阿野の家で実験をした日から一週間と少しが経った。
実験で得たデータをもとに土砂崩れを起こすために必要な爆薬の量が判明した。幸いにも爆薬はトンネル前のプレハブ小屋に放置されたままのダイナマイトで足りそうだ。
あとは鈴井高校女子テニス部の合宿日である作戦決行日を待つだけだ。
 作戦。それは岡田雄介を土砂崩れにみせかけ殺すこと。
 人を、殺す。
 俺は椅子に座り、もう何度見たかわからない動画をまた再生する。
 廊下には騒ぎを聞きつけた他のクラスの生徒がすでに集まっていた。
ただ事ではないと察した生徒の一人は好奇心かジャーナリズム精神か、スマートフォンで撮影を始めた。離れた場所からズームして撮影しているので画質は荒く、手振れもひどい。しかし耳を塞ぎたくなるような叫び声は確かに動画へ収められていた。
「殺してやる! お前ら……、お前ら全員殺してやる!」
 このショッキングな映像はすでにほとんど削除されていると杉山は言っていたが、それでもすぐに見つかった。
 午前十一時前。朝でも昼でもない、休日のなんでもない時間に俺は十秒弱の短い映像を繰り返し再生する。
教室の隅には生徒が追いやられ、中心には両手でカッターナイフを持ちうつむく女子生徒の姿が映っている。女子生徒の顔はよくみえないが、この声、後ろ姿。間違いなく伊藤さんだ。
『その学校って、人を殺した生徒がいるってマジ?』
『あいつには関わらないほうがいいぞ』
 動画を消すと杉山の声に続いて、いつかの隼人の言葉が聞こえた気がした。
 すると玄関が開く音が聞こえた。
「ほんまあっついな東京は」
 声の主は紬姉ちゃんだ。直美さんの娘であり、俺のいとこにあたる紬姉ちゃんは関西の大学へ通うために一人暮らしをしている。俺が今いる部屋はもともと紬姉ちゃんの部屋だ。そういえば、夏休みの間に少しだけ帰ってくるって言ってたっけ。
 俺はあいさつをしようとドアノブに手をかけるとリビングの方から直美さんの声が聞こえてきた。
「紬、おかえり。なにそのしゃべり方」
「ただいま。友達の方言が移っちゃった」
「方言ばっかり使ってると標準語が話せなくなるよ」
「お母さんだって東京長いのに、いまだに怒ると博多弁ばりばりじゃん」
「えーそうだっけ」
 なんてことない会話が扉越しに聞こえてくる。
 おかえりとただいま。
 二人の間を当然のように交わされる言葉たちに胸が苦しくなる。俺にはもう「ただいま」と言いたい人も「おかえり」と言ってほしい人もいない。
俺は財布とスマートフォンだけを持って扉を開ける。
「蓮! 久しぶり」
「久しぶり。直美さん、俺ちょっと出てきます」
「え?」
 直美さんの心配そうな顔に気づかないふりをして玄関で靴を履く。
「友達と会う約束してて」
「へー、友達できたんや」
「こら、失礼なこと言わないの」
 直美さんは紬姉ちゃんの頭を小突く。
「私は心配してただけやっちゅうねん!」
 そう言って紬姉ちゃんは頭をさすりながらリビングへと入っていった。そんな二人のやりとりに苦笑しつつ、俺も靴を履き替えると直美さんが呼び止める。
「蓮くん」
 振り返ると直美さんはぎこちなく口角を上げて笑っていた。
「なにかあった?」
「え」
 突然の質問に戸惑う俺に直美さんは首を振る。
「いや、なにもなかったらいいんだけど。なにか悩んでることがあったらなんでも言ってね。子どもは親に……、大人に心配かけるくらいがちょうどいいんだから」
「……ありがとうございます」
 困り顔の直美さんに頭を下げて早々に玄関を出る。
背中で扉がバタンと閉まる音を確認し、俺は息を大きく吐いた。
ここはやはり居心地は悪い。


