気がつけば玄関の前に立っていた。
 都市郊外の六階建てマンションの一室。学校から俺が住むこの家まで電車で三十分かかり、駅から家までも十分程度かかるがその間の記憶がまるでない。改札に定期をかざしたのも、ホームに入ってきた電車に乗ったのも、横断歩道を渡ったのも全て無意識だった。
 俺の意識は今も理科準備室に残留している。
 ツンと鼻を刺激する薬品の匂いと、寒々とした空気。そんな現実世界から隔離された空間で、俺は伊藤美優と出会った。
 伊藤さんは俺の世界を彩った人で、前の席に座る人で、保健室登校でなかなか会えなくて、綺麗で、そして……。

『私、殺したい人がいるの』

 俺を見上げるようにして囁く伊藤さんの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
 思い返しては首をかしげた。場所から、出会いから、会話から、なにもかもが信じがたい奇妙な時間だった。
 そして同時に、口元が緩んで仕方がなかった。あの伊藤さんと話ができた。俺を見上げた伊藤さんの目には俺が映っていた。その光景を思い出すだけで俺は嬉しさがこみ上げる。
 下校中はまさに夢心地だった。けれどマンションの影が見えたあたりから体温がスーッと下がっていき、オートロックに鍵を差し込む頃には嫌でも現実に引き戻されていた。
 入りたくない。帰りたくない。
 だけど、帰る場所はここしかない。
 俺は鬱々とした気持ちを胸の奥へと押し込み、平気な顔をして扉を開く。
 カンカンと包丁がまな板を叩く音が美味しそうな匂いとともに玄関まで届く。リビングへ向かうとエプロンを纏った直美さんが俺に気づいて微笑む。
「蓮くん、おかえりさない」
「た、ただいま……」
 未だに言い慣れないあいさつにまごついていると直美さんは手際よく細かく切られた野菜たちをガラスのボウルに入れ、特製のドレッシングであえる。
「もうすぐご飯できるけどすぐに食べる? 今日はね、ちょっと頑張ったんだ。このビーフストロガノフなんか三時間も煮込んでさ、あとはサラダ。ちゃんと蓮くんが苦手なプチトマトはないから安心してね」
 直美さんは笑うたび、俺の心はぎゅっと苦しくなる。
「ありがとうございます。すみません、汗をかいたので先にシャワー浴びてもいいですか?」
「わかった。もうお風呂掃除は終わってるからお湯溜めちゃっていいよ」
「いえ、シャワーだけで大丈夫です。ありがとうございます」
「蓮くん」
 リビングを出ようとすると、背後から直美さんに呼び止められた。振り返ると直美さんは手を拭くタオルを握ったまま、苦々しく微笑む。
「もっと、私たちに甘えてくれてもいいんだよ?」
「……ありがとうございます」
 俺はそれしか言えなくて、逃げるように自分の部屋に戻った。自分の部屋といっても、ここは元々、大学進学のために上京した直美さんの娘が住んでいた部屋だ。自分の荷物を置いたところで、三ヶ月経っても部屋の気配は塗り変わらず、未だに居心地の悪さを感じてしまう。
 居心地の悪さは部屋だけじゃない。
 美味しい料理も、ふかふかの布団も、アイロンがかかったしわのない洗濯物も、なにもかもが息苦しい。

 俺の両親は半年前、交通事故で亡くなった。

 身寄りのない俺を母さんの姉である直美さんたちが引き取ってくれた。
「今日からここが蓮くんの家、そして私たちが、蓮くんの家族だからね」
 葬式の時、親戚の中で誰よりも先に俺のことを引き取ると手を挙げてくれたのが直美さんだった。
 直美さんと夫である叔父さんには本当によくしてもらっている。正直、母さんよりも直美さんが作る料理の方が美味しい。だけど、俺はどうしようもなく母さんが作った料理が食べたいし、叔父さんの面白い話よりも父さんのつまらない生物学の話を聞きたい。
 二人によくしてもらうたびに、母さんと父さんから毎日受けていた愛情を再認識してしまう。だけどもう、父さんも母さんもこの世にはいない。
 二人とも、あっけなく死んだ。
 軽率に死に触れ、死について考えていた俺から大切な人を奪うことで死とはこういうものだぞ、と理解させる意地悪な神様からの罰。
 そして神様の思惑通り、俺はあの日以来、死について考えることはなくなった。そして死と表裏一体である生についても。
 死について興味を持つことはやめろ、と俺を叱る母さんに対し、俺をかばった父さんの言葉を思い出す。
