「桐谷くん……、桐谷くんってば」
「え」
 三宅さんに肩をたたかれ、無意識に動いていた足が止まった。
「寝不足? なんかぼーっとしてるけど」
「別に」
「あれだったら委員会休む? 私だけでも大丈夫だけど」
「大丈夫だよ」
ならいいけど、と階段を昇る三宅さん。ふと窓の外を眺めると中庭にはテントの骨組みが置かれ、向かいの校舎には準備にはしゃぐ生徒たちの姿がよく見えた。
 文化祭まで残り十日。
 日は短くなり、日中でも気温が三十度を超えることはほとんどない。
 夏が過ぎ、秋の気配の訪れとともに、お祭り特有の空気が校舎に満ちている。なのに。
『お願い、聞いてくれるんじゃなかったの?』
 いつも頭の中で声が聞こえて、あの日の伊藤さんの顔が目に浮かぶ。
 二学期が始まってからも伊藤さんは学校に来ていない。
以前のように夏目ありさや岡田雄介の家を見張っているのか、それとも最後のターゲットである金子進の調査をしているのか。
探しに行けば会えるのかもしれない。
 だけど、俺は伊藤さんには会えない。というか会いたくない。
 俺にはあの日の答えがまだわかっていないから。
 空にはもう入道雲はなく、黄金色に光る雲が浮かんでいる。
 なのに。
 俺は今も夏に取り残されたままだ。


 カーテンが閉め切られた薄暗い視聴覚室にプロジェクターの明かりが薄く照らす。
「それでは文化祭当日のタイムスケジュールについて説明します。まずは一日目から。資料の七ページを開いてください」
 司会役の生徒がいうとスクリーンの画面が切り替わり、静かな空間に資料をめくる音が一斉に聞こえる。
 今日は文化祭実行委員会の集会だ。
文化祭は週末の二日間で行われる。土曜日は午前中に生徒だけで行い、午後は翌日に向けての準備をする。
日曜日は一日、生徒の保護者や卒業生、地域の方なども参加する。土曜日はあくまで余興、日曜日こそが祭りの本番だという。
「続いて二日目。中庭で行われるステージ演目ですが、今年も『私の想いを叫ばせて!』を行います。この時の司会進行ですが……」
「なに、『私の想い』って?」
 隣に座る三宅さんに静かに尋ねる。
「昔のテレビ番組であったじゃん、学校の屋上から秘密とか言いたいことを叫ぶってやつ。要するにあれのパクリだよ」
 昔のテレビ番組か。うーん、見たことがあるような、ないような。
「でも毎年飛び入り参加で告白する人とか、去年移動した先生を呼んで改めてお礼を言ったり、ずっと不仲だった友達に謝って仲直りしたりとかで結構盛り上がるんだよ。笑いあり涙ありみたいな」
「ふーん」
 そういって俺はスクリーンに目を向ける。大きく書かれたコーナー名とともに去年の様子が映し出されている。マイクに向かってなにかを叫ぶ生徒を近くのテントから三人のおじさんが愉快そうに見ている。おじさんたちが座る机には名札が掲げられているが画質が荒く、文字までは読めない。
「ねぇ、あの人たちは?」
「あれは……」
「今年も右から校長先生、PTA会長、教育委員長に見届け人をお願いしています。最も見届け人の心に残る想いを叫んだ生徒には表彰状が授与されます。そのほかなにか質問は?」
 司会にぎろりとにらまれ、俺たちに視線が一気に集まる。
「……ありません」
 その後一時間、話し合いが終わるまで俺と三宅さんは小さくなったままだった。
「以上で話し合いを終わります」
 プロジェクターが消え、カーテンが開く。外から差し込む光は先ほどよりも赤い。椅子を引く音が一斉に響き、生徒たちは視聴覚室を出ていく。
「ごめん三宅さん、俺が話しかけたから」