 立っているだけで体中から汗が噴き出す。背中にシャツが張り付く感触が気持ち悪い。次の電車はいつだ。俺は電光掲示板を見上げる。
「桐谷くん?」
 声のする方へ振り替えると伊藤さんが「やっぱり」と駆け寄ってきた。
 汗でデロデロな俺とは対照的に涼しげな顔の伊藤さん。夏の空気にぴったりな真っ白なワンピースもよく似合っている。
「伊藤さ……」
声をかけようとした瞬間、あの動画が脳裏によぎる。
『あの動画に映ってるのって伊藤さん?』
『伊藤さんはすでに誰かを殺しているの?』
 俺は本当に聞きたいことを飲み込んで別の質問を口にする。
「どこか行くの?」
「病院」
「え、具合悪いの?」
「ただの定期検査。桐谷くんはこれからどこかいくの?」
「俺は……」
目的地はなかった。ただこの町から離れたくてなにも考えず今、駅のホームに立っている。
 俺は今更考える。
俺はどこに行きたいのか。
俺に行くところはあるのか。
「ちょっと、墓参りに」
「誰の?」
「両親の」
 きっとさっきまで両親のことを考えていたせいか、とっさに口が動いた。墓参りか。思えばこちらに引っ越して以来、行っていないな。
「そっか」
「交通事故で」
 聞かれてもいない理由を口にしてすぐにアナウンスがなり、電車がホームに滑り込む。すると伊藤さんは俺にぐっと歩み寄り、俺の顔を覗き込む。まるで初めて会った時のように。
「ついて行ってもいい?」
「え、でも検査は」
 そう言っている間に電車の発車を告げるアナウンスがなり、伊藤さんは電車へと乗り込む。
「ほら、早く」
 そう言って差し出された細くて白い伊藤さんの手を俺は掴んだ。
 電車は静かに進みだす。

 冷房が効いた車両には俺たちの他に優先席に座るおばあちゃんが一人、あとは頭を垂れて寝ているサラリーマンしかいなかった。
 俺たちは中央の座席に並んで座る。
一定の間隔で通り過ぎるふみきりの警告音。強い日差しに当てられ光り輝く集合住宅の屋根たち。
伊藤さんは何も話さない。しかし、その沈黙には優しさがあった。
邪魔はしない。だから話したければ話して。話したくなければ話さなくていい。そんな風に言われているような沈黙だった。
駅を二つすぎたころ。俺は揺れるつり革を見上げながら、なんとなく両親の事故について話した。


 あの日は雪が降っていた。
 窓を締め切っても冬の冷気が部屋の中へと入り込むほどの寒さだった。
俺は布団にくるまりゲームをしていると母さんが外食をしようと部屋に入ってきた。俺は行きたくないと断ったが、母さんは部屋の扉を開けたまま「早くしてよ」と聞く耳を持たずに去っていった。
寒すぎ。扉を閉めようと渋々布団から出て、俺はそのまま厚手のコートを羽織った。リビングに出ると最近出張や学会で家にいなかった父さんが車の鍵を持って立っていた。
「じゃあ行こっか」
 高校生になり、家族三人で出かけることはめっきり減った。親よりも友だちと出かける方が楽しい、友だちとの約束がなければ家でゴロゴロしておきたい。だけど、いつのまにか白髪が増えた父さんの運転姿や、そんな父さんを助手席から見つめる上機嫌な母さんの横顔を見るのは好きだった。
 いつか免許を取ったら、二人を乗せて旅行に行こう。
 車の中は暖かくて、車体の揺れに微睡みを覚え、少しだけ目を閉じた瞬間。強い光がまぶたを透かして目に入った。
 急ブレーキによりシートベルトが身体に食い込む。フロントガラスには蜘蛛の巣のようにヒビが入る。車体は仰け反り、世界の上下が反転する。
 煙の匂い。冬の匂い。鉄の匂い。
 意識は戻ったが身体が思うように動かない。痛みはあるが身体のどこが痛いのかもわからない。
なにがあったんだ? 父さんは? 母さんは?
