屋上への扉を開けるとひんやりとした風が首筋を通った。
 空は今にも降り出しそうな真っ黒な雨雲が太陽を隠している。秋雨前線の影響で少し前からこんな感じの空模様だ。そのせいか昼休みはいつも盛況だという校舎の屋上だが、今日は誰もいないようだ。
 転落防止用の金網から下をのぞくと中庭が見えた。中庭には週末に控えた文化祭で行われるステージの骨組みと来賓用のテントが設置されている。天気予報曰く、文化祭当日は曇り、ときどき雨というぱっとしない天気らしい。
 俺は自分の心を映し出したような空を見上げ、透明の炭酸水を一口飲む。しかし朝に買ったそれはすでに炭酸が抜けていた。
 隼人から話を聞いたあの日。
家に帰って動画サイトで高校の名前とともに「いじめ」というワードを含めて検索すると当時のニュース映像が見つかった。
 複数のマイクを突き付けられた白髪頭の男性は臆する様子もなく、報道陣の前できっぱりと言い放った。
「いじめの事実はありません。彼女は事故で亡くなったのです」
 彼の名前は金子進。市の教育委員長だ。
 この人が、伊藤さんが殺そうとしていた最後の一人。
 かつて伊藤さんは殺人の理由をこう語っていた。
『目には目を。殺人には殺人を』
 そして、教室で隼人たち、森さんのクラスメイトに向かって叫んだ言葉。
『桃子を殺したのはお前たちだ!』
 つまり。
 森桃子をいじめていた同級生、夏目ありさ。
 森桃子の担任であり、いじめを見逃した担任教師、岡田雄介。
 そして、森桃子へのいじめそのものをなかったことにした教育委員長、金子進。
 三人の共通点は森桃子。
 そして、伊藤さんが三人を殺したい理由もまた、森桃子だった。
「森桃子……」
「桃子がどうしたの?」
「うわっ?!」
 突然背後から女子の声が聞こえ、慌てて振り返ると視界の少し下に見知った眼鏡女子が立っていた。
「山口さん……?」
「このさぼり野郎っ!」
 山口さんは突然ジャンプし、俺の頭を思い切りはたく。小柄な体からは想像もつかない威力と衝撃に、目の周りにくるくると星が瞬く。これをくらっても平気な顔をしている阿野はいったい……。
「まったく! お前たちが言い出した実験にもかかわらず、実験だけ参加してレポートまとめに参加しないなんて! 化学部部長として許さんぞ!」
 仁王立ちで腕を組み、踏ん反りかえる山口さん。山口さんって部長だったんだ……。
「ごめん。レポートは二人でやってくれたの?」
「私はしてない」
「え?」
「阿野に全部やらせた。今回のことで私は実験は好きだけど、レポートをまとめたりするのは苦手だって分かった」
「えぇ……」
 山口さんのわがままっぷりと、阿野の不憫さがなんだか懐かしい。
 ん? っていうか。
「山口さん、いま桃子って、森桃子の知ってるの?」
「別に。クラスも違うし。図書室で会ってたまに話す程度」
「そうなんだ」
 山口さんは金網に背中を預け、購買で買ったであろうチョコチップパンの封を開ける。
「仲が良かったってわけじゃないけど。私が書いたミステリーを読んでみたいって言ってくれた。ただそれだけ。結局読まずじまいだったけど」
 そう言って山口さんはパンをむしゃりとかじる。山口さんはここではない、どこか遠くを見ているようだった。
 少しの沈黙。俺は山口さんに倣って金網に背中を預ける。カシャンと金網が鳴り、また静かになったころ、俺は口を開いた。
「森さんっていじめられてたの?」
「ひららいよ。ほうみないし(知らないよ。興味ないし)」
 山口さんはリスのように頬っぺたいっぱいに含んだパンをどこからともなく取り出したミルクティーで流し込む。チョコとミルクティー。見ているだけで胃がもたれそうな組み合わせだ。
「てか、どうして知りたいの?」
「それは……」
「美優のため?」
「えっ」
 突然伊藤さんの名前を出され、心臓が跳ね上がる。
「……もしかして、伊藤さんから聞いた?」
「なにも。でも、美優が桃子と友達ってことは、阿野の家に泊まった日に教えてもらった。お風呂入ってるときに、さっきの図書室の話とかして」
「そ、そうなんだ」
 お風呂と聞いて、一瞬その場面を想像しそうになってすぐにやめた。
 思えばあの日の夜、伊藤さんは山口さんに対し以前に比べて心を開いていた様子だった。それまでは隼人たちに対するような攻撃的な態度だったが、山口さんの話を聞いて、みんなとは違うと思ったのかな。
 阿野に対しては最初から優しい態度だった。それはきっと一年生だから。去年、学校にいなかったから。