「いやいや」
 すると通りすがりの生徒の声が聞こえてくる。
「え、岡田来るの?」
「らしいよ。誰が呼んだか知らないけど」
「感謝ってより悪口叫ばれるんじゃない?」
「それはそれで面白い」
 岡田とはこの学校の元体育教師、岡田雄介のことだろう。
 俺たちも立ち上がると、前から一人の女子生徒がやってきた。
 この人、どこかで……。
「あのさ。ありさ、文化祭には来るって」
「ありさ、……あっ」
 その一言で、目の前に立つ女子生徒が以前、夏目ありさの自宅へ届けるプリントを譲り受けた相手だったことを思い出した。名前は確か藤野さんだ。
「そうなんだ」
「うん、今はだいぶん落ち着いてるって」
 それだけ、と言い残し藤野さんは去っていった。
『私がなにをしたっていうのよ!? 私は……私は!』
 落下してきた植木鉢を見て、一心不乱に叫んでいた夏目さん。あの頃の夏目さんは伊藤さんに命を狙われ、身体に傷を負い、精神的に不安定になっていたのだろう。
夏目さんの回復を聞いて、俺は素直に良かったと思った。
だけどすぐに俺にはそんなことを思う資格がないことを思い出した。


「おかえりー」
 教室へ入ると三宅さんの帰りを待つ二人の女子と隼人が駄弁っていた。
「おせーよ。蓮帰ろうぜ」
 カバンを持って立ち上がる隼人の横を三宅さんが素通りする。
「まだ話し合いあるんだけど」
「じゃあとっとと終わらせよーぜ。で、なに決めんの?」
「別にあんたは参加してくれなくていいんですけど」
「あ?」
「なに?」
 眉間に深いしわを刻んだ二人は顔を近づけにらみ合う。しかし、俺達にはもうすでに見慣れた光景だ。
「相変わらず仲が良いですな」
「よくねえよ!」
「よくないよ!」
シンクロした、と女子たちは笑う。
 隼人と三宅さんは一年生の頃同じクラスで、お調子者の隼人としっかり者の三宅さんは昔からよくやりあっていたらしい。かといって二人とも相手のことが嫌いというわけではない。むしろ二人だけでいるときは普通のテンションで話をしているのを俺は知っている。
「で、なに話すの?」
「当日の役割分担」
 そういって三宅さんはクラス名簿を取り出す。俺たちの出店は「大江戸茶屋」になった。最初は定番のメイド喫茶に票が集まっていたが、誰がメイドの衣装を着るかで揉めに揉め(男子は女子のメイド衣装が見たい、女子は男子に女装させたい)、最終的にどこからか湧いて出てきた『和服』というアイデアから江戸時代をモチーフとした喫茶店「大江戸茶屋」に決定した。どこも文化祭の話し合いなんてこれくらい支離滅裂でカオスだろう。
「このあいだの話し合いで希望は聞いてるから、当てはめていくだけなんだけど」
「俺買い出し行きたい!」
 すかさず隼人が手を挙げるが三宅さんはため息をつく。
「みんな買い出し希望なんだよね。買い物だけでやること少ないから。だから他の部活とか委員会で忙しい人が優先。あんたは調理担当」
「えぇー、めんどくさ!」
「あんた料理得意でしょ。適材適所だよ」
「私の希望は?」
「教室の飾り付けだよね。飾り付けは人手が欲しいから全然オーケー」
「やった!」
 そういって三宅さんは女子の名前の横に『飾り付け』と、隼人の横には『調理』と、そのほかのみんなの分も先週のクラス会議で出された希望を見ながら担当を書き込んでいく。
「そういえば桐谷くんって当日は暇なの? 部活動で出し物とかある? っていうか何部だっけ?」
「俺は……」
「こいつ化学部だよ」
「化学部? そんなのあったっけ?」
 女子たちは顔を見合い、首をかしげる。本当に知られてないんだな、化学部って。担任の佐々木先生が顧問なのに。
