「3……、2……、1、爆破!」
 ボタンを押すと、世界は一瞬にして激しい光に包まれた。地面が微かに揺れ、轟音とともに黒い爆煙が空へと立ち込める。
 爆破箇所から遠く離れた俺たちの元へ生暖かい爆風が火薬の匂いとともに届く頃、宙に舞い上がった砂や小石が雨のようにパラパラと降り注ぐ。
 静寂の中、運動場に散らばった火のついた残骸を呆然と見ているとどこからか「ウヒョー!!」と言葉にならない奇声が聞こえる。
「これだよ! 私はこういう実験がしたかったんだ!」
 拳を空へと突き上げ、内側から溢れ出す興奮を全身で表現しているのはヘルメットを装着した白衣姿の山口さん。
「遼太郎! 震度は!?」
「計測中です!」
 仮設テントの中で震度計を操作している阿野が答える。
 そんな二人を見て、安全第一と書かれたヘルメットをかぶった俺と伊藤さんは顔を見合う。
 俺たちは視線を交わして互いの心中を察する。
 やはり俺が思っていることは伊藤さんも思っていることで、伊藤さんが言いたいことは俺も言いたいことだった。

──まさか、こんなことになるなんて……。


 時は二週間前にさかのぼる。


 俺は風呂から上がり、髪を乾かしながら殺人のアイデアが書かれたノートを見ていた。
 山口さんはミステリー小説から得た膨大な知識から俺たちでは思いつかないトリックをたくさん提案してくれる。それ自体はとてもありがたいが、やはりミステリー小説は創作物だ。それらのトリックが実現可能かを実験せずとも、再現性がないこと、成功率が極めて低いことに俺が気づいて却下している。
「ごめん、いっぱいアイデア出してもらっているのに否定ばっかりして」
「ううん! 桐谷くんも殺人に関する知識が豊富だね! 負けてられないな!」
 そう言って山口さんは腕を組んで考え込む。
 そんな山口さんの様子を阿野は静かに隣で見ている。
 正直、同じ化学部であっても協力して欲しかったのは山口さんであって阿野まで計画に参加してもらうつもりはなかった。阿野は会議中に一言も言葉を発さない日もあり、正直乗り気という訳でもなさそうだった。だから以前「無理に参加しなくてもいいよ」と伝えたが「大丈夫です」とだけ言い、今も会議に参加している。
 なにが大丈夫で、今はなにを考えているのだろう、と阿野を見ていると突然山口さんがあぁ〜と机に突っ伏し「これが厄介なんだよな」ノートに書かれた条件をボールペンで囲う。条件とはターゲットである鈴井高校の体育教師で女子テニス部顧問の岡田雄介を殺す上でクリアしたい事柄である。

・日常の大半を校舎内で過ごす。
・移動中、一人になる環境がない。
・自宅はオートロック、防犯カメラ付き。
・相手は武道経験者。

 逆に言えばこれらの条件をクリアしなければ、岡田雄介は殺せないということだ。
「もうさ、場所かキャラ設定かどっちか書き換えなよ」
「書き換えられるもんなら書き換えたいよ」
 昼間に言われた山口さんの文句に、俺は今更言い返す。
 この殺人計画を俺と伊藤さんがミステリー小説を書くため、つまりフィクションだと思い込んでいる山口さんは簡単に言う。
 しかし、これは現実の話だ。俺と伊藤さんが現実に存在する岡田雄介という一人の男を殺すための殺人計画。
 人を殺すのは、こんなにも難しいことなのか。
 父さんも母さんは、あんなにも簡単に死んだのに。
 気持ちが沈みかけて、ドライヤーで髪の毛の水分とともに吹き飛ばしているとスマホが震える。杉山からだ。
 鈴井高校の女子テニス部の所属している元同じ塾生だった杉山。女子テニス部の活動日や活動時間を聞き出し、顧問である岡田の行動パターンを把握するために、伊藤さんに言われるまま連絡先を交換したが、あれからもなんとなくやりとりが続いている。主に、杉山から学校や家族の愚痴を聞くだけだけど。

杉山 聞いてよ! まじ最悪なんだけど!

 今日も今日とて、杉山は元気に文句を垂れている。昔から杉山のことは苦手だけど、岡田の情報を得るためにないがしろにはできない。

桐谷 どうしたの?

 それから杉山はポンポンとリズミカルに連続でメッセージを送ってくる。
 要約すると、女子テニス部は毎年夏に二泊三日の強化合宿をしているそうだ。しかし、合宿とは名ばかりで部員全員で有名な避暑地へ行き、バーベキューや川遊びを堪能するのが通例らしいが、今年から女子テニス部になった顧問の岡田が独断で行き先が変わったらしい。
 それだけでもムカつくが、その行き先がさらに杉山を含めた部員達から反感を買っているらしい。
 行き先はY県N市。どうやらそこは岡田の地元らしい。
 強化合宿の間、女子テニス部は近くの安旅館に宿泊させ、岡田は実家で過ごすという。
 つまり、岡田は合宿の費用で、自身の里帰りを計画しているようだった。

杉山 公私混合にもほどがあると思わない?! 職権乱用だよ!

 メッセージの連投が終わり、いつものように適当にメッセージを送ろうとスマートフォンを手にする頃には髪の毛はすっかり乾いていた。返信する前にドライヤーの電源コードを抜き、まだ暖かい本体にコードをぐるぐると巻いていると、途中で手が止まった。
 待てよ。
二泊三日の強化合宿。
岡田は実家に泊まる……。
 つまり、その間は鈴井高校の校舎内にはおらず、あのオートロックと防犯カメラがついているマンションにも帰らない。
 それって、いつものルーティーンからは外れるってことじゃん!

杉山 ねぇ? どう思う?
桐谷 ありがたい!