「死について考えることは、生きることを考えることと同義なんだよ。いいか蓮。生物はいずれ必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるかが大切なんだ。そして……」
 その先もなにか言っていたが、母さんに意味がわからないと一蹴されていたっけ。
 あの時は俺もよくわからなかったけど、今なら父さんの言ってたことがわかるよ。死について考えることを放棄した俺は今、生きる理由も死ぬ理由もなく、ただひたすら、死んだように生きているから。


「おい、蓮? 蓮!」
「……え?」
「話聞いてんのかよ。寝不足?」
 俺の机に突っ伏す隼人は、伊藤さんの席の椅子に反対向きに座っている。廊下側の窓から入る日光に照らされ、隼人のサラサラとした髪に天使のような光の輪っかができていた。
 昨日、俺にあの『お願い』をした後、伊藤さんは「また明日答えを聞かせて」と言い、理科準備室を後にした。
 しかし、もうすぐ始業のチャイムがなる今も、伊藤さんの姿はどこにもない。
 しかし、それがこの教室にとっては当たり前だ。伊藤さんがいなくて当たり前、伊藤さんの席に隼人が座って当たり前。昨日からなにも変わらない。ただ、俺一人ががっかりしているだけだ。
 やっぱり、昨日のあれは夢だったんだ。そう思う方が、幾分気持ちが楽に……。
「そこ、私の席なんだけど」
 気がつけば、隼人の頭から光の輪っかが消えていた。声のする方を見上げるとそこには窓から入る日光を背に受け光り輝く本物の天使、じゃなくて、伊藤さんが立っていた。本当に来た……!
 興奮する俺とは裏腹に、伊藤さんは天使というよりは悪魔のように鋭く隼人を睨みつける。
「聞こえてる? 邪魔なんだけど」
 伊藤さんが冷たく言葉を吐き捨てると同時に隼人が慌てて立ち上がると、椅子が床を引く音が強く響き、クラス中の視線が一気に俺たちに、というか伊藤さん一人に集まる。
「え、伊藤さん?」
「もう来て大丈夫なの?」
「なんか怒ってね? 喧嘩か?」
 久しぶりのクラスメイトの登校に教室の空気が静かにざわついているのが肌から伝わってくる。
 伊藤さんの次の行動を、みんなが見ている。
 すると、伊藤さんは荷物を机に置き、こちらへ振り返る。
「おはよう。桐谷くん」
 ……は?
 俺は面食らってしまった。伊藤さんはクラスメイトである俺にあいさつした。その行為自体は至極当たり前だ。
 しかし、伊藤さんの目が隼人を見下していたそれとはまるで違う、優しさに満ちた眼差しだったこと。そして教室の奥側であるこの席にたどり着くまで、すれ違った誰にも交わさなかったあいさつを俺だけにしたことの意味を嫌でも考えてしまう。
「お、おはよう……」
 俺は顔を真っ赤にして蚊が飛ぶような小さな声であいさつを返すのが精一杯だった。
 伊藤さんは微笑み前へ向くのと同時に始業のチャイムがなった。


 その後、伊藤さんは授業を全て受けた。
 一限から六限まで、黒板を見ようと頭を上げるたびに伊藤さんの後頭部が視界に入った。それは俺がこの学校に転校して以来、初めて見る光景だった。
「蓮、行くぞ」
 掃除時間。隼人に呼ばれ、俺は数人の男子たちと掃除を担当する校舎裏へ向かった。みんなは黙って階段を降り、靴を履き替え、用具倉庫からほうきを手に取る。異様な空気に違和感を覚えつつも、俺もまた黙ってほうきを手に取り校舎裏へ着くとすぐにみんなに取り囲まれ、俺は壁際へ追いやられる。
「な、なに」
「お前らどういう関係だよ」
 隼人がぼそりと呟く。
「お前ら?」
「伊藤だよ! お前らどういう関係だ!?」
「……ど、どういうって」
 俺はとっさに理科準備室での出来事を思い出す。
『私、殺したい人がいるの』
 さすがに言えないよな。俺は視線を落として答える。
「別になにも……」
「嘘つけ! じゃあなんで蓮にだけあいさつしてんだよ。ほかの人に対しては話しかけるなオーラバンバンに放ってるし」
「そうかな……」
「なのになんで蓮だけ特別扱いなんだ?!」
「特別って……」
 そう言われると悪い気はしない。
「ニヤニヤするな!」
 隼人にほっぺたをつままれ俺は必死に抵抗する。他の男子たちは俺たちの小競り合いを見ながらくすくすと笑う。
「隼人、伊藤のこと可愛いって言ってたもんな」
「まぁ確かに伊藤かわいいけどな」
「ち、ちげーよ!」
 隼人が振り返ると同時に、隼人の頭になにかが降ってきた。
 ん? なんだこれ?