 そして俺も同じ理由だろう。
俺は転校生だから。
 数か月前、伊藤さんが俺だけに朝のあいさつをしてきたことを、クラスの男子たちに特別扱いだとからかわれ、まんざらでもなくニヤついていた自分がどうしようもなく情けない。
 伊藤さんの中では、どこまでも森桃子が基準なんだ。
 森桃子とはどういう人物なのか。
 二人の関係性は。
 そして、モヤモヤとするこの気持ちはなんなのか。
 するとガシャン、と金網を押し、勢いよく前に飛び出した山口さんがこちらを振り向く。
「とにかく、桃子が死んだ理由を知りたいなら行こうか」
「行こうって、どこへ?」
「一にも二にもまずは現場で捜査! ミステリーの基本だよ」
 山口さんは眼鏡をキラリと光らせると「放課後に校門前集合ね!」と屋上から去っていった。
 予測不能。自由奔放。だけど、そんな山口さんと話をしているうちにいつしか長い間沈んでいた心が軽くなっていた。
『山口先輩ってなんかめっちゃ生きてるって感じしませんか?』
 山口さんを語る阿野の横顔を思い出す。なんだか阿野の気持ちが少しだけ分かった気がした。


 放課後。
山口さんに案内され、森桃子が転落した現場へやってきた。
「ここ?」
「そう、ここ」
 山口さんが立ち止まった場所は橋の真ん中。振り返ると建物の隙間から俺たちが通う高校の校舎から見えた。反対側は隣町。比較的落ち着いた雰囲気の町で、町のほとんどが住宅街だ。大きな建物がないので、住宅街の向こうにある大学病院のビルがここからでもよく見える。
町境の大きな川に掛かる橋は交通量が多く、たくさんの車が行きかっている。その向こう。もう一本の橋の上を銀色の電車が激しい音とともに通り過ぎる。あの電車に乗って俺はいつも登校し、下校している。そんな場所で、人が死んでいたなんて。
「ここの柵を超えて、落ちちゃったんだって」
 山口さんの足元には白いマーガレットの花束が置かれていた。花弁は白く、生き生きとしている。ここに置かれてまだ時間が経っていないようだ。
 山口さんと一緒に身を乗り出し、橋の下をのぞくと地上までおよそ十メートル。川は近頃の雨の影響で茶色く濁り、勢いも強い。いつか見たキラキラと輝く綺麗な川面とは大違いだ。
この条件では確実に死ぬとは言えない。飛び降り自殺をする場合は最低でも高さが二十メートルは必要で、落下地点はコンクリートでなければならない。実際に海外では三十メートル近いビルから植木に落ち、軽い骨折で済んだという事例もある。
ただし、落下地点が水面であれば着水時の姿勢や水底の深さによっては死に至る場合もあるだろう。水泳の競技種目である飛び込みも高さはここと同じ十メートルだが選手は着水時や入水後に水底にあたらないようにしている。
ここは自殺をするにはあまりにも不確定な要素が多い。そう考えると自殺ではなく、やはり事故と考えるのが妥当だろうか。
 しかし、自ら命を絶とうという人間に、そこまでの判断力があるとも思えない。やはり自殺の線もぬぐい切れないか……。
 俺はここへ来る途中に買った小さな花束を元々あった花束の隣へ置き、手を合わせる。
 森桃子、きみは一体どうして死んだんだ?
「んー、事故か自殺か、それとも事件か。まだ答えはわからないね」
「事件、か」
 これまで事故か自殺か、どちらかで考えていたが確かに事件の可能性もゼロじゃない。実際に俺たちも事故に見せかけて殺そうとしてたし。
山口さんは固定観念にとらわれず、自由な発想のもと多角的に状況をとらえている。岡田雄介の殺人計画を考えていた時も思ったが、やはり山口さんは頼りになる。
「次は関係者への聞き込みだね。まずは桃子の家に行こうか」
「家ってどこ?」
「さぁ?」
「えぇ……」
「桐谷くんが探してよ」
 そうだった。山口さんは自由な発想ゆえに無茶ぶりの天才でもあった。阿野だったらなんとかするんだろうけど……。
「とりあえず今日は帰ろう。明日佐々木先生からなんとか聞き出してみるよ」
 望みは薄いがやらないよりはましだ。
「待って!」
 駅へ向かおうと歩き出すと、背後から呼び止められた。振り返ると肩で息をする大学生くらいの男性が立っていた。俺よりも少し背が高く、髪は茶色く染まっているがチャラついた印象はない。
「きみたち、桃子の知り合い?」
「えっと……?」
「あ、急に声かけてごめんね。怪しいものじゃないんだ。俺は」
 そういって男性は慌てて大学の学生証を取り出す。顔写真の隣には学籍番号とともに『森純也』と名前が印字されている。
ん? 森?