 興奮のあまりに送ってしまった脈絡のない感謝のメッセージに対し、杉山からはハテナマークを浮かべた犬のスタンプが返ってきた。

「というわけで、設定を変えてみた」
 一学期最終日。理科準備室で俺はみんなにノートを見せる。
「今のままだと殺すのも難しいし、ここは思いきって事件の舞台を自然豊かな田舎町に変えてみたんだ」
「いいね! 旅行中に事件に巻き込まれるのはミステリーの十八番だからねぇ」
 ふんふんと鼻息を鳴らしながらノートにかじりつく山口さんは「あ」と声を漏らし「Y県N市」と書かれた部分を指差す。
「これって実際にある町?」
「そうだけど」
 質問の意図がわからずただ頷くと、山口さんの眼鏡がキランと光る。
「じゃあいくしかないね。明日から夏休みでちょうどよかった。それで、みんないつにする? 私は火曜と週末以外なら……」
「ちょっと待って。行くってどこに?」
 発言の意図がわからず首をかしげると、山口さんは右手の中指で眼鏡の縁をクイっとあげる。
「シナリオハンティングだよ」
 当たり前でしょ、と言わんばかりのキメ顔だが俺も伊藤さんも阿野もやっぱり首を傾げていた。


 扉が閉まり、バスはゆっくりと発進する。
 俺たちは一番奥の広い座席にゆったりと座り、並んで揺れるつり革をぼんやり見ていると右の窓際の席に座る山口さんはノートを掲げながら説明を始める。
「シナリオハンティングとはドラマとか映画の脚本を書くために実際に舞台となる場所に行って取材をすること。スマホで調べるだけじゃわからないその土地ならではの空気感を肌で感じて、その土地に住む人に話を聞けば、小説はより面白くなるはず!」
 堂々と言い切る山口さんの隣でスマートフォンを見ながら阿野が呟く。
「N市って有名な心霊スポットがあるんですって。昔山を開拓する工事中に大規模な事故があって、それ以来工事をしようとしたら必ず機械トラブルや事故が起きるって」
 見せて、と俺は阿野からスマートフォンを受け取りおどろおどろしい心霊サイトを読む。
「怖っ。たまにあるよな。山に昔からあった祠を壊して祟られたみたいな」
「ありますね。って、これじゃあホラー小説になっちゃいますよ」
 あははは、と笑いあっていると山口さんは立ち上がり丸めたノートで俺と阿野の頭を叩く。
「お前ら話を聞け! あと言ってるそばからスマホを見るな!」
「お客さん、運転中に立ち上がらないようにね」
「……すみません」
 運転手さんに注意された山口さんは小さくなって自分の席へ戻るとお前らのせいで私が怒られただろ! ともう一発、阿野の頭を叩いた。
 俺はしばかれないように大人しく前を見て座り、先ほどの山口さんの説明を思い出す。
 シナリオハンティング、か。初めて聞いた言葉だが確かにその通りだと思う。
 スマホで調べるだけじゃわからない。
 朝から晩までスマートフォンを肌身離さず持ち歩き、ほんの少しの隙間時間があればSNSを閲覧し、無為に時間を浪費してしまう現代人としては耳が痛い話だ。
 そういえば。
外に出ず、家の中で図鑑ばかり見ていた俺に見聞きした情報はただの情報でしかなく、実際に体験してこそ知識として身につく、と父さんは頻繁に俺を科学館へ連れて行ってくれたし、動物園やこういう自然の中で生き物にも触れさせてくれたっけ。
「あ!!」
 父さんの優しさを思い出し、胸のあたりに温もりを感じていると山口さんは突然大声をあげる。
「な、なに?」
「そう言えばさ。ラストってどうなるの?」
「ラスト?」
「小説の結末。罪を犯した人間がそのままってことはないでしょ?」
 山口さんは続けて語る。
「ミステリーに完全犯罪はない。必ずトリックは暴かれ、事件は解決する。そのあとの話。捕まるとか、さらなる犯罪に手を染めるとか。どうなるの?」
「結末は……」
 山口さんと阿野の視線から逃げるように俺は左の窓際に座る伊藤さんへと目を向ける。しかし、伊藤さんはバスに乗り込んでからずっと、俺たちからそっぽを向くように窓の外の景色を見ている。まるで俺たちの会話に参加しないという意思表明のように。
「えっと、結末は……」
「あ!!」
 すると再び山口さんは突然大声をあげ、耳を抑える。
「やっぱり言わないで! ネタバレになっちゃう!」
「……わかったよ」
 と言っても耳を塞いでいる山口さんには伝わらず、俺はOKのハンドサインを見せる。
 山口さんは「ギリセーフ……」と安心して息を吐く。安心したのはこっちの方なのに。
「完成したら絶対読ませてよね」
 先ほどまで感じていた胸の温もりは、ありもしない小説の結末を聞かれた緊張と、山口さんと阿野を騙している罪悪感ですっかり冷えてしまった。


 バスを降りると浴びるような蝉の声が耳をつんざき、草木の青々とした空気が鼻を抜けた。
 バス停は山の上にあり町を一望できた。車が一台も通っていない国道の傍に車屋や定食屋などの商店がポツポツとあるが、それ以外は一面田んぼばかり。田園の向こうには大きな山があり、山の麓に家が数軒建っているのがわかる。
 どこにでもある、なにもない田舎町だ。
「なんかあの山禿げてない?」
 立派な杉が生えた山だが、山口さんが指差す山の中腹部分は地面の色が見えていた。おそらく伐採されたのだろう。
「最終便は十七時ですって。さすが田舎」
 バス停に貼られた色あせた時刻表を見て阿野が呟く。
「これ逃すと帰れなくなりますね」
「急ごう」
 時刻はすでに十一時に迫っている。タイムリミットは六時間。限られた時間の中で岡田を殺すための手がかりを見つけるため、俺たちは足早に山を下る。