 みんなで上を見上げると、一斉にみんなが騒ぎ出す。
「うわ、砂だ!」
「ペッ! 口に入った!」
 俺たちは壁際から離れて上を見上げると教室のベランダに飾られた植木鉢が柵の隙間から見えた。
 男子の話によるとどこかのクラスの園芸が趣味の先生が観葉植物を飾っているらしい。
「掃除してるっつーのに砂落とすなよな」
「まぁしてないんだけどね」
 隼人は頭を振り、かかった砂を落とすと再びジリジリとにじみより、俺を壁際まで追い込む。
「それで、本当のところはどうなんだよ」
「だからなんでも……あ」
 隼人から顔をそらした先に、重そうなゴミ袋を持って歩く伊藤さんの姿が見えた。伊藤さんもまたこちらに気がつくと、ゴミ袋を持ったまま静かに歩み寄ってくる。しかし、伊藤さんは俺たちのことなんか気にも留めない様子で通り過ぎ、奥のゴミ捨て場にゴミ袋を投げ入れる。
 伊藤さんの一挙手一投足を俺たちは黙って見ていた。
 すると、伊藤さんはまたもこちらへ歩み寄る。その目に他の男子は映っていない様子で、ただまっすぐに俺めがけて近づいてくる。
 朝と同じように隼人が俺の前から素早く離れると、伊藤さんは俺から人一人分離れた場所で立ち止まる。
「桐谷くん」
「え……あ、はい」
「放課後、また付き合ってね」
「あ、はい……」
 それだけ言うと、伊藤さんはまた静かに歩き出す。角を曲がり伊藤さんの背中が見えなくなると、隼人のみならず、みんなにものすごい勢いで壁に追い込まれた。
「お前らやっぱりそういう関係なのか?!」
「そういうってどういう関係だよ?!」
「そりゃあ、こういう……」
 男子の一人が握りこぶしを突き出し、太い小指をピンと立てる。
「なっ……、違うって!」
「さっき付き合うって言ってただろ! 白状しろ!」
「そういう意味じゃないって!」
「そういうってどういう意味だよ!?」
 らちの開かない問答は、掃除時間が終わるまで続いた。


 曲がり角から頭を出す。廊下に人の気配がないことを確認して、俺は中腰で理科室の前まで走る。
「蓮ー! どこだー!」
 校舎内のどこからか声が聞こえ、俺は慌てて扉に手をかける。やはり鍵はかかっておらず、俺は急いで理科室へと入り扉を閉める。
「いねえよ、もう帰っちゃったかな」
「かもな。蓮のやつ、あんなに足速かったんだな」
 扉一枚隔てた廊下側から、男子たちの声が聞こえる。結局、掃除時間が終わり、帰りのホームルームが終わっても隼人たちからの追求は終わらなかった。
 そんな俺を尻目に、伊藤さんはホームルームが終わるとすぐに教室を出て行ってしまい、放課後付き合ってほしいっと言われていたのに、集合時間も、場所も聞けずじまいだった。
 でも、たぶんあそこだよな。
 半信半疑のまま、俺はトイレに行くふりをして隼人たちを巻いて理科室までやってきた。扉が開いてホッとした。
「そっち、蓮いた?」
 パタパタと足音が近づいてくる。この声は隼人だ。
「いない、もう帰ったんじゃない?」
 そうそう。だからさっさと……。
「教室の中覗いた?」
 え。
 ホッとしたのもつかの間、隼人の言葉に心臓がどきりと跳ねる。
「ここら辺の教室ってみんな鍵閉まってるよな?」
「そうなんだけどさ……念のため、うんいない」
 あいつ、一教室ずつ扉の小窓から教室の中を確認してきている。まずい、気付かれる!