なにを思っても、なにを考えても言葉が上手く発せない。
「……マジかよ。めんどくせぇなぁ」
 ぼやける視界の中、フロントが潰れたスポーツカーから若い男が二人降りてくるのが見えた。
「きゅ、救急車呼ばなきゃ……」
 痩せた男は焦った様子でポケットに手を入れるがもう一人の浅黒く焼けたガタイのいい男がそれを阻止し、自分のスマートフォンを取り出す。
「いや、その前に親父に電話だ」
「でも、相手の車から血が……」
「でもじゃねえ! どうせ死んでるよ……」
 そこで俺の意識は途切れ、次に目を覚ましたのは病院だった。
俺は警察から父さんと母さんが死んだことを知らされた。事故の原因は父さんの危険運転だと言われた。違うと言っても警察は相手にしなかった。
「この度はご愁傷さまでした」
 事故から一週間が経ったころ、事故相手の弁護士というスーツ姿の男がやってきて一枚の手紙をよこした。形式張った謝罪の文章は手書きだったがミミズが這ったような乱雑さで『桐谷』を『銅谷』と書き間違えていた。
 結局、相手の運転手は一度も見舞いにも謝罪にもこなかった。

「あとからわかったんだけど相手の運転手は地元政治家の息子だったんだ。きっと警察を買収していろんな証拠をもみ消したりしたんだと思う。なんかドラマみたいだよね」
 悲しい空気になるのが嫌で笑ってみせるが乾いた笑いしか出なかった。
 他人に事故のことを話したのは久しぶりだ。隼人にも簡単にしか話していない。だって。
「なにそれ。ありえない」
 伊藤さんの瞳は今にもこぼれそうなほど涙で濡れていた。
 みんなそうだ。俺はわずかに微笑みながらも目には悲しみを浮かべ、お決まりのセリフを口にする。
「泣かないでよ。でも、両親のために悲しんでくれてありがとう」
 この表情にも、状況にも慣れてしまった。
 みんな、俺を哀れむばかりだった。
直美さんやおじさんや紬姉ちゃん、周りの大人も友だちも。しかし考えてみれば突然両親を亡くした子どもには同情するのが当たり前だ。
そんな子どもが警察の発表は嘘だと言い、事故の原因は両親ではなく相手だ、と怒り、必死に訴えるさまはやはりみんにこう思わせた。
ああ、かわいそうに、と。
それから俺は何を言ってもますます同情された。かわいそうに、かわいそうに、と。
俺を抱きしめ、頭をなで、俺よりも涙を流す大人たちを見て、俺は怒ることを止めた。そして、事実を訴えることをあきらめた。
だけどやはり同情されるのだけは嫌だった。両親を失った悲しみを、絶望を、他人の口から聞くたびに俺の心を勝手に共有されているようで、俺の大切な部分に土足で入り込まれるようで気が狂いそうだった。
だから俺は考えた。最短で相手からの同情を終わらせる方法を。
それが「両親のために悲しんでくれてありがとう」だ。
こう言えば俺はすでに悲しい事故を、そして両親が亡くなった事実を乗り越えている感じになり、相手は過去の話題からこれからの未来のことを話すようになる。
こうやって俺は大人からの同情をできるだけ避けた。だけどまだ直美さんからはずっと同情を受けている。俺が好きな料理を作ることも。いつもよく世話をしてもらうのも全部同情。だから苦手なんだ。
あの家にいる限り、俺はずっとかわいそうな子どものままだから。
「違う!」
しかし、伊藤さんの第一声は俺の予想と異なった。
 伊藤さんは裾をぎゅっと握る。細い血管が浮き出るほど強く。震えるほど強く。
「もちろん悲しいことだけど、私はそれ以上に怒ってるの!」
「え」
 電車は橋の上を通過する。川面に反射する陽光が車窓から入り、伊藤さんを光で縁取る。
「人はいつか死ぬ。必ず死ぬ。それはわかってる。だけど、理不尽に奪われていいわけない。人の命を奪ったものは報いを受けるべきなの」
 伊藤さんは消えそうな声でつぶやく。
 おれはいつもの表情ができなくなっていた。
表情から、声から伝わる伊藤さんの怒りに、俺の心が共鳴する。
腹が立つ。
両親の代わりにお前が死ねばよかったんだ。
あいつのことを殺してやりたい。
誰にも認められず、ほとんど消えていた怒りの炎を伊藤さんが優しく包み込む。
 自分の代わりに怒ってくれる。
自分以上に怒ってくれる。
 俺は半年前に枯れ果てたたはずの涙で視界がぼやけた。
「桐谷くんがそいつのことを本気で殺したいと思ったらいつでも言って。今度は私が手伝うから。絶対に」
「……うん」