 まずは杉山たち、女子テニス部が泊まる旅館の下見だ。
 旅館は木造の二階建て。立派な瓦屋根が太陽に照っている。柱の煤けた汚れや土壁に走るヒビからはボロさではなく、歴史的な威厳を感じる。
 伊藤さんは後からも見返すようにスマートフォンで写真を撮る。
 外から様子を伺うが入り口付近に防犯カメラはなく、中庭には縁側があり、窓も解放されている。つまりセキュリティは甘く、どこからでも侵入可能だ。
「旅館で殺人も定番だよね。湯けむり温泉殺人事件とか」
「(ここに温泉は)ないですよ」
「(湯けむり温泉殺人事件は)あるの」
「いやないですって」
「だからあるって!」
 すれ違いの会話を繰り広げている山口さんと阿野を置いて、写真を撮り終えた伊藤さんは踵を返して歩き出す。
「ちょっと待って、伊藤さん!」
 伊藤さんは俺の呼びかけを無視して、進みながら町のいたるところを撮影している。
「岡田は実家で寝泊まりするから、ここの写真を撮っても意味がないんじゃ……」
「予定が変わることだってあるでしょ。それに、どこにチャンスがあるかわからないから」
 伊藤さんは撮影の手を止めない。
 事故多発の看板が立てかけてある急カーブの道路。落ちたら大怪我をしそうな深い側溝。塀の上に巻かれた錆びた有刺鉄線。それらを全て画像に収める。
 フォルダの中の画像の数だけ、伊藤さんの頭の中で岡田は何度も殺されているだろう。
 俺は未だに言い合いをしながらゆっくりと歩く山口さんと阿野を気にかけながら、ずんずんと先へ進む伊藤さんを見失わないようにあとを追う。


 次は女子テニス部が練習をするテニスコートだ。
 杉山から聞き出した住所を地図アプリに入れると、先ほどバス停から見えた山の向こう側にある『市民総合運動場』という施設に赤いピンが立った。
「ちょっと待って。こっちの方が近道っぽくない?」
 テニスコートへの移動中。
アプリの指示通りに山を超えるべく『土砂注意』や『落石注意』などの看板が立ち並ぶ山道を進んでいると、山口さんが奥へと続く細い道を見つけた。
「アプリだとこの道はまっすぐな一本道なんだけど」
 山口さんが指差す道は、画面上には存在しなかった。
「地元の人しか知らない秘密の道なんじゃない?」
 山口さんは行ってみよ、とずんずんと先へ進み俺たちも仕方なく後に続く。
「こういうところに死体を埋めて隠すってのも定番だよね」
 物騒なことを平気な顔で言う山口さん。道はだんだんと上りの覚悟がきつくなっていき、阿野の足取りが遅くなっていく。身体が大きいぶん、体力の消費も俺たちより激しいのだろう。伊藤さんが立ち止まり、阿野の下まで駆け寄る。
「阿野くん大丈夫? 荷物持とうか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 阿野が背負った荷物をそっと押して歩く伊藤さん。
「だらしないなぁ阿野! きびきび歩け!」
 身軽な山口さんは腰に手を当て、山口さんの荷物を持った阿野を叱咤する。山口さんの理不尽さにも阿野は慣れっこらしい。
 太陽の届かない鬱蒼と生い茂った自然の中、その穴は突然俺たちの目の前に現れた。
「トンネル、ですかね?」
 高さはおよそ五メートル。覗いても向こう側は見えない。真っ黒で、真っ暗な闇があるのみだ。
 トンネルの手前には使われていないプレハブ小屋があり、足元には『ただいま工事中』と頭を下げる作業員の絵が描かれた看板が朽ちて枯葉に埋もれていた。
 地図アプリに存在しない道。完成しなかったトンネル。つまり、工事が終わらなかった。それって。
「ここってもしかして、例の心霊スポットなんじゃ……」
「へ、変なこと言わないでよ」
 いつもは強気な山口さんは小柄な体をさらに小さくして阿野の後ろに隠れる。いつもの荒々しさは消え、小動物のような可愛げが溢れている。
「伊藤さんもよかったら俺の後ろに……」
「私見てくる」
 伊藤さんは少しも歩みを緩めることなくトンネルへと入っていく。
「えぇ、ちょっと!?」
 トンネル内に反響する足音がだんだんと小さくなっていく。伊藤さんを追おうとするが、トンネルに入る直前で足がすくんでしまい動けない。
 小さい頃から死について興味を抱いていた俺だが、幽霊や心霊の類は信じていない。幽霊なんているわけがない。いるわけが、ないんだけど……。
「ちょっとみてよこれ」
 振り返ると、山口さんがいつのまにかプレハブ小屋に入っていた。
「どうしたの」
「これやばくない?」
 山口さんが指さすそれは壁一面に積まれた段ボールの山。そこには「起爆薬:解体用」と書かれていた。
「起爆、解体用って……」
「ダイナマイトってこと?」
 俺たちは顔を見合い、慌ててプレハブ小屋から脱出した。
「なんであんなものが置きっぱなんだよ!」
 乱れた息を整えていると「待って」と山口さんが顔を上げる。
「伊藤さん、まだ帰ってきてないの?」
「え」
 伊藤さんがトンネルへ入ってもう五分近く経過している。
「ちょっと遼太郎。様子見てきなさいよ」
「いや、俺が行く」
 俺は一歩前へと出る。
「……いかないの?」
「行くよ!」
 バクバクと跳ねる胸に手を当てる。
 いけ! いくぞ! 頑張れ俺! 俺が伊藤さんを助けるんだ! よし!
 なんとか身体中の勇気を振り絞りトンネルへと一歩足を踏み入れた瞬間、どこからか足音が聞こえた。
「ビャッ!?」 
 俺が声にならない声を上げていると伊藤さんが戻ってきた。
「普通につながったてた。ただのトンネルね」
 時間の無駄だった、と頬を膨らましながら歩く伊藤さんの後ろを、山道を抜けるまで俺は小さくなったまま着いて歩いた。

 その後たどり着いたテニスコートでも目立った収穫はなかった。
 テニスコートのすぐそばには体育館と運動場もあったが、体育館の扉は埃で汚れ、運動場には雑草が生い茂っており、ほとんど使われていないようだった。
 見晴らしの良い広場に併設され、塗装の剥がれた金網に囲まれたテニスコートは隠れて人を殺すには不向きな場所だった。