 俺は机の隙間を滑るように曲がり、奥へ奥へと走る。
「えっと、理科室は……」
 俺は急いで理科準備室へ入り扉を勢いよく閉めると、バタンッ、と想像以上に音が響いた。
 俺はしまった、と扉に耳を当て、教室外の様子を伺う。
「ん? 今なんか音がしたような……」
「もう帰ろうぜ。探すの飽きた」
「だな。帰るぞ、隼人」
「ちぇ」
 そんな会話ののち、複数の足音が廊下の奥へと消えていった。
 ふぅ〜〜。
 俺は扉に背を預け、ずるずるとしゃがむ。落ち着くと、久しぶりに走ったせいで遅れて汗が噴き出してきた。
「なにしてんの?」
「おぁ?!」
 シャツの袖で乱暴に目の当たりを拭っていると、突然声が聞こえ、俺は驚いて後ろの扉に頭をぶつける。
「大丈夫?」
 伊藤さんはふふっ、と笑いながら俺の頭上に覆いかぶさるように手を伸ばし、扉の鍵を閉める。
 ち、近い……。
 伊藤さんの制服がギリギリ当たりそうで、かすかにいい匂いがした。柔軟剤の香りだろうか。それとも……。
 顔を上げると、目の前に伊藤さんのお腹があって、俺は目のやり場に困って顔を反らすと伊藤さんの手に持たれた緑色のネームプレートがついた鍵の束に気がついた。
「その、なんで伊藤さんが理科準備室の鍵持ってるの?」
 伊藤さんは俺から離れるとこれ? と鍵の束をあげてみせる。チャリチャリ、と金属が擦れる音が乾いて響く。
「私、化学部だもん」
「え?」
「去年は化学部に三年生と私と同じ一年生しかいなかったらしくて。廃部になるからって佐々木先生に頼まれてさ。まぁ、去年はほとんど学校来てなかったけど」
 今年の春、転校してきてすぐの俺に入部を頼んできた佐々木先生の姿が思い浮かぶ。
 まさか、伊藤さんが俺と全く同じ理由で化学部に入部していたとは。それにしても、やはりこの学校でも、部員が三人以上いないと廃部になるのか。
 ん? じゃあなんで佐々木先生は俺を化学部に勧誘したんだろう? 伊藤さんに、同級生と新入生、合わせて三人。人数は足りているはずなのに。
 伊藤さんは学校に来ていないし、他の二人も幽霊部員だから、佐々木先生の使いっ走りを確保したかったってだけなのかな。
 同じ化学部の部員で、入部の理由も同じ。
 こんなところに共通点が見つかるとは。
 会話を盛り上げるためにはまず、共通点を探すことが大切だとなにかで聞いた気がする。
 俺は緊張ではやる心臓を抑えながら、立ち上がる。
「お、俺も実は化学部でさ……」
「じゃあ作戦会議しよっか」
 伊藤さんはスッと歩き、長机の端に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。
「あ、はい」
 伊藤さん、全然俺の話聞いてない。
 しかし、伊藤さんのそんな態度のおかげで、少しだけ冷静になれた。俺はそそくさと畳まれたパイプ椅子を持ち、伊藤さんが座る位置から一番離れた反対側の位置へ置いて座る。
 伊藤さんはまっすぐに俺を見つめる。
「それで、答えは?」
「答え?」
「私のお願い、聞いてくれるの?」
「その、殺したい人がいるって……」
 伊藤さんは涼しげな表情で頷く。
「そう。3組の夏目ありさ。まずは彼女から殺したいの」
「まずは?」
「うん。三人、殺したい人がいるの」
「三人?!」
 言ってなかったっけ? と伊藤さんは首をかしげ、三本の指を立てる。
「一人は同級生の夏目ありさ。次は、名前は言わなくてもいいか、三十代の成人男性で、もう一人はおじさん。この三人」
 一人一本ずつ指を折り曲げ、伊藤さんは小さな拳を机の上においた。
 俺は初めて聞いた情報に戸惑いながらも、昨日から気になっていたことを質問する。
