この結果を、私は一体どう考えるべきなのだろうか。偶然? 哲さんが手加減をしてくれた?
 そのどちらでもないことは他ならぬ哲さんの様子が物語っていた。
 興奮で強張った顔で指先から全身まで震えている。そして言葉を絞り出すように口から吐き出した。
「ようやってくれたな……、俺の完敗だ……」
 それに私は苦笑いで返すつもりだった。たった1回勝ったくらいじゃ哲さんを上回ったことにはならないのだから大袈裟だと。
 だけど、それが許される雰囲気ではないことに、私はすぐに気付かされたのだ。

「本当に、……ひっく。ようやってくれたなあ……。
 さきちゃんが、かさちゃんが、ふたりがここまで強くなってくれるなんてよ。
 ううっ、こんな日が来るなんて思っちゃいなかった……。
 お前たちの才能を信じなかったわけじゃない……。
 だけど、俺がこの目でふたりの成長を見届けることができるなんてよぉ……。
 これで……、これでもう……、思い残すことなんてねえわなあ……」
「哲、さん……?」
 哲さんは大粒の涙を流していた。大人の男性がお葬式以外で涙をこぼすところを私は初めて見た。
 どうしてそこまで……。その問いかけが喉まで出かかって息苦しくなった。
 おそらく私はもう、あるいはずっと前からその答えにたどり着いている。だけど、気が付かない振りをしているのだ。
 まるでそれを見て見ぬ振りをすれば、なかったことになるかのように。

 しかし、時はそんな甘えを許さなかった。
 さらにその約2ヶ月後、私たちが中学校生活に慣れかけた頃、容赦なく真相を突き付けられた。


 ――哲さんが肝臓癌により、この世を去ったのだ。



「あの人と結婚したとき、お互いもう30代後半だったから。私たち夫婦には子供がいないのよ。
 だから、さきちゃんとかさちゃんの成長がまるで我が子のように楽しみだった。私もあの人もね……。
 だからこそ、あの人はあなたたちに心配をかけたくなくて、癌のことは黙っていてくれって私にお願いしてきたのよ」
 また突然碁会所のお休みがしばらくあって不思議に思っていたところ、千鶴子さんからそんな電話があった。
 その日はゴールデンウィークで学校もお休みだったから、自分の家にいた私はすぐにさきちゃんに連絡をした。
 そして話し合った結果、私とさきちゃんと千鶴子さんの3人で直接会って話をしようということになった。
 千鶴子さんも電話越しにそれを了承してくれて、私たちは近くの喫茶店に集まったのだ。

「……それじゃあ、正月明けにはもう……?」
 私の問いかけに千鶴子さんは静かに首を縦に振った。去年の末、大晦日を向かえようかという夜に哲さんは突然お腹に激しい痛みを感じて病院に緊急搬送されたのだという。
 検査をした結果、肝臓からの出血が確認され止血のための手術をし一命は取り留めたものの、その後の精密検査により肝臓癌の末期に至っていることが判明した。
 肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、癌になっても初期にはほとんど自覚症状が出ない、……という話を何かの本で読んだような気がする。
 気付いたときにはもう手遅れだったのだろう。それから約2ヶ月間はそのまま入院し治療を続けることになったそうだ。
 碁会所をお休みしていたのは、そういうわけだったのか……。


「でもね、あの人が悪いんですよ。自業自得だわ。
 もう何年も前からお酒もタバコもすぐにやめるようにお医者さんに言われていたのにやめられなくって」
「……? 哲さん、タバコ吸ってたんですか?」
 千鶴子さんは突き放すような言い方をしたけれど、それはきっと自分の心を守るためにあえてそうしているのだと思った。
 人生の伴侶を再び喪い、つらい思いをしているに違いない。心中察するに余りある。
 気になるのは哲さんがタバコを吸っていたというところだ。
 確かに最初に会ったとき、灰皿にタバコの吸い殻が山ほどあったのは覚えている。
 だけど、それ以来哲さんがタバコを吸っている姿はほとんど見たことがない。だから私はてっきり禁煙しているのだと思っていたのだけど……。

「あなたたちの前で吸うのをやめていただけよ。
 小さい子供にタバコの煙を吸わせるわけにはいかないってね。
 いつもあなたたちが帰るとすぐにぷかぷか吸い始めていたわよ」
「そう、なんだ……」
 さきちゃんはぼそりとそう呟き、物思いに耽っている様子だった。
 私も胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。それだけ哲さんは私たちのことを大切に思っていたのだ。
 改めて哲さんの心境を慮ってみると、何故私たちの成長にあれほど喜んでいたのかも分かる気がする。………………。


「でも考えてみたら、その分タバコを吸う本数は減っていたから、あなたたちのおかげで寿命が延びたのね。
 ……本当のことを言えば、入院を続けていればもっと長生きできたのでしょうけれど。
 お医者さんに持ってあと数ヶ月の余命だと申告されて、もう回復の見込みがないと分かると自宅療養をする道を選んだの。
 最期まであの碁会所であなたたちの成長を見守りたかったから……」
 それはつまり私たちのおかげで伸びた寿命の分、私たちの成長を見届けることができたということで……。
 もしその時間がなければ、私は哲さんに互先で勝つことはできなかったかもしれない。


「あの、すみません。こんなときに訊くことじゃないかもしれませんけど――」
 一瞬、躊躇った。悲しみの底にいる千鶴子さんに今この場で決断を迫るような質問をしていいのだろうかと。
 だけど、この機会を逃したら次にいつ千鶴子さんに会えるのか分からない。ここで訊くしかないと思った。
「あの碁会所はどうなっちゃうんですか? 哲さんがいなくなったらあそこは……」
 碁会所の営業を続けることは難しいだろう。でも、せめて哲さんが大事にしてきたあの場所は何かの形で残せないものだろうか。
 私はすがるような想いで千鶴子さんに問いかけた。
「それが悩んでいるところなのよ。私は囲碁はさっぱり分からないものですから。
 あの人は『碁盤の貸し出せる喫茶店ってことにでもすりゃいいじゃねえか』って笑ってましたけど。
 それにしたってすぐに営業開始できるものじゃありませんし。手続きとか発注とかいろいろあるのよ」
「そう、ですよね……」
 困ったような表情を浮かべながらそう言った千鶴子さんに、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「どんな形であれ、あの場所が残るなら私たちはまた遊びに行きますよ! ね、かさちゃん!」
「……うん、そうだね」
 さきちゃんの明るさのおかげで、その場はそれ以上暗い雰囲気にはならなかった。
「ありがとう、ふたりとも……」
 千鶴子さんがそう柔らかく微笑むと、そのあとは碁会所での思い出話に花を咲かせることとなった。


 それからお店を出るとき、お会計は千鶴子さんがすべて払ってくれることになった。
 私たちも自分が飲んだコーヒーの分くらいは払えるけれど、そのご厚意に甘えさせてもらうことにした。
 さきちゃんはお店を出ると大きく伸びをした。身体が凝ってそうしたというより、そうやって気持ちを切り替えているのだろう。