 あとは合宿中に寝泊まりすると言われている岡田の実家だが、こればかりはしらみつぶしに家の表札を見て回るしかない。
 俺たちは一度山から離れ、田んぼ道を通って家が並ぶ集落へと向かう。
「この上から突き落としたら……流石に死なないか」
 小川にかかる短い橋を渡っている途中、山口さんは柵に手をかけ見下ろす。青々とした水草の間を透明な水が静かに流れている。
「そうだ。この間読んだ小説で川の流れを利用したトリックがあったんだけどそれが面白くてさ」
 山口さんが橋の上で立ち止まり、得意げに語り出す。
「雨が降った次の日、川下で死体が発見された。容疑者はAさんとBさんの二人。調べてみると、死体が発見された川下で殺人は行われておらず、川に流されてきたってのがわかったの。で、調べてみるとその大きな川は途中で一本の小さな川が流れ込んでいたの。川べりが砂ばかりの、小さくて細い川が」
 小さくて細い川と聞いて、まさに今俺たちの下を通っているような小川を連想する。
「それで大きな川の川上でAさんが。小さな川の川上でBさんがそれぞれ目撃されていた。小さな川は水の流れが弱く、死体が流れないことから犯人は大きな川の川上にいたAさんだと言われていたけど、名探偵の捜査の結果、犯人はBさんだった。さて、Bさんはどうやって死体を川下へ置いたのでしょうか!」
 山口さんは傍に落ちていた軽石でアスファルトにY字の道路と記し、それぞれの上部分にAとB、つながった下の部分に頭に天使の輪っかがついた棒人間を描く。
 阿野はあごを触りながら答える。
「Bさんは川に流したんじゃなくて、車か何かで川下まで運んだ。Aさんに罪をなすりつけるために」
「ぶぶー。Bさんはその場から移動していません」
 腕をクロスさせてみせる山口さんは嬉しそうで、本当にこういうトリックとか、推理小説が好きなことが伝わってくる。
 好きなものを語る時、人の表情は輝いているものだ。
「伊藤さんは?」
「わからない」
「ねー、ちゃんと考えた?」
「私、あの人に取材してくる」
 伊藤さんが向こう先には、田んぼで作業をしている人影が見えた。
「ちょっと」
「あなたが言ったんでしょ。シナリオハンティングでは人に話を聞くのがいいって」
 伊藤さんは山口さんをキッと睨み、道路から田んぼのあぜ道へと飛び移って行ってしまった。
「前から思ってたけど、伊藤さんって私にあたり強くない?」
「そうですか? 僕には普通ですけど」
「ふーん」
 山口さんの言う通り、伊藤さんは山口さんに対して攻撃的というか。山口さんだけじゃない、隼人やクラスの人たちを見る目もいつも敵対心に満ちている。
 それでも、バスの中の伊藤さんの言葉をきちんと聞いていたんだな。俺や阿野よりもちゃんと。
 話を、聞く……。
 サラサラと流れる川の音が聞こえ、俺は橋の下を流れる小川を見つめ、一つの勘違いに気づいた。
「ダムじゃない?」
「え?」
「小さな川のもっと川上にはダムがあったんじゃないかな」
 俺は小さな川と聞いて、勝手に俺たちの下を流れる小川を想像していたが山口さんは言っていた。
『川べりが砂ばかりの、小さくて細い川が……』
 ここの小川の縁には水草が生えている。水草は雨が降った程度では水量が増えたり、水流が強くなったとしても抜けたりしない。
 だが、Bさんが死体を流した小さな川は川の周りに草は生えておらず、砂ばかりだった。それは草も生えず石も流されるほど水流が一気に、かつ定期的に強くなるからだ。
「事件の日。Bさんは死体を川に投げる。その日は雨が降っていて、ダムは貯水量を確保するために水を放流。放流された水の流れで死体は大きな川まで流れて、川下で発見された。これは人々を災害から救うためのダムを利用して殺人を隠す、とても皮肉なトリックだ」
「正解! 桐谷くんすごいじゃん! 冴えてるね!」
 山口さんはガシッと両手で俺の手を握る。
「ダムの下の川の特徴なんてよく知ってたね!」
「昔父さんに山とかダムによく連れられて色々教わってたから」
「よっ! 英才教育!」
 そう言って山口さんは俺の腕を掴んだままブンブンと上下に振る。称賛してくれているのだろうが、あまりの勢いに肩が外れそうだ。
 助けを求めて阿野を見ると、阿野は目を細めじっと俺を睨んでいた。
 えぇ、なにその目、怖いんだけど……。
 そんな時、向こうの田んぼから伊藤さんが戻ってきた。
「なにしてんの? 早く行きましょ」
「行くって、どこに?」
「ターゲットが住んでいる家のモデルに最適な家があったの」
 山口さんの問い伊藤さんはそれだけ答えて歩き出す。俺たちが向かおうとしていた方向とは逆、つまりまた山へと逆戻りするように。その迷いのない歩みに俺はまさか、と伊藤さんのそばへ駆け寄る。
「伊藤さん、それって……」
「岡田の家、わかったよ。ここら辺で岡田って苗字は一軒しかないって。だから間違いない」
 小さい町とはいえ、全く知らない土地で一つの家を探し当てるのなんてかなりの時間を要すると思っていたが、まさかこんなにも早く探し出してしまうなんて。
 強運、いや伊藤さんの執念が呼んだ奇跡という方が納得いく。
「すごい! やったね!」
 興奮気味な俺とは対照的に、伊藤さんは目を細めじっと俺を睨んでくる。
「そんなに嬉しいんだったらまた山口さんと喜んどけば?」
 そう言い捨てると伊藤さんはふん、とそっぽを向いて行ってしまった。
 え、えぇ……。