「三人の、殺したい理由は?」
「あのさ、理由言う必要ある?」
「え」
 想像していなかった返答に戸惑いの言葉を漏らす。そんな俺とは対照的に伊藤さんは冷静に語る。
「もしその理由を聞いて人を殺す理由として相応しいものだと思ったら、桐谷くんは私の代わりにその人たちを殺してくれるの?」
「それは……」
「もしその理由が人を殺す理由として相応わしくないと思ったら、桐谷くんは私を止めるの? そしたら、私が殺す人が一人増えるんだけど」
 伊藤さんは一瞬、隼人やクラスの人に向けるような冷たい目を向けるが、すぐに目を閉じ、次に開いた時には、昨日のお願いをしてきた時のようなか弱い目をしていた。
「手を汚すのは私だけでいいの。桐谷くんには知恵を貸してほしい」
「知恵……」
 人を殺す。
 その行動の正当性や残虐性を考えるのは後回しにして、俺は伊藤さんのお願いを叶える方法を考える。
「三人とも、殺したいんだよね?」
「うん」
「その三人は家族?」
「違う。赤の他人」
「一緒に行動したりもない?」
「ないと思う」
「だとしたら三人を殺すのはとても難しいと思う」
「どうして?」
「三人が一箇所に集まれば、そこに毒ガスを撒くなり爆弾を使って爆発なりすればそれで済む話だけど、そうじゃないなら一人ずつ順番に殺していくことになる。つまり、三人全員を殺すには、一人目、二人目の殺人をバレないように行う必要があるってことだよ」
 父さんの書斎にはあらゆる書籍があり、その中には連続殺人の歴史について記された本があった。
 いつ、どこで、誰が、どのように、そして何人殺したかが徹底的に調べ上げられていた。そして、その犯人のほとんどが逮捕されており、そこで彼らの連続殺人の記録は終わっている。つまり一人目か二人目の時点で殺人がばれて逮捕されれば残った人は殺せないというわけだ。
 俺はあごに手を当て考える。
「殺人がバレないようにするためには……」
 伊藤さんはあ、と声を漏らして手をあげる。
「はい! 死体を隠すとか? たまにあるよね、バラバラにして捨てちゃうとか」
「うん……、確かに悪くないと思う。もしも死体が発見されても身元確認に時間がかかるから、他の二人を殺す時間を稼げるかもしれない」
「それなら……」
「でも難しいと思う。死体を隠せても、処理の痕跡を完璧に隠せないと思う。死体を処理するために、他人に絶対に知られない場所の確保、道具の用意、死体の運搬。これらができたとしても血の一滴でも現場に残せば犯行はすぐにバレてしまう」
「そっかぁ」
 その他にも死体を山に埋めたり、海に沈めたりも考えられるが、やはりどちらも車などの移動手段を持たない高校生には難しいだろう。
 死体の完全な隠蔽は不可能。そうなると死体ではなく……。
「死因を隠す、かな」
「死因……、やっぱり毒とか? 見た目が無傷ならどうして死んだかわからないんじゃない? 名付けて、王子様の来ない白雪姫作戦!」
 突然の伊藤さんのはしゃぎっぷりに俺は眉根を寄せる。
 な、なんだその作戦名は……。
「いや、毒殺は司法解剖すればすぐに特定されるし、その毒物の入手ルートを辿られたらすぐに犯人が特定されるかな」
「うーん、じゃあ手袋をした状態でナイフで刺して、死体にナイフを握られせたら自殺って思わせれるんじゃない? 名付けて、黒ひげ自死一発作戦!」
 だからなんなんだその作戦名は……。
「刺し傷は刺さった深さとか、角度を調べるとそのナイフを持っていた手が右か左か、とか自分で刺したのか、他人に刺されたものかまでわかるんだ。それに一度で死ななかった場合、自分で何度も刺すとは考えにくい。だから、刺殺もあまり効果的な方法とは……」
