「それじゃ、千鶴子さん。今日はごちそうさまでした!」
「ご、ごちそうさまでした……」
「いえいえ、いいのよ。
 ふたりに話を聞いてもらえて、私も心が軽くなったわ。
 また何か進展があれば連絡するからね」
 そんな風にやり取りしたあと、さきちゃんは千鶴子さんを家まで送っていこうとしたけれど、千鶴子さんはここで大丈夫だからとそれを断った。
 そうなると、千鶴子さんの家は私たちの家とは反対方向らしいから、ここでお別れだ。
 私とさきちゃんは千鶴子さんに別れの挨拶とお辞儀をして歩き出した。しかし、その背後から引き止めるような声をかけられた。

「さきちゃん、かさちゃん」
「「はい」」
 振り返ると、そこには深々とこちらに頭を下げた千鶴子さんの姿があった。
「あの人に、幸せな最期を与えてくれてありがとうございました……」
 そのまま千鶴子さんは顔を上げることはなかった。――何も、かける言葉は見つからなかった。
 私たちは曖昧に笑うと、もう一度会釈をして今度こそ帰路についた。


 帰り道、さきちゃんはずっと黙っていた。並んで歩いているときに彼女がこれだけ長い間沈黙を続けるのは珍しいことだ。
 かく言う私も何を話していいのかまったく分からなかった。だけど、それでいいのかもしれない。
 言葉を交わすだけが想いを通じ合わせる方法というわけではないのだから。
 私もこのまましばらく沈黙の時間に身を委ねることにしよう……。きっと今の私たちにはそれが必要なのだ――。


「かさちゃん!!」
「え、あ、はい!? なになに、どうしたの、さきちゃん!?」
「……いや、かさちゃんこそ。そんな驚く?」
「ご、ごめん、考え事してて……。それで何?」

 ……前言撤回。やっぱりさきちゃんに沈黙は似合わない。
 私が問い返すと、さきちゃんは曲がり角を指差しながら言った。
「ちょっと寄り道していかない?
 久しぶりに公園でブランコにでも乗って遊ぼうよ」
 空はもうすっかり青黒く染まっている。
 中学生になって少し門限は伸びたけれど、早く帰らないとお母さんに心配されてしまう。
 それに……、この年になってブランコで遊ぶだなんてちょっぴり恥ずかしい。
 私たちもう中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは「ふたりきりでゆっくり話がしたい」ということだと直感した。
 それなら答えは決まっている。お母さんには「少し遅くなる」とメッセージを送っておけばいい。
「分かった。向こうの公園だね」
 私はそう了承すると、さきちゃんの手を取って夜の帳に包まれた道を再び歩き出した。


 見慣れたはずの公園も、こうして夜に訪れるとどこか別世界の景色のように感じられた。
 街灯の明かりがぼんやりと遊具たちを照らし出している。
 私たちはその中のひとつのブランコにそれぞれ腰かけると、ゆっくりと揺れ始めた。
 静寂の闇夜に金属の軋む音が響き渡る。一定のリズムで繰り返されるその音と、時折吹き抜ける夜風がなんだか心地よかった。
 ただ、こんな姿を見知らぬ通行人に見られたら非行少女だと思われてしまうかもしれない。今のうちに言い訳を考えておこうかな。

 さきちゃんは、中学校でできた友達の話とか学校の勉強が大変だとか他愛ない話をしてくれた。
 ……かと思ったら、体育の話になってテンションが上がったのか突然立ちこぎを始めて加速すると、なんとそのまま前に向かって飛んだ。
「よーし、着地成功!」
「うわっ!? 何してんの、危ないでしょ!」
「えー、平気だって、これくらい」
 そう言ってさきちゃんはそのまま平均台に上がって夜空に向かって手を伸ばし始めた。
 まったくもって危なっかしいったらありゃしない。私は思わず立ち上がり、彼女の元へと駆け寄った。


「今度は何? 転ぶからやめたほうがいいよ」
「うーん、ちょっと待って。あともうちょっとだから」
 もうちょっと? 何が?
 さきちゃんは必死に背伸びをしながら、何かを掴み取ろうとしているが、彼女の頭上には何も見当たらない。
 変わった子だとは思っていたけれど、ここまで突拍子もない行動をとるのは初めてのことだった。
 それでも何か真剣な眼差しをしているので止める気にはなれず、私は彼女が転んだときに支えられるような場所で見守ることにした。

「何をしようとしているの?」
「お星様!」
「はい?」
「だーかーらー、私は星を掴もうとしてるの!
 ……うわっとっと!!」
 その直後、さきちゃんの身体が大きく傾いた。
 彼女はなんとか平均台に踏み留まろうとしたようだけれど、結局はバランスを崩してしまい、私の方へ倒れこんできた。
 慌てて彼女を抱き留めたが、その勢いのまま地面に尻餅をついてしまった。

「ごめーん、かさちゃん……」
「ほら! だから言ったでしょうが!?」
「でもさー、私小学生の頃に比べたら大きくなったと思わない?」
「……はあ? そりゃ当たり前でしょ。
 さっきから何言ってんのよ、あんた」
 訳も分からず呆れていると、さきちゃんは何事もなかったかのようにブランコに座り直し、おいでおいでと私に向かって手を振った。
 私は溜息をつきながらも、彼女に促されるまま隣に座り再び揺れ始めることにした。

「なんで分かんないかなー。
 だから大きくなったから、星に手が届くかもしれないって話だよ」
「馬鹿ね、星に手が届くわけないじゃない」
「うーん、届きそうな気がするけどなあ」
「あのねえ――」
 ……いや、これは何かのたとえ話なんだろうか。
 その真意を掴み切れずに困っていると、さきちゃんは今まで見たことないような大人びた表情で口を開いた。


「私ね、プロになろうと思うの」
「プロ? なんのプロ?」
「あはは、囲碁のプロに決まってんじゃん」
 私たちまだ中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは決して茶化していい話ではないと直感した。
 それ故に私はただ黙って彼女の話の続きを待つことにした。
「……私も私なりにさ、いろいろ考えたんだよ。哲さんがいなくなって、これから先どうするべきなのかなって。
 中学で囲碁部を立ち上げたりするのもいいかもしれないけど、目標もなく碁を続けても哲さんは喜ばないんじゃないかなって。
 きっと誰よりも上を目指して強くなることこそが哲さんへの何よりの供養になるんだと思う」
「だからっていきなりプロなんて……」
「いきなりじゃないよ。初めは院生。
 前に話したでしょ? 少年少女囲碁大会の決勝で戦った子が昔、院生っていうプロの養成所に通う生徒だったって。
 実は今でもときどきその子とやり取りしてて、話を聞いてるうちに強い子たちに囲まれて頑張るのも面白そうだなって思ったの。
 でも哲さんの碁会所で過ごす時間も大切だったから、どうしようかなって悩んでたんだ。
 ……だからいきなりじゃないよ。ふたつの意味でね」
「……そんなこと考えてたんだ」

 急に、彼女が遠い存在になったように感じた。さっきまで公園の遊具で危なっかしい真似をしていた子と同一人物だとは思えない。