 やっぱり、伊藤さんはいい人だ。そんな伊藤さんが理由もなく人を殺すとは思えない。
 じゃあ、理由があったら……。
『あいつには関わらないほうがいいぞ』
 またしても聞こえてきた隼人の言葉に俺はこう言い返した。
『俺は知りたい。だから伊藤さんが教えてくれるまで俺は一緒にいるよ。人を殺そうとする本当の理由を』
 俺は伊藤さんの拳の上にそっと手を重ねる。
伊藤さんは拳を解き、俺の手を強く握った。
電車は静かに、確かに進む。


 作戦決行の日。
 バスを降りると地面のあちこちに水たまりができていた。天気予報の通りN市では連日大雨が降っていたらしい。地面はぬかるみ、穏やかだった小川は濁り、激しい勢いで流れている。
 これなら土砂崩れが起きても不思議ではない。
 運が私に味方をしている、と嬉しそうに曇天を進む伊藤さん。俺は荷物を背負って後を追う。
 霧がかった山道を進み、俺たちは廃れたトンネルへとたどり着く。
「よし、いける」
 作戦の唯一の懸念点は経年劣化により、爆薬が湿気って使えないことだった。しかし、プレハブ小屋に放置されたダイナマイトはいつからここにあったか不明だがとても保存状態がよく、ここでも運が味方をしてくれた。
 ダイナマイトは一つの塊が小包程度の大きさだった。俺たちは手分けをしてプレハブ小屋から運び出し、ヘッドライトをつけトンネルへと入る。
「ストップ。たぶんここだ」
事前に推察した山肌が露出した箇所の位置にダイナマイトを重ねておいていく。プレハブ小屋とトンネルを何度か往復し、実験で導きだした土砂崩れを起こすために必要な爆薬を運び終えると伊藤さんは積まれたダイナマイトに持参した起動式の起爆装置をつなぐ。
「ここに、この配線をつないで、それから……」
作業員のおじさんに教えてもらったことを口ずさみながら手を動かしていると、電源ランプが緑色に光った。
「できた!」
これで伊藤さんが起動ボタンを押せばランプが赤色に光り、ダイナマイトは爆発する。顔に汚れをつけた伊藤さんは息をつき、ぼそりと呟く。
「やっと、やっと殺せる。あとは、夏目ありさともう一人……」
 安心と不安。達成感と途方のなさ。
 その呟きには伊藤さんのあらゆる感情と伊藤さんが過ごしたたくさんの時間が詰まっていた。
「もう一人ってどんな人?」
「金子進っていうおじさん。でもまだ家がわかってないんだよねぇ。職場も警備員とかいたし」
「そっか」
「まぁそいつはいいタイミングがあるから、最後にしてたんだ」
「いいタイミングって?」
「それはまた今度ね」
 そういって伊藤さんは爆弾の最終チェックを始める。
 高校生の夏目ありさ。
体育教師の岡田雄介。
そして金子進というおじさん。
三人の共通点を考えていると突然まばゆい光に目がくらむ。ヘッドライトをつけたままの伊藤さんが俺の前に立ったから。眩しそうに顔を歪める俺に伊藤さんは「ごめん」と笑い、初めてあった時のようにグッと顔を近づける。
「これからもお願いね。作戦の名前は私が考えるからさ」
「……作戦名はどうでもいいけど」
「じゃあ準備できたら電話して?」
 そうして俺たちはトンネルの中で別れた。
伊藤さんはプレハブ小屋がある入口へ向かう。起爆装置の電波が届く範囲ギリギリで待機し、俺は反対側の出口から岡田の家の近くで待機する。
 事前に杉山から女子テニス部の練習日程のタイムスケジュールを送ってもらった。合宿の三日間で今日だけ練習が早めに終わる予定だ。
 岡田が家に戻ったことを俺が確認する。俺から連絡を受けた伊藤さんが起爆スイッチを押す。そうすれば爆発の衝撃でトンネルは埋まり、地盤は揺れて樹木が生えていない山肌は土砂が滑り落ちる。そうして起きた土砂崩れは岡田の実家を飲み込み、岡田を生き埋めにする。
 俺は土砂崩れに巻き込まれずに岡田の家を視認できる場所へと移動するためにトンネルを出るが目に入った光景に思わず足が止まってしまった。
「え」
 岡田の家の方角から煙が上がっている。なんの煙だ。
俺は草むらに隠れるように静かに倉庫の裏へと身を潜める。すると、わいわいと騒がしい女子たちの声が聞こえてきた。
 顔を覗かせると庭でテニス部の女子たちが炭火を囲み、バーベキューを楽しんでいた。
「お前ら、じゃんじゃん食べろよ!」
 頭にタオルを巻いた岡田が声をあげ女子たちが「はーい!」と楽しげに返事をする。
 なんで。
テニス部の女子たちは宿泊先の旅館に帰っているはずじゃ……?