「それで、当日は?」
「えーっと、またちょっと確認しておくよ」
 わかった、と三宅さんは俺の名前の隣に『保留』と書き込む。
 確認する、といいつつもあの日から一度も化学部に顔を出せていない。
 もとは岡田雄介を殺すという伊藤さんのお願いを叶えるために俺は山口さんと阿野を騙し、利用してしまった。
 山口さんとは真剣に殺人計画を話し合った。
 阿野には爆破実験を手配してもらい、大きな風呂で語り合った、
 シナリオハンティングに出かけた日のこと。
 阿野の家に泊まった日のこと。
 楽しかった夏の思い出が、俺の足を理科室から遠ざけていた。
「あとは……」
 三宅さんはペンを置き、クラス名簿を改めて見直す。
 クラスメイト三十人の横に役割が書き込まれた名簿の中で一人だけ役割が空欄の生徒がいた。
 伊藤美優。
 その名前を見た瞬間、みんなの空気が凍った。しかし、三宅さんだけはいつもと変わらない様子で小さく息を吐く。
「伊藤さん、二学期まだ一回も来てないね。大丈夫かな」
「そういえばそうだね」
「んー、他の役割は人が足りてるから『飾り付け』かな」
「え」
 飾り付けの担当の女子が声を漏らす。
「どうしたの?」
「う、ううん、……別に」
引きつった顔から女子が考えていることはすぐに分かった。女子は伊藤さんと同じ役割になりたくないのだ。だけどそう言い出せずにまごまごしている女子の横から隼人が割って入る。
「別に、こいつに役割なくてよくね?」
「え?」
「来ない方が悪いだろ。それに来ないやつを頭数に入れられても、他の奴らが迷惑だろ。な?」
「ま、まぁ……」
「それは、そうかも」
 女子たちは顔を見合い、愛想笑いを浮かべながら微かにうなずく。可笑しいからではない。助かった、という安心からの笑みだった。
「だから、こいつは役割『無し』で」
 ペンを手に取り、伊藤さんの名前の上に線を引こうとする隼人。ペン先が「伊藤」の文字の上を走り「美」に被る直前で三宅さんがむりやりペンを取り上げる。
「インクついたんだけど」
 隼人は手を広げ三宅さんへ向ける。隼人の右手、人差し指の付け根には黒い線が勢いよく引かれていた。しかし三宅さんは顔を上げず、クラス名簿を見ながらつぶやく。
「私は伊藤さんにも文化祭に参加してほしい」
「だから来ない方が悪いだろ」
「そうやってまた見なかったことにするの?」
「……は?」
 隼人の低い声に空気が張り詰める。また? 見なかったこと? いったい何のことだ?
「私嫌なの。またみんなで知らないふりして、無視して、なにも伝えなくて、それじゃ去年と同じ……」
「うるせえ!」
 隼人の叫び声と机を蹴った音が三宅さんの想いをかき消す。みんなの心臓の音が聞こえそうなほどの静寂の後、女子の一人が乾いた笑いを浮かべる。
「そ、そんな怒鳴ることないじゃん」
「ほんと。なにキレてんの。ほら、早く咲希に謝って」
 重い空気に耐えかねたのか、女子たちは努めて明るく振舞うも隼人は何も言わず乱暴にカバンをつかみ、教室を出ていった。
「なんなのあいつ」
「咲希大丈夫?」
 顔を落としたままの三宅さんに女子たちが寄り添う。俺も心配の言葉をかけるべきだろう。だけど俺の口から出たのは謝罪の言葉だった。
「ごめん」
 俺はそれだけ言うと急いで教室を出た。

 昇降口につくと靴を履き替えている隼人が俺に気づく。
「悪い。やっぱ今日一人で帰るわ」
「俺も帰るよ」
 そういって俺も靴を履き替える。