 この町唯一の個人経営の小さなコンビニを曲がり、遠くに見える一軒家をめがけ、山へと続くまっすぐな一本道をひたすら登る。
「間違いないね」
 紅色の瓦屋根の平屋と倉庫が一棟、あと立派な松の木が生えた庭があるどこにでもある田舎らしい家だが、表札に書かれた『岡田』の文字を見て俺は確信を持つ。
 しかしなぜか、伊藤さんは旅館の時のように写真を撮らず、眉間にしわを寄せてなにか考えている様子だ。
「伊藤さん?」
「あ!」
 声をあげたのは伊藤さんではなく、山口さんだった。山口さんと阿野にはここを伊藤さんの親戚の家で親戚は留守だが敷地内には入っていいとあらかじめ説明していており、山口さんは遠慮なく倉庫の裏まで立ち入っていた。
「どうしたの?」
「ここって山の禿げてた部分じゃん」
 倉庫の裏は山の斜面になっていたが、そこには木が一本も生えておらず、伐採された形跡があった。山口さんの言う通り、ここはバス停から眺めた山の地面が見えていた場所だろう。
 まさか、初めからゴールは見えていたとは。
「でも、ここがモデルなら木は生えてる設定にしないとね」
「どうして?」
「ここだと逃走ルートがないから」
 ほら、と山口さんが指差すところにはこの家と同じように山に隣接して経っている家があった。
「向こうの家なら殺した後に山の中に逃げられるけど、ここだと山に逃げてもバレバレだし、下の道に逃げようにも一本道だからここに来ることを誰にも見られないようにしないと。曲がり角のコンビニの防犯カメラとか」
「それって、これまでとあんまり変わらないですね」
 石垣にもたれ、腰を落とす阿野が呟く。
 阿野の言う通りだ。岡田は日中のほとんどを鈴井高校で過ごしており接触が難しい。それ以外を襲おうにも岡田が現在住んでいるマンションには防犯カメラやオートロックがついており、迂闊に近づけない。
 だから、出入りが自由な実家を狙うはずだったのに……。
 落ち込んでいると、伊藤さんはふらっと山の斜面に沿って歩き出す。
「伊藤さん、どこいくの?」
 呼んでも反応がなく柵を越えて進む伊藤さんを不審に思い、俺と山口さんは後を追う。
「やっぱりだ」
 伊藤さんは少し先でやっと立ち止まると、目の前には草に覆われた大きな穴があった。
「ここ、さっきのトンネルの出口だ」
 さっき、とはテニスコートに行くまでの山道で見つけたトンネルだ。テニスコートはここからちょうど山の反対側、つまりこのトンネルは山をまっすぐ通っているらしい。
 ん? これって。
「もしかして、逃走経路になるんじゃ……」
「ならないよ」
「え」
「わかりやすすぎ。この状況、誰が見ても犯人はここから逃げたって思うでしょ」
 俺の中で輝いた希望の灯は、山口さんの冷たい否定によって一瞬で鎮火した。
「まぁ、そう思わせておいて実は別の方法で逃げた、とか、そもそも犯人はその場から逃げておらず実は死体の第一発見者が犯人でした、とかならミステリーとして成立するかな。とにかく! 大切なのは読者の最初の予想を裏切ること。真犯人は別にいる! 的なね」
「真犯人は、別に……」
「そろそろ出ないとバス乗り過ごしますよー」
 阿野に呼ばれ、俺たちは慌てて岡田の実家を後にした。


 バス停に着くと、すでにバスが到着していた。
「危なかった……ギリギリセーフだ」
 阿野と山口さんが乗り込み、俺も続こうと段差に足をかけ、なんとなく後ろを振り返る。
 オレンジに染まる田舎の町並みを見下ろしながら俺は思い出す。テニスコートへ向かう最中に見つけたトンネル。トンネルの先には岡田の実家。岡田の実家の上は地面が見えるほど伐採された斜面。
 俺は夜空を見上げて星座を作るように、それぞれの位置関係を指でなぞると今日見た光景やみんなの言葉が頭によぎる。

『昔、山を開拓する工事中に大規模な事故があって』
 落石注意の看板。
 山を一直線に通じるトンネル。
『大切なのは読者の最初の予想を裏切ること』
『真犯人は別にいる! 的なね』