 戸惑いながら様子を見ていると一人の女子がこちらに向かって歩いてくる。
あれは、杉山愛菜?! 
俺はとっさに隠れて身を潜める。ここでバレたら全てが台無しだ。俺は祈るように目を閉じ気配を消すが足音はずんずんと近づいてくる。
「ねぇ、なんで急にバーベキューな訳?」
「愛菜知らないの?」
 すると杉山は倉庫の壁にもたれて誰かと話を始めた。
 よかった、俺に気づいたわけではなかったのか。
 俺は音が出ないようにゆっくりと息を吐き、聞き耳を立てる。
「親から聞いたんだけど今年の夏合宿が中止になりそうだったんだって」
「え、なんで?」
「予算の問題だって。去年うちの部活いい成績残せてなかったし。合宿の費用がもったいないって」
「そんな……」
「でもね、岡田先生が合宿はやるって言ってくれて。まぁ来たばっかりでなんの権限もなかったし、結局予算はもらえなかったんだけど。その代わりに自分の生まれ育った地元でみんなに楽しい思いをしてほしいって。このバーベキューも全部岡田先生のおごりだって」
「マジで? なんでそこまで……」
「さぁ。口は悪いし誤解もされやすい性格だけど、ちゃんと私たちのこと考えてくれてるんじゃない?」
「ふーん、やるじゃん。岡田のくせに……」
 杉山がぶっきらぼうに言い放つが、その言い草には嬉しさがこもっていた。
 なんだ。これ。
 俺はこの違和感に覚えがあった。
 それは夏目ありさに感じたそれと同じだ。
 俺は伊藤さんの話や隼人から聞いた噂から頭の中で夏目ありさを気が強いいじめっ子のように想像していた。しかし、目の前に現れた彼女は人を気遣う優しさを持ち、弱弱しい印象だった。
 岡田も、噂や杉山から聞いた情報から贔屓を行い、生徒に手を出すクズ教師だと思っていた。
 なのに、今の岡田は生徒を思い、行動している。
 俺は、二人が誰かに殺されるような悪人には思えない。
 じゃあどうして、伊藤さんは自分の人生をかけて二人を殺そうとしているんだ。
 するとスマートフォンが震え、俺はその場を離れて通話ボタンを押す。
「どう? あいつはもう家にいた?」
 電話口から伊藤さんの声が聞こえ、俺はダイナマイトを設置した時の伊藤さんの横顔を思い出す。真っ暗なトンネルの中でヘッドライトのわずかな光によって浮かび上がった伊藤さんの切なる表情を。
 だけど。
「ダメだ。中止にしよう」
「……え?」
 俺は今の岡田の家の状況を説明する。
俺たちがやろうとしているのは岡田を殺すこと。だが今のままでは岡田だけではなく鈴井高校の女子テニス部全員が土砂崩れに巻き込まれてしまう。
あまりにも犠牲が多すぎる。「だからまた……」と言いかけて次の言葉に詰まった。
 また、っていつだ。
今が待ちに待った千載一遇のチャンスだってことは作戦を考えた俺が一番分かっている。だからこそ、次の機会はいつやってくるだろうか、と考えてしまう。
いつだ。一体いつになったら。
伊藤さんは自分のお願いから解放されるのだろう。
 だけど。今日はダメだ。
「また今度。岡田だけがいる日を狙って……」
「今からスイッチ押すから、桐谷くんは早くそこから逃げて」
 俺が吐いた安い希望の言葉を、伊藤さんは気高く凛とした言葉でかき消す。
「待って伊藤さん!」
「だって関係ないよ」
 伊藤さんはぼそりと呟く。
「これは犯人のいない殺人、災害なんだから。桐谷くんが言ったんでしょ?」