 俺たちは黙って校舎を出て、校門を抜ける。道を進み、横断歩道で立ち止まる。車通りの好きない細い道だ。いつもは横断歩道の手前で走って渡っている。俺は歩行者用の押しボタンを押し、信号を見上げていると隣で隼人がつぶやく。
「なにも話す気ないけど」
「なんで隼人は伊藤さんのこと避けるの」
「話聞いてた?」
 歩行者用の信号が青く光り、カッコウの音色が鳴る。数十秒の時が流れ、青が点滅し、赤に変わる。だけど、俺は渡らなかった。隼人がその場から進もうとしなかったから。俺はもう一度尋ねる。
「去年、なにがあったの」
「転校生には関係ないだろ」
「あるよ。ってかいつまで転校生扱いなんだよ」
「転校生には変わりないだろ」
 一台の車が通り過ぎた後、俺はもう一度押しボタンを押し、信号を見上げる。
「蓮ってさ、やっぱ伊藤のこと好きなの?」
「違う! いや、違わないけど……」
「どっちだよ」
 呆れたように笑う隼人に俺は答える。
「話を聞きたいのは、隼人が俺の友達だからだよ」
 影が落ちた隼人の顔は、まるで転校してきてすぐの俺のようだ。
 辛気臭くて、鬱々として、生きているかも死んでいるかもわからないような、そんな俺に声をかけてくれたのは隼人だった。
 最初はうざかった。勢いだけで中身がない会話も。無駄に声が大きいところも。眉毛の細さも。だけどほんの少しだけ、嬉しかったんだ。
それに、あの時隼人が声をかけてくれなかったから俺は今も学校で誰とも話せていないかもしれない。この世の不幸をすべて背負い込んだような気になり、自分の殻に閉じこもり、人を拒絶したままの自分の背中は簡単に想像がつく。
 だから俺はあの時言われた言葉をそっくりそのまま返してやる。
「暗い顔したやつは嫌いなんだよ。だから友達になって一緒に笑うんだろ?」
「……」
「だから隼人が抱えてるもの、俺にも分けてくれ」
少しだけ目を見開き、隼人はまた呆れたように笑った。
「臭いセリフだな」
「お前が言ったんだよ」
 歩行者用の信号が青く光る。
 俺たちはともに一歩踏み出す。


 隼人とともに訪れた先は寂れた児童公園だった。
やけに静かで不自然な空白が多い。きっとシーソーやジャングルジムなどの遊具が撤去されたのだろう。
子どもが一人もいない公園の中、俺たちは並んで唯一の遊具であるブランコに腰かける。緑色の塗装がところどころ剥げ、錆の赤茶色がまだら模様になっている。少し動くだけで鎖が軋む音が公園中に響くようだった。
「垂れてるぞ」
「やべ」
 隼人に言われ、俺は残りわずかとなったジャイアントコーンを無理やり口に押し込む。ここへ来る前にコンビニでアイスを買った。隼人が持つガリガリくんは半分までかじられている。
「去年、同じクラスに森桃子ってやつがいたんだ」
俺は急いで口を動かし、隼人の告白に耳を傾ける。
「森桃子。丸顔で、猫目のどこにでもいる普通の女子。だけど、あいつはクラスで浮いてたんだ」
「へぇ……」
 隼人自身でも、伊藤さんでもなく、突然語られる森桃子という生徒の話に多少戸惑いながらも、俺は口いっぱいのアイスとともにいったん飲み込むことにした。
「どうして浮いてたの?」
「空気が読めなさすぎて。入学早々、他人の会話に入り込んで自分の話ばかりしてて。相手が興味なさげな素振りをしてもお構いなしで。……あ、森の空気の読めなさが爆発した話があってさ」
 そうそう、と隼人は思い出したように続ける。