 ……そうか。こうすれば。
「どうしたの桐谷くん」
「思いついた。岡田を殺す方法」
 出発しますよーと運転手さんに言われ、俺たちはバスに乗り込む。やはり乗客は俺たち以外におらず、きた時と同じように俺たちは一番後ろの席に座ると扉が閉まり、バスはゆっくりと進み出す。
「え、なになに? なんの話?」
「ターゲットを殺すトリックを思いついたんだけど……、いや、ごめん。やっぱなしで」
「なんで?」
「非現実的というか、なんというか……」
 ついさっきは思いついたばかりで気がつかなかったが少し冷静になればこのトリックは俺たちにはどう考えても実現不可能だ。ただの高校生の俺たちには。
 途端に恥ずかしくなってきて、顔がかーっと赤くなる。
 なにが「思いついた」だ。伊藤さんにちょっとキメ顔しちゃったじゃんか! 俺のバカ!
「いいから言ってよ。できるかどうかは私がジャッジするから」
 山口さんは目を輝かせ、伊藤さんも俺を見ている。
 こうなっては仕方ない。俺はもじもじと身を縮こませながら説明する。
「ど、土砂崩れを起こせないかな〜……なんつって」
「「土砂崩れ?」」
 伊藤さんと山口さんの声がハモる。
 俺が思いついたトリックはこうだ。
「まず、あの山は地層か地盤か、原因は不明だが土砂崩れが起きやすい。そして、一度は大規模な土砂崩れが起きている」
 バスの中で阿野が見ていたサイトを詳しく見たが、この土地が心霊スポットと呼ばれる原因になった昔に起きた事故とは山崩れだった。工事中に地震が起き、山が崩れ多くの作業員が命を落としたという。『落石注意』の看板が多く設置されていたのはこれの影響だろう。
「土砂崩れが起きやすいあの山の中で、さらに土砂崩れが起きやすいポイントが、あのターゲットが住む家なんだ」
 ターゲット、もとい岡田の実家の裏は山の斜面となっており、角度は土砂崩れが起きやすいとされる傾斜角三十度を超えており、地面が見えるほど木が伐採されていた。
 木はそこに生えることで地面に強く根が張り、地面を固定するストッパーの役目を果たすが、岡田の実家の裏の山は木がほとんど伐採されており、ストッパーがない状態といえる。
「このトリックなら読者にターゲットは犯人がいる事件ではなく、犯人のいない事故、つまり災害に巻き込まれて死んだと思わせることができる、なんて……」
 説明を終えると山口さんと伊藤さんは難しい顔で俯く。やはり気づいたか。このトリックの重大な欠陥に。
 先に口を開いたのは伊藤さんだった。
「それってさ」
「伊藤さんの言いたいことはわかってるよ。このトリックは……」
「作戦名をつけるなら『一気に生き埋め作戦』ってところかな?」
 名前かい!
 心の中でツッコむと、隣の山口さんがおもむろに呟く。
「前から思ってたんだけどさ。伊藤さん、いい作戦名つけるね」
「……どうも」
 伊藤さんは興味なさげに顔を背けるが口元がほころんでいるのが窓に反射して見えた。そんな伊藤さんを置いて山口さんは呟くように尋ねる。
「でも、土砂崩れってどうやって起こすの?」
 そう。この作戦の肝は土砂崩れを起こす方法だ。土砂崩れの原因は雨か、地震だ。地震、揺れ……。あ。俺はふとプレハブ小屋で見た光景を思い出す。
「トンネルの中で、その……爆発、とか?」
「爆発?」
「あのトンネル、山をまっすぐに通っているから山の内部から振動を起こせばより崩れやすい斜面だけが崩れると思うし、爆破物も土に埋もれて見つからない可能性もある、かなって……」
「はぁ? なにそれ?」
 山口さんは眉根を寄せて俺を睨む。
 山口さんがそんな顔をするのも無理はない。爆発だなんて幼稚な提案、自分で笑えてくる。そもそも土砂崩れなんて、ただの高校生である俺たちに起こせるはずがないのに。
「はは。笑っちゃうよね」
「ほんと。笑っちゃうくらい……天っ才!!」
 山口さんは目を輝かせ、俺にビシッと指をさす。
「え、え?」
「めっちゃ面白いし画期的! 今までのミステリー小説にはないトリックだよ! すごい!」
「で、でも、仮に爆発を起こせるにしても、実際に山を揺らすほどの爆発なんてどれぐらいの火薬が必要とか全然わからないし」
「それを実験すればいいじゃん!」
 山口さんはいつの間にか頭を揺らして眠っていた阿野を叩き起こす。
「遼太郎、かくかくしかじかだから、なんとかして」
「なんとかって……」
 阿野はあくびを噛み殺しながら答える。
「わかりました。なんとかします」
「なんとかしますって……」
 出来るわけがないだろう、と二人を見るが山口さんも阿野も不思議そうに俺を見る。
 まるで、出来ないわけがないだろうという目で。
「……え?」


 そして今に至る。
 立ち上る爆炎。興奮する山口さん。そして仮設テントの中で指揮をとる阿野に、数十人の作業服のおじさんたちが声をかける。
「阿野の坊ちゃん、次はどうしましょう?」
「火薬の量をさっきの二倍でお願いします」
「あいよー!」
 景気の良い返事とともに、おじさんたちは慣れた手つきで爆薬の準備を始める。
 ここは俺たちが通う高校から電車で二時間以上離れた山口さんと阿野が住む村だ。
 そして、阿野の実家はこの地域の豪族なのだという。
 阿野建設、阿野開発、阿野住宅、阿野技建、阿野土木とこの村の仕事はほとんどが阿野の親族が取り仕切っており、作業着姿のおじさんたちもみんなそこで働いている人たちだ。
 爆薬は阿野建設が所有する建物の解体に使うものと、阿野土木が山の掘削中に岩を砕くために使うものから分けてもらったらしい。
「火薬の量に対して震度がこれくらいで……、昔の事故が起きた時の震度はこうだから……」
 阿野が理科室からレンタルしてきた震度計を見ながらメモを取る。(佐々木先生に文化祭の展示のために実験をすると言ったらすんなり貸してくれた。)
 俺のトリックは果たして現実でも可能なのか。
 昔、N市で起きた土砂崩れを調べ、原因ともなった地震の震度を爆発時の揺れで再現出来るか実験する。
 これが俺たち化学部の自由研究となった。
 しかし、なんというか。
 トリックの発案から実際に爆発を目の当たりにするまでのあまりのスピード感に目眩を起こしそうになる。
「なんかすごいことになっちゃったね……あれ?」
 さっきまで隣にいたはずの伊藤さんは遠くで山口さんと一緒に作業着のおじさんになにやら質問をしている。
「爆弾の起動は時限式と起爆式があって、今回は起爆式のものを使うが、人が近寄れない場所なんかでは時限式のものを使ったりもする」
 自由研究に使いな、とおじさんは時限式と起爆式、それぞれの起動装置を二人に手渡す。
「ありがとうございます。ちなみにこの時限式ってどうやって使うんですか?」
「そんなの簡単だよ。火薬につなげる導火線にこの装置をつけてだな……」
 熱心にメモを取る伊藤さんと山口さん。
 おじさんたちに指示を出す阿野。
 そして、役割がなく呆然と立ち尽くす俺。
 早送りのような時の流れから逃れるように、俺は青空を緩やかに流れる雲を見つめて気持ちを落ち着かせる。
 はぁ、もう夏だなぁ。
「もう一度行きます! 爆破まで! 3、2、1!」
 熱いお茶を飲んだ後のようなほっとした気持ちは先ほどよりもさらに大きな爆炎と振動でかき消された。
 その後、日が暮れるまで化学部の実験は続いた。


