう。
分かっていても一度口癖になってしまった言葉遣いはなかなか直らないものだ。
おばあさんに淹れてもらったお茶(――多分緑茶だ)で一服すると、さきちゃんはすっかり元気になってお店の中を歩き回っていた。
私はと言うと座ったまま辺りを見回して、壁に掛け軸が掛けられていることに気が付いた。
そこには迫力のある筆文字で「竜神 梶原哲」と書かれていた。
……もしかして、ここ怖いお店だったりする? お父さんが観ていた映画の中で、借金の取り立て屋さんの事務所にこんな掛け軸があったような気がする。
急に不安になって、さきちゃんのほうを見ると、彼女は盤を挟んで向かい合っているおじいさんたちの様子を窺っていた。
梅雨の時期になると、よくそう言われる。友達にも先生にも、しまいには名字の違う親戚にもだ。
だけど、そんなわけない。もしかしたら雨が好きな人もいるのかもしれないけど、少なくとも私はじめじめとした季節は嫌いだ。
「雨止みそうにないね、かさちゃん。
お天気のお姉さんは夜までは降らないって言ってたのに」
雑居ビルで雨宿りする私の隣でそう呟いたのは、同じクラスの早川さきちゃんだ。
彼女は私と同じ小学2年生で、クラスのムードメーカー的存在だ。
ある日の昼休みにひとりで読書していた私にも、明るく話しかけてくれた。
私の「雨宮」という名字もいい名前だって褒めてくれて嬉しかった。
それから近所に住んでることもあって、一緒に登下校をする友達になった。
1年生の頃にはなんの接点もなかったから、まだ2ヶ月程度の付き合いしかないけれど、私はすぐに彼女のことが大好きになった。
彼女と並んでコンクリートの階段に座っていた私はその横顔をそっと眺めた。
その表情は暇そうだったけど、どことなくこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
雨は嫌いだけど、こうしてさきちゃんとのんびりお話しする時間ができたと思うと、ほんの少しだけ天の神様に感謝したくなった。
「にわか雨ってやつじゃないかな。多分すぐ止むよ」
私はそう応えたけれど、本音を言えばこのまましばらくさきちゃんと一緒にいたかった。
だけど、学校帰りに急にどしゃ降りの雨が降ってきたものだから、傘も持っていなかった私たちは全身ずぶ濡れになっていた。
お互いハンカチは持っていたけれど、そんなんじゃ全然拭き足りなくて、髪からは雨水がぽたぽたと滴っていた。
それにさきちゃんはボブカットで短い髪型だけど、私の髪はハーフアップでまとめているから余計に拭くのは大変だった。
早く身体を温めないと風邪をひいてしまいそうだ。今日に限ってお互いの両親も留守にしているから、迎えにも来てもらえない。
まさに万事休すというやつだ。本当についていなかった。
「うーん、でももうちょっと待って止みそうになかったら走って帰ったほうがよくない?
もうすっかり身体が冷えちゃって。早くおうちでお風呂に入りたいよ。……へっけちゅ!」
「え、今のくしゃみ……?」
さきちゃんのくしゃみは、なんだかへんてこだった。
ちょっとかわいらしかったけど、彼女の身体が心配になってしまう。
確かにさきちゃんの言う通り、あと少し待っても雨が止まないようなら、急いで帰るほうが正しい選択なのだろう。
そう思ったとき、階段の上のほうから声をかけられた。
「あらあら、大変。なんだかかわいらしい声が聞こえると思ったら」
振り返って見上げると、そこにはお団子頭の優しそうなおばあさんがいた。
背中は少し曲がっていて、髪もほとんど白髪だったから、私のおばあちゃんより少し年上のように見えた。
この雑居ビルには人は住んでない様子だったので、きっとどこかのお店の人なんだろうなと思った。
「あなたたち、この近くの学校の子かしら?」
「す、すみません……! こんなところにいたらお邪魔ですよね……!