「現国の授業の時に先生が「発」っていう字を黒板に書いたんだけど、森が手をまっすぐ挙げて言ったんだよ。「先生、書き順が違います」って。俺たちはやばって思って。その時の現国の先生がめちゃくちゃ厳しいで有名な先生だったから。案の定、先生は顔真っ赤にして大激怒。「人の揚げ足を取って楽しいか」とか「先生を馬鹿にしているのか」とかもうめちゃくちゃ。俺に言われてるわけじゃないのに聞くだけで内臓が痛くなるような怒鳴り声でさ。だけど森は涼しい顔で全部に反論するんだよ。「楽しくないです」「馬鹿にしてません」って。それで結局授業が終わっちゃって。クラス中から反感買ってたんだけど俺はちょっとすごいなと思ったんだよ。逆に尊敬というか」
 隼人は微かに笑い、久々に森のこと思い出したわ、と独り言のようにつぶやく。
「隼人は森さんとは話さなかったの?」
「話さねえよ。だってうざいし」
 隼人は鼻で笑い、首を振る。
「基本的には誰も話さない。向こうから話しかけられても最低限の会話で終わらせる。それがうちのクラスの暗黙のルールだった。けどあいつ、夏目は結構あたりが強かったな」
「夏目って、夏目ありさ?」
「そう。春の頃はそんなことなかったんだけど、だんだん無視したり、からかったり。まぁその程度だけど。森は小学生のころ転校ばっかりしてたらしいからさ。あのウザさは根本的に人との関わり方というか、友達の作り方がわかっていないからって感じだったな」
 森桃子という生徒についてはおおよそ把握ができた。
空気が読めなくて、うざい。
でも、そんな人は少なくない。前の学校にもいた気がする。隼人と同じく、積極的に関わらなかったからよく覚えていないけど。
隼人は先ほどまでと変わらないトーンで話を続ける。
「そいつがある日、死んだんだ。橋から落ちて」
「え」
 一瞬の沈黙の中、鳥の羽ばたく音が遠くに聞こえた。
「落ちてって……それじゃあ」
「飛び降り自殺」
 俺が想像した言葉が、隼人の口から出てきた。振り向くと隼人は地面に落ちた自分の影を見ていた。
「って思うよな、普通。だけどあれは自殺じゃない。ただの事故だ」
「なんでわかるの。隼人はその場にいたの?」
「いいや。でも、警察が調べて、教育委員会が発表したから、あれは事故だよ」
 隼人の言葉に俺は身体が反射的に動いた。
「だからって事故かどうかはわからないだろ!」
 俺の両親は政治家の息子の危険運転によって亡くなった。しかし政治家に買収された警察は事故の原因は両親にあるとした。
他者によって両親が死んだ真実を捻じ曲げられた人間として、隼人が口にした根拠は信用ができないし、事故という真実はどうしても疑ってしまう。
 立ち上がった反動で激しく揺れていたブランコが静まったころ、隼人は俺を見上げてつぶやいた。
「それが今の伊藤だよ」
 隼人はそういうと、また地面に目を落とした。
「森は自殺したって、伊藤は思い込んでいる。俺たちが森をいじめたからだって」
隼人は話をしている途中、ずっと手についたインクの跡を親指でこすっていた。しかし、インクは消えず、手は汚れるばかりだった。
「森が死んでから一か月くらいかな。伊藤が俺たちの教室へ乗り込んできたんだ。カッターを持って」
「それって……」
 幾度となく見たあの動画。あの現場に隼人もいたのか。
 隼人はあの日の出来事を静かに語る。

 掃除時間が終わり、帰りのホームルームが始まるまでの隙間の時間。
 がやがやと騒がしい教室は勢いよく開いた扉の音で一気に静まり返る。
 そこには見知らぬ女子生徒が立っていた。長い前髪で顔がよく見えず、姿勢も少し曲がっている。生気を感じない不気味な出で立ちにクラス中が注目していると、女子は教壇に立ち教室を見渡す。
「夏目ありさって誰?」
 女子の質問に、みんなの視線は自然と夏目に集まる。