俺と山口さんは顔を見合い、男性を見上げる。
「桃子の兄です」


 メロンソーダの泡がしゅわしゅわとはじける。
「ずっと探していたんだ。あそこに、桃子に花を手向けている人を」
 夕ご飯時だというのに客が少ないファミレスで、俺たちは一番奥の席に座った。テーブルの真ん中にはフライドポテト。そしてドリンクバーでとってきた飲み物が三つそれぞれの前に置かれた。
「前に何度か、橋の上にいた生徒に声をかけたことがあるんだけど、逃げられちゃって。少ししたら不審者情報が出回っててさ。まいっちゃったよ。あ、なにか食べたいものがあったら注文して! 俺バイト週六でしてるから遠慮しないで! ちなみに居酒屋で働いてるんだけど、この間お店でお客さん同士が喧嘩しちゃってさ、大変だったよ! 酒は飲んでも飲まれるなってああいうことを言うんだなって思ったね。きみたちもお酒を飲むときは気を付けてね! あ! きみたちはそもそも飲んじゃダメなのか! あははは!」
 そういって純也さんはメロンソーダをごくごくと飲み干す。
 確かに、急にこんなテンションで話しかけられたら逃げるだろうな。だから今回は俺たちに身分を明かすために学生証を出したというわけか。
 山口さんは机の下で俺の袖を引っ張り、顔を近づけて囁く。
「このマシンガントーク、桃子そっくりなんだけど」
「そうなんだ……」
 故人を悪く言うのは気が引けるが、ずっとこの調子でしゃべり続ける人と同じクラスにいると確かに距離を取ってしまうかもしれない。だからといっていじめるのは絶対にダメだけど。
「それで、桃子にマーガレットを手向けてくれていたきみたちに話が……」
「あの。ぼくたち、花を手向けたのは今日が初めてで」
「あ、そっか……、いや、ありがとう。嬉しいよ、うん……」
 純也さんは明らかにがっかりした様子で声を落とす。
「お兄さんは、その人になにを聞こうとしていたんですか?」
 山口さんが尋ねると、カバンの中からスマートフォンを取り出す。
「これは桃子のスマホなんだけど。桃子が死んだときに水没しちゃったんだけど、時間が経ったら復活してさ」
 画面をタップすると現在の時刻が表示された。その下には『新着メッセージがあります』という通知がかなり溜まっている。
「最新のメッセージは、一昨日?」
「そうなんだ。メッセージは今でもたまに送られている。それに、あの花束は桃子が死んでから、今日までずっと手向けられている。前に置いた花が枯れきる前には必ず新しい花が置いてある。だからもしかして、あそこにマーガレットの花束を置いている人が、メッセージを送っている人なんじゃないかなと思って」
 確かに、純也さんの予想はおそらく当たっているだろう。
 そして、花束を置き、いまもメッセージを送り続けている人物はきっと伊藤さんだろう。
「調べたんだ。マーガレットの花言葉は真実の友情だった。俺は桃子の兄として、桃子のことを思い続けてくれている友達にお礼を言いたいんだ」
 なるほどね、と山口さんは通知をタップすると、スマートフォンのロック画面に移った。一から九までの数字を四つ打ち込む、スタンダードなパスワードだ。
「四桁の数字。思い当たる数字は?」
「誕生日とか、電話番号の下四桁とか、思いつくものは大体。だけどどれも違って」
 そういって純也さんはお手洗いへ行くため離席した。
「四桁かぁ、全部で一万通りだけど、一つずつ試しているうちに永久ロックとかかかっちゃうよね」
 うーん、とフライドポテトを頬張る山口さんから森さんのスマートフォンをもらう。
「誕生日、か」
俺はなんの確信もないまま、指で数字を一つずつ押す。
すると、パスワードはすんなり解除され、山口さんはポテトを机に落とした。
「開いた?! え、なんの数字いれたの?」
「い、伊藤さんの誕生日」
 夏目ありさの殺人に失敗した日。伊藤さんはこんなことを言っていた。
『そのうち誰も私の誕生日を祝っても、覚えてもくれなくなった。覚えていてくれたのはあの子だけ……』
 あの子とはきっと、森桃子のことだろう。
 ホーム画面を見るとカメラアプリが起動中になっていた。画面の端には最後に撮影した写真が小さく表示されている。その写真はぶれていてよくわからないが、どこかの光景のようだった。
「スケジュール開いて」
「でも……」
「いいから」
 今更他人のスマートフォンを触ることに抵抗を覚えつつも、山口さんに言われるまま、俺はスケジュールアプリを開く。カレンダーに自身の予定を書き込む一般的なアプリだ。出てきたカレンダーは去年の一一月。森桃子が死んだ月のものだった。
「やっぱり」
「え?」
 山口さんはカレンダーの中で赤く光っている日にちを指さす。その日の三日前が、森桃子が死んだ日だ。
「桃子が言ってたの。この日は友達と大事な約束があるって。すっごい嬉しそうにね。そんな人が約束の日よりも前に自分で死ぬ? 鬱や精神的な病気を患っていたならまだしも、桃子は違った。つまり」
「自殺、じゃない……?」
「事件の可能性も低い。やっぱり事故」
 山口さんはロイヤルいちごミルクを一気に飲み干す。空になったグラスの中で氷が音を立てて崩れた。