 俺はそこまで言って、伊藤さんが黙っていること、そして自分が喋りすぎていることを自覚し、口を閉ざした。
「ごめん、否定ばっかりして。それに気持ち悪いよね、こんなこと知ってて……」
 子どもの頃の記憶が勝手に脳内で再生される。気持ち悪い。サイコパス。名前も忘れた友達たちの声が、顔が、俺の心臓を押しつぶす。
「そんなことないよ! すごい助かってるし。それに、気持ち悪いとかないでしょ?」
「なんで、死体とか死に方に詳しいのって気味悪いでしょ?」
「逆になんで? 人はみんないつかは死ぬんだよ? だったら詳しいに越したことないでしょ」
 え……。
 俺はまた口を閉ざした。哀しいからじゃない。かつての俺と全く同じ気持ちを、他人の口から聞き、驚いてしまったから。
 さっきまで頭の中を埋め尽くしていた真っ黒なものが綺麗になくなっていた。そしてそこには、伊藤さんが立っていた。
 伊藤さんはきっと悪い人ではない。
 そんな伊藤さんが明確な殺意を持ち、殺したいと思う人たちはよっぽど悪い人なのだろう。
 そんな人たちを、どうすれば殺せるのだろう。
 どうすれば、伊藤さんのお願いを叶えてあげられるだろう。
 うつむきながら考えていると椅子を引く音で我に返った。伊藤さんはおもむろに立ち上がり、俺に近づいてくる。
「ど、どうしたの、伊藤さん……」
「動かないで」
 伊藤さんは真剣な面持ちでそっと手を差し出す。その細く、綺麗な手が俺の顔に触れそうになり、俺は思わず目を閉じる。
「肩に砂がついてるよ」
「す、砂?」
 目を開けると、伊藤さんの指先には黒っぽい砂がついていた。掃除時間に風に吹かれて降ってきた砂が肩についたままだったのだろう。三階のベランダに飾られた植木鉢から。
『掃除してるっつーのに砂落とすなよな』
 隼人の声が脳内で再生される。
 そうか……!
 その方法を思いついた瞬間、俺は声が漏れた。
「……事故死だ」
「事故死?」
「うん。教室のベランダに植木鉢を置いているクラスがあるんだ。教室は三階。約十メートルの高さから土がいっぱい入った植木鉢を落として、頭に直撃させれば、頭部外傷、脳挫傷で高い確率で死ぬと思う」
 植木鉢落下の可能性、そして危険性については俺を含め、校舎裏を掃除したことある人ならみんな知っている。仮に生徒が一人死んだとしても責任は園芸が趣味だという教師、もしくは学校に向き、他殺とは考えられない。不幸な事故、として処理されるだろう。
 この方法なら『死体』も『死因』も隠す必要はない。
 ただ、明確な『殺意』だけを隠せばいいのだ。
「なるほど、やっぱりやり方自体は間違ってなかったのか……」
 伊藤さんはなにやらボソボソと呟くが、うまく聞き取れなかった。
「どうかした?」
「なんでもない。いいじゃんその作戦!」
「でも、その夏目ありさって人を校舎裏に呼び出さないといけないけど」
 この計画の最大にして最難関の問題はそこだ。
そもそも校舎裏なんて掃除時間以外誰も行かない場所だし、無理やり連れて行こうとして他の生徒に目撃されてしまえばおしまいだ。
「そんなの簡単でしょ?」
 伊藤さんはさらりと答える。
「他の誰にも悟られない、かつ本人も校舎裏に行くことを誰にも言わない方法」
「そんな方法が……一体どんな?」
 伊藤さんは髪をかきあげ、ドヤ顔で親指と人差し指を重ねてハートマークを作る。
「校舎裏といったら告白スポットの大定番でしょ?」
「……は?」
「ラブレターを下駄箱に入れて、校舎裏に夏目ありさを呼び出す。誰にも言わないでって書いてね。そこに桐谷くんが待ち受ける。二人が話しているうちに私が上から植木鉢を投げ落とす。名付けてフォーリンラブならぬフォーリン植木鉢作戦!」