「お前か」
「なに?」
 夏目はその場を動くことなく、女子をにらみつける。
「お前、桃子のことをいじめていたんだろ」
「は? なに急に。てか誰?」
 すると女子はポケットから静かにカッターを取り出す。ギギギ、と音が鳴ると、鈍く光る刃先が現れ、夏目へと向けられる。
 短い悲鳴が響き、あちこちから椅子を引きずる音が聞こえた。すぐに逃げるためか、または無意識の行動か、複数の生徒は勢いよく立ち上がった。
「私は伊藤美優。あんたの質問には答えた。次はお前が私の質問に答えろ。お前が桃子をいじめたのか?」
 夏目もまた立ち上がり、動揺した様子で答える。
「違う! 私は……!」
「どうなの。みんな」
 伊藤はまた教室中を見渡す。しかし、みんなの視線は伊藤から逃げるようにまばらに散らばる。
「誰も何も言わない。そうやって見て見ぬふりをしてたんだね」
 呆れたようにつぶやくと伊藤は教壇を降り、教室の中心へと進む。一歩、また一歩と進むたびに、クラス中が伊藤から距離を取るように教室の隅へとよける。
「どうして桃子は死ななきゃならなかったの。桃子を殺したのはお前たちだ!」
 金切り声で叫ぶと、伊藤は胸を抑えながら息を荒げる。
 どうやら持病の発作が起こったらしく、伊藤はそれ以上動くことはなかった。しかし倒れることもなく、両手で力いっぱいにカッターを握りしめ、四方へ散らばる俺たちに向かってこう叫び続けた。
「殺してやる! お前ら……、お前ら全員殺してやる!」

 語り終えた隼人は少しの間口を閉ざすと、なにかを振り払うように小さく頭を振る。
「そのあと伊藤は岡田、……っていう先生が取り押さえたんだけどさ」
「岡田って、あの?」
「あの? 岡田は俺たちの担任だけど。岡田のこと知ってんの?」
「えっと……」
 一か月前に殺そうとしていたとは言えずにいるとふいに杉山が言っていた噂を思い出した。
「岡田先生って、パパ活して他校に移動したって聞いたことがあって」
「誰にだよ。そんなのあいつのことが嫌いな奴が流したデマだろ」
「デマ……」
「岡田はすげー嫌われてたし、確かにむかつく先生だったけどクズじゃなかった」
 隼人の言葉を聞いて、生徒たちにバーベキューをふるまう岡田の姿が浮かんだ。
「これが、伊藤を避けてる理由」
 いや、違うか。と隼人は眉間にしわを寄せ、苦しそうに呟く。
「伊藤を見ると考えちゃうんだ。森は、本当は自殺だったんじゃないかって。俺がその原因の一つだったんじゃないかって。それが、正直しんどい」
 隼人の声は震えていた。弱々しく、なにかに怯えているように。
 しかしすぐにいつもの調子に戻り、努めて明るい口調で話す。
「よく言うじゃん。いじめの傍観者だっていじめに加担してる加害者だって。でもさ、知らねえよ。こっちはなにもしてねえんだから。あいつがうざいから関わらなかっただけなのに。いじめてたのは夏目なのに。なんで俺たちが責められなきゃいけないんだよ!」
 隼人は俺の顔を見て驚いていた。きっと、自分でもどうして大きな声を上げているのかわかっていないのだろう。
 怒っているのか、泣いているのか。俺に隼人の感情はわからない。なんて声をかければいいのかもわからない。
 しかし、隼人の戸惑いだけが痛いほど伝わってきた。
「隼人……」
「もういい?」
 隼人は力なく笑い、うなだれる。
「俺はもう忘れたいんだよ」
 隼人は思い出したようにガリガリくんを口へ運ぶが、すっかり溶けておりちょっとの振動でぼろっと崩れた。
 赤く燃える夕空の下。隼人の手にははずれの木の棒。地面には青い液体が染みていた。