「ふぅ……」
 石造りの露天風呂に身体を沈め、爆風を浴びて染み付いた火薬臭を洗い流す。黒い爆煙とは違う、きめ細やかで薄い白色の湯気が夜空へと上がっていく。
 ここは旅館ではない。阿野の家だ。
 家というより屋敷と呼ぶにふさわしい出で立ちで、大きすぎる玄関、広すぎる居間、多すぎる部屋数を見た後で、家の中に露天風呂があってももう驚かなくなっていた。
 今日の実験結果をまとめるために、俺たちは阿野の家に泊まることになっていた。
「湯加減はどうですか?」
 先に風呂に入っていた阿野が隣にくる。
「なんかごめんな。色々やってもらった上に泊まりまで」
「いえいえ。いつも一人なんで」
 阿野の両親は会合や出張などで滅多に家に帰ってくることはないという。
「毎日この風呂入ってるの?」
「ここはお客さん用です。いつもはもっと普通のお風呂です」
「お客さん用の風呂があること自体普通じゃないだろ」
 会話が終わり、沈黙が辺りを包む。
 思えば、阿野と二人きりになるのは初めてだ。そもそも後輩という存在と接したことがないためなにを話せばいいのか、どういう態度を取ればいいのかもわからない。
 やはり先輩として、どっしり構えたりしたほうがいいのだろうか。じっと水面の揺らめきを見ていると、おもむろに阿野が口を開く。
「桐谷先輩って」
「うん?」
「伊藤先輩のこと好きなんですよね?」
「お、え、うぇ?」
 俺の動揺はバシャバシャと波に変わり阿野に当たる。
「違うんですか?」
「あ、阿野はどうなんだよ。山口さんのこと」
「好きですよ。めっちゃ好きです」
「お、おん……」
 阿野の方がよほどどっしりとしている。しかし、堂々と誰かのことを好きだと言えるのはすごいことだ。
 俺は……。
「そのさ、山口さんのどういうところで好きだなって思った?」
「全部です」
「あぁ、そう……」
 顔とか、性格とか、もっと具体的なことが聞きたいんだけどな。
 俺は伊藤さんのことが好きだ、と思っている。だけど伊藤さんのどこが好きなのかと聞かれれば、答えに迷ってしまう。
 もちろん伊藤さんは綺麗だし、優しいし、一緒にいて面白い。
 だけど、初めて好きだと自覚したのは違う理由だった。
 一人目のターゲット、夏目ありさの殺人が失敗し、伊藤さんが学校に来なくなった一週間、俺は胸が潰れるほど苦しかった。会えない時間の寂しさや悲しさから、俺はいつのまにか伊藤さんのことを好きになっていたと知った。
 じゃあ、好きになったきっかけってなんだろう。
 一目惚れ? それとも……?
 俺はそれがわからないままでいた。
「ぼくってもう人生のルートが決まってるんです」
 阿野は静かに語り出す。
「高校卒業して、大学行って、うちの企業を継いで社長になるっていう。それ自体は全然良くて。親のことも尊敬してるし、今の時代就活しなくても仕事が決まってるのはありがたいです」
「現実的だな」
「でもなんとなく、自分はなんのために生きてるんだろうなって思うこともあったんです」
 企業とか社長とか。阿野の次元はついていけないが、その悩みだけはわかる気がする。事故で両親を亡くし、俺だけが生きている理由を、俺はまだわかっていない。
「そんな時に出会ったのが、山口先輩でした」
 阿野は口元を緩め、楽しい記憶を思い出すように斜め上を見上げる。
「山口先輩ってなんかめっちゃ生きてるって感じしませんか?」
「は?」
 生きてる?
「ミステリー小説とか好きなものに全力で、自分の好奇心のままに突き進む感じとか。そのせいで周りと衝突することもあったんですけど」
 山口さんと阿野が住むこの村から俺たちが通う学校まではかなりの距離があり、もっと近い場所に高校はある。それでも山口さんが俺たちの通う高校に進学したのは、同郷の人たちと関わらないようにするためだったという。
 空気が読めない。話が合わない。
 そんな些細な理由で山口さんは中学時代、生徒はおろか先生たちからも無視されていたという。
 そんな山口さんとは逆に、誰からも親しく話しかけられていた阿野だが、子どもながらにみんなは自分が地元の豪族である阿野の家の子どもだから仲良くしていると、わかっていたという。
 だけど、山口さんだけは違った。
 みんなに無視されても、自分の好きなものは貫くし、阿野に対してもみんなのように媚びることなく、対等に接してくれる。
 だから阿野は、山口さんと同じ高校に通うことを決めたという。
「ぼくはそういう不器用で、どうしようもないけど、ちゃんと自分の意志がある生き方に惹かれたのかもしれません。ほら、よくいうじゃないですか。人は自分にないものを持った人に惹かれるって」
「意志のある生き方……」
 俺は伊藤さんの言葉を思い出す。
『だから私、後悔したくないの』
 自分にないものを持った人に惹かれる。
「俺も、そうかもな」
 伊藤さんが理由はどうあれはっきりとした生きる理由を持っているとわかったあの瞬間、俺は伊藤さんのことを好きだと思ったのかもしれない。
「山口さんは阿野のことどう思ってるんだ?」
「そんなのこっちが知りたいですよ。山口先輩、あんまり恋愛とか興味なさそうだし」
「そっか。でも今回の実験もだけど、阿野って山口さんからの無茶振りにちゃんと答えてるし、そういうのって好感度上がるんじゃないか?」
「確かに。でも好感度とか関係ないっていうか、どうでもいいっていうか」
「え?」
 水面に水滴が落ち、波紋が静かに消えていく。
「好きな人の願いなら、どんな願いでも叶えてあげたいじゃないすか」
 こめかみをぽりぽりと掻く阿野の耳が真っ赤になっていた。
「なんか色々腑に落ちた。ありがとう」
 どうして俺は伊藤さんのことを好きになったのか。伊藤さんのお願いを叶えてあげたいと思うのか。
 自分でもわからなかったことが、阿野の話を聞いているとたくさんわかった気がした。これじゃあ俺の方が後輩みたいだ。
「これからは阿野のこと、先輩って呼ぶよ」
「なに言ってるんですか。そろそろ上がりましょう」
「そうだな」
 阿野が立ち上がるとザパンっと湯船に波が立つ。すると、ちょうど阿野の下半身が俺の目に飛び込んできた。阿野のガタイのいい体にふさわしい、立派な阿野の阿野が。俺は再び湯船に体を沈め、身を縮こませる。
「俺は、もうちょっと入っとこうかな……」
「わかりました」
「あと、やっぱり阿野のことは『先輩』って呼ぶわ」
「なんで?」