「橋の上から落ちちゃうなんて。そそっかしいやつ」
 それだけ言い捨てると、山口さんは黙ってグラスを持って席を立った。
 俺はスケジュールアプリを消し、通知がたまったメッセージを開く。送信者はやはりすべて伊藤さんだった。
 通知をさかのぼっていくと、一つのメッセージが目についた。
『八月五日 これから岡田の実家に行くよ。バス移動が長くておしりが痛い笑 ほかの人がうるさいけど、協力してくれるから我慢する……涙』
 これは……。
 そういえば伊藤さんは岡田の実家へと向かうバスの中でずっとスマートフォンを触っていた。これは、あの時に送信していたのか。
 俺はさらにメッセージをさかのぼる。
『七月一一日 これから夏目ありさを殺す計画を立てるよ。絶対に復讐するから。待ってて』
 これは、理科準備室で作戦会議をした時だ。
 俺はさらにメッセージをさかのぼっていると少し間隔があき、伊藤さんと森さんが交わした最後の会話までたどり着いた。
「これって……」
メッセージを読んでいると視界の端で純也さんが戻ってくるのが見え、俺は慌ててスマートフォンを机に戻した。
「お待たせ」
「い、いえ」
「それでなんだけど、その花束を置いている人に心当たりはないかな?」
「えっと……」
 俺は純也さんから目をそらし、首を振った。
「すみません。わからないです」
「そうだよね」
 伊藤さんのことはなんとなく、俺の口から伝えるべきじゃないと思った。伊藤さんと森さん。俺が他人に話すことは、二人の特別な関係に土足で踏み込むことと同じだ。
 だけど、それでもやっぱり純也さんは知りたいだろう。それが遺された人の当然の願いだ。
そして、俺も知りたい。
森さんのこと、伊藤さんのこと。だから。
「俺も探してみます。花束を置いている人。そして聞いてみます。桃子さんのことをどう思っているのか」
「ありがとう」
 純也さんは優しく微笑む。あたたかな表情は写真で見た森桃子とやはり似ていた。


 探してみます、なんて純也さんに言ったはいいものの、それから数日が経ち、結局伊藤さんに会えないまま、文化祭の一日目が終了した。
午前中は文化祭実行委員会が主催のクラス対抗クイズ大会を行われ、午後は明日に向けての準備が行われる。
明日は保護者や卒業生、地域の人も参加するお祭りだ。しかし、相変わらずの曇り空。今にも雨が降りそうだ。
「そっち持ってくれ。みんなでせーのでいくぞ。せーの……!」
 中庭ではテントの設営が実行委員の中でもラグビー部や柔道部など屈強な男子生徒たちによって行われている。非力な俺は離れた花壇に腰掛け、その様子を見ていると、背後から山口さんが現れ、花壇の淵に上る。
「ボーっとしてるね」
「山口さんこそ」
「別に。文化祭とか興味ないだけ」
 そこで会話は終わった。みんなのはしゃぐ声が、物音が、どこかずっと遠くから聞こえてくるようだ。伊藤さんはどこにもいなかった。夏目さんの家の周辺も、鈴井高校にも。(伊藤さんの家は誰も知らなかったし、佐々木先生もやはり教えてはくれなかった)そうしているうちに文化祭も一日が終わってしまった。
三宅さんは伊藤さんにも文化祭に参加してほしい、と言っていたのに。
隼人から話を聞いたのに。
純也さんに会って森桃子のことも知れたのに。
事態はなにも進展していない。なのに時間だけが過ぎ去っていく。なんだかずっと心が追いついていない感覚だ。
 テントの設営が終わり、男子生徒が散り散りになる中、一人の生徒がこちらへとやってきた。その人物は、人一倍身体が大きいのに、威圧感がまったくない、俺の唯一の後輩だった。
「二人とも、こんなところで何してるんですか」
「阿野こそ、実行委員だっけ?」
「うちのクラスの実行委員が二人とも女子なので、力仕事手伝わされてるんです」
「よかったね女子の助けになれて。モテるんじゃない?」
「……あなた以外にモテても意味ないんですけど」
「ん? なにか言った?」
「なんでもないです」
 勘が鋭い山口さんだが、阿野の気持ちにだけは鈍感らしい。
 俺は立ち上がり、阿野に頭を下げる。
「阿野、化学部の実験レポート、まかせっきりで悪かった」
「大丈夫です。もう伊藤先輩からジュースおごってもらったので」
「えー私おごってもらってないんだけど」
「山口先輩も何もしてないでしょ」
 相変わらずの小競り合いを始める二人。
 いや、そんなことより、伊藤先輩におごってもらったって……。
「ちょっと待って、阿野、伊藤さんに会ったの?」
「伊藤先輩ならついさっき。え、逆に会ってないんですか?」
「二学期入ってからずっと」
「えぇ、最近よく学校で見かけるけどな」
「最近って、どこで?」
「屋上だったり、廊下だったり。割とどこでも。さっきも段ボール持ってたんで、なんか文化祭の準備じゃないですか?」
「段ボール?」
「はい、ちょうどこれくらいの」
 そういって阿野は手を動かし、段ボールの大きさを表す。それはちょうど小包程度の大きさだった。自分の教室には来ずに、校舎のあちこちを歩いている? いったい何のために……?