 伊藤さんはビシッと俺を指差し、満足そうに鼻を鳴らす。どうやらこれまで名付けた作戦名の中で一番気に入っている様子だ。
 って、そんなことはどうでもよくて。
「借りるのは知恵だけじゃないの? 俺がっつり作戦に参加してない?」
「そうだよね、ごめんね……」
 伊藤さんはしおらしく謝る。そう素直に謝られると罪悪感が……。
「私が代わりにラブレター書いてあげるから」
「いやそうじゃなくて!」
 俺のツッコミはすでに伊藤さんの耳には入っていない様子だった。伊藤さんはカバンからペンケースとノートを取り出す。ノートの表紙には題字を黒ペンでかき消したような跡があり、伊藤さんは後ろのページから一枚を切り取る。
 なんて書こうかな、とつぶやきながら伊藤さんはペンの先で自身の唇を押す。柔らかそうに凹む唇、ノートに向かって俯く伊藤さんのまつ毛が綺麗で、俺は何時間でも見ていられるなと思った。
「桐谷くんって、ラブレターもらったことある?」
「……へ?」
 突然の質問に固まっていると、伊藤さんはちらりと俺を見る。
「なさそうだね」
 からかうように笑う伊藤さんに、俺は頷くしかなかった。
「ないけど……」
「私も。そもそもほとんど学校通ってなかったし。出会いなんてなかったし」
 目の前の伊藤さんからは想像しにくいが、小さい頃から重い病気を患っていた伊藤さんは学校生活のほとんどを病院で過ごしていたらしい。
 それがどれほど辛いことか、のんきに学校に通っていた俺には想像もできないことだった。
「好きな人いたことある?」
「……それは」
 こんな俺でも、前の学校で付き合ったことはある。隣のクラスの特に関わりのなかった女子に告白されて、断る理由もなく俺は告白を了承した。
 一緒に帰った。手を繋いだ。キスをした。
 しかし、数ヶ月も経たずに関係は終わりを告げた。
『桐谷くん、私のこと好きじゃないでしょ』
 彼女の問いに俺はすぐに返事をすることができずに、彼女との交際は幕を閉じた。
 好き、とはなんだろう。
 彼女と手を繋いだ時はドキドキしたし、相手の唇の柔らかさに触れ、息を忘れた感覚は確かにあった。
 しかしそれらは初めて体験する行為に対しての興奮であって、彼女自身に感じるものとは違っていた。俺は最初から、彼女に対して興味を抱いていなかったのかもしれない。
 現に今、彼女の顔が鮮明に思い出せない。
 カリカリとペンを走らせる伊藤さん。
 初めてあった時から、俺は伊藤さんのことが気になっていた。それは昨日の出会いから増すばかりだ。伊藤さんの思考が、言動が、行動が、全てが気になって仕方がない。こんな感覚は初めてだった。
 俺は、伊藤さんのことが……。
 目の前に、封筒型におられたノートが差し出される。
「はい。ラブレター」
「え」
「これを夏目ありさの下駄箱に入れておいて」
「う、うん……」
 それも俺の仕事なんだ、と俺は呆れながらも伊藤さんからラブレターを受け取る。伊藤さんからそれを手渡された瞬間、伊藤さんは声を漏らす。
「あ」
「なに?」
「初めてラブレターもらえたじゃん。よかったね」
 そう言って伊藤さんは、またからかうように笑った。
 昨日や、教室の雰囲気とは違い、楽しそうに笑う伊藤さん。伊藤さんの笑顔を知る人は俺しかいない。
 特別扱い。
 隼人の言葉を思い出し、俺は嬉しさや恥ずかしさを噛み殺すようにラブレターを握った。
「じゃあ、お願いね」


 この時の俺は自分で実現性の高い人を殺人方法を考えていたくせに、目の前で無邪気に笑う伊藤さんが本当に人を殺そうとしているなんて、考えていなかった。