 風呂から上がった俺たちは実験結果をまとめる、……はずだったけどお泊まりにテンションが上がってしまい、日付が変わるまでテレビゲームをしたり、ホラー映画を見たりして過ごした。
「そろそろ寝るか」
「ダブルベッドがある寝室が二つあります」
「そうか、ダブルベッドが二つか」
 俺と阿野は目線を交わし、頷く。
 阿野は山口さんと、俺は伊藤さんと同じ部屋で眠りたい。互いの利害は一致している。
「じゃあ……」
 俺たちが声を出すよりも早く、山口さんは伊藤さんの腕に抱きつく。
「じゃあ私と美優がこっちで寝るから。おやすみ」
「え」
「え、じゃないでしょ」
「おやすみ。二人とも」
 俺と阿野は廊下に出され、ぴしゃりと襖が閉じる。
「千晴はもう寝る?」
「まだまだ夜はこれからでしょ!」
 二人の笑い声が漏れ聞こえてくる。
「いつのまにか仲良くなってますね」
「そうだな」
 一緒に眠れないのは残念だが、あんな風に笑う伊藤さんが見られてよかった。
「俺たちも寝るか」
 寝室へ向かおうとすると、スマートフォンが震えた。画面には杉山からのメッセージを知らせる通知が来ていた。

 杉山 今電話できる?

「悪い、ちょっと電話」
「先行ってますね」
 阿野を見送り、俺は通話ボタンを押す。こんな夜中になんの用だろう。
「やっほ、久しぶり!」
 夜に不釣り合いな大きな声に鼓膜が揺れる。杉山のこういう無駄に元気なところがやっぱり苦手だ。
「どうしたの?」
「ちょっと聞いてよ」
 それから杉山は部活が大変だ、岡田がムカつくなどつらつらといつもメッセージで送って来ていることと変わらない内容の話を延々と続ける。こういう平気で相手の時間を奪う無遠慮さも苦手だ。
「それで、用事は?」
「そうだった。桐谷くんって転校してたんだね。私なにも知らなくてさ。大変だったね」
「あぁ、うん……」
 杉山はわざとらしく塩らしい声を出す。こういうデリカシーがないところが一番苦手だ。
「それでさ、今桐谷くんが通ってる高校って、うちの顧問の岡田が昔居たんだけどさ」
「へ、へーそうなんだ……」
 俺はとっさに知らないふりをする。
「なにか聞いてない、噂とか」
「噂?」
「あいつ、女子生徒にパパ活してたのがバレてうちに飛ばされたって」
「は?」
 パパ活、と言えばお金を持っているおじさんをパパと称し、一緒に時間を過ごす代わりに手当としてお金をもらう行為をさすが、実際のところは聞こえのいい言葉に変わっただけで金銭を払った代わりに性行為などをする援助交際と変わらない、という。
 岡田が女子生徒と……。
 俺は伊藤さんが人を殺す理由について話していたことを思い出す。
『目には目を、歯には歯を。殺しには殺しを』
 望まない性行為を強要され、今もフラッシュバックに苦しむ女性のニュースを見たことがある。その女性はこう言っていた。心を殺された、と。
 もしもその女子生徒が伊藤さんだったら……。
 考えただけでも胸の奥がひどく苦しくなり拳に力が入る。
「あとさ、もう一つ噂聞いたんだけど」
「……なに?」
「その学校って、人を殺した生徒がいるってマジ?」
「人を、殺した……?」
「私は見てはないんだけど、前に教室で女子生徒が殺してやる! って叫んでる動画がバズったらしくて。もうほとんど消されちゃってるらしいけど。その女子生徒の制服が、桐谷くんが通ってる高校の制服で、しかも実際にその高校の女子生徒が去年亡くなってるって。一応事故ってことになってるけど、その女子生徒が殺したんじゃないかって」
 気をつけなよ、と脅かすような口調で杉山は語るが、俺は初めて知る情報の洪水に飲まれそれどころではなかった。
 人を殺した女子生徒。もしもその女子生徒が……。
 直感的に感じた想像を否定したくて俺は杉山が知るはずもない質問を投げかける。
「その女子生徒って、どうして人を殺したのかな」
「さぁ。理由なんてないんじゃない?」
「え」
 杉山はあっさりと答える。
「理由があって人を殺すって漫画とかドラマだけの話で、現実だと偶然殺しちゃった、みたいなことが多いんじゃない?」
 ニュース番組などで犯人が殺すつもりはなかったと供述していると語るキャスターを思い出す。確かに杉山のいうことにも一理ある。
「もう一つはさ」と杉山はさらに続ける。
「ただ殺したいから。そもそも理由はなかったってのが多いんじゃない? 誰でも良かった、みたいな?」
 すれ違った人を襲う無差別殺人。目的があって人を殺すのではなく、殺すことが目的の快楽殺人。それらに人を殺す理由はない。ただ人を殺したい、殺人衝動に身を任せて行動している。
『理由言う必要ある?』
 初めて人を殺したい理由を聞いた時、伊藤さんはこう応え、俺の質問には答えてくれなかった。
 それがもし、理由を言わなかったんじゃなくて、理由がなくて言えなかったのだとしたら……。
「もしもーし。あれ、聞こえてる? おーい……」
 俺は通話を切り、いつのまにか浅くなった息を整えようと空を見上げ息を吐く。

 伊藤さんはすでに人を殺している……?

 増える疑問と、深まる疑惑に立ち尽くす俺を満月が静かに照らしていた。