「あと、二人に伝言を頼まれてました」
「伝言?」
「明日、中庭には近づかないようにって」
 山口さんは首をかしげる。
「なんで?」
「さぁ、明日の『私の想いを叫ばせて』に出るんじゃないですか? みんなに聞かれたくないから来てほしくないとか」
「聞かれたくないなら出なきゃいいでしょ」
「僕に言われても」
 俺はなんとなく、中庭の中央へと歩く。中庭前方、土台を組まれたステージでは毎年恒例である『私の想いを叫ばせて』が開催される。告白したり、移動した先生を呼んで感謝を伝えたり、喧嘩した相手と仲直りをしたりと、三宅さん曰く、笑いあり涙ありでそれなりに盛り上がるという。
 ん?
 なにか引っかかる。なんだ、この違和感は……。
 すると、どこからか声が聞こえてきた。
「名前の張り紙、この順番で合ってる?」
 ステージ横、テントの中では長机が用意され、それぞれの席にはそこに座る人の名前が貼っている最中だった。
 校長先生、教頭先生の紙が貼られ、最後の一枚が養生テープで貼られる。紙には太い字で『教育委員長・金子進』と印字されている。
 いつか、伊藤さんは金子進を殺すいいタイミングがあると言っていた。
 警備が厳重な職場でもなく、どこかもわからない家でもない。こんなに開けた場所でありながら人ごみに紛れて手を下すことはたやすいだろう。
 いい、タイミング……。
「もしかして……」
 瞬間、最悪の想像をしてしまった。しかも最悪の想像は考えれば考えるほどに現実味を帯びていく。そして確信してしまった。
伊藤さんは俺が考えた最悪の想像を現実にする。そうなる前に伊藤さんを止めないと!
「二人とも、伊藤さんを探してほしい!」
「待って!」
 居てもたってもいられずその場から走り出そうとする俺に、山口さんはポケットからスマートフォンを突き出す。
「連絡先、知らないと見つけても呼べないでしょ」
「あ、そうだね」
 メッセージアプリをインストールしていないという山口さんに俺は電話番号を口頭で伝え、走り出す。
 するとすぐにスマートフォンが震えた。非通知からの着信。振り返ると、山口さんが耳にスマートフォンを当てていた。
 俺は不思議に思いながら目の前に立つ山口さんからの電話に出る。
「どうしたの?」
 山口さんはまっすぐに俺を見つめる。
「一応言っとくけど、まだ許してないからね。私たちに嘘をついたこと」
「え」
「なんのことですか?」
 俺と山口さんを交互に見る阿野を無視して、山口さんは笑って続ける。
「だから今度は私が書く小説の実験を手伝ってよね!」
 やっぱり、山口さんはすべてお見通しだったのか。俺も小さく笑い、答える。
「わかった」
「え、話がよくわかってないんですけど」
「いいから行くぞっ!」
 そういって電話を切り、山口さんはジャンプして阿野の頭をはたく。山口さんは阿野をはたいた手を痛がりながら、阿野はわけもわからずといった様子で校舎の中へと去っていった。
 
 教室、廊下、屋上。どこを探しても伊藤さんはいない。
 いったいどこにいるんだ、伊藤さん。
額にかいた汗を乱暴にぬぐい、息を整えながら階段を降りていると、ふと思いついた。
もしかして……。息を短く吐いて、俺は再び階段を駆け上がる。
理科室の扉を開くとそこには誰もいなかった。薄暗く、ひんやりとしたいつもの理科室。その奥に、俺たちが初めて出会ったもう一つの部屋がある。
俺は静かに理科準備室の扉へ手を伸ばし、覚悟を決めて押し開ける。
「伊藤さん!」
「わっ?!」
 驚いた佐々木先生が持っていた荷物を床に落とす。
「あ、すみません!」
 俺は慌てて散らばった荷物を拾う。風船に、蝶ネクタイに、蝶の羽のような怪しげな仮面……?
 それらを拾い立ち上がると、机にはアルコールランプや三角フラスコなど、様々な実験器具が並んでいるのに気がついた。
「なにしてるんですか?」
「なにって、明日の準備だよ」
 佐々木先生が指さす先にはチラシが置かれていた。そこには『ミスター佐々木のサイエンスマジックショー』と書かれており、仮面をかぶった佐々木先生がポーズをとっている。
「たまにな、子ども向けにやってるんだよ。文化祭だけじゃなくて夏休みとかにも、地元の公民館とかでな」
 佐々木先生は俺から仮面を受け取ると「見てろよ」と言い、仮面をつけ、ボンベを取り出す。ボンベからはスーッと音が鳴り、赤い風船はまるまると膨らんでいく。ボンベには『ヘリウム』と書かれていた。
「ここにヘリウムを入れた風船があるだろ。ヘリウムは空気よりも軽い。だから手を離すと……」
 風船は浮かび上がり、佐々木先生、いや、ミスター佐々木は手が届かなくなる寸前で風船をキャッチする。
「上に上がってしまう。だけど、ここでまじないをかけてやる。ワン、ツー、スリー。まじないがかかった風船を水面につけると……」
 ミスター佐々木は水を敷いたトレーを用意し、水面にゆっくりと風船をつける。