 伊藤さんはこれから俺が言おうとしていることを全て分かっているようだった。だけどそれ以外にいうことができなくて、俺は必死に訴える。
「一人ならただの事故として処理されるかもしれない。だけど、大勢の人が亡くなれば必ず土砂崩れの原因を調査される。そうすれば必ず自然災害じゃないことがバレる。そしたら俺たち……」
「大丈夫。桐谷くんのことは絶対に言わないから」
「そうじゃなくて!」
 全く手応えがない問答は伊藤さんの一言で幕を下ろした。
「私は死刑になっても構わない」
 そして伊藤さんはこう締めくくる。
「それが、この物語の結末だから」
 初めてこの村を訪れた時、バスで山口さんと話した会話を思い出す。
『小説の結末。罪を犯した人間がそのままってことはないでしょ?』
『捕まるとか、さらなる犯罪に手を染めるとか。どうなるの?』
 これは物語じゃない。人生だ。これまでの伏線がすべて回収される見事な結末も、だれもが感動する大団円もない。
人生はどうしようもなく続く。死ぬまで。
『だから私、後悔したくないの』
『私の人生はあいつらを殺すためだけに使う』
 伊藤さんは自分の願いを叶えることに人生をかけている。それは願いを叶え終わった未来に生きていくつもりがないということだ。
「そんなのダメだ!」
 気がつけば足が動いていた。
生い茂る雑草を踏み分け、トンネルへ入ると電波が途切れ、通話が切れた。ヘッドライトをつけ、走り続けると小さな緑色の明かりが見えた。
「あった!」
俺は息を切らしながら爆弾のそばへとしゃがみ、コードに手をかける。仕掛けた時と逆の手順で分解すれば爆弾は解除されるはずだ。
 汗がポタリと垂れる。いつまで立っても息が整わない。俺は爆弾を見つめる。電源の緑色の明かり。伊藤さんが起爆ボタンを押した瞬間、ランプは赤く光り、爆弾は爆発する。
 そうすればトンネルは崩壊し、地盤が緩い山は土砂崩れを起こし、岡田や杉山たち女子テニス部は巻き込まれ死ぬだろう。もちろん目の前で爆発を受ける俺も……。それでも……!
「っ……!」
 俺は震える指先でコードを引き抜く。


 生、きてる……。
 俺は地面へ倒れ、明かりが消えた電源を投げ捨てる。
 どれほど時間が経っただろう。長い間倒れたままな気もするし、一瞬な気もする。でも、そろそろ行かなきゃ。伊藤さん、まだ居るかな。一人で帰っちゃったかな。そんなことを考えながら俺はゆっくりと立ち上がる。
足が重い。腰が重い。体が重い。まるで長い間泳いだ後に海から上がった時のような疲労感だ。
俺はゆっくりとトンネルを出ると伊藤さんが立っていた。俺は伊藤さんの顔を見ることができず、ぬかるんだ地面へ視線を落とす。
「ごめん」
「お願い、聞いてくれるんじゃなかったの?」
「それは……」
 顔を上げるとすでに伊藤さんは俺に背を向け、歩き出していた。


 村を出るバスの中。
 俺たちは初めてきた日と同じように奥の席に座り、お互いに反対側の窓側に座った。
 荒れた道を進むバス。揺れる車内で俺は自分の手のひらを見つめる。
 伊藤さんのお願いを聞くと誓い握った手。
 俺の代わりに怒ってくれた伊藤さんと握った手。
 そして、そんな伊藤さんお願いを破った俺の手。
 俺はなにをしているんだ。
 俺はなにがしたいんだ。
 俺はなにをするべきなんだ。

 俺は……。俺は。

 いくら考えても答えが出ないまま。結局、俺たちは一言も言葉を交わすことなく自分たちの街へと戻った。