ほら、もう行こうよ、さきちゃん!」
私はさきちゃんにそう促して慌てて立ち上がったけど、おばあさんは手を振って「いいのよ、いいのよ」と微笑んだ。
さきちゃんはぼーっとしたまま、そのおばあさんを見つめていた。
「それより、そんなずぶ濡れのまんまじゃ風邪をひいてしまうわ。
よかったら上がっていきなさい。タオルくらいは用意してあるから」
「え、でも……」
私は遠慮するような気持ちと、知らない大人についていってはいけないという警戒心で、その誘いを断るつもりだった。
だけど、さきちゃんは私と違って素直な反応だった。
「いいんですか!? それじゃあお邪魔します!」
こういうとき天真爛漫な彼女が傍にいてくれると助かる。
このおばあさんはきっと純粋に私たちのことを心配してくれているのだろうし、ここで断ってしまうほうが失礼に当たるような気がしたからだ。
私たちはおばあさんに招かれて2階への階段を上り、ガラス張りの扉の向こうに通された。
その瞬間、嫌な臭いと煙が漂ってくるのを感じた。
部屋の中には木製の長机がいくつか並べられており、その上には木の板のようなものが等間隔で並べられていた。
また、その木の板を挟むように向かい合ってパイプ椅子も並べられていた。
それにそこに座っているのはおじさん、あるいはおじいさんと言ってもいい人ばかりだった。
私は初め喫茶店に連れてこられたんだと思ったけれど、どうやらその読みは違っていたようだ。
「どうぞどうぞ、座ってちょうだい。
タバコ臭くて悪いけれど、そっちの隅っこなら換気扇も回っているから」
おばあさんはそう言って、カウンターの裏側の棚を開けてごそごそと何かを探し始めた。
私は濡れた身体のまま座っていいのだろうかと躊躇したが、悩んでいるうちにさきちゃんはすでにランドセルを床に置いて座っていたのでそれに倣うことにした。
……それにしても、目の前にあるこの木の板はなんだろうか。
よく見ると、上面にはいくつもの黒色の直線が方眼紙みたいに縦横に交わって描かれていた。
こういうのって「碁盤の目」って言うんだっけ。ああ、それが答えか。
さらにその盤の上にはふたつの木製の入れ物があったが、おそらくその中には黒石と白石がそれぞれ詰められているのだろう。
私はおじいちゃんの家に遊びに行ったとき、五目並べで遊んでもらったことを思い出していた。
本当はこの盤は「囲碁」というゲームをするためのものだとも教えてもらった。
しばらくしておばあさんがタオルを持ってきて、私たちの身体を頭から拭いてくれた。
私たちはそこまでしてもらうほど子供じゃないし、少し照れ臭かったけど、くしゃくしゃと心地よかったのでされるがままにしておいた。
「ほれ、これくらいでいいかね。温かいお茶も淹れてあげようかね。
お茶菓子もあるから、もう少しここで雨宿りしていきなさいな」
「あ、すみません……、お願いします」
「ありがとうございます!」
私はつい「すみません」と言ってしまう。本当はこういうときは、さきちゃんの言うように「ありがとう」のほうがいいんだろう。
分かっていても一度口癖になってしまった言葉遣いはなかなか直らないものだ。
おばあさんに淹れてもらったお茶(――多分緑茶だ)で一服すると、さきちゃんはすっかり元気になってお店の中を歩き回っていた。
私はと言うと座ったまま辺りを見回して、壁に掛け軸が掛けられていることに気が付いた。
そこには迫力のある筆文字で「竜神 梶原哲」と書かれていた。
……もしかして、ここ怖いお店だったりする? お父さんが観ていた映画の中で、借金の取り立て屋さんの事務所にこんな掛け軸があったような気がする。
急に不安になって、さきちゃんのほうを見ると、彼女は盤を挟んで向かい合っているおじいさんたちの様子を窺っていた。