すると風船は上昇せず、まるでくっついたようにその場に静止した。
「では最後に、桐谷にまじないを解かせてやる。水に指を入れて動かしてみろ」
 ミスター佐々木に誘われるまま俺は水面に指先を当て、波を立てる。すると風船は再び、浮かび上がり、天井まで登ってしまった。
「どうだ、面白いだろ? これは水の表面張力をつかった手品だ!」
「はい……」
 俺がいまいちリアクションが取れないでいると、ミスター佐々木は仮面を外し、疲れたようにため息をついた。どうやらいつもの佐々木先生に戻ったらしい。
「まぁ最近はあんまり客も来ないんだけどな。で、なにをしに来た?」
「伊藤さんを探して、だけど……」
「だけど?」
「あ、えっと……」
 自分でも驚いた。ここまで来て俺はまだ迷っていることに。
いや違う。
ここに来たからまた迷ってしまうんだ。
つい先ほどまで伊藤さんを見つける、見つけて伊藤さんを止める。それだけを考えて動いていたのに。俺は古びた薬品棚のガラスの中に三か月前を思い出す。
『私のお願い、聞いてくれる?』
ここは伊藤さんと初めて言葉を交わした場所だ。
あの日からずっと俺は迷っている。悩んでいる。答えが出たと自分に言い聞かせても、気がついたらまた迷っている。
「……自分でもよくわからないんです。伊藤さんがやろうとしていることを俺は止めたい。止めたいはずなのに、止めたい理由がわからなくて……」
 伊藤さんは三人を殺すことに文字通り人生をかけている。そんな伊藤さんを止めるには、それなりの理由が必要だ。だけど俺にはそれがわからない。
 伊藤さんに人殺しになってほしくない。
 伊藤さんには幸せに生きてほしい。
 こんなの理由じゃない。ただの俺の願望だ。伊藤さんを止めたいという願いだけが先走って、中身がスカスカなまま。これでは伊藤さんも俺の声に耳を貸してくれないだろう。
 うつむく俺に佐々木先生は実験器具を並べながらつぶやく。
「よくわからんが、お前は伊藤のことを止めたいんだろ? だったら止めればいいじゃねえか」
「でも理由が……」
 身体中の空気がなくなるほどの大きなため息が俺の言葉をかき消す。
「近頃の奴らはなにをするにもなんでも高尚な理由を求めたがる」
 佐々木先生は手元を見ながら続ける。
「子どもむけのショーをやった後に親によく言われるよ。それが将来の役に立ちますかとか、なにかのためになりますかとか。そんなもの、俺は知らん」
 ぶっきらぼうに言い放ち、手に持っていたビーカーをどんと置く。
「でもな、ショーを見ていた時の子どもの顔がすべてなんだよ。俺も小さい頃はそうだった」
 机に並べられた実験器具を見つめる佐々木先生。その目はなにかに夢中になっている子どものようにキラキラと輝いている。
「今は場所を借りるにも、ショーを開催するにも、化学に興味関心を抱かせ、成績向上を図るだとかなんとか、なにかと理由をつけなきゃならんが、俺だって楽しいからやってるんだ。俺が三十年近くショーを続ける理由は楽しいからだ」
「三十年?!」
 想像していたよりも壮大な年月に驚くと、佐々木先生はにやりを笑う。
「しょうもない理由だろ。いや、そもそも理由にすらなってないかもな。でもいいんだ。俺のショーをきっかけに未来の科学者が生まれるかもしれないだろ。まぁ俺はどうでもいいけど。でもな」
 佐々木先生は仮面を手に取り、まっすぐに俺を見つめる。
「面白いから。楽しいから。その時の素直な気持ちが立派な理由になることだってある」
 佐々木先生の言葉が、妙に心の奥に届くのを感じた。
 素直な気持ちが、立派な理由に……。
 俺の素直な気持ち。それは……。
「それに、どうしても高尚な理由が必要なら、やりたいことやった後に考えればいいだろ」
「それ、理由じゃなくて言い訳じゃないですか」
 そうだな、と佐々木先生は目を細めて笑い、つられて俺も笑った。
「この水流しといてくれ」
 佐々木先生に言われ、先ほどの手品に使ったトレーを受け取り、水をシンクへ流す。透明な水が排水溝へ流れきったとき、顔を上げると窓の外、駐輪場の近くを歩く女子の姿が見えた。
 瞬間、俺は理科準備室を飛び出した。


 なんども踏み外しそうになりながら階段を駆け下り、上履きのまま昇降口を飛び出す。雨の感触が肌をつつく。だけど気にしていられない。駐輪場に人の姿はなかった。俺はさらに走る。校門をでてあたりを見渡す。透明、ピンク、青。花のように広がる傘の群れのなか、遠くに傘を差さずに歩く人影が角を曲がるのが見えた。間違いない、あれは。
「伊藤さん!」
 膝に手を置き、息を整えていると前を歩く女子は足を止め、こちらを振り返る。
 消えてしまいそうなほど白い肌。肩まで伸びたまっすぐな黒髪。儚げな瞳に薄い唇。やっぱり伊藤さんだ。
俺は無理やり背筋を伸ばし、肩で息をしながら笑顔を取り繕う。
「久しぶり。えっと、元気だった?」
「世間話をするつもりはないんだけど」
 そう言い捨てる伊藤さんの目は鋭く冷たい。伊藤さんにとって俺はもう、隼人たちほかのクラスの人と同じ、『敵』なんだ。
 それでも俺は胸の奥に感じる痛みを置いて、伊藤さんを見つめ返す。
「伊藤さんは明日、中庭で爆発を起こすつもりなんじゃないの?」
 伊藤さんは言っていた。中島進を殺す『いいタイミング』があると。
それは文化祭のことだ。中島は毎年行われている中庭ステージの催し『私の想いを叫ばせて』の見届け人を務めている。職場でも、家でもなく、自分が通う学校にターゲットがやってくる。殺すには都合のいいタイミングだ。
そこへさらに偶然が重なった。
一人目のターゲットである夏目ありさの体調回復。
二人目のターゲット、岡田雄介が文化祭へ遊びに来るという噂。
いや、違う。夏目さんの体調が回復していることを知った伊藤さんが誰かを装い、岡田を文化祭へ呼んだのかもしれない。
 ターゲットを一つの場所へ集めるために。
『三人が一箇所に集まれば、そこに毒ガスを撒くなり爆弾を使って爆発なりすればそれで済む話だけど……』
 初めて伊藤さんと話し合いをしたときに言ったことだ。あの時はまだ伊藤さんが本気で人を殺そうとしているとは思っていなかった。それに、毒ガスも爆弾も用意できるわけがないと思っていた。しかし、今の俺たちにはあてがある。
 伊藤さんが校内で運んでいたという、小包程度の大きさの爆弾が。
 学校内での無差別爆発事件。
 これが俺の最悪の予想だ。
 なに言ってんの? と首をかしげてほしかった。
そんなことするわけないじゃん! って怒ってほしかった。
 だけど伊藤さんは、ただ静かに微笑んだ。その表情はかつて手をつないで帰った時と同じものだった。
「さすがだね、桐谷くん」
 髪の先から雨粒が垂れる。気がつけば雨脚は先ほどよりも強くなっていた。
「森さんのこと調べた。伊藤さんがどうして三人を殺そうとしているか分かった。いや、三人じゃない。四人だ」
「え?」
『この中で、飲めば確実に死ぬ薬ってどれかわかる?』
 理科準備室で初めて伊藤さんと話をしたとき、最初に聞かれたことだ。
 俺はその問いに対し、そんなものはないと答えた。そして、伊藤さんに死の気配を感じ「自殺の手伝いなら断る」と言った。
 しかし、伊藤さんは俺に「殺したい人がいる」とお願いをしてきた。俺の言葉に否定も、肯定もせずに。
「伊藤さん、やっぱり自分も死のうとしてるよね?」
 あの時のように、俺の言葉に返事をしない伊藤さん。俺は話を続ける。
「ごめん。少し前、森さんのお兄さんに会って、森さんのスマートフォンを見せてもらった。伊藤さんとのメッセージの履歴も」
 伊藤さんの誕生日でパスワードが開いた森さんのスマートフォン。森さんが亡くなった後も送り続けていた伊藤さんのメッセージたち。
友達以上、親友以上。
固い絆で結ばれた二人の最期のメッセージは森さんへ送った伊藤さんの『死ね』という二文字だった。
「二人の最期の会話は喧嘩だった」
 その前のやり取りを見ても喧嘩の内容をすべて読み取ることはできなかったが、最後のメッセージで伊藤さんの想いは理解することができた。
「伊藤さんは自分に、森さんが死んだ責任があると思っている。だけど、森さんは自殺じゃない、事故だ。本当は伊藤さんもわかってるんじゃないの?」
 なにも言わない伊藤さんに、俺はさらに続ける。
「突然の死に納得がいかないのはわかる。よくわかる。理由がないと納得ができない。伊藤さんは理由が欲しかった。森さんが突然この世を去った、納得できる理由が」
 俺は去年の伊藤さんの様子を想像しながら話す。
「伊藤さんは調べた。学校での森さんの様子を。伊藤さんは去年、まだ入院中だから学校での様子は森さんから聞く情報がすべてだった」
 森さんが学校生活について伊藤さんにどう説明していたかはわからない。だけど、自分が周りから距離を取られていることをわざわざ言う人はいないだろう。
 だから、伊藤さんはそこで初めて知ったんだ。
「森さんはクラスの人から距離を置かれていた。だけどみんなはそれをいじめとは言わなかった。なぜならいじめている自覚が本当になかったから。だけど中には夏目さんのように無視したり、からかう存在も確かにいた。そこから伊藤さんは理由を作り上げた」
 それはとても悲しく、ありふれた理由だった。
「森さんはみんなにいじめられていた。だから自殺した」
 はじめは単に、自分がしてしまったことから目を背けたかったのかもしれない。森さんの死は自分のせいじゃなくて、誰かのせいだと思いたかったのかもしれない。
「伊藤さんの中で作り上げた理由は、伊藤さんの中でどんどんと真実になっていった。そして伊藤さんはこう思うようになった。許せない、と」
 そして伊藤さんは小さな画面の中で何度も観たあの日を迎える。
「怒りは憎しみに。憎しみは殺意へと変貌し、伊藤さんはみんなにカッターを向けた。だけど、そのカッターの刃先には自分もいた」
誰かのせいにしようとしても、メッセージを見返すたびに思い知る。
森さんに『死ね』と言ってしまった自分の罪を。
「森さんは自殺した。理由はみんなからのいじめだとしても、自殺というきっかけになったのは、自分との最後の喧嘩だと思っている」
 雨は依然として止む気配はない。降りしきる雨の音に交じって、伊藤さんは静かに答える。
「全部桐谷くんの妄想でしょ? 桃子は本当にいじめられていたかもしれないでしょ」
「そうだよ。周りのみんながいじめだと思っていなくても本人がいじめだと思っていれば、それはいじめだ。だけど、それを知る術はもうない。だって森さんはもういないんだから」
「だったら……」
「だからって、人を殺していい理由にはならない!」
 口をつぐむ伊藤さんに、俺は語りかける。
「心のどこかで分かっていたはずだよ。だって、伊藤さんが言ってくれたでしょ。人はいつか死ぬ、だけど理不尽に奪われていいわけがないって」
 それは小さい頃に余命宣告を受け、長い間人生について考えてきた伊藤さんの一つの答えだ。そんな人が、人の命を奪うことにためらいがないはずがない。
「自分の気持ちに蓋をして、明るくふるまって、ふざけた作戦名つけて、罪の意識から、人を殺す現実から目を背けて……」
「うるさいっ!」
 伊藤さんは叫び、乱れた息を整え「もういい。もういいよ」と力なく呟いた。
 俺はどうしようもなく伊藤さんの手を握りたかった。じゃないと、このままどこか、もう絶対に手が届かないどこかへいってしまいそうだから。
 歩み寄ろうとする俺に、伊藤さんは四本の指を突き立てる。
「四つ。すでに校内へ爆弾を仕掛けた。明日の十五時ちょうどに爆発する」
 伊藤さんは手を下ろすと空を見上げた。その目は、絶えず雨を降らし続けるどす黒い空の、その向こうを見ているようだった。
「私は、三人を殺して自分も死ぬ。それが桃子にできる唯一のことだから」
「伊藤さん!」
「白いマーガレットの花言葉って知ってる?」
 俺の呼びかけを無視する伊藤さん。俺は黙って質問に答える。
「真実の友情」
「もう一つあるの」
 伊藤さんは自分の手のひらを見つめながら呟く。
「謝罪だよ」
 そう言って伊藤さんは手のひらを強く握る。雨粒が滑り落ちる小さな拳に伊藤さんの感情のすべてがこもっている。
「私は赦されないことをした。だから、やるしかないの」
 人はいつか死ぬ、だけど理不尽に奪われていいわけがない。
そう言った後に、伊藤さんは続けてこうも言っていた。
『人の命を奪ったものは報いを受けるべきなの』
 それはきっと自分のことだろう。
森桃子を殺した。だから自分も死ぬ。
だれも望んでいない、だれのためでもない結末を、伊藤さんだけが望んでいる。
「これが最後のお願い。一生のお願い」
 声が震えていた。雨に濡れた伊藤さんは一層儚く、今にも消えてしまいそうだった。
「私のお願いを、叶えて」
『私のお願い、聞いてくれる?』
 七月中旬。薬品と埃の匂いが混じった独特の空気。理科準備室での記憶が一気によみがえる。
 あれがすべての始まりだった。
――好きな人の願いならどんな願いでも叶えてあげたいじゃないすか。
 阿野の言葉が冷え切った脳内にこだまする。
 俺は伊藤さんが好きだ。好きだから願いを叶えてあげたいと思っていた。
 だけどそれは自分のためだった。
 同じ事故にあった両親が亡くなり、自分だけが生きている現実が受け入れられずにいた。自分が生きている理由がわからず、普通に生きていても生活の隙間には絶えず深く、終わりのない絶望があった。
 だから伊藤さんと一緒にいたかった。
 伊藤さんといることで自分の問題を忘れることができたから。伊藤さんの願いを叶えることを俺の生きる理由にしたかった。
 だけど今は違う。
「ごめん」
 息もできないほどに雨が激しく降り続ける。
 滴る水滴に紛れ、伊藤さんの涙がほほを伝う。
 しかしその涙に、弱さや悲しみはない。
 その涙に含まれる伊藤さんの感情は怒り。
 そして、殺意だ。
 伊藤さんは雨なんかよりもさらに冷たい眼差しで俺を見つめる。
 絶望、嫌悪、拒絶を孕んだ伊藤さんの視線に俺は胸が張り裂けそうになる。
 それでも、痛む心臓を無視して俺もまたまっすぐ伊藤さんを見つめる。
「俺は、伊藤さんのことが好きだから」
 やっぱり理由はこれだけ。これが俺の素直な気持ちだ。
俺は伊藤さんのことが大好きだから。
これから伊藤さんが二度と会ってくれなくても。
これからもずっと幸せに、生きていてほしいから。
「俺は、君の願いを叶えない」
 降りしきる雨の中、俺の答えを聞いた伊藤さんは踵を返して歩き去る。
「私も大好きだよ」
 振り向き際に言った伊藤さんの言葉は雨の音でかき消され、俺の耳には届かなかった。